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明日があるさ  作者: いぬまた
第五章
49/68

明日があるさ5【第十話】






 時刻は18時半。思っていたよりもずっとスムーズに作業は終わった。

 明日葉は亜笠と駅で別れた後、一旦自宅方面に歩いていき――――亜笠が電車に乗った頃を見計らって、駅に戻ってきた。

 別に亜笠に隠すようなことではない。足立と少し話をするだけだ。

 ただ、雨宮の名前を出せば、あの男のことだ。「僕も行きます」と言い出すに決まっている。足立は自分に相談があると言っていたし、明日葉としても、できれば二人で話をしたかった。

(別に悪いことするわけじゃないし……)

 誰に言い訳するでもなく心の中で呟いて、明日葉は改札を通った。

 指定された場所に着いたのは、約束の時間を5分ほど過ぎた頃だった。

 駅からほど近いビルの一角にあるレンタルオフィス。受付を済ませ、足立から送られてきた番号の部屋の前に立った。

 明日葉は自分の携帯を取り出した。

(一応、一応ね……)

 自分に言い訳するかのように、ポチポチとショートメールを打つ。

『立川駅前の立川リンクオフィス、305号室で足立さんと話してきます。すぐに帰ります。心配しないで』

 亜笠に向けて、送信した。

 改めて扉に向き直る。すりガラス越しに人が動くのが見えた。

「足立さん、遅れてすみませんでした!」

 言いながら、明日葉は扉を開けた。

「…………」

 中にいた人物と目が合って、明日葉はそのまま扉を閉めた。

「おい、閉めるな」

 中から声が聞こえて、明日葉は渋々、もう一度扉を開いた。

 そこは10畳程度の広さの個室だった。中央にテーブルがひとつと、向かい合わせに置かれた椅子が4つ。

 その椅子のひとつに――――雨宮が座っていた。

 彼は頬杖をついて、憮然としてこちらを見ていた。

「雨宮……なんで、ここに」

「足立に、お前と話して来いって無理矢理放り込まれた」

「……お前の部下、意外に度胸あるな」

「あれでいて実は営業向きなんだよ、あいつ」

 雨宮はため息をつきながら席を立った。明日葉が開いた扉の傍まで来る。

「中に入れ」

 明日葉の身体が揺れた。

「――――話があるんだろ」

 明日葉は少しだけ考えた後に、部屋の中に一歩踏み出した。

 明日葉が中に入るのを確認して、雨宮が扉を閉めた。

 と、同時に、施錠される音が室内に響いた。

「え――――」

 何で、と思う間もなく明日葉は突き飛ばされて床に転がった。

 起き上がろうと手を付いたが、遅かった。雨宮の身体が上にのしかかってきた。

「おい、何すんだよ!」

「何って、やることはひとつだろ」

 雨宮が自分のネクタイを緩めた。明日葉はその声の冷たさにゾッとした。

「待てよ、おれ、お前と話がしたくて……!」

「今更何を話せって?」

 話しながら雨宮は手を動かした。明日葉の背負っていたバックパックを引き剥がし、組み敷いた明日葉のネクタイを解いていく。明日葉は呆然と雨宮を見上げた。

「何って……」

「結局」

 雨宮の冷えた目が、くしゃっと歪んだ。

「お前も俺のこと捨てるんだろ」

「雨宮……」

 明日葉はその瞳を見た途端、自分でも不思議なくらい心の中が穏やかになっていった。身体は震えている。怖くないわけではない。

 だが、流されるつもりは微塵もなかった。

 自分には、亜笠がいる。あの男を悲しませるようなことは、もう、したくなかった。

 明日葉は組み敷かれながらも、はっきりとした声で言った。

「雨宮」

「何だよ」

「お前はセックスすれば何とかなるって思ってるのかもしれないけど、何ともならないよ」

 目を逸らさずに、口にした。

「おれはもう元には戻らない」

「…………やってみなきゃ、わかんないだろ」

 自分に言い聞かせるような声で、雨宮が言った。明日葉ではなく、自分自身に。

 まだ大丈夫、取り戻せると、必死に言い聞かせているように聞こえた。

