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Lost Place  作者: 宮野香卵
第三章 大事な選択は他人の手によって為されるべきではない
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 覚醒は唐突だった。

 ぱっと目を開くと、景色がおかしい。いかにも埃っぽい剥き出しの地面と青空が横になっている。

 陸斗は一瞬目を瞬かせてから、ゆっくりと身を起こした。途端に、頭が揺れるような感覚と共に吐き気がこみ上げてくる。

 思わず口元を押さえてから、陸斗は座り込んだままきょろきょろと辺りを見回した。彼が倒れていたのは、一本の細長い路地だった。

 限界まで両手を伸ばせばそれで事足りてしまうような幅の路地。左右は薄茶色の煉瓦壁で、それが前にも後ろにも果てしなく続いている。

 高さは、少なく見積もっても四メートル近くあるだろう。これでは上ることなどできそうもない。頭上には、やはり細長く切り取られた青空。

 何故、自分はこんなところにいるのだろう。

 陸斗はつい先ほどまで、確かに商業通りを歩いていたはずだった。持っていた食べかけの揚げパンもどこかへ消失している。勿体ない。

 そこまで考えてから、陸斗は反射的に首を横に振った。

 どうやら、さすがに少しばかり動揺しているらしい。彼自身は冷静なつもりだったが、思考が勝手に脇道に逸れようとする。

 とにかく、まずはここから抜け出さなければ。

 立ち上がると、思った以上に立ち眩みが酷かった。ぐらぐらと視界が不安定に揺れ、それだけでまた吐き気が襲ってくる。いっそ、吐いてしまえば楽なのかもしれない。

 陸斗は一瞬口の奥に手を突っ込もうが迷ったが、結局壁に寄りかかるように立ち尽くしたままだった。

 それは本当に限界が来たら考えるとして、当座の問題はどちらへ進むかだ。しかし指針となるものが、残念なことに欠片も存在しない。

 前か、後ろか。

「……っ!」

 刹那、凄まじい異音が響いた。例えるなら耳鳴りを極限まで酷くして、さらにその中に土砂をぶち込んだような音だ。

 陸斗は思わず頭を抱える。音は、周りに響き渡っているというより頭の中だけでわんわんと反響しているようだ。ただそのせいで、さらに音が反響し凝縮され撹拌される。

「う、あっ……」

 思わず、呻き声が漏れた。目の前の景色がぐにゃりと歪み、冷や汗が噴き出す。同時に、意識が徐々に混濁していく。

 が、視界が暗くなる前に、異音は急速に収縮した。まるでコンポのスイッチを入れた瞬間に予想外の爆音が溢れて、慌ててつまみを捻ったかのように。

 陸斗はぽかんと口を開け放ったままその場で固まった。吐き気も眩暈も酷いし、座り込んでいるはずなのに体がぐらぐらと揺れる。が、意識を失いそうなほどではない。

 とはいっても、未だに耳を澄ませば異音の残滓が反響している。そのせいで、貝の身と共に砂粒を噛み潰したような不快感が全身を苛んでいた。

 が、今度の音は脳内だけで響いているのではない。

 陸斗は、前方へ目を凝らす。音は、確かに前から聞こえていた。果ての見えない通路の最奥。そこには、一体何があるのだろう。

 内心で少しばかり気合いを入れてから立ち上がり、陸斗はふらつく足取りで進み始める。剥き出しの地面を踏み締める足下からは、神経に障るようなざらつく音が聞こえた。




 リアたちから離れたラミエルは、明確な目的を持って歩んでいた。彼は長身であるが、基本的に体は引き締まっているので道を占有するスペースは狭い。

 人と人の間を器用に泳いでいると、人垣の中から熱の籠もったような視線を感じた。それも、確実に複数だ。

