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Lost Place  作者: 宮野香卵
第一章 自分が薄氷の上を歩いているのだと言うことを、大半の人は知らない
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 帰宅するとほとんど同時に、ぱらぱらと窓硝子に雨がぶつかる音が聞こえてきた。

 陸斗は思わず安堵の溜め息を吐く。結果的に、傘はいらなかったわけだ。

「ただいま」

 一応声をかけてはみたが、返事はなかった。父親は普通のサラリーマンでこの時間帯にいるはずがないし、母親も今日はパートなのだ。

 夕月家が暮らしているのは、三階の三○六号室だ。公共団地は当然ながらどの部屋も構造は同じで、玄関は電気を付けなければ薄暗い上に少々狭い。そこから細長い廊下が伸び、向かって右側に陸斗の部屋と弟である優斗の部屋。左側に洗面所と風呂場。両親の寝室兼父の書斎は廊下というよりリビングの隣にある。リビングの廊下側には母親曰く少々手狭なキッチン。反対側にはベランダに面した大きな窓。

 陸斗は靴を脱いで後ろ足でそれを揃えると、そのまま自室に向かう。

 優斗の部屋の前を通り過ぎる時に、閉まったドアの向こうから最近よくテレビに出ている歌手の声が漏れ聞こえてきた。三歳年下、現在中学二年生の弟は、既に帰宅していたらしい。

 わざわざ音楽を聴いているところを邪魔する義理もないので、さっさと自分の部屋に入った。ドアは完全には閉めない。あまり開け放つのも何となく気まずいのだが、陸斗は基本的に部屋を閉め切るのが好きではなかった。

 彼の部屋はこれまた予想通りと言うべきか、物が少ない。あるのは、小学校の時から使っている学習机とベッド、申し訳程度に購入した本棚だけだった。ちなみに本棚に隙間なく詰まっているのは、優斗の部屋で棚に入りきらなかった漫画や文庫本だ。

 何となく動き辛い制服を脱いで備え付けのクローゼットにかけ、さっさと普段着に着替える。下は中学校の時に着ていたジャージで、上は適当な長袖のトップス。服装に対するこだわりなど欠片も見受けられない。

 何となくベッドに座って一息吐くと、待ってましたと言わんばかりに淡い色合いの波のような眠気がにじり寄ってきた。陸斗は降りかけてきた瞼を何とか押し上げる。

 いくらテストが終わったとはいえ、前日夜更かしもしていないのに昼寝をするのは如何なものか。

「兄ちゃん? 帰ってきてんの?」

 不意に、優斗の声が響いた。漏れ聞こえていた音楽の音が大きくなったので、気配を察してドアを開けたのだろう。

 しかし、陸斗は何故か眠くて仕方がなかった。返事もせず、ベッドに寝転がる。

 眠い。何でだ。

「……あれ?」

 掛け布団の上でごろごろ動いていると、優斗が入ってきた。こちらは家の中でもジーパンに洒落たデザインのシャツ、と明らかに服装が兄とは異なる。

 この服装の差から見ても、急な来客が訪れた場合にどちらが応対に出るかは日を見るより明らかだった。

「何、具合でも悪いの?」

「別に。眠い」

「天気悪いから?」

「……たぶん、それは関係ない」

 ぼそぼそと呟きながらも、陸斗は既に半分寝かかっている。もしかして、こうならないようにクラスメイトたちは授業中に寝るのだろうか。

 どこか殺風景な印象の部屋で、床には先ほどまで陸兎が着ていたワイシャツや靴下が一カ所に固まって落ちている。他が綺麗に整頓されているだけに、それだけでもだいぶずぼらな雰囲気が漂い始めるのだから不思議だ。

 優斗は苦笑いを浮かべつつもそれを拾うと、いつの間にか動かなくなっている陸斗へ目を向けた。

「母さん、六時くらいに帰ってくるって。その前に起こす?」

「う、ん」

「じゃあ、後茶碗だけ拭いてないから。やっといてね」

「了、解」

 返事はしているものの、ほとんど寝ぼけているような状態のようだ。

 優斗が部屋から出ていってしまうと、急に静寂が色濃くなったような気がした。一応すぐ隣の部屋から音楽は聞こえてくるが、それさえも眠りへ誘う道標の代わりとしか思えない。

 陸斗はふと、うつ伏せで布団にくっつけていた顔を上げた。

「……ろくじ」

 そう呟くと、ベッドに備え付けられている棚に乗っていた目覚まし時計をいじる。四角くて薄い水色の時計で、耳障りな電子音が特徴である。目覚まし時計としてはかなり優秀な方なのかもしれない。

