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昼時を過ぎても、商業通りは多数の人でごった返していた。しかもその中を、二頭の馬が引く巨大な荷馬車までもが通り抜けようとする。必然的に通行できる場所が限定されて、道はさらに混み合う。
帰途に付く一行は、途中の出店で購入した軽食を手に歩いていた。それは端的に言えば、細長いパン生地を寄り合わせて揚げられたものだ。
いわゆる、ねじねじパンの揚げパンバージョン。ただ砂糖の代わりに、ねじねじの中にジャムが練り込まれている。
「うわー、揚げパンだ」
蓮はひたすら感動したように細長いパンを眺めていた。食べるのが勿体ないとでも言いたげで、実際まだ一度も口を付けていない。
一方で、その少し前を行くリアは遠慮なくかぶりついている。甘い物が好きなのかそもそも食事という行為自体が好きなのか、パンケーキのときと同様えらく食いつきがいい。
一見夢中に見えるが、露店で買った味付けされていない肉を時折足下のアウスに渡している。
パンを買う際、特に特別な注文を付けていなかった。どうやら、中に入っているジャムはランダムのようだ。
リアの食いっぷりに釣られるように、陸斗も揚げパンをかじってみる。一瞬妙なものが入っていたらどうしようかと危惧したが、舌先に伝わる味はどう考えてもイチゴだった。
シンプルな味が癖になる、という奴だろうか。
全長三十センチはあろうかというパンにかじり付いていた陸斗は、ふと視線を感じた。反射的に蓮を見るが、感極まったようにパンをくわえている。
リアやラミエルのはずもないし、アウスはリアから貰った肉に食らいついている。つまるところ、基本的に皆食べることに夢中だ。
隙間を埋めるように並ぶ露店へ目を移した瞬間、狙ったように人波が途切れた。
飲食物が中心の露店の中で、明らかに異質なもの。陸斗は思わず足を止め、それを凝視する。しかし結局よく見えず、一瞬前方を歩く三人と一匹に視線を向けてからそこへ近寄った。
それはおそらく、陸斗にとっては見慣れている祭りの出店の中でなら、そう目立たなかったかもしれない。近頃の祭りでは、金魚のみならず亀やウサギなど様々な小動物が売買される。
店主は、いかにも肝っ玉の強そうな恰幅のいい女。彼女の前に鎮座する、簡素でありながら厳重な鉄檻の中には、巨大なウサギが入っていた。
その巨大さたるや、下手な小型犬よりよほど大きい。下手をしたら、中型犬くらいはあるのではないか。ただ大きさを抜きにすれば、白いふわふわの毛に黒い瞳は見慣れたものだ。
首には、そこだけやけに重厚な鉄製の首輪がはまっていた。
「お兄さん、安くしとくよ。それとも他のがいいかい? 今はこいつしかいないけど、在庫はまだあるよ。今言っといてくれれば、明日には用意しとくけど」
弾幕の如く押し寄せる言葉に気圧されながらも、陸斗はしゃがみ込んでウサギと目線を合わせる。
食い入るように見つめてくる、漆黒のビーズのような瞳。どうやら、感じた視線はこれだったらしい。
「これ、ウサギ、ですか」
「まあ、それ以外に見えるんだったらあんたは医者に行った方がいいね」
そう言って、女は豪快な笑声を上げる。きつく結い上げられた艶のない黒髪が、体を揺するのに釣られてばさばさと音を立てた。
通り過ぎるだけの人間ですら竦ませるような笑い声を浴びながら、陸斗はじっとウサギを見つめる。直後、檻の床に、ぽたりと水滴が落ちた。
無論、雨漏りであるはずがない。空は呆れるほどに晴れ渡っている。
かと言って、女が何かしたわけでもない。彼女は捕まえた客を逃がすまいとしているのか、凄まじい速度で口を回転させている。
「一応ねえ、うちの在庫の中ではこいつが一番安いんだよ。まだ若いしね、色々仕込むにもうってつけ、ペットとしてもおとなしい。お兄さんでも扱いやすいんじゃないかね。で、お値段だけど……」
が、そんな商業用の説明はほぼ陸斗の耳には入っていなかった。正確には、一度耳に入った言葉がよく吟味されないうちに反対側から出て行っているような感覚だ。
ぽたり、と再び水滴が落ちる。発生源は、ウサギの小さな口。
──涎だ。
