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Lost Place  作者: 宮野香卵
第二章 連綿と受け継がれた恨み辛みは、思わぬところで牙を剥く
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「──ぎゃっ」

 完全に意表を突かれた、といった風情の悲鳴だった。同時にいかにも痛々しい、体に何か固いものが当たったような音が響く。

 今のうちに逃げた方がいい、とは思ったがやはり体が思うように動かない。指先や足先には、ちょうど長時間正座をした後に似た感覚が居座っている。

「……り、陸斗?」

 それは聞き慣れた声だった。不自然に上擦ってはいるが、蓮の声だ。

 そう自覚した瞬間に、思い切り手を引っ張られる。陸斗はそれで何とか無理矢理立ち上がったものの、すぐに膝が折れそうになった。相変わらず力が入らず、反射的に両膝に手を置く。

 周りを、蓮の足が落ち着きなく彷徨いているのが見えた。ふと前方に視線をやると、男は鋭利な爪もそのままに頭部を押さえて蹲っていた。その傍らには、血の付いた拳大の石が落ちている。

「陸斗、背中、真っ赤だよ。切れてるよ」

「わ、かってる」

「ど、どうしよう。ごめん、オレ、今絆創膏しか持ってない」

 先ほどからやけにブレザーのポケットを漁っていると思ったら、何か止血できるものを探していたらしい。しかしここで、ようやく背中が切れているということが明確になった。自覚したせいか、急に背中がずきずきと痛み始める。

 思わず呻くと、また蓮がおろおろとポケットを漁り始めた。が、まさかそんなところに包帯や消毒液が入っているはずもない。

 陸斗は蓮に気付かれないよう、やけに熱を孕んだ息を吐き出す。月明かりに照らされた地面が、ぐにゃりと歪んで見えた。

「ひっ」

 唐突に、蓮が体を硬直させて小さく悲鳴を上げた。

 顔を上げると、男が突き刺すような視線を二人に向けている。額から血が流れていて、どうやら石はそこに当たったらしい。どこから持ってきたのかは定かではないが、蓮が石を投げつけた、という事実だけは確かだ。

 しかしこんな町中のどこにそんなものが落ちていたのだろうか。陸斗は一瞬状況も忘れて、内心首を傾げた。

 男の目は先ほどとは違い、思わぬ抵抗を示した獲物に対する怒りで満ちている。つい先ほどの悲しげな様子など欠片もない。ふと見ると、手から生えている爪から毒々しい紫色の瘴気が立ち上っていた。

 その異形を知ってか知らずか、町中は相変わらずぬるま湯のような微睡みの中にいる。まるで、ここだけ切り取られたかのように別世界だった。天国と地獄、まさにそんな状況だ。

 獰猛すぎる殺気に当てられて、蓮は大仰なほど震えている。武器となる石も一つしか持っていなかったようだ。おそらく、自分が石を投げた結果どうなるかなど考えてはいなかったのだろう。

 下手に動けば、男が飛びかかってくるかもしれない。

 陸斗も蓮も動くに動けず、状況は完全に膠着していた。月だけが、ひっそりと辺りに光を投げかけている。ぴりぴりと、緊張感だけが確実に蓄積していく。

『──リア!』

 その雰囲気を破ったのは、突然の闖入者だった。陸斗と蓮の背後から躍り出る、白い影。視界の端で、蓮が飛び上がるのが見えた。

 それは、白い犬だった。ぴんと立った両耳と尻尾。大きさ的には、ちょうど平均より一回り大きな柴犬、といったところだろうか。見た目もどことなくそれに似ていた。男と二人の間に立ち塞がり、男に向かって唸り声を上げている。

 その犬を見つめ、男はぽかんと口を開け放った。

「お、前は」

「お兄さん、闇討ちは禁止よ。人でも、フェローでも」

 しかしその驚愕に満ちた声を、再び現れた何者かが遮る。今度は、どこか頑なな印象を相手に与える少女のもの。冷然としていて、硬質な。

 犬と同じく陸斗と蓮の後ろから、少女が一人悠々と歩いてくる。その動きに合わせて揺れる頭髪は腰の辺りまで伸びていて、青かった。一般的な青、というよりは群青色に近いが、それでも特異な色であることに変わりはない。薄手の黒いダッフルコートのようなものを纏っている。

 すぐに通り過ぎてしまったので、人相は定かではない。しかし何よりも異様だったのは、少女が当然のように手に持っている鎌だった。

 とにかく、凄まじい大きさだ。全長だけで彼女の身の丈ほどもあり、付いている刃も無論草刈りに使うには大仰すぎるサイズである。先端には、それさえも武器となりそうな鋭い突起が付いていた。

