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明日があるさ  作者: いぬまた
第五章
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明日があるさ5【第一話】






 暗い部屋の中、テレビの明かりだけがチカチカと光っている。

 流行りのお笑い芸人が何事か話しているが、今の自分にはそんなもの一切耳に入らなかった。笑い声だけがやけに大きくて、遠く聞こえた。

 カーテンを閉め切った部屋。ベッドの上で膝を抱え、頭から布団をかぶって、そこからずっと動けずにいた。

 ご飯も喉を通らない。タバコを吸う気にもならない。夜も眠れないから、今が朝なのか夜なのかもわからない。気を抜くとすぐに瞳から涙が溢れてきた。

 何日も何日も、仕事も行かず、外にも出ず、そうしていた。

 ただただ時間だけが過ぎていった。

 それでもベッドの上から一歩も動けなかった。

 電源の切れた携帯電話をぼんやりと見つめる。

 何も聞きたくなかった。もう何も知りたくなかった。

 誰にも会いたくない。誰とも話したくない。何も考えたくない。

 何もかも忘れたかった。すべて捨てたいと思った。

 こんなことになるなら、と思った。

 誰とも関わらなければよかった。

 ましてや恋愛なんて、しなければよかった。

 もう二度と恋愛なんてしない。したくない――――もう、できない。

 誰の隣にも並ばない。誰も好きにならない。

 誰にも好きになってもらわなくて、いい。

 一生、ひとりで生きる。

 そう、思っていた。

 ――――彼に出会うまでは。






 明日葉護は倉庫の詰所の壁に張られたカレンダーと睨めっこしていた。

 何せ季節は秋、9月。今月末は半期の棚卸――――仮決算がある。在庫を絞りに絞って、社長が設定した目標在庫金額に落とさなければならない。あのバカ社長……毎度毎度無茶な目標にしやがって、と明日葉は心の中だけで暴言を吐いた。明日葉は毎週のように在庫金額を確認しに直電してくる社長と仲が悪かった。

 前回の棚卸の悪夢が蘇る。

 が、しかし――――

(今回は頼れる新人、亜笠もいる。返品処理も逐一終わらせてるし棚卸差異も定期的にチェックしてる! 今回こそ段取りよくスムーズに終わらせるぞ!)

 よほどのトラブルが起きなければ、と明日葉は心の中で呟いて、手の中にあるバナナをかじった。

 そんな明日葉の後ろを頼れる新人――――と言っても入社半年は過ぎているが――――亜笠誠一郎が、作業着を羽織りながら通り過ぎた。

「またそんなの食べて、この暑さでそんな食生活してるとバテますよ」

 亜笠は明日葉が自宅から持参したバナナを見て、渋い顔をした。

「だって暑くて食欲湧かないんだもん……」

 バナナは高栄養食だし。ブツブツ言っているとアルミホイルに包まれたものを渡される。おにぎりだった。

「追加でこれも食べて下さい」

 仕事も出来る家事も出来るオールマイティな彼は、料理もこの上なく上手い。彼は朝ごはん抜きで会社にやってくる明日葉のために、ほぼ毎日と言っていいほどおにぎりやらサンドイッチやらを差し入れてくれていた。

「食べれるだけでいいから食べて下さい」

 抜かりのない男だなぁ……と思いつつおにぎりをかじる。中身は梅おかかでさっぱりしていて食べやすかった。悔しいが、美味しい。

 結局一個ペロリと食べてしまった。

 亜笠には幾度となくこういう形で助けられていた。

 ので、今ではすっかり――――

「社内のオシドリ夫婦ですもんね?」

 にっこりとした亜笠に顔を覗き込まれる。明日葉の顔が引き攣った。

「だからそのおれの心の声に割り込んでくるのやめてくれる?」

 エスパー亜笠め。

 明日葉はため息をついた。誰と誰がオシドリ夫婦だ。というかどっちが『婦』なんだ? 明日葉のツッコミどころはどこかズレていた。

 首を捻る明日葉に、亜笠は嬉々として話しかけてきた。

「明日葉さん、今日泊りに行ってもいいですか?」

「お前……毎週末うちにいない?」

「いますね」

「来すぎじゃない?」

「そうですか?」

 すっとぼける亜笠に半眼を送る。亜笠は花が綻ぶように微笑んだ。

「だって――――一緒にいたいんです」

 うっ、と呻き声を上げて明日葉は呼吸困難に遭った人のように胸を押さえた。

 先月、明日葉は半ば強制的に亜笠に引きずられて実家へと帰省した。その際泊まったホテルで、一晩ベッドを共にした。もちろん、そういう意味で。

 それ以来、亜笠はこうして頻繁に明日葉のアパートに入り浸るようになってしまった。完全に同棲前の恋人同士だった。

(おかしい……まだ付き合ってすらいないのに……)