そう思った瞬間、脳天に衝撃が走った。
「いっ」
「勝手に離れないでよ」
振り返って見上げると、先ほど揚げパンにかじり付いていた際の機嫌の良さはどこへやら、明らかに苛立った様子のリアが立っていた。パンは既に完食したらしい。
蓮は不安げな顔をしていて、ラミエルは明らかに我関せずといった様子で一歩引いている。そしてアウスは何故か檻に近寄り、獲物を見つけた狼のような目でウサギを見つめている。
が、ウサギも全く物怖じしていない。寧ろ冷静とすら取れる眼差しでアウスを一瞥した。が、すぐさま目を逸らし、その視線は陸斗の持つ揚げパンへ移る。
見上げると、店主である女は完全にラミエルに照準を絞っているようだ。後ろにいたはずが引っ張り出され、商売とは明らかに関係ない話を捲し立てられている。
軽く振り返ると、リアは明らかに引いていた。蓮も彼女と似たような表情をしている。ウサギを眺めているのはアウスだけだ。
暫し様子を窺ってから、陸斗は試しに檻の隙間からパンを差し込んでみる。
ウサギは待ちかねたように体を揺らすと、ぱくりとパンの先を噛んだ。つぶらな目が、檻の中で輝いた。
ウサギとしては未発達に見える前歯で欠片を食い千切ると、むぐむぐと口を動かす。
パンが噛み潰される音だろうか。ふと、呟くような調子の声が聞こえた、ような気がした。
結果だけを述べるなら、ウサギはラミエルが買わされた。もとい、押し付けられた。その代わり、散々値引かれてはいたが。
締めて三千ビル。ビルとはこの国の通貨の単位で、幸いなことに一ビル辺りの価値は陸斗や蓮にとっての一円と同義のようだった。それに、貨幣の数も日本と変わらない。
しかしいくら巨大とはいえ、買ったのはごく普通のウサギだ。それで三千円というのはいくら何でも高すぎるのでは、と陸斗は思う。
しかも店主曰くこれでも半額以下だというのだから、世の中何に価値があるのかわからない。
当のウサギは、突然の出費に肩を落とすラミエルなど露知らず、陸斗の横を軽快に跳ねていた。もしかしたら、パンをやったせいで懐いたのかもしれない。
首輪は、店主に言ってその場で外してもらっていた。
と、不意に先頭を歩いていたラミエルが立ち止まった。そこそこに大所帯のため、場所を取らないよう一列に連なっていた一行は連鎖反応的に衝突する。
最後尾を歩いていた陸斗だけが、前方から聞こえてくる鈍い音に反応して止まったので難を逃れた。見れば、ウサギもきちんと静止している。
「急に止まんないでよ」
「あ? ああ、ごめん。ちょっと俺、買い出し行ってから帰るわ」
ラミエルは揚げパンを一気に口に押し込むと、残った紙をズボンのポケットに突っ込む。リアがさらなる文句を口にする前に、圧倒的な存在感を誇る長身は既に雑踏へ踏み込んでいた。
上背がある上に頭髪がよく目立つ朱色のため、姿自体は視認できる。が、彼とリアの間には既に何人も通行人が割り込んでいるため、これから追いつくのは至難の業だろう。
結局リアは憎々しげに溜め息を吐き出すと、背後で呆然としている蓮を一瞥した。
「……しょうがないわね。私たちだけでも帰るわよ」
有無を言わせぬ口調に、蓮はただ黙って首を縦に振る。そして、遠慮なく早足で歩き始めた彼女を追うため慌てて歩調を速める。当然、その後ろにいた陸斗も足を速める。
が、ふと右腕が奇妙に突っ張った。まるで、後ろから引っ張られているかのような。当然の帰結として、陸斗は何の気なしに振り返る。
しかし、誰もいなかった。人は確かに多いが、かといってぎゅうぎゅう詰めになっているわけでもない。辺りを見回してみたが、不審な人物も見当たらなかった。
陸斗は首を傾げ、また向き直って歩き出そうとする。が、また右腕を引かれた。振り返る。誰もいない。ただ、右腕だけが何かに引っ張られている。
自分は今、さぞ妙な格好をしているだろう。
ウサギが足下で、どことなく怪訝そうに首を傾げている、ように見える。
背後から気配が失せたことに気付いたのか、数メートルほど前方で蓮が振り返った。
ベルトに挟み込まれた純白の鞘は、まだ彼の立ち姿に馴染んでいない。その表情が不安げに歪む。
「陸斗?」