「わかるよ」

 明日葉は少しだけ目を伏せた。

「昔のおれなら、お前の望むこと全部受け止められたけど……もう、できない」

「護……」

「ごめん」

 謝りたいことはたくさんあった。

 黙っていなくなったことも。何も言わなかったことも。5年間一度も連絡をしなかったことも。

 そして――――もう、雨宮の望む自分に戻れないことも。

 雨宮が明日葉を見下ろしながら、口を開いた。

「――――あいつのこと、好きなのか」

 明日葉もその瞳をじっと見返した。何も答えなかった。

 けれど、雨宮には伝わった。

 雨宮は明日葉から目を反らし、首筋に顔を埋めた。

 雨宮の手がネクタイを引き抜き、シャツのボタンを外していく。大きな手のひらが中に潜り込んでくる。ベルトの金具が音を立て、スラックスが引き抜かれた。

 雨宮を止めたかった。

 このままなし崩しにセックスをしたら、きっとお互いにとって良くない。それはわかっている。ここで身体を許したところで5年前には戻れない。雨宮の欲しい答えを与えることもできない。今以上に傷つけるだけだ。

 それでも、この状態の雨宮をどう止めればいいのか明日葉にはわからなかった。

 その身体を突き飛ばすことが、嫌だと叫ぶことが、そんな簡単なことがどうしてかできなかった。

 雨宮がふと顔を上げた。じっと見つめられ、そのまま近付いてくる。

 キスされる――――そう思って咄嗟に目を閉じた。

 その時だった。

 不意に、まったく関係のない光景が頭に浮かんだ。

 古くなった自宅の冷蔵庫。

 扉の閉まりが少し悪くて、製氷機も付いていない。冷凍庫も狭く、二人分の食材を入れればすぐいっぱいになる、小さな冷蔵庫。

『全部終わったら、一緒に冷蔵庫買いに行きましょう』

 亜笠の笑顔が蘇った。

 二人で家電量販店に行って、冷蔵庫を選ぶ。

 たったそれだけの約束。

 なのに今、その何でもない約束が、妙に鮮明に思い出された。

 亜笠は待っている。

 自分と一緒に冷蔵庫を選ぶ未来を、当然のように信じて。

「…………冷蔵庫」

「は?」

 唇が触れ合う直前、雨宮の動きが止まった。

「買いに行くって、亜笠と約束したんだった……」

 明日葉はゆっくりと目を開いた。

 目の前には雨宮がいた。

 生まれて初めて、愛した人だった。何よりも好きで、どれだけ傷ついても離れたくなくて、いつかこの人の隣にいることが当たり前になればいいと思っていた。

「おれ……本当は大阪に、一緒に行きたかった」

 その言葉は、自分でも驚くほど自然に口から零れた。

 雨宮の瞳が、わずかに揺れた。

「ずっと思ってた。お前について行きたかった。大阪で一緒に暮らしたかった」

 朝起きた時に隣にいて、仕事が終われば同じ家に帰って、何でもないことで喧嘩をして、また仲直りして。

 特別なことなんて何もなくていい。ただ、雨宮の隣で生活してみたかった。

 雨宮の隣にいたかった。

 あの頃の自分が欲しかったのは、たったそれだけだった。

 雨宮が息を呑んだのがわかった。

 明日葉は、雨宮を静かに見つめて微笑んだ。

「あの時、言えてたらなぁ……」

 5年前は言えなかった言葉だった。

 本当は、行きたかった――――お前と一緒に、生きたかった。

 たったそれだけのことを言うのに、5年もかかってしまった。

 明日葉はふっと笑った。言った瞬間、自分でも意外なほどすっきりとした気持ちになった。強張っていた身体から、スッと力が抜けた。

 もし、あの時言えていたら。

 未来は変わっていただろうか。もっと素直になっていたら。

 雨宮を、こんなにも苦しめずに済んだだろうか。自分も逃げ出さずに済んだのだろうか。別の未来があったのだろうか。

 大阪のどこかに小さな部屋を借りて、雨宮が仕事から帰るのを待って、一緒にご飯を食べて、休みの日にはどこかへ出掛けて。

 そんな生活をしている自分たちが、どこかにいたのだろうか。

 そう思うと胸がぎゅっと痛んだ。

(まあ、でも……今更か)

