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何故、と彼はいつも思う。
自分たちは何もしていない。なのに、にんげんは何故、他者を虐げるのだろう。
しかも奴らは、やり返されるということを何よりも嫌う。自分たちがやった仕打ちなど軽く忘れ、攻撃されたことだけを理不尽だと主張する。
当然のような顔をして「これは正当な権利だ」と言い放ち、全てを奪い去っていく。そして、何故このような行為に及ぶのかと問えば、お前たちの存在自体が罪だからと嘲笑う。
ならば。
忘却することは、罪ではないのか。ただ自分たちと違うからという理由で虐げることは、罪ではないのか。
彼は叫んだ。必死に逃げ、安全だと思われる場所まで辿り着いたその瞬間に泣き崩れた。声が枯れても、地面に打ち付けた拳が血にまみれても。
理不尽だ。理不尽だ。理不尽だ。
死んでしまえばいい。奴らなど、全て。この世から消え去ってしまえばいい。
次の瞬間、彼は地面を蹴って駆け出していた。月明かりだけが、ずたずたに裂かれた心に優しく降り注ぐ。
しかしそれでも、彼の心に燃え盛る業火を消し去ることは叶わない。その心中に刻まれた、深い傷を癒すことはできない。
──打ち壊してやる。何もかも。
彼はいつしか嗤いながら、獣のように咆哮していた。
冷ややかな風に導かれるように、陸斗は目を開いた。切り取られたように狭まった空は、空恐ろしくなるほどの満天の星空だった。濃密な漆黒を背景に、乳白色の天の川に似た星の群が横たわっている。
何だか、ついさっきもこんな状況だったような。
陸斗は首を捻りながらも、身を起こした。とにかく、まずは状況確認が先決だと判断したのだ。
そこは、どうやら路地の最も奥地らしかった。振り返れば、そこは行き止まり。色褪せた煉瓦で組み上げられた壁で、三方が囲まれている。そのせいか、そこはかなり薄暗い。地面は、剥き出しで乾いている。手を滑らせてみると、ざらざらとした感触が伝わってきた。
前方に視線をやると、路地の出口がぽっかりと口を開けているように見えた。星だけではなく月も出ているのか、そちらだけがやけに明るい。
狭い通路で一応周囲を見回してみたが、蓮はどこにもいなかった。というか、そもそも同じ地点にやってきているのだろうか。あの竜の様子では、それも怪しいような気がする。
辺りをはばかられるような静寂の中、陸斗は小さく溜め息を吐いた。とにかく、まずはこの路地裏から出てしまった方が良さそうだ。
立ち上がって尻の砂を払い、歩き出す。壁に囲まれているせいか、気を付けていてもかなり足音が響いた。ふと背後を振り返ってみると、薄っぺらい闇が滞っている。
陸斗は一瞬首を傾げてから、再び歩き出した。元よりそこまで長い道のりではなかったので、すぐに抜ける。
路地を抜け出した先には、自動車なら二台は並んで通れそうな大路があった。こちらは、しっかりと石畳が敷き詰められている。両脇にはやはり煉瓦造りの家屋が並んでいて、家同士には隙間がない。不思議なほどみっちりと詰まっている。となると、先ほどの路地の存在は例外中の例外だったのかもしれない。
「……何、だ?」
きょろきょろと辺りを観察していた陸斗は思わず呟き、まじまじとそれを見つめた。家々には当然ながら窓が付いていたのだが、そこには仰々しい鉄格子がはまっていたのだ。その向こうには木戸があって、どうやら横にスライドさせて開ける方式らしい。
それにしても、太い鉄棒は当然のように縦に走っている。見れば、ドアも木製のものを所々鉄板で補強してあった。しかも視界に入る全ての家のドアが、同じように木と鉄で継ぎ接ぎになっている。
──この町の人々は、一体何から身を守ろうとしているのだろう。
一瞬路地の奥へ舞い戻りたい気分になったが、陸斗は何とか足を一歩踏み出した。右を見ると大路の先に木製の柵が張り巡らされていて、やはり木で造られたアーチが見える。どう見ても町の出口だ。
それを確認してから、陸斗は左へ向かって歩き始める。
月明かりが薄い灰色の道を照らしていて、大路全体がうっすらと輝いているように見える。これだけ広い道だというのに、人っ子一人歩いていなかった。異様なほどに大きく明るい月のおかげで街灯がなくても視界は良好なのだが、これだけ人がいないというのも異様だった。
本当に、この町には人間がいるのだろうか。まるで、空っぽになった箱庭に一人取り残されたような気分だった。
時計を付けていないため正確な時間はわからないが、おそらく深夜であることは間違いない。窓には明かりなど見えず、皆木戸を閉ざしてひっそりと静まり返っている。
大路はどこまでも続いていて、時折思い出したように家と家の間に路地が見える。その先は薄闇が蔓延っていて、行き止まりなのかどこかへ通じているのかは定かではない。
無言のまま歩を進めていると、何だか自分が何をしたいのか、何のためにここにいるのかわからなくなってくる。
あの竜は、何故こうして自分をこんなところに送ってきたのか。彼は、本当に何の変哲もない人間である自分が蓮を助けられると思っていたのだろうか。
そもそもこの町が異世界である、という言葉自体が冗談だと思いたかったが、明らかにこの町は空気がおかしい。空気の色というか匂いというか、とにかく陸斗がずっと過ごしてきたあの町とは何かが違うのだ。
この地面に立っているだけで、自分が異物だということを嫌でも感じてしまう。そんな感覚を覚えてしまうのは、今ここに誰もいないからなのかもしれない。大量の人間がいればその中に紛れ込んでしまえるが、この場で彼の身を隠すものは何もないのだ。
せめて明るくなるまで、どこかで待機しているべきだろうか。
悩み始めるついでに手近にあった壁に寄りかかった陸斗は、ふと奇妙な気配を感じた。気配と形容することが正しいのかはわからないが、あえて例えるなら空気の揺れのような。