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明日があるさ  作者: いぬまた
第五章
45/67

明日があるさ5【第六話】

※一部性被害の表現が含まれています。ご注意ください。






 棚卸を翌週に控えた倉庫は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。返品棚の整理を終え、明日葉は在庫一覧と睨めっこをしながら伝票をめくっていた。

「護さん、そろそろ帰りましょう」

 亜笠の言葉に顔を上げる。気が付けば時計の針は18時をとっくに過ぎていた。

 亜笠は作業着を脱いでスーツに着替えていた。バックパックを背負い、明日葉に顔を向ける。

「終業時間です」

「お前はね」

 明日葉は伝票から顔を上げずに答えた。

「おれはもうちょっと残る。棚卸の準備」

「僕も残ります」

 明日葉は顔を上げて、亜笠を見た。

 昨日までは素直に「わかりました」と言っていたのに。どういう心境の変化だろうか。明日葉は困惑した。

「残らなくていいよ」

「残ります」

「帰れ」

「帰りません」

 頑なだった。明日葉はため息をつくと、椅子から立ち上がって亜笠の背中をぐいぐいと押した。

「ほら、帰った帰った!」

 亜笠は無言で全体重をかけてきた。お姫様抱っこで抱き上げて放り出したろか、と明日葉は歯ぎしりをした。

「おれひとりでやるから!」

「じゃあ僕もひとりでやりますから」

「いや意味わかんないし!」

 お互い残ったらひとりじゃないだろ、と明日葉はツッコんだ。

 結局、最後は明日葉が半ば強引に亜笠を事務所の外まで押し出した。

「じゃあな」

「護さん」

「お疲れ」

 ピシャリと扉を閉めて、内鍵をかける。

 亜笠は窓の向こうでしばらく無言で明日葉を見つめていたが、そのうち諦めたのか姿が見えなくなった。

「……ごめんな」

 誰ともなく、ぽつりと呟く。明日葉は再び伝票を眺め始めた。

 しばらくすると、デスクの上に置いた携帯が短く震えた。画面が光って通知が来る。表示された名前に、明日葉の眉が寄った。

 雨宮からのショートメールだった。

『明日会いたい』

 たった一行。

 明日葉はしばらく見つめた後、静かに画面を消した。

 返信はしなかった。話さなければいけないことはわかってる。だが何を書けばいいのかわからなかった。

 深く息を吐き、再び仕事に意識を戻した。

 時計が二十時を回る頃、予定していた作業がすべて終わった。

 伸びをして立ち上がる。詰所の照明を落として倉庫を見回った。異常なし。冷蔵室の温度も良し。施錠を確認し、事務所へと上がった。キーボックスに倉庫の鍵をしまい、誰もいない事務所の電気を消す。

 階段を下り、外に出て、会社の施錠を終えて鍵をポケットへしまう。

「よし」

 帰ろうと振り返った、その時だった。

「護さん」

「ヒィッ!」

 すぐ近くから声がして、明日葉が飛び上がった。

 亜笠が無表情で、目の前に立っていた。明日葉は素っ頓狂な声を上げた。

「何でいるんだよ!」

「待ってました」

「帰れよ!」

「今日は帰りません」

 明日葉はじりじりと亜笠から距離をとった。

「いいから帰れってば!」

 そう叫んで、明日葉は脱兎のごとく駆け出した。

「護さん!」

 背後から追ってくる足音が聞こえた。

「待ってください!」

「待たない!」

 大の男二人が、夜道を全力疾走する。走りながら、明日葉はいつかのデートを思い出していた。スイートルームを蹴って、二人で同じように走ったっけ。場違いに笑い出しそうになるのを堪えて、明日葉は必死で足を動かした。