 慣れた様子で気付かぬ振りを装い、ラミエルは上着の右袖をはためかせて進む。

 やがて、目的地に到着した。地面に麻布を敷いただけの露店ではなく、簡易の木を組んで造られた店舗。店先に並んだ台には、瑞々しく煌めく野菜が鎮座している。

 ざっと見たところ、春先のためレタスが多い。小振りな黄緑の玉が大量に並んでいた。

 しかしレタスなら、軽く洗って千切るだけで立派なサラダになる。器もほとんど汚れず野菜も取れるのだから、一石二鳥だ。

 一瞬ラミエルの脳裏に、レタスだらけの食卓に顔をしかめるリアが浮かんだ。しかも、その後に遠慮なく回し蹴りを決められそうになり、慌てて想像を打ち消す。

 人見知りの気が極端に強いリアは、今のところ陸斗と蓮を警戒して猫を被っている状態だ。

 しかしその封印が解かれた瞬間、暴君は容易に復活する。寧ろ今まで抑制されていた分、盛大に暴れる可能性大だ。

 ぶるりと身を震わせたラミエルは、ふと上着の裾が引っ張られていることに気付いた。

 視線を落とすと、彼の腰ほどしか身長のない少女が一人。肩口で切り揃えられた、亜麻色の髪が眩しい。

「おにいちゃん、やさい、かってくれるの?」

 まだ辿々しい口調だった。年はいくつくらいだろう。

 ラミエルは少女の目線に合わせて腰を落としながら首を傾げる。とりあえず十歳以下だとは思うが、この年頃の子供はいまいち正確な年齢がわからない。

「うん、そのつもり」

「なら、これ、あげる」

 少女の足下には、いつの間にか一抱えほどもある麻袋が鎮座していた。袋の口からは、レタスがいくつか顔を出している。袋の体もぼこぼこと膨れ上がっているので、中にも大量の野菜が入っていることは明白だ。

 ラミエルは思わず店の奥を見た。少女の母親だろう、亜麻色の長髪を翻して、壮年の女が笑う。一度ひらりと手を振ってから、すぐに入ってきた他の客の相手をし始めた。

 あっさりとしたその態度は、ラミエルにとって至極有り難い。良くも悪くも粘性の高い視線は、それだけで神経を磨耗させる。

 特に今は、それが追っ手のものなのかまで考慮しなければならないのだ。

「いらないの?」

 我に返ると、目の前の少女が今にも泣き出しそうな顔をしていた。同時に、どこからか明確な殺気が放たれ始める。

 ラミエルは慌てて少女の頭を撫でた。

「いや、ありがとう。お金なかったから助かったよ」

「おにいちゃん、かっこいいのにおかねもってないの?」

 純粋な少女の疑問が、ラミエルの胸に勢い良く突き刺さる。格好良ければお金もあるという認識は、一体どこからやってきたものなのだろう。

 それに、金がないというのは本当だ。あそこでウサギを買わされなければ、もっと余裕もあったのに。

 思わず恨めしい気持ちになっても、誰にも責められないはずだ。

「……そう。お兄ちゃん、あんまりお金使うと怒られちゃうからさ」

「たいへん、だね」

 少女が満面の笑みを浮かべると、殺気は何事もなかったかのように消え失せた。母は強しというが、まさにその通りなのだ。

 ラミエルは麻袋を持ち上げると、店主である少女の母親に軽く会釈した。本当は手を振りたいところだが、生憎塞がっている。しかし少女に対しては、会釈だけでは素っ気ない。

「じゃあ、ありがとうな」

「うん」

 はにかみながら頷いたものの、すぐに幼い顔付きが疑念で染まった。ゆるりと首を傾げて、少女は小さな口を開く。

 その瞬間、ラミエルは既に彼女の疑問を察していた。だからこそ、その台詞が出てきたときも表情一つ変えることはなかった。寧ろ、この年頃の子供なら真っ先にそれを口にしてもおかしくなかったのだ。

