scene 1-1
川村結花さんの「救急箱」にインスパイアされた物語です。
もっと寄りかかってもいいから。
一度だけかけた言葉を彼女は覚えているだろうか。彼氏として、という確信を、俺はなかなか持てずにいた。彼女にとって、俺はまだ年下の、かわいい彼氏、といったところなんだろうか。なんとなくもやもやしたものがあった。
でも、今日は、何かが違った。何か、動かずにいられない、そんな力が働いた。
「あのさ…」
先に口を開いたのは彼女のほうだった。
「あのさ…お腹すいてない?」
「むしろ満腹」
さっきまで、新メニューの試食会だったのは彼女も承知済みだ。
「そうだ。そうだよね」
申し訳ない気持ちと泣きそうな気持ちが入り交じった顔。
「とりあえずさ…泣きたいんなら、泣いておけ」
「そんな風に言われてもね」
うつむいた彼女に、何も言わず、ハンカチを渡した。
「ありがとう…」
ぐずぐずの声。案の定だ。
「話したければ話せばいいし、話したくなければ聞かないから、安心して。」
付き合い始めて3か月。
年下だからか、彼女が長女だからか、性格だからか…彼女は俺といても、甘えたり弱音を吐いたりがほとんどなかった。仕事も、妥協せず、だからといってガツガツしすぎていない。そんな姿に惚れてしまった。
ただ、俺が知らないと思っているかもしれないが…ここ最近は時折、数分、ほんの数分、同僚の輪から外れて、部屋の隅で深呼吸している姿を見ることが増えた。仕事に集中していたいだろうから、メールも電話も、俺からはしなかった。本当は、そばにいてやりたかったけど、我慢した。
そして、今日。あれだけ準備して、頑張っていた社内コンペで、後輩に負けた。まさかの結果を聞いて、彼女の部署に走ってしまった。
入口から覗いてびっくりした。
笑顔で「よかったね」なんてよく言えた。でも、自分の席に戻って気を抜かないようにしている彼女に、いてもいられなくなった。
「お仕事中すみません、鹿島主任、ちょっとよろしいですか」
「え?あ、田澤くんか」
俺はメモを差し出した。
「場所変えていいかな。ちょっと来て」
彼女は動揺しながら、部屋の外に俺を連れ出した。
ミーティングスペースに連れ出した彼女は、声のトーンを押さえながらも、動揺と怒りが混じった声で切り出した。
「ちょっと待った。なにこれ!」
「だから、帰るぞ。以上。」
「は?どこに?」
「家に。送ってくから」
「はい?っいうか、田澤くん、まだ仕事あるでしょ?私だってまだ仕事が…」
有無を言わせず、手を引いた。
「ロッカー行って。待ってるから。」
無言のまま、小一時間。大分落ち着いたようだ。
遠回りをして、俺の家についた。
車を止めて声をかけようとした時、彼女の携帯電話がなった。
「うわー、どうしよう。会社からだよー。仕事ほったらかしたから、なんて出ればいい?」
「あのさ、俺に聞いてないで、早く出なさい」
慌てながらも、しぶしぶ出た。
相手は彼女の部署にいる俺の同期からだった。
「もしもし鹿島です…あ、矢島くんか。お疲れ様です。ごめん、本当ごめん、突然消えて。え?…なに?は?なんで知ってるの?」
彼女は俺の顔をじっと見た。思わず笑ってしまった。
「矢島には話してあるんだ。本人から聞いてなかったか。」
コクリとうなずいた。話しても話さなくてもいいと言ったから。矢島らしい。
「え…それも知らなかった…そうなんだ。うん。本人と代わるね。矢島くんが代われって」
彼女だけ、事情がよく読めてないらしい。笑いをこらえつつ、携帯を受け取った。
「お疲れー。主任、落ち着いたみたいだね。」
「まーね。散々メソメソしてた」
隣で彼女が首を振る。やめてー、という顔をしている。普段仕事では見せない部分だからか、恥ずかしそうだ。
「明日休みなんだろ。主任もだから、回復させといてな」
「わかってます」
「もとのスーパーな主任に戻ってもらわないと、週末が乗り切れないからさー。頼むぜ、田澤っち」
「その呼び方やめてくれ」
「はいはい。とりあえずうちの課長と向こうの主任には、適当に言っといたから」
