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どんよりとした曇り空だった。むくむくとどこからか現れた雲は、まるで薄汚れた真綿のように複雑に絡み合っている。
夕月陸斗は、そのいかにも不穏な空をじっと見上げていた。場所は高校の教室内、しかも授業中なのだが、基本的にお構いなしだ。
表情の類が自然に全て抜け落ちたような無表情は、初対面の人間にいつもあまりいい印象を与えない。大抵の場合、薄気味悪そうな顔をするか、怯えたような顔をするか。
どう見てもいい印象を与えているとは思えず、陸斗も何となく微妙な心持ちになる。同時に、少しだけ相手に申し訳なくなる。
それで彼は小学生の頃、物心付いた時から変化のない表情を隠すために、プラスチックのお面を被って登校したことがある。しかし被った面が尋常ではないくらいグロテスクな怪人のものだったせいか、運悪くすれ違った同年代の女の子の大半が泣いた。
それ以来、この顔面に関して余計なことはするまいと心に誓っている。
しかし造作自体は整っているらしい。母親にすら、いつも呆れたように「顔はいいのにねえ」と言われている。弟にも生真面目な顔で、「もっと愛想良くすればモテるよ」と言われる。
が、逆に中途半端に顔が整っているからこそ、余計に気味が悪いのではないかと陸斗は思う。自分の顔が果たして整っている部類に入るかはひとまず置いておくとして。
教室内には、本来授業中にあるまじき微睡んだ空気が漂っている。大半の文系の生徒にとっての天敵である数学の時間帯というのもあるし、ちょうど昼食を食べ終わった五時限目というのもあるだろう。さらに学期末テストが既に終了している上に、答案用紙も前の授業で返却済みだった。
半ば白目を剥きながら船を漕ぐ者、潔く机に突っ伏す者、ノートに落書きして何とか眠気に抗う者。人それぞれやることは違うが、少なくとも授業に集中している者は限りなく少ない。
このクラスの数学Ⅱを担当している小太りの男性教師の声は、もはや完全に子守歌と化していた。多少声質が濁ってはいるが、底なし沼に足を突っ込んだ生徒たちにはもはや関係ない。
教師自身も冬休み前のこの時期に生徒の気力が尽き果てることには慣れているようで、特に注意も叱責もする気がないようだ。現実から目を背けようとするかのように、先ほどからずっと黒板に意味不明な数式を書き殴っている。
自ら書いた数式に自分で答えを書き込み、何事か呟く。その様は、彼が教師でなければお節介な保護者辺りに通報されかねない。
「……わ、かんな」
ぐにゃぐにゃにふやけたような雰囲気の中、ふとすぐ真後ろの席から声が聞こえた。今にも消え入りそうな、途方に暮れた声が。
後ろの席、すなわち窓際の一番後ろというベストポジションにいる少年は、朝月蓮という。薄い茶色の頭髪は背の中程まで伸びていて、それを一つに括っている。その見た目は若干どころかかなり浮いているが、いわゆる不良の類ではない。
寧ろ気が弱い。何でもとにかく気に病む。髪の毛の色も実は地毛。
例によって勉強の類がからっきしで、特に理数系が苦手なのだ。テストの結果も当然ながら芳しくなかったようで、普段は授業中眠気に負けているのだが、今回は珍しく目を覚ましているらしい。
が、やはりわからないものはわからないようだ。これで、少しは普段の授業の大切さが理解できるといいのだが。陸斗は思わず溜め息を吐き出して、また曇天へと視線を戻した。
空は相変わらず曇っていて、今にも雨粒が落ちてきそうだった。水分を多分に含んだ雲の固まりが、身を縮める獣のようにその場に留まり続けている。風がないせいで、いつまで経っても雲が立ち去ってくれない。
そういえば、今朝母親に傘を持って行けと言われたんだった。
陸斗は今更ながらに思い出す。すなわち、傘は持ってきていない。何となく片手が塞がるのが煩わしくて、故意に置いてきたのだ。
