17
カルラの町には、未だ色濃い襲撃の爪痕が残されていた。貴族街でなくとも丁寧に整備されていた石畳の道は無惨に踏み砕かれ、倒壊している家屋も少なくない。
既に三週間が経過しているにも関わらず、場所によっては祭りで使用された瓶の破片が散らばっていることもあった。中途半端に片付けられた屋台も至る所に点在している。流れた血だけは、急に降り出した不可思議な雨で洗い流されたようだが。
宿の窓からの光景も、様変わりしていた。整然としつつもどこか気易い印象だった町並みが、襲撃のせいでぐしゃりとひしゃげてしまったように見える。
陸斗は何ともなしにそれを眺めつつ、腹部を撫でた。引き攣れたような二本の傷跡は、未だに消えていない。医師にも傷は治っても跡は残るだろうと言われた。
向こうに帰ったら、見られないように注意しなければ。というか、そもそもあちら側ではこちらと同じように時間が流れているのだろうか。
祭りの前まで何かと賑わっていた宿のロビーは、閑散としている。食事も行えるよう設置されたテーブルは、全て空だった。外からやってきた客は、既に皆逃げるように立ち去っていたからだ。
閑古鳥が鳴いている状態となってしまったせいか、宿の主人もずっと暇そうにしている。小太りの彼は、どうやら少なくとも身内に被害はなかったらしい。
「傷、どうだ?」
ロビー兼食堂には、今この宿に宿泊している全員が集合していた。歩み寄ってきたラミエルに、陸斗は黙って首肯する。
「大丈夫なんだな」
「……もう動いていいって、言われた」
「あ、で、でも、まだ無理はするなって」
このままでは肝心のことを陸斗が黙っていると判断したのか、慌てて蓮が声を割り込ませる。
部屋の隅ではアウスとクーが祭りで使用した空の瓶を転がして遊んでいた。そのすぐ側で、リアが壁にもたれている。彼女は物憂げな表情のまま、軽く俯いている。
瓶は、抱えられるほどの大きさだ。そのせいか、床を転がる度やたらと重厚な音を響かせた。それはまるで、巨大な何かが音高く迫ってきているかのようだった。
それを後目に、ラミエルが腕を組んで唸る。
「とりあえず、傷自体は塞がってるんだろ」
「塞がってる」
「で、でも、体力はまだ」
「わかってるって。最初はなるっべく抑え気味で行くから。それでいいだろ?」
「……う、ん」
珍しく食い下がった蓮は、結局どことなく不満げながらも頷いた。彼自身も右肩を負傷していたはずだが、陸斗はそもそもどういった傷なのかすら知らない。
何となく不公平なような気がして、陸斗はラミエルがリアの元へ向かう後ろ姿を見送りながら口を開いた。
「蓮も、怪我してた、よな」
蓮はあからさまに視線を逸らす。ついでに逃走を図ろうともしたので、陸斗はすかさず彼の上着の裾を掴んだ。
そういえば、その上着もいつの間にか別のものに変わっている。
「怪我してた、よな」
「うっ、いや、でも」
「してたよな」
「……してました」
肩を落として俯いたのを見て、陸斗は手を離した。
必ず言い訳しようとする。その推測は正しく、蓮はすぐさま顔を上げた。必死の形相だが、目だけは気まずいのか合わそうとしない。
「で、でも、俺の場合は肩だし。歩くのは大丈夫だよ。でも陸斗はお腹だから、歩くと響くし。傷は塞がってるからって、戦ったりとかは」
「それはわかってる」
陸斗が遮ると、蓮は再び気まずそうに目を落とした。
「で、蓮の方はどう、なんだ。酷いのか」
「う……そ、それは」
『結構酷いよー』
予想外のところからもたらされた返答に、蓮がその場で飛び上がる。慌てたようにぐるりと視線を巡らせ、最終的に自分の足下に行き着いた。
いつの間にやってきていたのか、アウスがにやにやと笑っている。気付けばクーも陸斗の傍らにいて、服の裾を掴んでいた。
「あ、アウスっ、駄目だってば!」
『だって蓮ばっか陸斗の心配してさー。自分のことは全然言ってないじゃん。どれくらいで、どんな怪我なのか、陸斗だって気になるよね?』
「私も気になるなー」
陸斗がすかさず頷き、クーものんびりと同意した。