「おにいちゃん、どうして“て”がないの?」

 それでも、ラミエルは一瞬硬直した。

 根本から、綺麗に消え失せた右腕。事故ではない。あれを事故と呼べるのならば、世の中で起こる全ての事柄は事故で処理される。

 無意識のうちに唾を飲み下した音が、雑踏の中でもやけに大きく聞こえた気がした。

「……ちょっと、色々ね」

 空気の読める少女だったのか、その一言で疑問は氷解したらしい。

 ラミエルが隙を突いて歩き出してしまうと、明るい声で別れを告げてきた。一瞬だけ振り返ってそれに応え、雑踏に紛れ込む。

 とにかく、図らずも今日の夕飯はレタスだらけになってしまいそうだ。せめて、釣り合うくらい肉を買っていった方がいいだろうか。

 リアがまさしく鬼の形相で自分のことを探していることなど露知らず。ラミエルは、相変わらず周囲から刺さる熱視線に気付かない振りをして歩みを進めた。




 一方陸斗は、一人黙々と歩いていた。

 延々と続く、閉塞感のある小道。どこまで行っても景色は変わらず、見上げれば白雲だけが緩やかに流れて形を変えている。

 気分もすっかり良くなった陸斗はひたすら歩き続けていたが、ふと立ち止まった。耳障りな音は、相変わらず前方から聞こえている。まるで、こちらへ来いと誘うように。

 ここまで歩いてきて今更だが、素直にこれに従ってもいいのだろうか。

 陸斗は片方の壁にもたれ掛かって首を傾げる。罠、という可能性はないだろうか。何を以て自分を罠にかけようとしているのか、その詳細はとりあえず置いておくとして。

 しかし世の中には、無意味な罠が溢れている。とにかく誰かがかかれば儲けもの、といった類のものが。

 一度そう思ってしまうと、極度の疑心暗鬼に陥ってしまった。ほんの少し前まで何の疑問もなく歩んでいた小道が、地獄への道筋にも見えてくる。前から吹いてくる緩やかな風にすら、毒素が含まれているような気がした。

 それでも、音は止まない。耳鳴りをとびきり濃くしたような、気味の悪い音が風に乗って流れてくる。

 暫し立ち止まってみたものの、結論など出るはずもなかった。結局、陸斗はまた歩き出す。考えるのは、この道の先に辿り着いてからでも何とかなる、かもしれない。

 そして結果的に、路地の果てはきちんと存在した。

 急に視界が開けた先には、煉瓦壁に囲われた広場があった。とはいっても、面積自体はそう広くない。ベンチや低木の類はなく、奥の壁にもたれかかるようにぼろい小屋が建っていた。

 それは古びたという形容すら生温い、半分朽ち果てかかった小屋だ。ベニヤ板を釘で辛うじて繋ぎ合わせているようだが、その隙間に黒カビが大量に蔓延っている。しかも全ての隙間がその有様なので、小屋全体が黒ずんで見えた。

 距離的にはまだ五メートル以上あるが、それでも濃密なカビの臭気が漂ってくる。喉の奥に絡み付くような臭いに吐き気を覚えつつ、陸斗はシャツの袖で鼻を覆った。束の間様子を窺ってから、ゆっくりと小屋に近付く。

 改めて正面から眺めてみると、建物は見事に斜めになっていた。シルエットが、きちんとした長方形になっていない。

 寧ろこれだけ建物がカビているのに、こうして建っている方が不思議なくらいだ。ドアも一応付いてはいるものの、触れるだけではらはらと崩れてしまいそうだった。

 しかし、音はいつの間にか止んでいる。ということは、ここが目的地だということだろうか。

 陸斗は所在なげに、広場の中をうろうろと歩き回る。

 ひょっとして、中に入ればいいのか。しかし一度入ってしまえば、今度こそ終わりではないか。

 普段はあまり深く考えず物事の決断をする陸斗だったが、今回ばかりは慎重にならざるを得なかった。あるいは、この世界に降り立った際の襲撃が未だに尾を引いているのかもしれない。