これで雨が降り出したら、帰宅した後にこれ見よがしに得意げな顔をされるに決まっている。「ほら、だから言ったでしょ」と。
年齢を感じさせない母親の顔を思い出しながら、陸斗はまた溜め息を吐きたくなった。
ぎりぎりの、まさに一触即発といった気配を漂わせながらも、空は依然として曇天のままだった。寧ろ黒に近いような灰色の雲のどこかから、時折雷鳴らしき音が轟く。まるで機嫌の悪い獣の唸り声のように。
そんな空の元、陸兎と蓮は肩を並べて帰路についていた。
蓮はこんな空模様に相応しく、というべきなのか、両肩を落として地面を見つめながら歩いている。顔色もあまりよろしくない。彼の身長は陸斗よりやや高いくらいなのだが、背中を丸めているせいか現在はその背丈も同じくらいに見える。
「やっぱり、三十三点って赤点かなあ……」
重々しい溜め息と共に、吐き出す。どんよりと沈んだ表情の原因は、それだった。そもそも、わざわざ謀ったように休み中に行われる補習が好きな生徒など存在するはずがない。
しかし陸斗からすれば、点数が悪ければ長期休暇中に補習、というのは既にわかりきっていた事実なのである。わかっていながら、何故勉強を怠ったのか。テスト前に余分に勉強したくないなら、何故授業中を昼寝の時間にしてしまったのか。
聞きたいことは山ほどあったが、その質問が基本的に無駄なことを知っていた彼は特に何も口に出さなかった。
二人は高校に入学してから二年生も終わりに差し掛かる現在までクラスが一緒なのだ。無論その間にはそれなりに付き合いもあるので、互いの間に存在する暗黙の了解や触れてはならない話題などもある程度はわかっている。
あるいはその関係を、人は親友などと呼ぶのかもしれない。
「平均は六十点だから、ぎりぎりセーフじゃないか」
「そ、そうかな。セーフ、かな」
雲間から差し込む一筋の光明を見出したように、蓮の表情がぱっと明るくなる。
陸斗は当然のように補習とは無縁の成績を誇っているので、休み中に学校に向かうとしたら一人で行かなければならない。勿論、教室内でも一人。彼はどうやら、その状況が居たたまれないようなのだ。
理由は問い質したこともなければこの先聞き出す気もないので、陸斗にはよくわからないのだが。
「セーフ、だといいなあ。年末は大掃除もしなきゃならないし、あんまり時間ない、と思うし」
「……じゃあ、もっとちゃんと勉強すれば良かったのに」
「う、うん、それは、そうなんだけど、ね」
誤魔化すように引き攣った笑みを浮かべ、蓮は無理矢理歩調を早める。わかっていてもできないのが人間というものなのだ。
よく同じ学区内の高校では最も地味だと形容される紺のブレザーが、薄暗い景色の中でことさら濁って見えた。海の底付近の海水はこんな色をしているのかもしれない。
ふとそんなことを考えながら、陸斗も足を早めた。
蓮は気まずさで何とか友人を振り切ろうとしているようだが、二人の家は残念ながら公共団地のお隣同士なのだ。どれだけ回り道しても寄り道しても、結局行き着く先は変わらないのである。
陸斗は一瞬そのことを指摘しようかと口を開きかけたが、おもむろに空を見上げてから結局口を噤んだ。
雲の中に、稲光が見えたのだ。その閃光は遠方にいてもどこか危機感を催させる。先ほどから人の往来が全くないのも、こんな天気に外を好き好んで歩く者などいないからだ。
たっぷりと水気を含んだ雲は、今にもだらりと垂れ下がってきそうだった。雨が降ってくるのも時間の問題だろう。それならば、なるべく早く帰るに越したことはない。
時刻はまだ四時前のはずだが、辺りは既に夕刻に差し掛かったような薄暗さだった。
どこからか迫ってくる雨音に急き立てられるように、二人の少年は駆け抜けるような速度でコンクリート一色の道路を横切っていく。
その様子を、いつの間にか電線に止まっていた鴉だけがじっと見下ろしていた。