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Lost Place  作者: 宮野香卵
第二章 連綿と受け継がれた恨み辛みは、思わぬところで牙を剥く
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 月明かりに照らされるように、男が一人、忽然と現れていた。つい先ほどまでは、誰もいなかったのに。

 陸斗は内心首を捻りつつ、壁から体を離した。あまり凝視するのもいけないと思うのだが、ついつい視線はそちらに向いてしまう。

 その男は、やけにぼろぼろの衣服を纏っていた。衣服というよりは、もはや単なるぼろ布にしか見えない。麻のような材質の布の切れ端を集めたもの、だ。それが、辛うじて彼の体に貼り付いている。

 軽く逆光になっているため、人相は定かではない。そして、その両肩がやけに大きく上下していた。まるで、全力疾走してきた直後のように。

 ひょっとして、この人は何かから逃げてきたのだろうか。

 陸斗はふと、そう思った。だから、この町は家屋が厳重に封鎖されているのかもしれない。夜間は何か危険なものが現れるから、必死で守りを固めている。きっと、そうに違いない。

 ならば、どこかへ避難した方がいいのか。

 しかし周囲にあるのは、頑なに扉を閉ざした民家ばかりである。戸を叩いたところで入れてくれるとも思えなかった。

「……あ、うう」

 耳に痛いほどの静寂を、不穏な声が破る。

 陸斗は思わず身を震わせ、恐る恐る男を見やった。夜闇のせいだけではない、濁った双眸は確実に陸斗に対して注がれている。否、突き刺さっていると表現した方が適切かもしれない。

「っ、う」

 ぞわりと、背筋が粟立った。その眼差しに含まれているのは、濃厚すぎる憎悪だ。そもそも初対面の人間から、ここまでどす黒い視線を向けられたことなど陸斗にはなかった。

 体が竦み、その場に張り付けられたように動けなくなる。膝の辺りが小刻みに震え出し、奥歯がかちかちと鳴った。耳障りだと思っても、止めることができない。

 先ほどまで少しも寒くなかったはずなのに、いつの間にか体の震えが収まらなくなっている。

 そして、唐突に男が動いた。同時に、布が無理矢理裂けるような音が響く。

「わっ」

 陸斗は反射的に身を捻り、無理な体勢になったせいでなす術もなく地面に転がった。が、そのことに羞恥を感じている余裕などない。

 振り返れば、男が背後に佇んでいた。背筋が一気に冷える。

 あり得ないのだ。今の速度は、明らかに人間が出せる限界を優に超えていた。気付けば男の残像のようなものが目の前に迫っていて、また気付けば男は後ろに立っていた。

 しかも、極めつけは彼の手、だった。

 始めは確かに普通の、何の変哲もない人間の手だった。それなのに今は彼の指先、本来爪が付いているはずの場所から鉤爪が生えていたのだ。

 緩く湾曲した爪は、研ぎ澄まされたナイフのように凶悪な光を放っている。それだけで、その凶器が相当な切れ味を持っていることが窺えた。

 男は戦慄している陸斗を余所に、焦れったいほどゆっくりとした動きで振り返る。その表情にはやはり生気が欠けていて、いくつもあったはずのたがが外れてしまったような印象を受けた。

「俺の、エレアの属性は、“毒”だ」

 えれあ。

 陸斗は鸚鵡返しに呟く。えれあ、とは何だろう。

 しかし男はやはり陸斗の反応になど頓着していないようで、ふらふらと体を揺らしながらなおも口を開く。

「毒。前は、このエレアが嫌い、だった。でも、今ならまだましだ。こんな属性を持たせてくれるなんて、少しくらいは神様とやらに感謝してもいいのかもしれない」

 そうして、未だに地面に座り込んでいる陸斗を見下ろす。ぎらぎらと光る爪、人間味に欠けた眼。

 この人は、本当に人間なのか。

 男が、爪の生えた腕を振りかぶる。風を切る音。陸斗は反射的に喉の奥から掠れた悲鳴を漏らし、また体を捻る。その体のすぐ横を、凄まじい勢いで過ぎる男の腕。石畳と鋭利な爪が衝突する、耳障りな音が響く。

 痺れたように機能しない頭でも、次に起こすべき行動は理解できた。

 ──逃げなければ、殺される。

 がくがくと震える足を一度拳で殴り付けてから、陸斗は男に背を向けて必死で足を動かした。平時よりはだいぶ動きが鈍いが、それでもどうにか走ることができる。

 蓮のことや異世界にやってきたという事実、それらが全て頭から飛んだ。脳内が、危機感で真っ赤に明滅している。

 全身に纏わりつくような気配、それが濃厚すぎる殺気であることに、彼はようやく気付いた。

 しかし、いくらも進まないうちに背中が熱くなった。つんのめるように、その場に倒れ込む。とにかく、背中が熱い。まるで熱湯を浴びせかけられたように。

「あ、つ?」

 呟くと同時に、呼吸がおかしくなる。早く、浅く、かと思えば急に遅く、深く。吸い込んでも吸い込んでも、苦しい。酸素が補給できている気がしない。

 そのせいか、体に力が入らなかった。どれだけ起き上がろうと踏ん張っても、手は空しく地を掻くことしかできない。足が地面を擦る、微かな音が聞こえる。

 ぐるぐると思考が濁流の如く濁り、渦巻き、ごうごうと荒れ狂っている。

 と、そこで電球が点るようにある考えが浮かんだ。

 そうだ、きっと、これが“毒”だ。えれあ、というのが何なのかはわからないが、仮に背中を切られたとしてもここまで動けなくなるとは思えない。あの爪には、きっと毒があったのだ。

「……お前らなんて」

 背後で落とされた呟きが、微かに鼓膜を震わせる。

 その声には、滔々と流れる大河のような悲哀と、その根底で澱む憤怒が満ちていた。聞いている方の胸が痛くなる、そんな声。

 一体この人に何があったのだろうと、陸斗はぼんやりと考えた。

 怒っていて、それでいて悲しんでいる。心のどこかが切り裂かれて抉られて、どろどろと溢れ出る血と飛び散る肉片。彼はそれを持て余したまま、今ここに立っている。

 そのことに気付いてから、不思議なほど危機感が消えてしまった。心中が、凪いだ湖面のようになる。それではいけないのだと、どこかでわかっていた。が、心の方が付いてこない。

 背後で、微かな衣擦れの音が聞こえた。そしてつい先ほども響いた、風切り音。

 陸斗はそこでようやく、ああ、まずいかもしれない、と思った。

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