 少女はその凶器を平然と携え、犬の横に並ぶ。微かに明け始めた空のような色の頭髪が、微風に踊る。

「わかっているはずでしょう。こんなことをしても、何も解決しないの」

「う、るさい。お前に、何がわかる」

「わからないわ。私は、単なる人だから。でも、人と共存しているフェローもいる。勝手だけど、西側にもフェローを恐れず、虐げない人間だっているの」

 緊迫した雰囲気の中、蓮が物言いたげな視線を陸斗に送る。おそらく、“ふぇろー”とは何かと聞きたいのだろう。しかし生憎陸斗もわからない。

 えれあと、ふぇろー。

 陸斗は心中で呟く。とりあえずふぇろーというのは男のことで、えれあというのは何か特別な力のことなのかもしれない。あくまで言葉尻から判断しただけなので、一番確実なのは突如現れたこの少女に聞くことなのだが。

 しかし彼女は、ちらとも振り返らない。男と対峙し、ただ声をかけ続ける。男は頭を抱え、嫌々をするように左右に振る。

「嘘だ、お前たちはいつだって、嘘しか言わない。嘘でおびき寄せて、おびき、寄せて」

「そんなことない。本当よ。ラヴァーダでは少なくとも、人とフェローが一緒に生きているの。隷属する者とされる者、という関係でもない。ただ、一緒に生きてる」

 少女の声は淡々としていながらも、どこか必死だった。目の前でぼろぼろになって苦しんでいる男を、何とかすくい上げようとしている。せめて泥に満ちた底なし沼ではなく、何とか生き抜いていける荒野へ誘おうとしている。

 だが、男はそれを拒絶する。耳を塞ぎ沼の底へ沈みかけながらも、決して彼女の手を取ろうとはしない。それはもはや、彼の意地なのかもしれない。

 少女は男の姿を見つめ、ふっと息を吐いた。月明かりに照らされ、揺れる頭髪が流星のような煌めきを放つ。

「アウス。ごめんね、後はお願い」

『うん』

 犬が頷き、ゆらゆらと尻尾を振る。そこで、今まで蚊帳の外だった陸斗と蓮は思わず息を呑んだ。

 今、この犬喋らなかったか?

 しかし犬は後頭部しか見せておらず、口が動いているのかもわからない。ただ、少年のような高い声だけが響く。

『ねえ、ちょっと向こうで話そうよ。そんなに人が嫌いなら、その方が落ち着くでしょ』

「え、あ、ああ、そう、だな」

 犬が鼻先で指したのは、すぐそばに口を開けている路地だった。言うや否や、先に立って歩き出す。男は戸惑ったように頷き、拍子抜けするほど素直にその後に従った。

 一人と一匹の姿が、路地へ消える。その場に残されたのは陸斗と蓮、そして青髪の少女だ。

 蓮は相変わらず怯えたように、陸斗の少し後ろにいる。タイミングを失ったのか、絆創膏を手に持ったままだ。

 陸斗は膝に手を付いて何とか体を支えていた。眉根を僅かに寄せて、時折頭を振る。実は、先ほどから目眩が酷いのだ。ぐるぐると目の前が揺れている上、体の痺れも一向に取れない。

 毒、とやらが徐々に回っているのかもしれない。流れる血液と一緒に。

 その様子に気付いているのかいないのか、少女がようやく振り返った。一目で整っているとわかる顔立ちは、表情の類を無理矢理削ぎ落としたような無表情。

 髪と同じく、目も深い青色をしている。肌の色は健康的な白さ、と形容するのが相応しいだろう。少なくとも、病的な白さではない。

「あんたたち、旅行者?」

「え? あ、いや」

「夜間の外出は禁止よ。それくらいわかってるでしょ」

 蓮が何か言い返す前に少女は言葉を重ねる。とりあえず、夜は出歩かない方がいいという事実を陸斗は頭に刻みつけた。

 そして、彼女はそこで初めて陸斗の様子がおかしいことに気付いたらしい。何歩か進み、まじまじ彼の顔を覗き込む。

 少女の顔がいきなり現れ、陸斗は一瞬肩を震わせた。彼の顔面からは明らかに脂汗が吹き出していて、顔色もすこぶる悪い。

「どうしたの、あんた」

「あ、陸斗、せ、背中、切れてるんだ」

「そういえば、確かに血が付いてるわね。でも、それでこんなになる?」

 確かに、普通に切られただけでここまで衰弱することはないだろう。少なくとも、出血多量に陥る傷ではないのだ。それに気付いたのか、蓮も不安げに体を揺らしている。

 陸斗は少し空気を吸い込んでから、ぐっと両足に力を入れた。

「あの、人のえれあ、毒、らしい」

「毒?」

「そう、言ってた」

 少女はいかにも胡乱げな視線でじろじろと二人を眺める。顔ではなく、服装ばかりを観察しているようだった。もしかしたら、この世界には学生服の類が存在していないのかもしれない。その間にも、陸斗は少女に向けていた顔を俯けていく。

