5
まだ朝日も昇り切らぬ早朝。
背の高い木々が群生する森の中には、清流の如く澄んだ空気が満ち満ちている。否応なしに漂う、静謐な気配。それは声を出すことすら憚られるような、一種の重圧にも似た気配だった。
例え町であっても、商売人でもない限り起床している人間はいないだろう。しかしそんな空気を掻き分けるように、無言の行軍を続ける二人がいた。
前を歩くのは、艶消しを施された金属鎧を身に纏った青年だ。
艶を消されてなお銀に煌めく鎧に、眩いばかりの金糸の頭髪は襟足の辺りまで伸びている。そして何より印象的なのが、人里離れた場所に湧き出る泉のように澄んだ青い瞳。
鎧の継ぎ目を鳴らしながら、彼は時折微かに振り返って背後を行く者の歩みを確認している。
後ろを歩くのは、林中の行軍には到底向かないであろう淡い水色の長衣を纏った少女だった。
肩口で切り揃えられた頭髪は淡い桃色で、目も同色。年の頃は、まだ十をようやく過ぎた辺りだろう。しかしそのあどけない顔面に年相応の無邪気さなど欠片もなく、凍り付いたような無表情である。
二人に共通しているのは、まるで作り出された彫像の如く容姿が整っているということだけだ。たったそれだけの共通点にも関わらず、彼らはどことなく兄妹のようにも見える。
「大丈夫か? 少し休む?」
滑らかに宙を震わせたその声に、少女は間髪入れずに首を横に振る。
「いえ。別に疲れてはいませんから」
「でも、もう城出てからだいぶ経っただろ?」
「森まではラウンに乗ってきたでしょう。この行程では、疲れろという方が無理があります」
にべもなく切り捨てられ、青年は苦笑する。面と同じく凍結したような調子の少女の声は、いつものことだ。
彼も出会った当初は、彼女が何か怒っているのかと不安になったこともある。が、この少女にとってはこれが普通なのだ。別に怒っているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。
湿り気を帯びた腐葉土に、靴底が沈み込む。滲み出た泥水が軽く音を立て、粘り気のある感触が伝わってきた。
いくら朝露がそこら中に蔓延っているとはいえ、水分が多すぎる。どうやら、昨晩雨でも降ったらしい。
鎧や具足などは普段から身に付けているわけではないので、こうしてたまにフル装備になると酷く体が重くなったような気がする。足下からやけに水が滲み出してくるのは、それも原因の一つなのかもしれない。
「……あなたこそ」
不意に、背後から囁くような声が聞こえた。立ち止まって振り返れば、少女の桜色の眼が見上げてくる。
「ミカエル。あなたの方こそ、疲れているのではありませんか」
「……そんなこと、ないと思うけど。昨日もちゃんと早く寝たし。確かに鎧は重いけど、俺だってこれくらいじゃ疲れないよ」
しかし、少女は無表情の中にも疑心を覗かせながら凝視してくる。
ミカエル、と呼ばれた青年は、微かに表情を強張らせた。
徐々に昇ってきたはずの朝日ですらほとんど遮断してしまう森の中で、遠くの方から鳥の声が聞こえる。
地面に届いている日光は僅かだった。僅かに散りばめられた木漏れ日が、木々が揺れるに合わせて明滅する。
「もしかしたら、あの人もいるのかもしれません。というより、情報によれば彼は今確実にあの場にいます。それでも、あなたは」
ぷっつりと途絶えた言葉。しかし少女の視線は彼の眼を捉えて離さない。
まるで、惑うことすら許されないとでもいうように。
ミカエルも、本当はわかっているのだ。迷うことで自分が傷つくだけではなく、彼も傷つくのだということ。一度自分から手を離してしまったのだから、いつまでも未練たらしくうじうじしているわけにはいかないということ。
それから、この後自分がやろうとしている行為は、さらに状況を悪くするものでしかないということも。
しかし、ミカエルはただ笑った。不思議と感情の伴わない笑みだったが、彼はそのことに気付いていなかった。
やはり、迷う権利など自分にはない。燃え盛る故郷を後にした時点で決意は固まったと思っていたのに、全くそんなことなどなかったようだ。我ながら、往生際が悪すぎる。
「大丈夫。わかってるから」
「だから不安なんですよ」
呆れたように息を吐き、少女はようやくミカエルから視線を外した。
一瞬眩しげに目を細めてから、彼を追い抜いていく。大股で地を踏み締める様は、彼女にしては珍しく年相応な仕草だった。
ミカエルは苦笑いしながら、反射のように腰に帯びた剣の柄に触れる。柄に優美な装飾を施され碧玉まではめ込まれたこの剣は、おそらく恐ろしく高価なものなのだろう。