 どんどん外堀を埋められていく感覚に明日葉は震えた。

 亜笠のことは、正直、嫌いではない――――どころか、どうしようもなく好きだった。愛してると言ってしまった方が、きっと近い。おかげでこうして無防備に微笑まれると心臓が悲鳴を上げてしまう。嬉しいが半分、もう半分は――――苦しくて。

 初夜を迎えた翌朝、明日葉は亜笠にキスをした。そのキスで、明日葉は自分の気持ちを自覚した――――と同時に、閉じ込めていたはずの傷が、5年前の記憶が、まざまざと蘇ってしまった。

 明日葉はもう一度ため息をついた。

(ちゃんと話さないと……)

 お前とは付き合えないって。

 話さなければいけない。だが、もう少しだけこのままでいたかった。

 せめて、棚卸が終わるまでは――――

 明日葉は目の前のカレンダーをそっと撫でた。

 棚卸はあと3週間のところに迫っていた。







 各所で仮決算期ということもあり、入荷物や受発注品はガクンと減っていた。おかげで多少の余裕が出来るものの、代わりに返品の量が膨大だった。次々と返品される品物に涙を滲ませながら対応していく。

 とはいえ前回の棚卸と違い、今回は亜笠がいるため随分とスムーズに処理が進んでいた。大柴は相変わらず事務所に行って女性社員と談笑したり自席で寝たりとのんびりしていた。憎らしいが、腐っても薬剤師という国家資格を持つ貴重な人材だ。明日葉の口からは何も言えなかった。

 事務所のオペレーター、尾花から内線が入る。青梅病院から急配が来たとのことだった。明日葉は急ぎ伝票を確認し現物を箱に入れた。入荷処理をしている亜笠に一声かけて、配送車へ向かう。

 季節は9月を過ぎると言うのに、車の中は日に照らされ随分と暑かった。エンジンをかけ、窓を開けて病院へ向かう。

 5分とかからず到着する。搬入口から薬剤部へ向かうと、安斎薬局長が仁王立ちで待ち構えていた。

「お世話になってます、安斎先生」

「おう、明日葉。ご苦労さん」

 いつものように伝票を受け渡し、検品を終える。安斎は受領印を押しながら、ふと思い出したように顔を上げた。

「そういや今度、高額注射薬採用になったからな」

 高額注射薬という言葉に、明日葉は頷いた。

「ああ、タクザイロ皮下注ですよね。江南さんから聞いてます」

「話が早いな」

 安斎はニヤリと悪い笑顔を浮かべた。

「一本約130万だ。返品になったら覚悟しておけよ」

「怖いこと言わないでください」

 ただでさえ棚卸月で大変な時に、不吉なことを口にする安斎に眉を寄せた。

 安斎は特に気を悪くした様子もなく続けた。

「定期的に発注することになる。頼むぞ」

 明日葉が頷くと、安斎は真顔でこちらをじっと見つめてきた。

「な、何ですか……」

「お前――――富士見製薬の営業部長と知り合いか?」

「はい?」

 富士見製薬と言えばタクザイロの製造元だ。そんな大手に知り合いはいないはずだが。そもそも営業部長の名前すら知らなかった。

「いえ、全然知らないですけど……」

 首を傾げる明日葉を見て、安斎は自分の顎を撫で擦った。

「営業部長が妙にお前のこと気にしててな」

「おれの?」

「明日葉は元気か、って聞かれたぞ」

 まるで心当たりがなかった。自分が元々勤めていたメーカーでもない。

「どっかで世話になったの、忘れてるんじゃないのか」

「はあ……」

 曖昧に返事しながら記憶を掘り起こすが、それらしい人物は思い当たらなかった。

 考え込む明日葉に、安斎がにやりと笑った。

「――――後輩とのお付き合いは順調か?」

 明日葉は半眼になって歯をむき出した。

「お付き合いしてませんっ!」

「横浜デート、邪魔して悪かったな」

「そもそもがデートじゃないですし!」

 なぜ阿部と言い安斎と言い、人の恋愛事情にこうも口を出したがるのだろうか。明日葉はさっさと伝票をポケットにしまい、その場を後にした。

「亜笠によろしくな」

「失礼します」

 安斎の楽しそうな声は聞こえなかったことにした。

 搬入口へ向かって歩きながら、明日葉は小さく首を捻った。

(富士見製薬……?)