 もう、5年前には戻れない。

 何より、自分はもう、あの頃の自分ではなかった。

 明日葉にも、雨宮が知らない5年間があった。

 そして何より――――亜笠に出会ってしまった。

 あの、とびっきり変で、優しくて、お節介な男に。

 自分はあの男と、これから、冷蔵庫を買いに行かなくてはいけないのだ。

 頭上にある雨宮の唇が、かすかに動いた。

「お前……」

 明日葉はその顔を見上げて、瞳を見開いた。

 雨宮の瞳が揺らいだ。

 上から落ちてきた雫が、明日葉の頬をパタ、パタと静かに打った。

 彼が泣く姿を、明日葉はその時初めて見た。

 明日葉は手を上げて、そっとその涙を拭った。

「まゆみさん……」

 明日葉が名前を呼んだ、その時だった。

 ドォンッ!

 爆発音のような轟音が部屋に響いた。

 ドアが内側へ大きく跳ね上がる。明日葉と雨宮が同時に入口を振り返った。

 そこには――――足を振り抜いたままの亜笠が、立っていた。

 蹴り飛ばされたドアが、ギィと軋んで揺れている。

 いつもの冷静な無表情はどこにもなかった。

 怒りに歪んだ顔で、亜笠は二人を見据えていた。

「あーなーたーはー…………」

 地の底から這い上がってくるような声だった。

 黒いオーラを背負った亜笠に、明日葉は顔を青くした。

「どうして大人しくされるがままになってんだ!? まさかまた自分を犠牲にすればいいとか思ってるんじゃないだろうな!?」

「思ってない思ってない! それに、最後まではしてない!」

「そういう問題じゃない! 服を脱がされた時点で立派に犯罪だ! 雨宮さん!」

「はい」

 亜笠の鬼のような剣幕に、雨宮も思わず返事をした。

「そこどいて! 護さんも早く離れて!」

「はい」

 明日葉も反射的に返事をした。ずこずこと雨宮の下から這い出る。雨宮も立ち上がって、自分の襟元を整えていた。

 ほんの一瞬前まで泣いていた雨宮の瞳はまだ赤かったが、二人ともそれについて何か言える雰囲気ではなかった。

 亜笠の怒りは治まっていなかった。

「だから! 何でそうあんたは一人でホイホイ出かけるんだ! 今回は僕に連絡くれてたから良かったものを! 何なんだ、王家の紋章のキャロルかあんたは!?」

「待って、キャロルって誰!?」

「よく攫われるヒロインの代表」

 雨宮がまだ少し鼻にかかった声で、妙に冷静に答えた。

「お前若いのに何でそんな古い漫画知ってるんだ?」

「母が読んでたんで!」

 こいつらよく普通に会話できるなぁ、と明日葉は他人事のように思った。そんな呑気な考えを見透かされたのか、亜笠は明日葉をギッと睨んだ。明日葉の肩がビクッと上がった。

「帰宅中にメールもらって、慌てて引き返してみたらこれですよ! 何が『心配しないで』ですか! 心配しますよそりゃあ!」

「うっ……す、すみません……」

「謝って済むならこの世に警察は必要ないんです!」

「で、でも結果的には無事だったわけだし……」

「結果論で話すな!」

「はい……」

「僕が来なかったらどうなってたと思ってんだ!?」

「いや、たぶん、こう、自分でなんとか……」

「なんとかできなかったから僕がドア蹴破ったんだろうが!!!」

 ぐうの音も出なかった。

 怒髪天を衝いた亜笠の怒り、どう鎮めたらいいのだろうか……。

 雨宮を見たら彼は身なりを完璧に整えて、腕を組んで黙って聞いていた。いや、っていうかこいつちょっと頷いてないか? 明日葉は自分が説教されているのも忘れてイラッとした。すべての原因はお前だろうが。