 住宅街を駆け抜け、明日葉は息を切らせながらアパートへ飛び込んだ。鍵を開けて玄関に滑り込む。

 勢いよくドアを閉めようとした――――その瞬間。

 ガンッ! とドアの隙間に亜笠の足が突っ込まれた。

「痛っ!」

「何やってんだお前、怪我するだろ!」

「骨折しましたもう歩けません責任とってください!」

 ドア越しに亜笠が叫んだ。明日葉はふざけんな、と怒鳴った。。

「いい加減にしろ!」

「それはこっちの台詞です!」

「大人だったら聞き分けろ!」

「大人だったらちゃんと話し合って別れるべきでしょう!?」

「だから付き合ってないってば!」

「中に入れて下さい!」

 隙間から亜笠の手が伸びて来て、ドアを押さえる明日葉の髪を掴んだ。青筋の浮かんだ手が亜笠の方に引き寄せられる。

「いだだだだ頭取れるってば!」

「僕のことを中に入れないならっ!」

 亜笠はそこで言葉を区切って大きく息を吸った。嫌な予感がした。

「201号室の寝癖頭の明日葉護(30)のことがめちゃくちゃ大好きです毎日セックスしたいくらい心の底から愛してます!」

「やめてぇえええええ!」

 静かな夜のアパートに、亜笠の叫び声が響き渡った。

 隣の部屋からドンッと壁を叩く音がした。明日葉はドアを開け放った。

「わかった、わかったから! 部屋に入って!」

「お邪魔します」

 亜笠は何事もなかったかのようにスッと入ってきた。

 ドアを閉めた明日葉は、その場で膝に手をついて肩で息をした。掴まれた髪がぐしゃぐしゃに乱れていた。

「はぁ……はぁ……」

「僕を締め出そうなんて百年早いですよ」

 明日葉はじっとりとした目で亜笠を睨んだ。こいつ、何てやつだ……と若干引いた。さすがにもう追い返す気力は残っていなかった。

 諦めて亜笠を部屋に上げ、冷蔵庫から麦茶を取り出して二つのコップに注ぐ。ローテーブルに並べると、立っていた亜笠が明日葉の向かいに腰を下ろした。

 さっきまでの騒がしさが嘘のように部屋は静まり返っていた。

 明日葉は黙ったままコップを見つめた。先に口を開いたのは亜笠だった。

「お願いします。話してください」

 明日葉は視線を上げなかった。

「無理には聞かないって言ったろ」

 はい、と亜笠が頷いた。

「あの時はそう思いました」

「だったら」

「でも今日、雨宮さんと会ったあなたと見て、考えが変わりました」

 明日葉は再び黙り込んだ。

「別れた恋人に声をかけられただけでは、あんな風に震えたりしません」

 明日葉は唇を噛んだ。必死で隠したつもりが、見られていた。あまりにも無様で情けない。突き放すと決めたはずなのに。

「話せることだけでいいんです」

 お願いします、と再度懇願される。明日葉は顔を上げた。

 切実な瞳が、そこにはあった。

 明日葉はいつかの亜笠の母、芙美子の言葉を思い出していた。

『あの子のこと、傷つけないでやってね』

 優しい子なの、と芙美子は穏やかに微笑んでいた。

「……お前のこと、傷つけたくない」

 ようやく漏れた明日葉の言葉に、亜笠は静かに首を横へ振った。

「何に傷付くかは僕が決めます。護さんが決めないでください」

 あまりにも真摯な言葉だった。

 息が詰まりそうになって、明日葉は胸のあたりをぎゅっと掴んだ。

「普通に付き合って別れただけなら、おれだって普通に話せる。でも、そうじゃなかったから」

 その言葉と共に記憶が蘇り、明日葉の瞳が暗く濁った。

 亜笠は黙って聞いていた。

「……聞くの、結構しんどいと思う」

 亜笠はゆっくりと頷いた。

「覚悟してます」

 明日葉はため息をついた。どうしてこう、この男はその名の通りこんなにも誠実なんだろうか。そう思った。

 息を吸う。明日葉も覚悟を決めて、口を開いた。

「――――おれが、前の会社にいた頃……」

 もう8年も前になる。

 彼のことは本当に好きだった。






 明日葉は当時大手製薬工場の購買課に勤務していた。購買課は忙しくはなかったが、取引先に過剰な値引きを要求しなければならず、それが明日葉の性格には非常に苦痛だった。

 専門学校を卒業して初めて入った会社。親や周囲からも最低3年は頑張れと言われていたが、勤めて早2年、ストレスは限界だった。

 ストレス。そう、すべての元凶、言い訳。たまらなく誰かと話したかった。何より――――孤独だった。一度でいいから誰かと密に触れ合ってみたかった。

 布団の中で携帯を見つめ、以前から興味があった出会い系サイトに、思い切って登録した。

 明日葉は中学で男性教師による女子生徒への性暴行未遂事件を目撃して以降、自身の中で女性を性的対象にすることができなくなっていた。学生時代、同性の同級生たちが喜んで見るようなアダルトビデオなんかは、明日葉にとっては虐待動画にしか見えなかった。