そう言われてしまうとどうすることもできないようで、蓮は詰まったように呻いて沈黙する。よっぽど知られたくない、ということは、本当に酷いのだろう。
そんな様子をものともせず、アウスは我が意得たりととばかりに首を反らす。
『ではでは、発表しまーす。蓮の怪我は、まず右肩だよね。そこ以外はほんとにないよ。
で、どうして怪我したかっていうと! くちばしがでっかくてしゃきーんって尖ってる鳥に、後ろからやられたからー』
「……鳥?」
『そーそー。後ろからざくってやられて、ぎゅいーんって回って、ぶしゃって抜けたの』
擬音が多すぎる。陸斗は内心で突っ込みつつ、アウスの言葉の意味を理解して一瞬固まった。見れば、さすがのクーも硬直している。
つまりそれは、後ろからやってきた敵に肩を貫通された、ということか。
「……それって、結構どころかすっごく酷いよね」
「そ、そんなことないよ! 今は……その、全然痛くないしっ」
必死で弁解する蓮を余所に、陸斗はその言葉が嘘だということがわかっていた。
陸斗は数日前から退院して、宿に戻っていた。そもそも、陸斗と蓮は同じ部屋寝泊まりしている。その際に、毎晩微かな呻き声が隣の寝台から聞こえていたからだ。
今までは、死体を直視してしまったことがトラウマになったのかと思っていたが、どうやら違ったようだ。
「でも、まだ痛いんだろ」
「い、痛くないよ」
「夜にうんうん言ってるのは」
「あ、あれはっ……ちょっと変な夢見て、怖かっただけ、で。だ、だから、痛くない」
「蓮って、結構墓穴掘るタイプだよね」
「ほ、掘ってないよ」
なおも往生際悪く言い張る蓮を見て、クーとアウスが苦笑いする。
一体何故、ここまで意地を張るのだろう。陸斗は思わず首を傾げた。
「ねえ、ちょっと」
そこへ、やけにぶっきらぼうな声が乱入した。リアが靴音を響かせて歩いてくる。
ラミエルは、先ほど彼女が立っていた位置で傍観者の体を装っていた。
歩く度に、艶やかな群青色の長髪とコートの裾が揺れる。
『何ー?』
その足下に、アウスが無邪気に纏わり付いた。リアは常にはない弱々しい笑みを浮かべて、彼の頭を撫でる。
そして、気を取り直したように表情を引き締めた。
「次の、目的地のことなんだけど」
「あ……ラヴァーダ、だったっけ」
「そう。最初は、その予定だった。でも、少しだけ寄り道させてほしいの」
リアはまるで、その背中に巨大な影を背負っているかのようだった。
顔色もどことなく青白く、印象としてはとにかく儚げだ。今にもその場から吹き飛ばされてしまいそうだった。
束の間視線を彷徨かせた後、彼女は意を決したように唇を引き結ぶ。
「レリエフ、っていう町がある。ラヴァーダへ行く前に、そこに寄らせて」
レリエフ。その町の名を、陸斗は心中で繰り返す。
そもそも寄らせてくれ、と言われたところで、陸斗にも蓮にもどうすることもできない。
意見をできるほど、自分の中に確固たる何かがあるわけではないのだから。
元いた世界に帰るのが、目的といえば目的だ。しかし、それにはこの世界中を飛び回っているという二頭の竜を見つけなければならないのだ。
改めて考えると、それは凄まじく難易度の高いことなのではないかと思えてしまう。
ふとした瞬間にその事実を自覚してしまい、陸斗の内心に暗雲が立ちこめる。しかしそんな彼に気付いた様子もなく、蓮がリアに窺うような視線を向けた。
「レリエフって、何?」
「私も、詳しく知ってるわけじゃない。でも、そこは……死者と、出会える町らしいわ」
「……え」
その回答は、あまりにも予想外すぎた。尋ねた当の本人は、目を見張ったままその場で固まっている。
陸斗も、ただ目を瞬かせることしかできない。
クーが表情を変えぬまま、緩やかに首を傾ける。外から、どこか間の抜けた鳥の声が聞こえた。
「死者って、死んだ人のこと、だよね」
「そうよ」
死んだ人間と出会える町。そんなものが、本当にあるのだろうか。
そして、リアは何故そんな町へ行きたいのか。その答えは考えるまでもない。