 一応優斗が起こしてくれるようだが、それでも少しくらいは自分で起きる努力をした方が賢明だろう。

 陸斗は決して目覚めが悪い方ではなかったが、時折びっくりするほど起きないこともあるらしいのだ。これも彼にとっては伝聞の領域でしかないので、詳細は定かではない。

 とりあえず、さっさと寝てしまおう。いつまでも眠気が残っているというのは、決して気持ちのいいものではない。

 陸斗は目覚まし時計から手を離して、ようやく心おきなく薄暗い眠りの淵へと沈んでいった。




 帰宅すると同時に、何となく溜め息が漏れた。ほとんど萎みきった風船から最後の空気が絞り出されたような、情けない音だ。

 蓮は雨が窓に当たる音を聞きながら、しばらくぼーっと玄関先に腰を下ろしていた。

 今日も、乗り切った。そんな一言が脳裏に浮かぶ。

 家にいれば、少なくとも周りの視線を意識しなくてもいい。

 外は嫌いだった。自意識過剰なのだとどれだけ自分に言い聞かせても、心臓は早鐘のように鳴り始め冷や汗が背中を流れる。

 特に夏場は最悪だ。学校の制服は上着が取れてシャツだけになってしまうため、いつも背中に嫌な汗が滲んでいないか気になってしまう。

 蓮はもう一度溜め息を吐いてから、ぶるぶると首を振った。どんよりと濁った思考を振り落とすように。

 この家に暮らしているのは、彼だけだ。おそらくはこの先も、その状態は変わらないだろう。しかし、だからといって間取りが他の部屋と比べて特別狭いわけではない。

 リビングにある、夕月家で言うところの両親の寝室兼書斎が蓮の部屋だ。そこでさっさと着替えを済ませ、洗濯する衣類を洗濯機に放り込む。洗剤も入れ、スイッチを入れる。

 きちんと回り始めたのを確認したら、次は夕飯の準備だ。ご飯は朝に炊いた分が残っているので必要ない。明日の朝も食べられるように、今晩の献立は無難に味噌汁と豚の生姜焼き、後は付け合わせにちょうどいいサイズに毟ったレタスにした。

 野菜はあまり好きではないが、少しは食べておかないと将来的に不安なのだ。しかし具体的に野菜を食べなければどうなってしまうのかはわからない。一体、どうなるのだろう。

 少し調理をすれば食べられる、というところまで進めたところで中断。朝から流しに浸けておいた食器と、使った包丁やまな板を洗う。

 そこまで一気に動き回って、蓮はようやく一息吐いた。リビングの壁に掛かっている時計に目をやると、ちょうど五時半だった。何かをし始めるにも中途半端な時間だ。

 蓮はとりあえず、食卓にも使っている広めのローテーブルの前に腰を下ろした。並んでいる椅子は、計四脚。一人しか暮らしていない家で何故これだけ椅子が置きっぱなしなのかというと、陸斗や優斗がたまに泊まりに来るからだ。

 テレビを付けようか一瞬迷って結局やめる。特に見るものも見たいものもないのに、悪戯に電気代を浪費することはない。

 外では雨が本格的に降り出したようで、時折風に煽られた雨粒が激しい音を立てて窓硝子に激突してくる。

 急に動きを止めてしまうと、室内の静寂が余計に妙な重圧を持ってのしかかってきた。雨粒の威嚇するような音に時折肩を跳ねさせながら、蓮はぼんやりと虚空を眺めた。

 しかし、その視線は自然とある一点に吸い寄せられる。テーブルの向かいに設置されたテレビ。その隣には、硝子戸の付いた棚がある。

 高さは一メートル五十センチほどで、半分から下は両開きの木戸が付いている。本棚にもできるし、何か小さな置物を並べておくにもちょうどいい棚だ。随分と古いため、至る所に傷が付いている。側面には、シールを剥がした跡が大量に残っていた。

 下部には、適当に使わなくなった教科書などが詰め込まれている。そして上部の硝子戸の方には、硝子で作られた小さな動物たちが所狭しと並んでいた。

 風船を持った犬に蜂蜜の壷を持った熊、さらに身を寄せ合って並ぶ大量の羊たち。

 それらは全て硝子で作られており、薄暗い室内でもその一角だけは微かな光を纏っているように見える。ふと蓮の脳裏に、かつての栄華、という言葉が浮かんだ。

 以前はこの動物たちを積極的に買い集め、慎重にこの棚を掃除する人間がいた。だが今は、動物たちはただひっそりと佇み月日と共に降り積もる灰色の埃にまみれている。

 だんだんと汚れているのはわかっていたが、壊してしまうことが怖くて手を付けることができなかった。彼らを破壊してしまうくらいなら、いっそこのままにしておいた方がいい。

 室内は元々暗かったが、あっと言う間に夕闇に包まれていく。生憎の天気で夕日は全く顔を出さない。ただ、徐々に暗くなっていく。

 灰色の空が、真っ暗に。

 部屋のそこここに色濃い闇が蹲り始めていたが、それでも蓮は動かなかった。じっと、硝子の動物たちの密かな王国を眺め続ける。

 そろそろ、掃除した方がいいのだろうか。普段は時間がなくてどうしようもなかったけれど、年末の大掃除の時にでも。

 蓮は本日何度目かも知れない溜め息を吐き出すと、不意にテーブルに勢い良く突っ伏した。

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