 だから――――「ゲイ」の出会い系サイトだった。

 紹介文はごくシンプル「初心者です」のみ。

 一番初めにメッセージが来たのが雨宮だった。

 初回のやりとりはおおよそ事務的なもので、自分と相手の簡単なプロフィール、顔合わせの日程調整等、その程度だった。

 本当に何の期待もしていなかった。プロフィールには『31歳、185センチがっちり』とあったが、まあチビデブハゲのオッサンが来ようが、その場限りにして二度と会わなければいいだけだと、本気でそう思っていた。

 が、しかし。

 当日待ち合わせ場所に来たのは、180センチを優に超える目鼻立ちがはっきりした男性だった。老若男女問わず心を開かせる人懐っこい笑顔、男ならば誰もが望んでやまない筋肉質の高身長。低い声は饒舌すぎず寡黙すぎず、しかし相手に否と言わせない不思議な魅力があった。

 一目惚れだった。この人だ、と思った――――思ってしまった。

 それが明日葉にとっての初恋だった。

 男は名を雨宮まゆみと言った。

 出会って早々にホテルに連れて行かれた。相手は一応「嫌なら何もしない」と言ってくれた。が、ホテルに着くなり明日葉はベッドに押し倒された。

 痛い思いをしつつ初体験を終えた。生まれて初めてのセックスは衝撃だった。

 素肌で、ゼロ距離で触れ合う感覚。それは幸せ以外の何ものでもなかった。雨宮は自分のことを気に入ったようで、また会いたいと言われ連絡先を交換した。その日は足を引き摺りながら家に帰った。

 二回目はすぐだった。またホテルに連れて行かれた。そこで言われた。

「俺のこと好き?」

 恋愛経験ゼロの自分に、駆け引きはできなかった。顔を真っ赤にして頷くしかなかった。

 付き合おうと言われた。それにも頷くことしかできなかった。

 そのまま二度目の体験を終えた。好きな人の腕の中は心地よかった。けどやっぱり足は引きずって帰った。

 たまに呼び出されてホテルに行く、自宅を教えたら自宅にも来てくれた。慣れないながらも、柄じゃないなと思いながらもたまに料理を作って待ったりもした。

 雨宮は思ったよりも甘えたがりだった。膝枕をせがみ、爪切りや耳掃除を頼まれた。自信家でいつも堂々としている彼の、意外な一面だった。

「俺の鼓膜破らないでね」

 まあ護になら破られてもいいよ、と彼は冗談を言って笑った。

 お風呂の後、髪を乾かす時間が明日葉は好きだった。気持ちよさそうに目を細める彼を見るのが、好きだった。

 幸せだった。

 ある時、雨宮は言った。

「他の人とのセックス、興味ある?」

 初体験が俺だけじゃつまらないだろ、と。

 明日葉はその時、その言葉の意味を深く考えなかった。

 もちろん首を横に振った。

 明日葉は、雨宮だけがいてくれれば十分だった。好きではない人とセックスする意味が、本気でわからなかった。

 だが雨宮は違った。

 翌週ホテルに呼び出されて行くと、そこには知らない男が二人いた。浮気現場!?と動揺したが、雨宮は笑顔で風呂から顔を出した。

「護もお風呂入ろう」

 仕方なく風呂に付き合うと衝撃的なことを言われた。

「他の男も試してみたいだろ?」

 いい奴らなんだ、セックスも上手い、だから大丈夫だよ、俺も一緒に混ざるし。雨宮は優しく言った。

 湯船にいるのに明日葉の身体は冷たくなっていった。断れない、と思った。俯く明日葉の前髪から、一粒の雫が湯船に落ちた。

 大きな手に顎を取られ、キスされる。

「大丈夫、一緒に楽しもう?」

 明日葉は目を閉じて頷いた。頷くしかなかった。

 そんなことが度々続いた。ドライブに行けば、車内外問わず求められて困惑した。ホテルに行けば知らない男たちがいた。疲れ果てて眠っている間にも、気が付けば雨宮に抱かれていた。拘束具や玩具を使われることもあった。雨宮はいつも、そんな明日葉にカメラを向けた。