陸斗は思わずリアを見る。先ほどとは違い、彼女は決然とした表情でその場に佇んでいた。目を逸らすことなく、陸斗の視線を迎え撃って頷く。
「はっきりさせに行くの」
その言葉に、蓮が顔を歪めた。
アウスが急に足下に寄り添ってきて、ぐいぐい体を押し付けてくる。陸斗は不安定に揺れながらも、その場を退く気はなかった。
様子を見ていたラミエルが、何事もなかったかのように歩いてくる。窓から差し込む日の光で、朱色の頭髪が一際輝いていた。
彼は全員の前で立ち止まり、ぐるりと見回す。
「異論のある奴はいるか?」
言葉に反して、声色自体は至極柔らかい。少なくとも、異論を唱えられても鉄拳で捻じ伏せようとしていないことは明らかだった。
蓮とアウスが揃って首を横に振る。陸斗も同じく首を振ろうとした瞬間、視線を感じた。事情を理解し切れていないクーが、どことなく困惑げに見上げてくる。
確かに、彼女が同行したのはあの教会を脱出した直後だ。しかし、この場で事情を話してもいいのだろうか。
おそらくは、その陸斗の逡巡を悟ったのだろう。クーは口の端に微かに笑みを浮かべると、目を逸らした。
「大丈夫だよ」
頷いたラミエルに目を向けられ、陸斗も首を振った。
「全員異論なしってことで、次はレリエフに行く。その後は、今度こそラヴァーダだ。まあコース的にはそこまで遠回りってわけでもないから、そんなにロスにはならない。
それに、レリエフはやたらと双竜を推してるらしいぜ。案外、お前らにとっても寄り道にはならないかもな」
『じゃあ、買い出し行く?』
「いや、一昨日大方買っといたから、もういいだろ」
途端に出発前の慌ただしさが漂い始め、各々が荷物を取りに向かう。陸斗が階段に足を向けると、蓮も慌てて付いてきた。
既に階段を上りきった面々が、ドアを開閉する音が響く。特に抑える意志が感じられないその音が、この宿には自分たち以外いないのだということを実感させた。
「……リアは、何で急にあんなこと言ったのかな」
不意に、背後から蓮の声が聞こえた。既に目当てのドアは目の前だったので、陸斗は先に開けて中に入る。このまま話して万が一リアに聞かれると、若干居心地が悪いことになりそうだった。
それは蓮もわかっていたのか、そそくさと部屋に入ってくる。が、何故か陸斗とは目を合わせようとしない。明らかに、意図的に避けられている。
しかしわかったところで、陸斗にはどうしたらいいのか判断が付かなかった。
「死んじゃった人に会えるって、どんな感じなんだろうね」
「……普通なら、あり得ないけど」
「だよね。向こうにいた頃だったら、絶対信じなかったなあ。なんか、変な宗教っぽいし」
若干引き攣った笑みを浮かべながら、蓮は既に纏めていたらしい荷物を取った。シエルタから使用しているずだ袋で、丈夫さと大きさだけが売りという代物だ。
陸斗も物を散らかす性分ではないので、着替えやら砥石やら必要なものは袋に入れっぱなしになっている。そもそも、準備らしい準備は必要なかった。ベッドの横に置きっぱなしにしていた袋を取る。
そういえば、この世界にもやはり宗教の類は存在するのだろうか。
窓から見える空には、雲一つない。季節は、春から夏へと移り変わろうとしていた。
カルラに滞在している間には、夏の足音を感じさせるような陽気の日もあった。しかし、今日はあまり暑くない。
少なくとも、外を歩くにはちょうどいい気温だろう。
蓮は相変わらずぎこちない動きで、部屋から出ようとした。その際に振り回した袋が、ベッド脇の小机に乗っていたランプに当たる。
「あっ」
声が上がったときには、もう遅かった。
ランプが身の竦むような鈍い音を立てて落下する。幸いガラス部分が割れることはなかった。どうやら、特にひびも入っていないようだ。
それでも蓮は顔を青ざめさせ、ランプを慌てて拾い上げた。慎重に検分した後、神経質すぎるほどの勢いで付いた埃を拭っている。
陸斗は、密かに溜め息を吐く。ぱっと見たところ蓮に変わった様子はない。ならば、この妙な違和感は何なのだろう。
もやもやと胸の内で渦巻く感覚を捻じ伏せるように、陸斗は勢い良く頭を振った。




