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悲鳴と怒号と、獣じみた咆哮。剥き出しの地面を擦る様々な足音が木霊し、中空に飛散する。
そこは、のどかな村だった。近場に広がる森から切り出した木材で造られた家々が、身を寄せ合うように建ち並んでいる。その軒先では、村のほど近くに存在する畑から収穫された野菜が干されている。
それぞれの家屋の近くには、放置された農具や手桶。剥き出しの地面の上を、いつもならば子供たちが転げるように走り回っている、はずだった。
立ちこめる暗雲。その真下で、簡素な麻の服を纏った村人たちが逃げ惑う。
凄まじい咆哮と共に、明らかに異質な巨大な狼が駆け回っていた。狼の体高は成人男性の背丈を軽く超え、その口は人の体程度なら容易に真っ二つに噛み千切ってしまうだろう。
始めは、一体だけだった。のどかで停滞した雰囲気を突き破るように、巨大な怪物が踊り出たのだ。現実離れした光景に、屋外にいた人々は皆口を開け放って硬直していた。
そして次の瞬間、村人たちの眼底を焼き尽くす閃光が周囲に満ちた。
「きゃあああああっ!」
女の悲鳴と、手近にあった鍬を掴んだ男の野太い雄叫び。
さらに光に晒されて硬直していた村人の体が奇妙に強張り、びきびきという気味の悪い音と共に膨れ上がっていく。
親の異変を察し駆け寄った子供が、本来人間であったはずの怪物の手によって弾け飛ぶ。体はぱったりとその場に倒れ込み、実際飛んだのはその小さな頭部だった。
巨大すぎる腕を持つ猿のような生き物が、血塗れの巨腕を振りかざして吠える。
それからはまるでドミノ倒しでも見ているかのように、状況は悪化と混沌の一途を辿った。
光を目撃した人間が次々と異形へ変貌し、生き残っている者を食い破る。巨大かつ鋭利な爪牙で引き裂く。逃げる人間に食らいつくと、狼はすぐさまそれらをただの肉片へと変えた。方々で血飛沫が上がり、それがさらなる悲鳴と混乱を誘発する。
その地獄絵図を、上空から見下ろすものがいた。
赤い鉱石のような光沢を持つ体表に、青い光を宿す瞳。両の翼が、力強く宙を掻く。
それは、赤い竜だった。淡々と地上へ走らせる視線は、絶対零度の冷ややかさを内包している。
さすがに上空までは血の臭いも昇ってこない。血生臭い光景すら、どこか夢の中のように現実味がなかった。
それでも、これは紛れもない現実なのだ。
「……い、ない」
竜の口から、ふとそんな呟きが零れる。その声は汚れを知らない青年の声だった。目の前の誰かに目を閉じて聞かせれば、声の持ち主が竜だと思う者などいないだろう。
彼は、何かを探していた。その青い瞳に、必死さと焦燥感が滲む。
またか。また、駄目なのか。
血潮に煙る地上に、彼の目当てのものは見当たらない。いるのはただ、蹂躙する者とされる者だけ。異形のものたちにとっての、狂乱の宴が繰り広げられている。
竜はふと、鼻息を一つ吐き出した。
ここにも目的のものは見つからない。ならば、次へ行けばいい。
気を取り直したように視線を前方に向けると、彼は瞬く間に飛び去っていった。翼を広げ宙を滑るその姿が、あっと言う間に遠ざかる。
それに呼応するように、地上で響き渡る悲鳴も泣き声もいつの間にか下火になりつつあった。
全ての災厄が、元は村だった場所から去った頃。
その場所を訪れた者がいた。一人は女、一人は男。真っ赤に塗り潰された地面を、二人は所在なげに歩く。そこにはまるで食べ残しのように、人の残骸が残されていた。
怜悧な面差しの女が、蜂蜜色の頭髪を掻き上げる。その眉間には、微かに皺が寄っていた。
「相変わらず、酷いわね」
「まあ、文字通り食べ残しだからなあ」
隣をぶらぶらと歩く男は、青みがかった黒髪を揺らしながら地面に落ちている指先を一瞥した。猫背に痩身、そして全身黒一色の装束。どことなく猫のような雰囲気を纏っている。
明らかに興味なさげなその態度に、女が目を眇めた。若草色の吊り目が、どことなく物騒な色合いを帯びている。
動きやすい細身のパンツと丈の短いジャケット姿の彼女は、いかにも仕事を蔑ろにする者は許さないとでも言わんばかりの雰囲気を纏っていた。
「フェローじゃないな」
ふと、男が呟く。
「そうね。あの子たちは、人を食わない。仮にどんなに飢えていたとしても、こんな風に食い散らかしたりはしないわ」
「じゃー、さっさと帰りますか。ここにいたって、ろくなこともわかりそうにないし。もー臭い。鼻が潰れる」
実際鼻を押さえながら、男が顔をしかめる。女の方もこの臭気を感じていないわけではないのだろう。ただ、それが表情に出ないだけなのだ。
何かを思案するように足を止めてから、彼女は口を開く。
「そういえば、カルラがここから近いわ。警告しておいた方がいいかしら」
「無駄無駄。どうせ元お貴族様は信じないだろ」
ひらひらと手を振って男は既に帰路に付き始めている。その進行方向は、明らかにカルラではない。
女はのろのろと歩きつつ、微かに迷う素振りを見せる。ここの住人を食い散らかした犯人。これだけの食欲を持つならば、必ず次の獲物を探すはずだ。そしてこの近辺にある人里は、一カ所のみ。
しかし、男の言うことも的外れではない。寧ろ正論ですらあった。
カルラという町には、祖先がこの国の貴族であったと豪語する人々が暮らしている。無論それ以外の住人も生活しているのだが、貴族は無駄に金を持っている上、それで自分たちには発言する権利があると信じ込んでいる。例え警告したとしても、もみ消されるのが関の山だ。
女は溜め息を吐き出し、結局男の後に従った。
せめて何事も起こらねばいいと、祈りにも似た感情を抱きながら。