 雨宮は優しかった。優しく、「嫌だったら言えよ?」と笑った。

 雨宮が明日葉の目の前で他の男を抱く時もあった。吐き気がするほど嫌だった。相手をさせられた男たちから、雨宮抜きで会いたいと誘われることもあった。だが明日葉は首を横に振るだけだった。

 男たちは言った。雨宮も遊んでるんだから、君も遊びなよ、と。その頃には明日葉は、雨宮が自分以外とも関係を持っているのだと理解していた。

 雨宮は明日葉が躊躇ったり嫌そうなそぶりを見せると、いつもこう言った。

「俺のこと嫌い?」

 ――――嫌いじゃない。嫌いなんかではない。だから明日葉は「好きだよ」と言うしかなかった。雨宮はにっこりと笑った。

 『参加者』はたくさんいた。ゲイのカップルで何組ともこういうことをしているという人たちもいた。明日葉の想像以上にそこは広くて、そして思っていたよりも暗くはなかった。同じ趣味の人間が集まって、同じ趣味に興じている。ただそれだけだった。

 そしてその中に混ざる明日葉の身体にも、快楽がないわけではなかった。

 なんでもないことなんだと言い聞かせた。みんなやってることなんだと。

 明日葉と雨宮の仲も決して悪化しているわけではなかった。二人きりで愛し合う時間もあったし、お風呂上りにはいつも雨宮の髪を乾かした。

 雨宮の要求は、日に日に過激になっていった。

 食欲が落ちた。タバコも増えた。たまに眠れない日があった。

 それでも明日葉は雨宮から離れなかった。

 付き合って3年目に入る頃、雨宮の転勤の日がやってきた。

「大阪に転勤になった」

 さらりと言われた。しかも出発1週間前。明日葉は愕然としながらも、震える手を握りしめて言った。

「おれ、大阪に会いに行くよ」

 そう言ったが、嘘だった。本当はついていきたかった。一緒に暮らそうと言ってくれるのを期待した。雨宮はいつも通り笑いながら言った。

「まあ、無理のない程度にな」

 頭を優しく撫でられる。明日葉は潤んだ瞳をそっと閉じて、その胸に顔を埋めた。

 そして、その数日後。

 同じ部署の人間がたまたま雨宮の話をしていた。同じ業界だとは聞いていたが、そんなに有名だとは思っていなかった。少しばかり誇らしかった――――次の言葉を聞くまでは。

「アストリアの雨宮だろ? あの人奥さん大好きだよなぁ。飲み会なんか挨拶だけしてよく抜け出しちゃうんだよ」

 聞いた瞬間、ザッと血の気が下がった。

 奥さん、既婚、既婚者。明日葉の頭にはその単語がぐるぐると回っていた。

 知らなかった、何も――――3年近く付き合っていたのに。何も。

 指輪は、していなかった。自宅に行っても、一人で暮らしているようにしか見えなかった。だからずっと独身だと思っていた――――自分が、勝手に。

 その日、明日葉は震える手で電話をかけた。

「もしかして結婚してる?」

『あー……』

 相手はしばらくの逡巡の後に話し始めた。

 もうずっと前から別居状態だったこと、子供もおらず、別れたつもり、というか事実上はほとんど夫婦ではないということ。上司の娘であり簡単には別れられないこと。飲み会では抜け出す口実にしていたこと。