「サンキュー」
「今度メシおごれよ」
「わかった。んじゃ、戻すよ。…はい、スーパー主任の鹿島さん」
口をとがらせながら、彼女は携帯を受け取った。
「そんなことないです。もしもし矢島くん…うん、了解。心配かけて、申し訳ない。ありがとうね。早く帰ってね。彼女待ってるよ。じゃ、失礼します。」
電話を切ったのを見て、笑いが止まらなくなってしまった。
「全くもう。言わないでって、言ったじゃん!」
「ごめんごめん。でもさ、結果オーライでしょ?」
「そ、そうだけど。なんかイヤ」
「怒らせて悪かった。でもさ、俺だって、結が大事だから、逆に矢島に頼ったんだよ」
「え?」
俺は謝罪しながら、矢島に話した経緯を伝えた。
矢島に話したのは、実は数日前のことだ。俺の部署の電気がついていたのを見て、気になったらしい。俺はここ数日の彼女の、結の様子を見て、このタイミングで話しておくのがベターだろうと思った。
部署が違えば、社内でそうそう一緒にいられない。だから、一番頼りになる矢島には、二人の関係を話して、何かあれば頼むと伝えた。
矢島はかなりビックリしていたけど、応援すると約束してくれた。
「社内で噂になるなんてことはないよ。大丈夫。矢島はなんだかんだ言って」
「立ち回りが上手いから、でしょ?確かにね。」
「黙って話して、悪かった」
「いいよ、許す」
「よかった。今日初めて笑ってくれた」
俺は心底ほっとした。
少し間をおいて、話を切り出した。
「あのさ…ちょっとあがってって。お茶でも飲んでって」
「え?」
「すぐ帰るの、イヤでしょ?ちゃんと送っていくから」
「え?いや…」
「っていうか、俺がイヤだ」
「うーん」
「今日は何もしない。約束する。」
少し間をおいて、笑顔で彼女が答えた。
「ありがとう。なら、ちょっとお邪魔します」
よかった。
男女の関係はあれど、彼女がいいと言うまで、部屋には連れていかないと最初に約束したから。彼女の中で、部屋にあがる=ズルズル恋愛モードに持ち込む=仕事が疎かになる、というのがあったから、OKをもらえてほっとした。
車を降りて、アパートの部屋の前についた。とりあえず、もう一度確認してみた。
「イヤなら送るけど」
「イヤじゃない…むしろお茶飲みたい。ついでに甘いの食べたい」
笑って俺はドアを開けた。
「お邪魔します」
「上着かけとくから、脱いで。スリッパそこにあるから、使って」
「ありがとう」
何か緊張している結に、イタズラしたくなった。
そっと、後ろから抱きしめてみた。動きが止まった。
「腹減ってんだろ。ソファー座って待ってて」
「う、うん」
あんまりにも固まっていて笑ってしまった。
「ビックリした?」
「ヒドイ。何もしないって言ったじゃん。」
「何もしてないじゃん」
「た、確かにそうだけど」
口をとがらせた結にキスした。
「キスぐらいは許容範囲だろ」
「ま、まぁね。付き合ってるんだし」
「…かわいい。」
「ちょっと!」
「結、かわいい。ま、ソファー座って。昨日のカレーが残ってるけど食べるか?」
「え?いいの?やったー」
「辛いの平気だったよね。冷凍しちゃったやつだけど。」
「ありがとう。大丈夫だよ。」
「とりあえずお茶どうぞ。麦茶だけど」
「ありがとう。意外だなー。」
「何が?」
「田澤くん、自炊するんだ」
「結。ここ、どこだ?」
「あ、ごめん。修が自炊するイメージ、あんまりなかった」
「失礼な」
「ごめんごめん」
「結と一緒の時は社食だけど、俺、弁当男子なんだ」
「そうなの?」
「うっそでしたー」
「騙されたー」
結のこわばっていた表情がほどけて、いつもの、二人でいるときの結に戻った。
俺は、電子レンジにカレーを入れて、冷蔵庫を覗いた。本当はどこかで食べてこようとしてたから、何もない。
「結、カレーだけでいい?あと、つまみしかない」
「いいよ。むしろお気遣いなく」
「たまには気ぃ遣いたい」
「あ、ごめん」
「うそ」
「もー!」
「かわいいなぁ、鹿島主任」
「修!」
「あちち、できたよ。どうぞ。」
「ありがとう。じゃ、失礼して、いただきまーす」