ただそれを渡されただけの彼には、その正確な値段など知る由もないことだ。とりあえず、戦うだけならばこんな美術品のような武器を使う必要などない、とは思う。
「金持ちって、何考えてるかわからないな」
「何ですか、いきなり」
「いや、何となく」
その呟きを敏感に拾った少女が振り返り、訝しげに眉根を寄せる。が、すぐに前に向き直った。
ぐしゅぐしゅと湿った地面を踏む音と、時折聞こえてくる鳥のさえずり。任を言い遣ってさえいなければ、ここでのんきに森林浴でもできただろうか。
考えれば考えるほど憂鬱になりそうな気がして、ミカエルは軽く頭を振った。わざと体を大きく揺すり、鎧の継ぎ目から金属音を響かせる。
上空、遥か遠い梢の方で、慌ただしく鳥が飛び立つ音がした。これだけ遠く離れていても、生き物たちは人工的な物音に敏感だ。
「アリス」
ふと、ミカエルは前を歩く少女の名を口にした。桜色の頭髪が翻り、凍り付いたような瞳が彼の目をまっすぐに射抜く。
アリスと呼ばれた少女はその場で立ち止まった。必然的にミカエルも足を止めざるを得ない。鎧の奏でる硬質な音が止んだせいか、急に辺りに静寂が満ちる。
都合の悪いことに、鳥たちの声も聞こえてこない。
ミカエルは一瞬息を吐き出した。そしてすぐに湿り気を帯びた空気を吸い込み、また剣の柄に手をかける。
「俺に、もう迷う権利はない。わかってるから」
アリスは、その言葉に微かに目を見開いた。間髪入れずに、その薄桃色の眼に哀れみのような色が浮かぶ。
まるで、傷つき足を引き擦りながらも必死で付いてくる小動物を見つめるかのような。
「……そういうことは、自分の胸にだけ仕舞っておけばいいんですよ」
外見には到底似合わない一言を零し、アリスは踵を返した。その場に佇むミカエルを残し、ずんずん先へ進んでいく。
幼すぎる少女は、それから森を抜けるまで一度も振り向いてはくれなかった。
「う、わ……何、これ」
静寂の中、蓮の呆然とした声だけがやけに響いた。それが、陸斗のいる位置からするとやや前方から聞こえてくる。
しかし辺りは乳白色の霧で覆われていて、その姿は見えない。
「無駄口叩かないで」
「ご、ごめん」
鋭い声が、やはり前方から聞こえた。蓮が慌てて謝罪の言葉を口にし、明らかに落ち込んでいる気配が伝わってくる。
三人と一匹が歩んでいたのは、つい十分ほど前までは鬱蒼と茂る森の中だった。陸斗と蓮が降り立った町──シエルタという名前らしい──から、徒歩で二十分ほど行ったところにある。
森の中には、比較的背の低めの広葉樹が無数に存在していた。上空から見下ろせば、ちょうど大きなブロッコリーのようにこんもりと盛り上がって見えたかもしれない。
上空にはたまに思いついたように雲が流れてくる程度で、ちょうど過ごしやすい気温だった。
アウスに聞いたところ、やはり季節的には春なのだそうだ。しかしこの辺りは元々温暖な気候で、基本的にはこれが普通とのこと。
それが木立の中に入ると、不思議なほど空気が冷え込んでくる。そしていつの間にか、周囲は凄まじい濃霧で覆われていたのだ。
陸斗は思わず、視界が閉ざされていることを承知で周囲を見回す。分厚い雲の中に入り込んだかのように、視界が濃密な白で埋め尽くされている。
目の前に手をかざしてみると、自分の手は思いの外はっきりと視認できた。
それはちょうど、トゥルースと出会ったあの真っ暗な空間に似ていた。
『まっすぐ歩いてれば大丈夫だからね! 心配しなくてもはぐれたりしないから』
おそらくは常に遅れがちな蓮へ向けて、アウスの能天気な声が飛ぶ。森へ分け入った当初のままなら、隊列は縦一列で順番はリア、アウス、蓮、陸斗となっているはずだった。
目の前どころか一寸先も見えない状況で蓮が遅れているのがわかるのは、時折やや前方から軽い衝撃が走り、その度に蓮が謝るからだ。
しかし、その反応は至極真っ当なものといえる。寧ろすぐ目の前も見えないような空間を平気で歩いているその他二人と一匹の方がおかしいのだ。
それがわかっていても、陸斗は何故か凍り付いたように心中に動きがなかった。
出発前にアウスの前足が太股の辺りを強打した時も、一瞬疑問には思ったのだ。内心では痛いと思っているのに、それが少しも表情に出なかった。自覚があるくらいなのだから、実際表情に変化はなかったはずだ。
一体、何が起こっているのだろう。
ほんの束の間、陸斗は得体の知れない恐怖に駆られた。しかし、その感情も次の瞬間にはまるで新雪が日光に曝されたかのように溶け消えていく。何か、重要なものが消えてしまう、そんな感覚。