 明日葉はもう一度だけ聞いた。

「既婚者だったのか」

 雨宮が一拍置いて、言った。

『俺のこと疑ってるのか』

 それが答えだった。明日葉はしばらくの沈黙の後に、電話を切った。

 雨宮の電話番号はその日のうちに拒否登録して、抹消した。メールも何もかも。

 それからしばらくは眠れなかった。仕事も休みがちになった。ご飯も、何を食べても砂を噛んでいるようで、そのうち何も受け付けなくなった。

 何日か布団から出られず、仕事に行けない日々が続いた。

 暗い部屋の中で、明日葉は決心した。

 もう二度と恋愛はしない。この先はひとりで生きていこう、と。

 1ヶ月後には仕事を辞めた。2ヶ月後には引っ越した。3ヶ月後に再就職した。

 明日葉は、思ったよりも自分が強かったことをその時初めて知った。

 4ヶ月を過ぎる頃には食欲も睡眠も回復していた。

 再就職先は新しい自宅から徒歩15分だった。医薬品卸会社の在庫管理部。取引先との関わりは薄く、倉庫作業がメインというところに惹かれた。

 仕事は山のようで息をつく暇はなかったが、先輩社員がとても面倒見の良い女性だったし、忙しい方が何も考えずに済んで助かった。

 幸い、人との関わりが薄く黙々と身体を動かす仕事が、明日葉には合っていた。

 1年、2年があっという間に過ぎた。前の職場では長く感じた3年が、怒涛のように過ぎていった。

 雨宮とのことを思い出すことも、ほとんどなかった。

 3年を過ぎてから、仕事にも慣れてきた。近所の薬局や病院の薬局長から声をかけられることも増えた。臨時で配送に行くことも多くなった。

 病院で、高身長のスーツ姿の男を見ると心臓が跳ねた。もちろん別人だった。明日葉の脳裏にはたまに過去の記憶がフラッシュバックした。

 乗り越えた傷がジクジクと痛んだが、それでも後悔はしなかった。自分はやれるだけのことはやった、と思っていた。

 目まぐるしい日々の中で明日葉の心も変化していった。雨宮まゆみ、好きだったことには変わりはない。けどやはりあれは許すべき行為ではなかった。

 あいつ、頭おかしかったよな。やっぱり。

 たまにそう思えるようになった。それでも過去の傷は痛んだ。

 そして今年――――先輩が辞めた。代わりにおかしな新人が入ってきた。

「――――それがお前だった」

 亜笠はしばらく何も言わなかった。明日葉の話を最後まで遮ることなく聞いていた。明日葉もまた、言葉を見つけられずに黙り込んだ。

 雨宮との3年間。既婚者だと知ったこと。逃げるように姿を消したこと。誰にも話したことのなかった過去をすべて吐き出してしまった今、胸の中にはひどい疲労だけが残っていた。

 部屋の中を重たい沈黙が包む。壁掛け時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいた。

 先に口を開いたのは亜笠だった。

「――――それで」

 静かな声だった。

「どうして僕と付き合えないって結論になるんですか」

 その問いが来ることはわかっていた。明日葉ははっきりと言った。

「だって嫌だろ。普通に考えて、こんなことしてきた相手」

 自分が汚れてしまった、なんて感傷的なことは思わない。だが、亜笠の相手としてはふさわしくない、明日葉はそう考えていた。

 亜笠は眉一つ動かさず、あっさりと言い切った。

「別に気になりません。性病検査の結果も見せてもらいましたし、たとえ結果がどうであれ気にはしません」

 護さんの体調は心配しますけど、と亜笠は顎に手をあてて言った。

「いや、そういう問題じゃなくて……」

 明日葉は唇を噛んだ。

「護さんの中では何が問題なんですか?」

 亜笠の問いかけは穏やかだった。そこに明日葉を責めるような色は少しもなかった。

「無理矢理されたわけじゃなかった」

 明日葉は拳に力を入れた。震える唇を開く。

「おれが自分で応じてやったことだ。嫌だったらいつでも言えって言われてたのに、おれ、一回も言わなかった。押さえつけられたことだってない。縛られてホテルに連れて行かれた訳でもない。いつも自分の足で、自分の意思で部屋に入ってた。逃げようと思えばいつでも逃げられた。でも――――逃げなかった」

