幸せ花火
七月二十八日。
夏休み三日目であり、夏真っ盛りの今日。
おじいちゃんの町で、毎年恒例の夏祭りが開催される。
小さなこの町に一つしかなく、森の奥深くにありいつもは人など滅多にこないこの神社は、今日は人通りが多い。色とりどりのTシャツやワンピースだったり、浴衣だったりと人々の姿はまちまちだが、行き交う人で道は埋め尽くされていた。境内へと繋がる大きく開いた道の両端には露店が建ち並んでいる。りんご飴やたこやき、焼きそばとどれもが目を引くものだらけだ。カップルで来ている人もあれば、家族ずれのところもある。道の下が見えないくらいに人がひしめき合っていた。それも町で年に一度の夏祭りなのだから当然だ。
でもわたしは、そんな夏祭りを独りでいる。
神社から境内まで伸び、ぼんやり提灯が光を灯す。道に溢れかえった人の波をかき分け、まるで自分の周りがぽっかり静寂で包まれているかのような感覚に飲み込まれそうになる。でもそれに負けじと足を動かす。
ゆらゆらと揺れる灯火を視界に入れながら、わたしはふとおじいちゃんのことを思い出していた。
わたしには、おじいちゃんがいた。
そう、いたのだ。過去形つまり今おじいちゃんはこの世にはいない。この夏祭りが始まる一ヶ月程前に病気で死んでしまった。わたしは小さい頃から、優しくしてくれるおじいちゃんが好きだった。ほんわかとした柔らかな笑顔を向けてくれるおじいちゃんが好きだった。そしてなにより、花火職人として真剣に花火を造るおじいちゃんの姿が好きだった。
おじいちゃんは八十歳後半まで生きた。今の世の中では、それは充分生きたのだと思う。普段は都心の方で生活しているわたしが、おじいちゃんやおばあちゃんが住んでいるこの町に戻ってくるときは滅多にない。帰るときといえばお正月やお盆の時くらいしかない。たまにしか会うことはなかった。でもそれでもおじいちゃんはいつもわたしを笑顔で迎えてくれるのだ。
こないだわたしが中学を迎えてから初めて会ったときなんて「おっきくなったなぁ……」と感慨深そうに目を細め、皺の濃くなった顔でわたしに微笑んでくれた。その時ちょっと恥ずかしくなってしまったわたしは、身じろぎ一つできずに顔を少し赤くしていたが今となればそれもいい思い出だ。
そんな中でわたしがおじいちゃんの事で一番思い出深いことはやはり、おじいちゃんが花火を造るその後ろ姿だろう。おじいちゃんは町で一番の花火職人である。それも技術的な面だけでなく、花火を見る人の心を温かくさせるような、そんな素敵な花火を造るという意味でも一番の職人だった。おじいちゃんの花火を見た人々はみな口々に綺麗だなぁ、と感嘆の声を上げる。わたしも同じように昔から綺麗だなぁと思っている。その気持ちは今でも変わらない。いつまで経ってもおじいちゃんの花火はすてきなのだ。おじいちゃんは毎年、一年に一度しかない町の夏祭りで打ち上げられる花火だけを精魂込めて造る。たった一日の、しかも数十分しかない花火の時間の為に、一瞬一瞬輝けるような花火を造るのだ。花火を造る作業は危険なので、わたしは見学するときは隅っこの方で隠れるようにして眺めていた。
おじいちゃんは幼かったわたしに向かって微笑みながら、いつも言っていた。
『これはただの花火じゃないんだよ。ただ綺麗なだけじゃあない。花火を見た人全員に幸せを届けるんだ。わしはこれを【幸せ花火】と呼んどるよ。みんなが幸せな気持ちになればいい。そうなって欲しい。そんな想いを込めて、わしは花火を造るんだ』
『幸せ花火……?』
『そう、幸せ花火だ。おまえにもいつか、届くといいなあ』
意味が分からず首を傾げるわたしに、おじいちゃんは目を細めて笑う。これが、花火についておじいちゃんと話したものの中で最も印象深い。あの頃はわたしが小さかったので意味が分からなかった。
でも、中学生になった今でもわたしはその意味を掴めずにいた。それは、おじいちゃんが今年打ち上げるための花火を造るために熱中しすぎてしまい、あまりの過労で倒れ、そのまま病気にかかり帰らぬ人となってしまったからである。
おじいちゃんの葬式で、わたしは泣かなかった。否、泣けなかった。母はわたしにおじいちゃんが死んだことが悲しくないのかと、嗚咽を洩らしながら半ば非難の声を浴びせた。おじいちゃんはみんなから好かれていて、葬式で親族全員が泣いていた。
それにも関わらずわたしは涙を流すことはなかった。だがこれには理由があったのだ。わたしが涙を流さない理由、それはまだおじいちゃんは生きていたからである。わたしは葬式が執り行われる前、おじいちゃんの意識が薄らいできた頃病院に来ていたおじいちゃんの花火職人の同僚の人から話を聞いていた。
