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月明かりに照らされるように、男が一人、忽然と現れていた。つい先ほどまでは、誰もいなかったのに。
陸斗は内心首を捻りつつ、壁から体を離した。あまり凝視するのもいけないと思うのだが、ついつい視線はそちらに向いてしまう。
その男は、やけにぼろぼろの衣服を纏っていた。衣服というよりは、もはや単なるぼろ布にしか見えない。麻のような材質の布の切れ端を集めたもの、だ。それが、辛うじて彼の体に貼り付いている。
軽く逆光になっているため、人相は定かではない。そして、その両肩がやけに大きく上下していた。まるで、全力疾走してきた直後のように。
ひょっとして、この人は何かから逃げてきたのだろうか。
陸斗はふと、そう思った。だから、この町は家屋が厳重に封鎖されているのかもしれない。夜間は何か危険なものが現れるから、必死で守りを固めている。きっと、そうに違いない。
ならば、どこかへ避難した方がいいのか。
しかし周囲にあるのは、頑なに扉を閉ざした民家ばかりである。戸を叩いたところで入れてくれるとも思えなかった。
「……あ、うう」
耳に痛いほどの静寂を、不穏な声が破る。
陸斗は思わず身を震わせ、恐る恐る男を見やった。夜闇のせいだけではない、濁った双眸は確実に陸斗に対して注がれている。否、突き刺さっていると表現した方が適切かもしれない。
「っ、う」
ぞわりと、背筋が粟立った。その眼差しに含まれているのは、濃厚すぎる憎悪だ。そもそも初対面の人間から、ここまでどす黒い視線を向けられたことなど陸斗にはなかった。
体が竦み、その場に張り付けられたように動けなくなる。膝の辺りが小刻みに震え出し、奥歯がかちかちと鳴った。耳障りだと思っても、止めることができない。
先ほどまで少しも寒くなかったはずなのに、いつの間にか体の震えが収まらなくなっている。
そして、唐突に男が動いた。同時に、布が無理矢理裂けるような音が響く。
「わっ」
陸斗は反射的に身を捻り、無理な体勢になったせいでなす術もなく地面に転がった。が、そのことに羞恥を感じている余裕などない。
振り返れば、男が背後に佇んでいた。背筋が一気に冷える。
あり得ないのだ。今の速度は、明らかに人間が出せる限界を優に超えていた。気付けば男の残像のようなものが目の前に迫っていて、また気付けば男は後ろに立っていた。
しかも、極めつけは彼の手、だった。
始めは確かに普通の、何の変哲もない人間の手だった。それなのに今は彼の指先、本来爪が付いているはずの場所から鉤爪が生えていたのだ。
緩く湾曲した爪は、研ぎ澄まされたナイフのように凶悪な光を放っている。それだけで、その凶器が相当な切れ味を持っていることが窺えた。
男は戦慄している陸斗を余所に、焦れったいほどゆっくりとした動きで振り返る。その表情にはやはり生気が欠けていて、いくつもあったはずのたがが外れてしまったような印象を受けた。
「俺の、エレアの属性は、“毒”だ」
えれあ。
陸斗は鸚鵡返しに呟く。えれあ、とは何だろう。
しかし男はやはり陸斗の反応になど頓着していないようで、ふらふらと体を揺らしながらなおも口を開く。
「毒。前は、このエレアが嫌い、だった。でも、今ならまだましだ。こんな属性を持たせてくれるなんて、少しくらいは神様とやらに感謝してもいいのかもしれない」
そうして、未だに地面に座り込んでいる陸斗を見下ろす。ぎらぎらと光る爪、人間味に欠けた眼。
この人は、本当に人間なのか。
男が、爪の生えた腕を振りかぶる。風を切る音。陸斗は反射的に喉の奥から掠れた悲鳴を漏らし、また体を捻る。その体のすぐ横を、凄まじい勢いで過ぎる男の腕。石畳と鋭利な爪が衝突する、耳障りな音が響く。
痺れたように機能しない頭でも、次に起こすべき行動は理解できた。
──逃げなければ、殺される。
がくがくと震える足を一度拳で殴り付けてから、陸斗は男に背を向けて必死で足を動かした。平時よりはだいぶ動きが鈍いが、それでもどうにか走ることができる。
蓮のことや異世界にやってきたという事実、それらが全て頭から飛んだ。脳内が、危機感で真っ赤に明滅している。
全身に纏わりつくような気配、それが濃厚すぎる殺気であることに、彼はようやく気付いた。
しかし、いくらも進まないうちに背中が熱くなった。つんのめるように、その場に倒れ込む。とにかく、背中が熱い。まるで熱湯を浴びせかけられたように。
「あ、つ?」
呟くと同時に、呼吸がおかしくなる。早く、浅く、かと思えば急に遅く、深く。吸い込んでも吸い込んでも、苦しい。酸素が補給できている気がしない。
そのせいか、体に力が入らなかった。どれだけ起き上がろうと踏ん張っても、手は空しく地を掻くことしかできない。足が地面を擦る、微かな音が聞こえる。
ぐるぐると思考が濁流の如く濁り、渦巻き、ごうごうと荒れ狂っている。
と、そこで電球が点るようにある考えが浮かんだ。
そうだ、きっと、これが“毒”だ。えれあ、というのが何なのかはわからないが、仮に背中を切られたとしてもここまで動けなくなるとは思えない。あの爪には、きっと毒があったのだ。
「……お前らなんて」
背後で落とされた呟きが、微かに鼓膜を震わせる。
その声には、滔々と流れる大河のような悲哀と、その根底で澱む憤怒が満ちていた。聞いている方の胸が痛くなる、そんな声。
一体この人に何があったのだろうと、陸斗はぼんやりと考えた。
怒っていて、それでいて悲しんでいる。心のどこかが切り裂かれて抉られて、どろどろと溢れ出る血と飛び散る肉片。彼はそれを持て余したまま、今ここに立っている。
そのことに気付いてから、不思議なほど危機感が消えてしまった。心中が、凪いだ湖面のようになる。それではいけないのだと、どこかでわかっていた。が、心の方が付いてこない。
背後で、微かな衣擦れの音が聞こえた。そしてつい先ほども響いた、風切り音。
陸斗はそこでようやく、ああ、まずいかもしれない、と思った。