 動きたくても動けない、足が竦むという感覚。体全体は冷えているのに、心臓だけが早鐘のように鼓動している。

 あんな感覚は、向こうにいるときなら絶対に味わえない。味わう機会すら存在しないし、もう二度と同じような目には遭いたくなかった。

 途方に暮れて空を見上げると、綺麗に晴れ渡っている。鳥は飛んでいないが、雲は浮かんでいる。

 そういえば、蓮たちはどうしているだろう。急にこんなところに来てしまったので、心配しているかもしれない。

 やはり戻ろうか、と踵を返そうとした瞬間、ドアの辺りが軋んだ。ぎしぎしと不穏な音を立てて、ドアが開く。というよりは、寧ろ壁の一部が裂けたようにしか見えない。

 ついに、小屋自体が崩壊を始めたのだろうか。

 裂け目の向こう側は不自然なほど完全な闇が充満していた。これだけカビだらけで斜めに傾いているのだから、隙間から陽光が差し込む可能性の方が高いというのに。

 陸斗は思わず、隙間の向こうに目を凝らす。翳りの奥で、何かが蠢いたような。

「──っ!」

 まるでその違和感を悟ったかのように、暗がりから凄まじい速度で何かが伸びた。猛烈なカビの臭いが鼻先を掠める。

 気付けば、中途半端に伸ばしかけていた腕が、何者かに掴まれていた。文字通り、骨に皮が纏わり付いただけのような青白い五指が手首に食い込む。ぞっとするほど冷たい手だった。

 心中で、瞬間的に恐怖が跳ね上がる。全身が急激に痒くなった。咄嗟にその手を振り払おうとして、陸斗の耳はふと耳障りな音を拾い上げた。反射的に、耳を澄ませる。

「……あ、やしく、ない」

 掠れに掠れきってはいたが、それは明らかに人の声だった。しかも、その言葉はぶつぶつと不自然に途切れている。聞き取れたには聞き取れたが、意味がわからない。

 改めて目を凝らしてみると、暗がりから伸びているのは手だけで、隙間の奥にあるはずの体は何故か見えなかった。しかし普通なら、差し込む光で手前辺りまでは視認できるはずだ。それなのに、何故。

 疑問を抱く余裕が生まれたせいか、一瞬体の強張りが解けた。そしてその隙を、闇から伸びる手の主は見逃さなかった。

「う、わっ」

 突然思い切り引っ張られて、間の抜けた声が漏れる。

 次の瞬間には、隙間から小屋の中に踏み込んでいた。暗幕を下ろしたかのように真っ暗になる。日の光が遮られているためか、やけに肌寒い。

 目が慣れるまでは何も見えそうになかった。ただ、相変わらず手首は掴まれたままだ。

 不意に、隣から微かな風切り音が聞こえた。直後、壁に付いていたランプが一斉に点灯する。内部が一気に明るくなったため、陸斗は思わず目を細めた。呆気なく手が離れる。

 緩慢に隣を見た彼の視界に入ったのは、黒いローブを纏った人物だった。しかも頭からすっぽりとフードを被っているため、人相も定かではない。ただ身長は陸斗より少し高いくらいなので、性別は男だろう。

 彼は陸斗など見向きもせず、ひょいひょいと床に積み上がった本の山をかわしていく。閉塞感が半端ではない室内だが、籠もったような臭いは感じなかった。あるいは隙間が酷すぎて、臭いがほとんど外へ出ているのかもしれない。

 天井はそう高くないにも関わらず、換気用のファンのようなものが付いていた。が、今は止まっている。

 しかし、物凄い本の量だ。壁は四方全てが本棚になっていて、隙間なく分厚いハードカバーが詰め込まれている。

 入りきらなかったのか元々その気もなかったのか、溢れた本は床の上に無造作に積み上げられていた。まともな足の踏み場など存在せず、下手に足を踏み入れていたら今頃圧死していたかもしれない。

 陸斗は試しに、目の前にある山からてっぺんの本を取ってみた。明らかに、軽い。革の装調が重厚なだけに、凄まじい違和感だ。ページをめくろうとすると、本全体からぱりぱりと乾いた音がする。陸斗は黙って本を元の位置へ戻した。

 一方、ローブの男は一人本の奥で動き回っていた。最奥には古びた書斎机と椅子の背が見えている。机の前にどこからか引っ張り出してきた椅子を据えると、彼はくるりと振り返った。

 何となくその挙動を見守っていた陸斗に向かって、手を動かす。生白い手のひらが、外に干された洗濯物の如く揺れる。手招いている、ように見えた。

 陸斗は一瞬躊躇したものの、いつまで経ってもその動きが止まらないため結局一歩踏み出した。山を掠めれば確実に雪崩が起きるので、慎重に歩を進める。

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