 そんなことを考えていると、唐突に亜笠に肩を掴まれた。

「護さん!」

「はい!」

 やばい、聞いてなかったのがバレたか!? そう思って身を竦ませたが、違った。亜笠はそのまま明日葉をきつく抱き締めた。

「――――よかった、本当に、無事で……!」

 その身体は小さく震えていた。明日葉は眉を八の字にした。

「……ごめん、本当に」

「まったくです」

 亜笠の背中越しに雨宮を見る。彼は冷めた瞳でこちらを見ていた。

 明日葉は今度こそきちんと話そうと、亜笠から身体を離した。

「雨宮、あの」

 明日葉が言葉を紡ぐより先に、雨宮の口が開いた。

「――――お前」

 雨宮の瞳は、真っ直ぐに亜笠を見ていた。亜笠が雨宮に向き直る。

「護と俺のこと、どこまで知ってる?」

 明日葉は開きかけた口を閉ざした。

 いつもの雨宮だった。口元には薄い笑みが浮かんでいた。

 けれど明日葉には、その笑顔がなぜかひどく歪んで見えた。

「どこまで、とは?」

 亜笠が静かに問い返した。

「護が俺と付き合ってたことだけか?」

 明日葉の肩がビクリと揺れた。

「こいつから聞いたか? 俺とどんなことしてたか」

 亜笠は黙っていた。

「お前が大事にしてるこいつが、俺の前じゃどんなだったか。何をさせられてたか……動画、見せてやろうか」

 雨宮は笑った。自嘲するような笑いだった。

「見たら――――幻滅するかもしれないぞ」

 明日葉は口を噤んだ。

 雨宮の、最後の足掻きがわかってしまって、何も言えなかった。

 隣の亜笠は、はっきりと躊躇いなく口を開いた。

「知ってますよ」

 その静かな声に、雨宮の笑みがスッと消えた。

「…………」

「全部かどうかは知りません。でも、護さんから聞いています」

 亜笠はいつもの無表情に戻っていた。ただ静かに、真っ直ぐ雨宮を見ていた。

「なら、わかるだろ。こいつはお前が思ってるほど綺麗な人間じゃない」

 雨宮の冷えた声が部屋に響いた。

「俺が汚した」

 雨宮の言葉に、明日葉は息を呑んだ。

 沈黙が部屋を包んだ。

 破ったのは、亜笠だった。

「動画は見ません」

 雨宮の眉が上がった。

「必要ないので」

 きっぱりと、亜笠が言い切った。亜笠は腕を組んで眉を顰めた。

「それに護さんには許可は取ったんですか? 本人の許可を得ずに第三者に公開した場合、リベンジポルノ防止法に抵触しますよ」

 あまりにも現実的な言葉に、明日葉は思わずポカンとした。

「護さんは許可したんですか」

 いきなり振られて明日葉はハッとした。

「いや、おれは、してない……」

「じゃあダメでしょう」

 淡々と言い切る亜笠に、雨宮が顔を顰めた。

「気にならないのか」

「何がですか」

「何が映ってるのか」

「気にならない」

 亜笠は即答した。そして、言葉を続けた。

「――――って言ったら、嘘になります」

 亜笠は微笑んだ。

「でも、それを見たから何だっていうんですか。過去に何があったとしても、僕が護さんを好きだって気持ちは変わりません」

 隣に立つ明日葉の目を見て、亜笠が言った。

「雨宮さんを愛したことも、傷つけられたことも、全部ひっくるめて今のあなたなんじゃないですか」

 その言葉は、一滴の雫になって、明日葉の心の底に落ちてきた。

 静かな水面に波紋を描くように、ゆっくりと明日葉の中に広がっていった。

 雨宮を好きだった。

 好きだったからこそ嫌だと言えなかった。何もかも耐えようとして、結局耐え切れずに逃げた。全部――――ずっと、捨てなければいけないものだと思っていた。

 亜笠と一緒にいるのなら、雨宮への気持ちは全部なくさなければいけない。忘れなければいけない。あの3年間を綺麗に過去にして、何もなかった顔で亜笠の隣へ行かなければならない。

