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わが身ひとつ

作者: 屑無吾妻

 月の光は何色だったろうか。

 黄色、か。幼いころ夢中になっていた塗り絵を思い出す。真っ黒いキャンバスに散りばめられた星や月は、確かに黄色であった。いや、事実黄色いのはクレヨンではなかったか。あのクレヨンはたかだか十二色しか描けない、十二色の世界をぐるぐる回るだけのクレヨンだった。

 そうだ、あの塗り絵の月は塗り絵でしかないのだ。ならば、地球の周りを恨めしそうに滑るあの月は、黄色ではない。だいたい、自然の混沌を十二通りに定められるはずがなかったのだ。

 異国の説話にもあったではないか。混沌に人為を加えることなどできないのだ。

 では、白か。白色のクレヨンはない。うん、白色。上品じゃないか。定家が愛したのは、他の何でもない、月の白さではなかったか。ベートーヴェンのソナタは白だ。太陽が躍動する生命の赤ならば、対をなす鎮魂の月は、優しい白に違いない。雪は白い。同じく冷たい月の光も、白に違いない。

 待て、月にはうさぎがいるのではなかったか。うさぎは白だ。丸くなるとふわふわしていて、いや、事実ふわふわの下には野生生物たるに不可欠な肉や骨が在るには違いないが、しかし僕の中ではどこまでもふわふわしていて、押すとほんのわずかな抵抗がある、そういう生き物であるはずだ。

 もし、月が白かったら、そこに住むうさぎが見つかるはずはないだろう。白色の微妙に異なったうさぎだったのだろうか。そんなはずはない。白と黒は極彩色の世界にあって、唯一、いや唯二完全な色のはずだ。

 混沌たる自然の中で、白と黒は秩序の誕生でなければならない。無から、いきなり有が生まれないように、混沌が急に口をつぐんで秩序を生みだすことなどありえない。

 月も白、うさぎも白。ならば触れでもしない限り、うさぎがいることなどわからないではないか。月は天高くあるのだ。ならば触われるはずがない。つまり、白でもない。

 簡単な方法を思いついた。空を見上げればよかったのだ。

 ぐあ、と空を見上げる。昼までの雨が嘘のように、空は澄んでいた。

 月はない。しかし、ぐるりと視界をめぐらすとそれはあった。漆黒の中にほとんどまぎれるようにして、すすけた月があった。

 月は、こげ茶色だった。


「月がチョコレート・ムースに包まれました」

 右手の民家の中から、興奮したニュースキャスターの声が聞こえてきた。窓を開け放しているのだろう。心地よい夜だ。

「NASAの発表によると、アメリカ時間で本日午前8時頃、ワシントンD.C.上空に、空を覆うほどの円盤が現われ、その中の一機がホワイトハウス前に着陸したとのことです。その後円盤からは、人型の生命体が現われ、大統領への面会を要請。一人のSPが、周囲の制止をふりきり生命体に向かって発砲しましたが、銃弾は体をすり抜け背後の円盤にあたり、それを見た生命体は意味不明な言語を叫びながら、周囲の見物人を惨殺。大統領に一言つぶやいた後姿を消してしまったとのことです」

 音量が大きくなった。

 おそらくテレビには大統領が映り、生命体からの言づてを伝えようとしているのだろう。

 興味がないので歩きだす。

 きっと何か恐ろしい恨みごとがあって、生命体は月にチョコレート・ムースを塗りたくっていったのだろう。

 困ったことをしてくれたな、と思った。月の色がわからなくなってしまった。

 今の茶色の月もおいしそうでいいけれど、僕が知りたかったのは昔の月の光だ。十五夜に見ていた、あの月だ。

 本屋に立ち寄り天文学コーナーで、『僕らと月の漫遊録』という雑誌を手に取る。店内は閑散としている。きっとテレビにかじりついているのだろう。

 未知なものは怖い。しかし既知なものも怖い。本当に自分の認識があっているのか、常に不安にさらされるからだ。

 雑誌のページをめくると、丸い月が眼前に現れた。

 しかし、すぐに違和感が襲ってくる。

 月はこんな色ではなかったはずだ。まして、こんな形でもなかったはずだ。僕の心に映る月はもっと優しくて、涙が喉の奥から湧いてくるようなものだった。

 わかった、これは印刷されているインクにすぎないのだ。インクならば白も表現できる。十二どころではない世界を踊れるのだ。これも本物の月ではない。紙に書かれた、月なのだ。どのページをめくっても、どれだけめくっても本物の月は顔を出さない。

『僕らと月の漫遊録』を本棚に戻し、外に出た。

 そして、空を見上げた。チョコレート・ムースに飾られた月がある。世界は静かだ。

 もう、本物の月は、二度と見られないだろう。

 月やあらぬ、とつぶやいた。

 そうして、茶色い月のうつった水たまりを見つけ、なめた。

 チョコレートの味がすると思ったのだが、まるで無味であった。


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