 亜笠は一拍置いてから、いつもの無表情で言った。

「でも喜んでされていたわけじゃないんでしょう」

 明日葉の身体が揺れた。

「嫌だけど、そうするしかなかったんですよね?」

 優しい問いかけに、明日葉の瞳が歪む。目を伏せて、言った。

「――――動画とかも撮られてる」

 ようやく絞り出したその言葉にも、亜笠は取り乱さなかった。

「動画は確かに問題ですけど、それは僕と護さんの問題ではないですよね」

「相手、既婚者だった」

「知らなかったんですよね」

 迷いのない返答だった。ひとつひとつ、明日葉が自分を責める理由を丁寧に取り除いていくような、そんな声だった。

 明日葉は苦しげに顔を歪めた。

「決めたんだよ」

 ぽつりと呟く。

「ひとりで生きていこうって」

 誰も好きにならない。誰にも期待しない。誰とも一緒に歩かない。そう決意して、この5年間必死にひとりで立ってきた。

 なのに、それなのに。

 亜笠と出会ってしまった。真っ直ぐに好きだと言われて、無理やり連れまわされて、どんどん踏み込まれて。いつの間にか毎日隣にいるのが当たり前になって。

 気が付けば、その決意は音を立てて崩れていた。

「ごめん」

 明日葉は俯いて、震える声で言った。

「おれがセックスしたいなんて言ったから……お前のこと、巻き込んだ」

 あの日のことを思い出す。

 どうしてあんなこと言ってしまったのだろう。あれさえなければ――――こんなことで、亜笠を傷付けずに済んだのに。

「どうして謝るんですか」

 優しい声で、亜笠が言った。

「僕としたいって思ってくれたんでしょう?」

 明日葉は眉を寄せた。自分の胸元をぎゅっと掴む。

「お前の気持ちに応えられないのに……」

「僕は嬉しかったです」

 迷いのない声だった。

「セックスしたいって……少しでも、僕と一緒になってもいいって、そう考えてくれたんですよね」

「…………違う」

 嘘だった。何も違わない。でも――――違う、ということにしたかった。

「違わない」

 明日葉の心を見透かしたように、亜笠は静かに言い切った。

「どうして、そこまで頑なになるんですか」

 明日葉は答えられなかった。顔を上げて亜笠を見ることもできなかった。

 亜笠は、そんな明日葉を真っ直ぐに見つめた。

 それから――――何かに気付いたように瞳を見開いた。

 少し俯いて、口を閉ざす。言おうか言うまいか、迷っているのがわかった。聞きたい、でも聞きたくない。葛藤が沈黙から伝わった。

「もしかして――――」

 亜笠は意を決したように顔を上げて、言った。

「雨宮さんのこと、好きなんですか」

 その言葉を聞いた途端、明日葉の顔が強張った。

 まずい、そう思っても、もう遅かった。

(返事をしろ、違うって言え。何でもいい、否定しろ。――――嘘でもいいから。今だけでも)

 心の中で何度も叫ぶ。

 けれど明日葉の唇はわなわなと震えるだけで、いつまでたっても声は出なかった。

 沈黙が部屋に満ちる。その沈黙だけで、十分だった。

 亜笠は目を伏せて、小さく息を吐いた。

「……そうですか」

 その声には責める色も怒りもなかった。

 亜笠は静かに立ち上がった。部屋の隅に置いていた鞄を持ち上げ、玄関へ向かう。振り返らないままで彼が言った。

「今日は、帰ります」

 亜笠の足が、ほんの一瞬だけ止まった。

 だが明日葉は、その場に縫い止められたかのように動けなかった。

 自分には呼び止める資格はない。引き止めて、それでどうする? 今更違うと言い訳するのか? ――――どの口が?

 明日葉は呆然とその背を見送った。

 玄関の扉が開き、静かに閉まる。閉じる音だけが部屋に響いた。

 亜笠を、傷付けてしまった。一番傷付けたくなかった人を、こんな形で。

 その事実だけが、重く心へ沈んでいった。

(だから言いたくなかったんだ……)

 テーブルに置かれた明日葉の携帯電話が震え出した。ぼんやりと画面を見ると、そこには『雨宮まゆみ』と表示されていた。







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