 そうでなければ、亜笠に悪いと思っていた。

 けれど――――そうじゃなくても、いいのだろうか。

 雨宮を愛した自分を連れていってもいいのだろうか。

 楽しかったことも。苦しかったことも。そばにいたかった気持ちも。逃げ出した日のことも。

 何ひとつ捨てずに、この先へ進んでもいいのだろうか。

 明日葉は亜笠を見つめた。亜笠は悪戯っぽく笑った。

「性病検査の結果も見せてもらいましたからね」

「亜笠……」

 明日葉は呆然と亜笠の名を呼んだ。

 明日葉は胸の前でぎゅっと手を握って、雨宮を見た。

 雨宮は表情をなくして、目を伏せて、ただそこに佇んでいた。

 これ以上、雨宮が亜笠に何をぶつけても、もう何も変わらない。

 雨宮もきっと、それがわかってしまったのだろう。

「雨宮……あの、おれ――――」

 明日葉が口を開いた、その時だった。

 場違いな笑点のテーマが、部屋いっぱいに鳴り響いた。

「…………」

「…………」

 半眼になった亜笠と雨宮の視線が、明日葉に集中した。

 明日葉はポケットから当然のように携帯電話を取り出した。

「はい、明日葉です」

 二人の視線を無視しで電話に出る。相手は大柴だった。

『明日葉く~ん、大変ですぅ』

 少しも大変なことを感じさせない声で、大柴が言った。明日葉は額に汗を浮かべた。あの大柴が業務時間外に連絡してくる時点で、とんでもなく嫌な予感がしていた。

 もちろん、予感は的中した。

『冷蔵室の調子が悪くて、会社に呼び戻されちゃいましたぁ。ファンの異常で今の温度が10.8度ですっ☆』

「ああああああ! エンタイビオがぁああああ!」

 明日葉の叫び声に、亜笠と雨宮の肩がビクッと上がった。

 明日葉はまだ何事か話している大柴の電話をすぐさま切り、亜笠に言った。

「亜笠! 今すぐ会社戻るぞ! 10.8度の大柴さんが調子悪くてエンタイビオが!」

「護さん落ち着いて説明してください。さすがの僕にも何が起きてるかさっぱりわかりません」

「冷所逸脱じゃないか? 冷蔵室が10.8度なんだろ」

 それまで黙っていた雨宮が口を挟んだ。明日葉は雨宮を指差した。

「そうそれ! おれ今すぐ会社戻らなきゃ!」

「待ってください」

「落ち着け」

 個室を出て行こうとする明日葉を、亜笠と雨宮が両脇から引き留めた。

「まず、服着ましょう」

 明日葉は改めて自分の格好を確認した。シャツは全開、下はトランクス一枚だった。亜笠に落ちていたスラックスを渡されて、明日葉は転びそうになりながらそれを履いた。亜笠はベルトとネクタイも拾って手渡してくれた。

 明日葉がシャツのボタンをちまちまと嵌めていると、今度は雨宮のスマートフォンが鳴った。

「はい、雨宮」

 電話に出て話し始めた雨宮を尻目に、明日葉は急ぎネクタイを締めてバックパックを背負った。雨宮と目を合わせる。

 明日葉は扉を指差して、先に行くぞ、とジェスチャーした。

 が、雨宮が一瞬スマートフォンから耳を外した。

「ちょっと待て、まずいことになった」

 雨宮の言葉に、亜笠と顔を見合わせて二人で首を傾げた。雨宮は電話の相手と二、三言交わすと電話を切った。明日葉と亜笠に向き直る。

「――――タクザイロが配送トラブルで明日の朝の便に間に合わなくなった」

 雨宮の言葉に、明日葉がその場で膝をついて崩れ落ちた。

「今ある薬が死んだかもしれない……明日出す薬が届かない……そして明日は棚卸……もうダメだおれは終わった……おれに明日は来ない……」

 明日葉が床に転がって顔を覆って泣き始めた。

 再び笑点のテーマが鳴った。

「だから何で笑点なんですか……」

 亜笠のツッコミを無視して、メソメソ泣きながらも電話に出る。

 相手は江南だった。

「はい、明日葉」

『江南だ。明日葉、聞いたか』

「はい……どっちも聞いてます……」

 明日葉は弱弱しい声で応じた。江南の声にも疲労が滲んでいた。

『まずいな……タクザイロは明日使うって安斎先生が言ってたのに……』

「エンタイビオも明日納品予定ですよね……」

『ひとまず冷所逸脱の方は俺と大柴さんで対応してる。でも、タクザイロが――――』

 明日葉はふとこっちを見つめる雨宮と目が合った。

 数秒、無言で視線を交わす。

「――――江南さん、なんとかなるかも。あとで電話します!」

 明日葉はそう言って電話を切った。

 こちらを見ていた雨宮に駆け寄って、その胸に縋り付く。

「雨宮!」

「何」

「タクザイロ!」

 ずいっと雨宮に顔を近付けた。

「今すぐ物流センターに直接問い合わせして! 配送会社じゃ埒が明かない! センターに現物が残ってるなら直接引き取りできるか聞いて! 保冷状態が維持できれば何とかなるかも!」

