明日があるさ4【第九話】
夢を見た。
明日葉の目の前には扉があった。扉はもう開いていた。扉のノブに挿さったままの鍵を見る。
扉の外には亜笠がいた。優しく微笑んで亜笠が言った。
『入ってもいいですか』
亜笠が手を伸ばす。明日葉はじっと見つめた後、覚悟を決めてその手を取った。
引き寄せると亜笠は扉の中に入ってきた。
『大丈夫、嫌な時は嫌って言ってください』
そう言って、明日葉のことを抱き締める。
明日葉はその背中に、震える手を、そっと回した。
めちゃくちゃ気持ちよかった。
明日葉は青い顔で、ガウンを羽織ってベッドに座っていた。隣には枕を頭にスヤスヤと眠る亜笠がいた。その寝顔を見てため息をつく。
自分が今まで経験していたのは何だったのだろう、と思わされるほどに亜笠とのセックスは良かった。男同士だし、痛いのなんか仕方ないし、我慢するものだとばかり思っていたのに。
(しかもすごく今更だけど相手はよりにもよって亜笠……今後会社でどんな顔して仕事すればいいんだ……)
明日葉はどんよりとした気持ちで頭を抱えた。
「ん……」
亜笠が寝返りを打った。その手がもぞもぞと動いて明日葉を探し始めたので、とりあえず慎重にベッドを下りてバスルームに避難した。なんとなく、今は一人になりたかった。
ついでに、バスルームの鏡の前でガウンを脱ぎ、全身をチェックする。5年経っていても、身に染みた癖はどうしても出てしまう。
首筋だけでなく胸元、太もも、至るところに赤い斑点がある。明日葉は首を傾げながら屈伸してみた。腰の痛みが全然ない。足もいつも通り動く。
身体を捻る――――痛くない。これなら翌々日の仕事にも響かなそうだ。明日葉は亜笠が聞いたらまた「社畜」と言いそうなことを考えた。
再びガウンを羽織り、バスタブに腰掛けて、明日葉は項垂れた。
身体の方は問題ない。が、心の方は――――罪悪感でいっぱいだった。
やってしまった。付き合ってもいない男とセックス。
自分に好意を寄せる相手の気持ちを受け止めきれないまま、身体だけ求めてしまった。自己嫌悪に死にそうだ。
(どうしよう……今すぐビルの屋上から飛び降りたい……)
別に本気で死にたいわけではないが、明日葉は青い顔でそんなことを思った。
バスルームを出てガウンを脱ぎ、服を身に着ける。
カーテンの隙間からはうっすらと明るくなる空が見えた。テーブルの上に置いたタバコと財布を手に取り、明日葉は静かに部屋を後にした。
人気のない静かな街を一人で歩いていく。明日葉は8年前と変わらない街並みを眺めた。マンション、飲み屋、運動公園――――朝の静けさの中に鳥の鳴き声が響く。早朝だと言うのに空気は湿っていて暑かった。
明日葉は立ち止まった。タバコを取り出して一息つく。
昨日、どうして自分はあんなことを言ってしまったんだろう。
(お前とセックスしたいとか……何で言っちゃったかな)
自分でも不思議だった。決してその場の勢いで言ったわけではなかった。
8年前、男とセックスをしてから――――ずっと後ろめたかった。
それから両親と顔を合わせることができなくなった。怖かった。異質だと思われたくなかった。兄も姉も結婚して子供がいる中で、自分だけが「それ」をできないことが、つらかった。あの家に帰る資格がないとすら思ったこともあった。
きっと亜笠に無理やり連れてこられなければ、今年も帰省せずに過ごしただろう。父と顔を合わせることすらできなかったはずだ。
飛鳥のこともそうだ。一人で会っていたら、挨拶程度で彼女との会話は避けていたはずだ。飛鳥と面と向かって話せたのも、彼女の気持ちを受け止めることができたのも、亜笠が隣にいてくれたからだ。
彼がいてくれたから、昨日の一日を乗り越えることができた。
(だから、おれは――――)
明日葉はもう一本吸おうと箱の中身を覗いた。残りは一本。そう言えば前に買ったのはいつだっけ、と考えて、4日も前だということに気が付いた。
――――いつからこんなに吸わなくなったんだろう。
少し前までは2日に1箱は普通だった。棚卸の時期は別として。
それが、4日に一箱。劇的な変化に明日葉の顔が暗くなった。
いつからなんて、そんなことはわかりきっている。
亜笠が来てからだ。彼と過ごす時間が増えるごとに、反比例するようにタバコの本数は減っていった。
もうずっと前から気付いていたのに――――気付かないふりをしていた。
明日葉はタバコを消して、携帯灰皿にしまった。コンビニまでゆっくりと歩いていく。タバコとコーヒーを2つ買ってホテルへと帰った。
亜笠はまだベッドの中で寝息を立てていた。テーブルに買ってきたコーヒーを置いておく。
ベッドに腰掛けて寝顔を覗きこむ。仰向けの顔。前髪が閉じた瞳にかかっていた。指先でそっとかき上げると、何とも言い難いあたたかい気持ちがこみ上げてきた。吸い込まれるようにその唇にキスをした。
十秒、いやもっとだったかもしれない。
長いキスを終えてそっと起き上がる。
亜笠は――――目を開けていた。驚いたように、その瞳を見開いていた。
「護さん……」
亜笠の頬に、パタパタと水滴が落ちた。
「どう、して……泣いてるんですか……」
亜笠の問いかけに、明日葉はようやく自分が泣いていることに気が付いた。
明日葉は戸惑う亜笠の胸に顔を埋めた。
「ごめん……亜笠――――ごめん」
明日葉はそれしか言えなかった。亜笠は優しく明日葉を抱き締めた。
沈めたはずの気持ちが浮き上がって、蓋が開く。
ああ、どうしよう。あれだけ恋愛しないと決めていたのに。もう独りで生きていこうと覚悟していたのに。
認めたくなかった事実が、今、目の前に突きつけられてしまった。
(――――おれ、亜笠のことが好きだ)
5年前の傷が、記憶が、堰を切って溢れ出す。
亜笠のことが好きだ。好き、なのに。
(この人の気持ちに、応えられない……)
静かに泣く明日葉の背中を、亜笠の手がゆっくりと撫でた。