 超有名大手製薬メーカーだが、個人的に名を知られるような知り合いはいなかったはずだ。

(江南さんの知り合いか何かかな……あー、名前聞いておくんだった)

 失敗したなぁ、と思いながら熱のこもった車内に戻る。

 明日葉はそれ以上深く考えることはしなかった。

 その日は急配以外には何事もなく終了した。一日の業務を終えてホッとする明日葉の元に、作業着からスーツに着替え終わった亜笠が近付いてくる。

「今日のご飯、何がいいですか?」

 亜笠の質問に、明日葉は腰にぶら下げていたハンディスキャナーを充電器に差し込みながら返した。

「……やっぱりうち来るの?」

「もちろん行きます」

 即答だった。明日葉はしばらく考え込んだ後、親子丼、とだけ答えた。亜笠は満足そうに笑った。

「帰りにスーパー寄って行きましょう」

「その前にパン屋寄ってこ。明日のパン買う」

 二人で歩いて駅に向かった。電車に乗って東青梅で降り、パン屋に寄ってから駅前のスーパーを物色していく。

「親子丼なら卵買ってかないとですね」

「まだあったよ。2個くらい」

「明日の朝ご飯用がないです」

「あ、そっか」

 スーパーを一周し、鶏もも肉と玉ねぎ、三つ葉と卵を買い物かごへ入れる。明日葉は飲み物売り場で立ち止まった。いちご牛乳を手に取って亜笠の顔を見つめると、亜笠は一瞬眉を寄せたが頷いてくれた。

「あとお茶パックも切れそうだったので買ってきましょう」

 当然のように言う亜笠に、明日葉は苦笑した。

「お前、完全にうちの食糧事情把握してるよね」

「護さんの家の食糧在庫管理担当なので」

「いつの間に担当になったんだよ」

 言いながらレジを後にする。

 二人で並んで歩いて帰った。明日葉の手には食パンの入ったビニール袋が、亜笠の手には食材の入ったエコバッグがぶら下がっていた。

 9月の夜だと言うのに帰り道は蒸し暑かった。

「今年は残暑厳しいなぁ」

「年々暑くなってますね」

「倉庫の中に帰りたい……」

「24時間クーラー完備ですからね、あそこは」

「月の電気代聞いたことある? 震えるよ」

 明日葉はにやりと悪戯っぽい笑みを浮かべた。一度経理の人間から電気代の請求書を見せてもらったことがあった。月の電気代が平均1万も行かない明日葉としては、目玉が飛び出そうな金額だった。

「でしょうね。あの広さですから」

 冷蔵室もありますしね、亜笠はすました顔で答えた。

 アパートに着く。ドアを開けると部屋の中から熱気がむっと押し寄せた。クーラーとサーキュレーターの電源を入れる。亜笠は手を洗ってから台所の冷蔵庫に食材を入れていた。

 明日葉もカーテンを閉めてから洗面所に向かう。手を洗って戻ってくると、亜笠が両手を広げて待っていた。

「おかえりなさい、護さん」

 そのまま抱き締められる。

「……暑い」

 憮然として言う。明日葉は抱き締められたまま、ぼそりと「ただいま」と口にした。






 小さい、だけど連続的な振動を感じて、明日葉は目が覚めた。頭の傍に置いていた携帯の画面を見ると、知らない番号からの着信だった。寝起きの頭でぼんやりと画面を眺めている内に切れてしまう。時刻は1時半だった。

(こんな真夜中に――――誰……?)

 身体に巻き付いた亜笠の腕を解いて、布団の中から這い出す。クーラーの冷風が素肌を撫で、思わず肩をすくめた。ベッド脇に脱ぎ散らかしていたTシャツを引っ掛け、台所へ移動した。

 台所の隅に置いたスツールに腰を下ろし、着信履歴を開く。換気扇をつけてタバコを咥えながら、明日葉は首を傾げた。

 同じ番号が、8月16日付けで着信履歴に残っていた。亜笠と一緒に明日葉家に帰省した時のものだ。

 知らない番号だったため放置して、そのまま忘れてしまっていた。

(誰だろ?)

 ライターでタバコに火を灯しながら、少しだけ気になって発信ボタンを押す。

 数回の呼び出し音が鳴る。

『こちらは留守番電話サービスです――――』

 機械的な音声だけが返ってきた。

「出ない……」

 通話を切り、小さく息を吐く。

 間違い電話か、それとも急ぎの連絡だったのか。

(まあ、用があるならまた掛かってくるか)

 そう結論づけると、携帯を流しの横に置いた。ゆっくりとタバコを吸い込む。ふーっと息を吐くと白い煙は換気扇に吸い込まれていった。何度か繰り返してから火を消す。明日葉は大きなあくびをすると再びベッドへと戻った。

 この時の明日葉はまだ何とも思っていなかった。

 電話の相手がすぐそこまで来てるなんて、思いもしなかった。







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