人々の声がさざ波のように周囲に満ちる中でも、その声ははっきりと聞こえた。彼よりさらに前で、リアとアウスが振り返るのも見えた。彼女の表情は、はっきりとさっさと来いと語っている。
『リクト、どうしたの?』
あくまでも無邪気な声。アウスがとことこと近寄ってくる。
陸斗はそれを見て、密かに安堵していた。腕は相変わらず、何もいないのに引っ張られている。が、これもこの世界特有の現象なのかもしれない。自分が知らないだけで。
陸斗はだから、心配いらないということを伝えようと口を開いた。
「なんか、腕が──」
陸斗とアウスの間を、縦にも横にも大きな男が通り過ぎる。
瞬間、陸斗の視界は凄まじい眩暈と共に暗転した。
「え?」
蓮は間の抜けた声を上げた。無意識のうちに、一歩前に出る。硬直した体とは裏腹に、凄まじい速度で脳が空転し始める。
何となく違和感を覚えて振り返ったら、陸斗がいなかった。一挙に噴出した不安に駆られて視線を巡らせたら、少し離れた位置に立っていた。
それで一旦安心したものの、陸斗は一向に歩き出さない。無表情ではあったが、何となく困惑しているようにも見えた。
声をかけても、動きはない。それで、アウスが近寄ろうとして──。
『あれ、何で? リクト?』
その狼狽しきった声で、蓮はようやく我に返った。アウスが、おそらくはつい数瞬前まで陸斗が立っていた位置でぐるぐる回っている。
陸斗は、いない。その場に残っているのは、あの白いウサギだけ。太った男が視界を遮った隙に、跡形もなく消えていた。
蓮は思わず、縋るようにリアを見る。リアも呆気に取られてその場で立ち尽くしていた。が、蓮の視線に気付き、すぐに表情を引き締める。
「アウス、匂いは」
『わかんない。全然しないよ。さっきのデブの匂いしかしない! 臭い!』
その恰幅のいい男は、いつの間にやらどこかへ消えている。あれだけ体格が良ければ、見失うはずがないのに。アウスの無礼すぎる悲鳴に反応して出てくる様子もない。
逆にその悲鳴に、付近を歩いていた人々が不審げな素振りを見せたので、アウスは慌てて口を噤んだ。どうやらちょうど人波が途切れたところに甲高い声が聞こえたため、不審に思ったらしい。
が、すぐに興味を失ったようで人の流れに滞りは生まれなかった。
しかし、悲鳴を上げたいのは蓮も同じだ。何故、つい先ほどまでここにいた陸斗がいないのか。
まさか、あの太った男が連れ去ったわけではないだろう。そんなことをすればすぐに気付いた。
蓮は思わず、貰ったばかりの刀の柄を強く握り締めた。こんな立派な剣を貰っても、どうにもできないしどうすることもできない。
尋常ならざる状況なのに、周りの雰囲気は呆れるほどに平和だ。空はどこまでも高く澄んだ青で、風に乗って平和惚けした鳥のさえずりまで聞こえてくる。
泣き出しそうな蓮とは裏腹に、リアは油断なく周囲に視線を巡らせていた。思考に沈むその群青色の瞳が何を考えているのか、蓮にはわからない。
それでも、陸斗が帰ってくるために考えてくれているのなら文句など言わない。
無限にも近い時間が過ぎたような気がした。時計がないので、実際にどれくらい時が流れたのかはわからない。
蓮は、沸き上がってくる焦燥で体のどこかが焦げ付きそうな感覚に囚われていた。
やがて、リアが顔を上げる。立ち止まる二人と二匹に時折胡乱げな視線が向けられるが、それらを全て黙殺して。
「行くわよ」
紡ぎ出された声に、蓮は頷く。彼女は、既にそれを見ていない。蓮は一瞬アウスと顔を見合わせ、その小さすぎる背中を追った。
が、すぐに急ブレーキをかけて振り返る。
「……あ、君も、早くおいで」
ふんふんとその場で匂いを嗅いでいたウサギも、その一言で顔を上げて付いてきた。
この際、何でもいい。陸斗が無事ならばそれだけで。
彼の脳裏に何故か、つい昨晩の光景がフラッシュバックする。
露骨に焦っていたラミエルと、不気味なほど無表情だったリアと。しかし何より彼の目に焼き付いたのは、フリージアの表情だった。
──彼女は、何かを諦めていた。重大なもの。
本来人が、自分が全うすると信じて疑うことすらない、根本的なものを。
ぎしり、と心の奥底、閉じ込めて厳重すぎるくらい鍵をかけたはずの何かが、軋んだ気がした。