『君のおじいさん、倒れる寸前まで花火を造っていたよ。おじいさんはね、今年の分の花火は造り終えたんだ。だから今年の夏祭りはそれを使うよ』
おじいちゃんは生きていたのだ。姿を花火にして、存在しているのだ。だから悲しくなるはずなどなかった。だって夏祭りまでは、生きてるのだから。今度の夏祭りでまた、会えるのだから。
しかしわたしは意図を図りかねていることがあった。それは、何故おじいちゃんが自分の命を削るような真似をしてまで、花火を造っていたのかということであった。
そして今日、おじいちゃんの最後の花火が上がる夏祭りの日がやってきたのである。
わたしは家族とも友だちとも一緒ではなく、たった一人でやってきた。毎年夏祭りで着る淡いピンク色で金魚の模様が入った浴衣を着て、昔おじいちゃんがわたしにプレゼントしてくれた白い花の髪飾りをつけ、何も持たずただ花火だけを見るために、やってきた。おじいちゃんの花火は一人で見たかった。どうしても、この目で確かめたかった。
「もうじき、かな……」
小さく呟き、わたしは自分の歩を進める。目指す先はただ一つ。おじいちゃんがここは花火を見るとき人も少ないしよく花火も見える穴場だよ、って教えてくれた神社の境内を抜けた誰にも知られていないわたしとおじいちゃんだけの秘密の、あの場所。
もうじき始まるんだ。
おじいちゃんの、最後の花火が。
透明感のあって艶があるりんごが大小大きさを変えて並ぶりんご飴の屋台を抜け、さまざまな模様の入った風船に水が入った水風船の屋台の横を通り、鮮やかな赤色をした金魚たちが小さな水槽を自由に泳ぎ回る金魚すくいの屋台もすり抜けて、わたしは目的の場所にたどり着いた。大きな丸い石が二つ小さく置いてあり、周囲は深緑の木々に囲まれているのにも関わらず、夜空はまるでスクリーンのように広くそびえているこの場所。
やっぱり、昔と何も変わってなどいなかった。
わたしは浴衣が木の枝に引っかからないようにそろりそろりと進み、いつもの定位置である石の上に腰掛ける。冷え冷えとした夜の風が頬を撫でる。ぼんやりと空を見上げた。夜空は雲は一つもなく、数多くの星が一斉に瞬いていた。形はさまざまであったが、小さな星は大きな星に負けないくらいに輝き、自己主張をしているようにも見えた。そして今わたしが見ている星の光は何万光年前のものであると思うと、すごく不思議な気持ちになった。こんなに綺麗で、わたしの心にも届いている光とどうしようもないくらいの時差がある。それでも人々に共感を呼ぶ星はすごいのだなとそう感じた。そして同時に、それはおじいちゃんみたいだなと、おじいちゃんの優しくて心温まる笑顔を思い出して、頬を緩めた。
しばらくわたしが夜空の光景に見惚れていると、突如ドンドンドンと太鼓の音が町に響いた。この音は、夏祭りに来た全員に知らせる。もうじき花火が始まります、と。これはその合図であった。もうじき始まるんだ……。わたしの胸は嬉しさや不安や緊張といういろんな感情で渦巻き、心拍数が上がっていた。視線を夜空に固定し、瞬きをも忘れて見つめる。
ド――――――ンッ
夜空に今夜一発目の、真っ赤な光が花咲く。
そして、今年の花火演目は幕を開けた。
赤、黄、青、緑と色を変幻自在に変化させ、花火が夜空に絵を描く。子どものような小さな花火もあれば、あっと驚くような大きさの花火が連続で上がることもあった。幻想的な光を帯びたかと思うと儚く散ってしまう花火は人々を魅了する。まるで生き物のように動く花火は見るものすべてを圧倒する。
「…………。」
わたしは自分の頬に涙が伝っているのも気づかないで、ただただ花火から目が離せないでいた。まるで一瞬の命のように盛大に花開いたかと思うとすぐに消えてしまう花火から、目を離すことなどできるはずもなかった。自然とわたしは自分の手を胸へと持っていく。 不思議だった。心が温かさで満たされるようだった。実体があるわけでもないふわふわとした幸せを今、感じているみたいだった。そして実感する。
あぁ、おじいちゃんが作っていたのはこれだったんだ。
これがおじいちゃんが命を懸けてまで作っていた【幸せ花火】だったんだ。
花火は夜空に舞う。人々に幸せを与えるために花開く。おじいちゃんが最後に、生きる力を振り絞って花火を見ているみんなに想いを届ける。その光景をしばらく見ていたわたしはしずかに瞼を閉じ、最愛のおじいちゃんへと想いを馳せた。
おじいちゃん、届いたよ。
わたしにも幸せ、届いたんだよ。
空には花火が幾多も弧を描き、光を放出する。
今夜の夏祭りの花火は、まだ始まったばかりなんだ。