 雨宮は目を見開いて、しばらく明日葉を見つめた。亜笠もそんな明日葉の背中を見ていた。

 つい数十分前まで雨宮に組み敷かれていたことも、自分の動画を暴露すると言われていたことも、亜笠の愛の告白も、すべてが明日葉の頭の中から吹き飛んでいた。

 雨宮が口を開いた。

「お前――――変わったな」

 仕事になった瞬間目の色が変わった明日葉に、雨宮はふっと笑った。

 明日葉はそんなことはお構いなしに雨宮の胸倉を掴んで揺さぶった。

「いいから早くしてぇ!」

「わかった、わかったから手ぇ放せ」

 雨宮は大きくため息をつくと、持っていたスマートフォンで電話をかけ始めた。

「今聞いてやるからちょっと待ってろ」

「キャ――――ッ! 雨宮部長――――ッ!」

 明日葉はアイドルに手を振るファンのような黄色い声を上げた。

「うるさい黙れ」

 雨宮が呆れ声で言った。亜笠も後ろで呆れた目をして明日葉を見ていた。

 電話がつながると、雨宮の表情が一瞬で仕事の顔に戻った。

「――――お世話になっております。富士見製薬の雨宮です。河和青梅営業所に納品予定だったタクザイロの件で確認したいことがあり、お電話致しました」

 物流との交渉を着々と進めて行く雨宮に、明日葉も亜笠も思わず黙り込んだ。

 さすが齢38にして部長としてヘッドハンティングされた男。

 恋愛については言いたいことが山ほどあるが、仕事は超一流だった。

 雨宮が電話対応している間に、明日葉は扉に駆け寄った。壊れた鍵を見て亜笠と目を合わせる。

「これ……どうする?」

「弁償でしょうね」

「誰が?」

 明日葉と亜笠は、二人で雨宮のことを見つめた。






 雨宮が電話を切って顔を上げた。明日葉の顔も瞬時に雨宮に向く。

「うちが委託してる横浜の物流センターにあった。出荷判定も済んでるし、卸担当者が来るなら直接引き取り可能だそうだ」

 明日葉はその場で膝をついて両手を組んだ。

「雨宮様!!!」

「拝むな」

 雨宮は呆れた瞳で明日葉を一瞥した後、亜笠に向き直った。

「今すぐ江南さんに電話しろ。そっち側の承認も必要だ」

「わかりました」

 亜笠がすかさずスマートフォンを取り出す。つい先ほどまで一触即発だった二人とは思えない連携だった。

 亜笠が江南へ電話をかけている横で、雨宮も再びスマートフォンを操作していた。

「護」

「何」

「俺が一緒に横浜に行ってやる。お前はそいつと電車で先に青梅に戻れ。俺は営業車乗ってそっちに行くから、タクザイロ運べるように準備しろ。保冷容器とロガー、必要書類も確認しとけ。向こうで受け取る時に手間取るなよ」

「雨宮部長……」

 テキパキと指示を出す雨宮に、明日葉は感動で潤んだ瞳を向けた。明日葉の呼び方に雨宮が嫌そうに顔を顰めた。

 明日葉の横で江南と話していた亜笠が、スマートフォンから少し耳を離した。

「江南さんに確認取れました。すぐ引き取りの準備をするそうです」

「よし、じゃあひとまず青梅営業所行くぞ」

 雨宮の言葉に明日葉と亜笠は頷いた。

「――――で、この鍵はどうするつもりだ」

 部屋を出る瞬間、雨宮が低い声で言った。明日葉と亜笠は瞬時に雨宮を指差した。雨宮の視線が明後日の方を向いた。

「…………足立名義で借りてるから、あとはあいつに任せよう」

 明日葉と亜笠は、こいつ最低だな、と目を見合わせた。思ったが、自分に火の粉が降りかかるのも嫌だったので、黙ってその場を後にした。

 この後、雨宮の元に鍵修理代の請求書と足立の抗議文が届くことになるのは、また別の話だ。






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