「結、着替えてきていいか?」
「うん、どうぞ。カレー、おいしい」
「ありがとう。じゃ、失礼」
今日の様子じゃ、あんなかわいい顔、見れるとは思わなかった。よかった。
とりあえず、部屋着ではなく、送っていけるよう、普段着に着替えた。
「修、ひとつ聞いてもいい?」
着替え終わって戻った俺に、結が声をかけた。
「なんで、明日休みにしたの?明後日休みだから、明日ご飯行こうって、先週約束したじゃん。」
「俺さ、胃が弱くて、試食会の翌日、仕事きついんだよ」
「うそつくな」
「ばれたか。もとから、今日はそのつもりだったから、定時であがれるよう、今週はずっと残業してたんだよ」
「え?」
「あんまりにも毎日遅いから、矢島が俺の部署来たんだよ。誘っても飲みに行かないし。」
結のカレーを食べていた手が止まった。
「どうした?」
結がまたうつむいて、泣きそうな表情になった。
「ごめんね。メールも電話も、ほとんどしないで。イヤな彼女だったよね」
「まーね」
今にも泣きそうだ。
「そばにいたら、きっともっとつらくなってただろうから、俺も我慢したんだよ」
「ありがとう」
結の手のひらに、涙が落ちた。隣に座った俺は、結の肩を引き寄せた。落ち着いたはずの結が、また声をあげて泣いた。
「ありがとう…ごめんね…我慢させてごめんね…」
「ほんとだよ」
「ごめん」
「泣くまで仕事すんな」
「職場じゃ泣いてない」
「帰って泣いただろ」
「見てないくせに」
「泣いただろ」
うわーん、と、子どもみたいに泣いていた。結は俺に抱きついて、ただただ泣いていた。落ち着くまで、そっとそのままでいた。
カレーが覚めた頃、やっと落ち着いた。
「結、もう一度言うけど、話したかったら話して。言いたくなかったら聞かないから」
「じゃ、話さない」
「じゃ、聞かない」
「もう今日は仕事の話、しない。」
「わかった」
「カレー、食べちゃっていい」
「腹は減ってると」
顔を見合わせて、笑った。
「お嬢さま、デザートはいかが?」
「ぶ…あるの?」
「ない」
「こら!」
「皿、さげるよ」
「やるよ、食べたの私だから」
「今日は座ってなさい」
「え?うーん。じゃ、お言葉に甘えて」
「ゆっくりしてな。皿、洗い終わったら、家に送るから」
皿を持って、キッチンで洗おうとしたら、不意に後ろから結に抱きしめられた。
「もうちょっと、一緒にいたい」
「わかった」
「お皿洗うの、後にして」
「いや、すぐ終わるから」
腕をほどいて、結のおでこにキスした。
「ちょっと待ってなさい」
「ハイ」
「とりあえず、一旦離れなさい…我慢できなくなるから」
「…ハイ」
男女関係があるなら、そういう流れに持ち込んだって、どうってことない。でも、今日は、そんな流れに持ち込む気になれなかった。結に魅力がないから、ではなく、もう少しゆっくりさせたかった。
洗い終わって、麦茶ポットを持って、結の隣に座った。俺はまた、結の肩を引き寄せた。
「帰りたくない」
「またまた」
「明日、休みなんでしょ?」
「そうだよ」
「一緒にいたい」
「無理すんな」
「無理じゃない」
結がまた抱きついてきた。俺は答えるように、少しきつく抱きしめた。
「一人でいるの、イヤになった」
「わかった」
「する?」
「何を?」
「言わせるの?」
「しない」
「疲れた年増に無理は禁物?」
「バカ、違うよ」
「今日はメソメソ泣いて、魅力ない?」
「コラ」
「じゃあ、なんで?」
「多分…寝不足で、すぐ寝るだろうから」
「寝ないよ」
「違う…俺が。限界、眠い…」
「うそ」
「結の気持ちを代弁したのに」
黙ってしまった。言い過ぎたか、俺。
「図星…」
「一応、彼氏ですので」
腕をほどいた結が、キスしてきた。
「彼氏、でしょ?」
答えは、キスで返した。
「とりあえず風呂入るか?」
「一緒に入る?」
「野獣になってもいい?」
「…え?」
「いや、なんでもない」
「修も、かわいいじゃん」
俺の髪の毛をぐしゃぐしゃにしながら、結が笑った。
今日はとりあえず、結が寝付くまで、そばにいよう。それで、十分だ。