『レン、ちょっと曲がってるよ』
「あ、ごめん。ど、どっちに曲がってる?」
『僕から見て左』
左左、と小さな呟きが聞こえる。やはり蓮は、この状況に少なからず困惑しているのだ。それが普通で、それが当然。
前だけ見据えてひたすら機械的に足を動かしていた陸斗は、ふとすぐ前に蓮の背中の輪郭を見つけた。その背からは明らかに必死さが滲んでいて、とにかく全力で戸惑っている。
霧が、晴れてきている。
周囲を見回してみると、木々の姿も徐々に露わになっていた。地面も木の根やら大量の雑草やらでごつごつしている。先ほどまで、のっぺらぼうのようにまっさらだったというのに。
「……あ」
蓮もそのことに気付いたのか、小さな声が聞こえた。その背中で、一つに括られた髪の毛がぴょこぴょこと跳ねている。まるでアウスの尻尾のようだ、と陸斗はふと思った。
そして一度薄れ始めると、後は早かった。霧は足早に立ち去っていき、視界が明瞭になるのとほとんど同時に森も途切れる。
開けた視界に真っ先に飛び込んできたのは、古びて建物が傾きかけた木造の建物だった。中央付近が尖塔のように伸びていて、そのてっぺんに十字架が乗っていそうな見た目。すなわち、ぱっと見たところ教会のようだった。
だが、建物がとにかく古い。地面に近いところの壁面はどう見ても黒く腐りかけていて、そこ以外の壁には細長い蔦が絡みついている。屋根には、所々にくすんだ青色の塗料がこびりついている。
打ち捨てられた廃屋。そこは何か不可思議な雰囲気で包まれていて、どう頑張っても歩みが滞るのを抑えられない。
陸斗と蓮は思わず立ち止まって顔を見合わせた。しかし、リアとアウスは振り返ることもなく当然のようにその建物へ向かっていく。
もしかして、面倒だからもうここで始末する気なのだろうか。フリージアという人物の話は実はでたらめで、ここが本当に廃墟という可能性も十分にあり得る。
陸斗は一瞬森の方へ引き返した方がいいのではないかと思ったが、比較的すぐに諦めた。
向こうにはアウスがいる。下手に逃げてもすぐに追い付かれてしまうのは目に見えていた。
仕方なく、空いてしまった距離をある程度詰めるために足を踏み出す。不安げに様子を窺っていた蓮も、それに促されるように恐る恐る歩き始めた。
教会は、正面に据えられた観音開きの扉もしっかりと傾いていた。というか、右側の戸板が外れかかっている。半ば外れてしまった板が、上の蝶番に辛うじて引っかかっている状態なのだ。
こんな状態では、少なからず雨風が入り込んできてしまう。
「フリージア。ただいま」
その正面で立ち止まったリアが、扉に向かって声をかけた。と、身の竦むような軋みを上げて、外れていない方の扉が身動ぎする。
現れたのは、紺を基調としたいわゆるシスター服で身を包んだ女だった。ベールの下には、当然のように整った顔立ちがある。
しかしリアとは明らかにその性質が異なっていた。
彼女の場合はとにかく柔和な印象で、いかにも近付いただけで花の香りが漂いそうだった。まだ三十代前半辺りの年齢なのだろうが、どこか老成したような雰囲気を纏っている。
「おかえりなさい。後ろの子たちは?」
「……容疑者?」
くるりと振り返って、リアはわざとらしく首を傾げる。明らかに意地の悪そうな表情をしていて、蓮がぎくりと身を強張らせた。陸斗の方はわけがわからず、ただ黙って首を傾ける。
「悪いことはしてない」
「彼はああ言ってますけど」
ぼそりと呟いた陸斗を見つめ、女──おそらく、彼女がフリージアなのだろう──が悪戯っぽい笑みを浮かべた。少なくとも、彼女の前ではリアも自分たちを始末できないのではないか。そう確信させるような笑みだ。
一方で、リアはどことなく気まずげな顔になっている。いじめっこ然とした表情は形を潜め、親に叱られた子供のように口を尖らせる。
『容疑者じゃないよ、ちょっとだけ怪しい人たち!』
「そ、それはそれで酷い、と思うんだけど」
『だって、エイルから来たとか、トゥルースが言ってたとか言うから』
アウスの発したエイルという単語に、フリージアの笑みが微かに曇った。その変化を敏感に悟った蓮が、思わず顔を伏せる。他人に怪しまれるという状況は決して愉快なものではない。
しかしフリージアの表情の変化は一瞬だった。すぐさま元の笑顔に戻る。母性のようなものに溢れた、無意識のうちに安堵してしまうような笑み。
「まあ、とにかく入ってください。話は、中でゆっくり聞きましょう」
やけにうきうきした様子で傾いた扉を潜るリアを見た陸斗は、これは本当に始末されるかもしれない、とふと思った。