 もう顔を上げていることさえ辛いのだ。いっそのこと、この場で横になってしまえたら楽になるかもしれない。

 その様子をさすがに心配したのか、少女は視線を改める。とは言っても怪訝そうな色が消えて、その表情と同じく無の状態になっただけなのだが。

 そこへ、先ほど去っていった白い犬が駆けてきた。しかし今度は何故か、男が付いてきていない。

「終わった?」

『うん。平和的解決!』

 前方からやってきた犬は、確かに台詞に合わせて口を動かしている。やはり、どう見ても犬が喋っている。

 蓮が、状況も忘れてぽかんと口を開けた。

「い、犬、が」

『なあに?』

 思わず、といった様子で呟いた彼を、犬が見上げた。見た目は本当に、普通の犬なのだ。

 何故かぶんぶんと尻尾を振っているが、喜んでいるのかただ興奮しているのかは定かではない。

『僕は普通の犬じゃないんだよ。トクベツなんだよ、トクベツ』

「と、くべつ?」

『そうそう。だって、普通喋ったりしないでしょ? それくらい僕にだってわかるんだからね!』

 人であれば、ここで胸でも張っているのだろうか。蓮は目を白黒させながらも、じっと目の前で目を輝かせている犬を見つめている。

 蓮は比較的動物に好かれやすい傾向があるのだが、それはこの場でも発揮されているらしい。

 犬は蓮ばかりを見ていたが、そこでふと陸斗に視線を向けた。

『具合悪そう。大丈夫?』

「……あ、んまり」

 取り繕ってもしょうがないので、正直に答える。その回答で不安になったのか、俯けている視界に犬が入り込んできた。鼻先をくっつけんばかりに顔を近付けてきて、陸斗は思わず身を引きそうになる。

『顔、真っ白だよ』

「アウス」

 窘めるような口調に、アウスと呼ばれた犬はどこか残念そうな様子で離れていった。同時に少女も二人から離れていき、わざわざ距離を取ってから立ち止まる。

 石畳ばかりを眺めている陸斗にも、あまり穏当な雰囲気でないことはわかった。先ほど男が醸し出していたような殺気はないが、それでも空気が張り詰めている。蓮が後退さるのが、横目で見えた。

「回りくどいのは嫌いなのよ。だからさっさと答えて。……あんたたちは、“東”から来たの?」

「……ひがし?」

 蓮のその声は、明らかに間が抜けていた。少なくとも、この緊迫した空気には到底釣り合っていない。

 陸斗は何とか顔を上げる。アウスはどことなくしゅんとしていて、少女は顔を強張らせていた。それだけでも、何か疑われているのだ、ということは理解できる。

 しかし残念ながら、疑われてもその疑心を満足させられるような回答は持ち合わせていないのだ。寧ろ陸斗と蓮が何を言っても、少女は余計に苛立ちと不満を募らせるだけだろう。

「あ、あの……東って、何、ですか?」

「何言ってんの、あんた。東は、東でしょ。フルジオラス」

「ふる、じおらす」

 蓮は少女の言葉を鸚鵡返しにするばかりで、受け答えとしてはどう考えても成立していない。彼女の中にぐんぐん溜まっていく苛立ちの容量が目に見えるようだった。

 月明かりで余計に白く浮かび上がる顔面が、次第に赤くなっていく。羞恥の類ではなく、明らかに怒りで。アウスはその足下で、不安げにその顔を見つめていた。

「……他の、世界」

「は?」

 このままではこのやりとりが終わらないと判断した陸斗が、どうにか口を挟む。

「青い竜、が、言ってた。俺たちがいた、のは、エイル」

「エイル?」

『エイルって……前に、フリージアが言ってたとこ?』

 少女が初めて間の抜けたような表情になり、アウスが目を丸くする。

 エイル、という名前を口にしただけで、ここまで変化があるものだろうか。陸斗は思わず、長く息を吐き出した。

 ある意味では、エイルとコンシールについて教えてくれた、あのトゥルースという竜に感謝するべきなのかもしれない。皮肉なことに、そもそもの原因を作ったのもあの竜なのだが。

『……リア』

 アウスが、酷く不安げな声を上げる。

 リアと呼ばれた少女は、顎に手を当ててじっと考え込んでいた。その間にも、時間だけが静かに過ぎていく。蓮とアウスはそわそわと落ち着きなく視線を彷徨わせたり、足を踏み替えたりしている。

 陸斗は再び、大きく息を吐いた。ぼんやりと目の前の景色が霞み始める。体中の感覚がほとんどない。我ながら、よくこの状態で体勢を保っていられるな、と思った。

 もしかして、体がこのままの状態で固まってしまっているのではないか。

 リアが、ようやく顔を上げる。混乱を必死で押し留めているような気配が、その目の奥深くで横たわっていた。

「フリージアのところへ、連れて行くわ」

『いいの?』

「それしかないでしょ。妙なことをしたら始末しちゃえばいいだけだし」

 軽い口調で壮絶なことを言ってのけ、リアは鼻を鳴らした。蓮がまた後退さったようで、靴底が石畳を擦る音が聞こえた。

 彼女の方で結論が出て少しは安堵したのか、陸斗は急速に意識が遠退いていくのを感じていた。が、どうすることもできない。まさか、「今から気絶します」と宣言するわけにもいかない。

 ぐらぐらとひっきりなしに揺れていた視界が、暗幕を下ろしたように真っ暗になる。何を言っているのかはわからなかったが、蓮の悲鳴のような声。アウスの驚いたような声。

 今日一日で一体何度気絶すればいいのだろうと思いつつ、陸斗は呆気なく意識を飛ばした。

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