明日があるさ3【第一話】
亜笠誠一郎は、自分が幸運な人間だと思っていた。
父を早くに亡くし経済的にも苦労はしたが、母は父の分以上に愛情をこめて自分を育ててくれた。
早くから自分は男しか好きになれない人間なのだと気が付いたが、そのことについても母は一切否定しなかった。
容姿は母譲りで端麗だったし、母曰く父譲りで大抵の物事は何でも要領よくできた。もちろん努力も怠らなかったが、それ以上に亜笠には能力があった。
学校でもだいたい学級委員長か生徒会長になったし、成績も優秀、スポーツもよくできた。男が好きということでからかわれたことはあるが、亜笠の堂々とした振る舞いのせいか酷いイジメに遭うこともなかった。
恵まれている、自分でもそう思っていた。苦労しないわけではなかったが、人よりも多くを与えられて生きてきた――――そう、思っていた。
高校の時に、家庭教師をしてくれた大学生の男を好きになった。ダメ元で告白したら、ためらいながらも付き合いを了承してくれた。
初めての恋人だった。初めて手を繋いだ日も、初めて旅行に行った日も、些細な喧嘩をして仲直りした日も、すべてが大切だった。
この人との未来が当たり前に続くものだと思っていた。
付き合いは亜笠が大学生になり、就職してからも続いた。その間に同棲もした。
亜笠はいずれ結婚するつもりでいたが――――相手は、そうではなかった。
仕事は楽しかったが、人間関係は過酷だった。製薬会社のMRとして勤務し、入社早々亜笠は良い成績をどんどん積み重ねて行った。しかし、ゲイであることを一切隠さない自分の態度は、同性の同僚や上司からの標的となった。亜笠が成績上位にいたことも災いした。社内連絡や重要なメールが届かない、わざと聞こえるように話される陰口や嫌味、会議の時間は間違えられる、少しずつ少しずつ、亜笠の精神はすり減っていった。
そんな中で一年が過ぎようとしていた。
仕事が落ち着いたら結婚の話を切り出してみようと思っていた矢先、唐突に、相手の浮気が発覚した。浮気相手と恋人は、肉体関係まで進んでいた。亜笠は恋人を責めなかった。裏切りには傷付いたが、関係を修復したいと思っていた亜笠は冷静に話し合おうとした。結婚を考えていることも話した。だが、後になって気が付いた――――それは最悪のタイミングだった。
恋人は激怒した。重い、と言われた。自分はゲイであることを隠して生きたいのだと、そう言われた。亜笠はそれでも構わないから一緒にいたいと伝えた。だが、恋人はアパートを出て行った。何度も電話した。ようやく出てくれたが、別れたいと言われた。恋人はそのまま引っ越して行った。
心の支えにしていた恋人を失って、限界だった。
その日、亜笠はいつも通り通勤しようと駅へ来ていた。
人で溢れたホームから、雲一つない快晴を見上げてため息をつく。職場に向かう足が途轍もなく重かった。
出て行った恋人の後ろ姿が脳裏にちらついた。
こんなに好きなのに、愛しているのに――――ダメだった。受け入れてはもらえなかった。出会った頃は、あんなにも愛し合ったのに。
変わってしまうんだろうか、人は、いつか――――
どうして自分はここにいるんだろう、と思った。
(僕は今まで何を――――仕事も上手くいかない、その上恋人もなくして……何をしてきたんだろう)
明日はどっちだ、なんてよく言ったものだ。
(僕は今日すらどう過ごせばいいのかわからない)
会うはずだった恋人も、もういない。行くはずだった職場もないに等しい。どんな努力をしても、ゲイと言うだけで居場所が与えてもらえないのだから。
思い描いていた未来が崩れて、砂のように心底に散っていった。
『3番線、通過列車が参ります。ご注意下さい』
目の前を、人で満たされた電車が猛スピードで通り過ぎていく。窓にはたくさんの、人の顔、顔、顔。そこに反射するのは、幽鬼のように生気がない顔。
淀んだ瞳が、自分を見つめていた。
(…………馬鹿らしい)
一瞬、ほんの一瞬だけ浮かんだ思いを、打ち消す。顔を伏せて、首を振った。
踏み出しそうだった一歩を、下げる。背後に並んでいた人たちにぶつかりながら、亜笠はラッシュとは逆方向へ歩いた。
会社までは歩いていけない距離ではない。今日は歩こうと改札へ向かった。この際だから遅刻してもいいだろう。どうせ何をしても責められるのだから。
そう思ってICカードを手に取る。改札はもうすぐそこで、人々はまるで枠にはまるように連なっていった。その中に自分も混ざる。
さて、今日は会社でどうやり過ごそうか――――憂鬱な思いがこみ上げてきた、その時だった。
「すみません通してくださいっ!」
すぐ近くから、少し嗄れた声が聞こえた。
「あ」
「えっ?」
俯いていた顔を上げる、と、目の前に寝癖頭の青年が突っ込んできた。
逆走――――と思う間もなく改札が閉じて青年が激しくぶつかる。
「ぉわああああああ!」
叫び声と共に、閉じたゲートに激突した青年が、その勢いのまま正面に立つ亜笠へ突っ込んできた。衝撃に、後ろへ吹っ飛ぶ。
「なっ――――」
青年の身体の下敷きになった状態で、亜笠は地面に転がっていた。
「ちょっと、何――――」
苛立ちと共に声を上げると、青年はすぐさま立ち上がって亜笠の前に膝をついた。思いの外強い力で身体を起こされる。青年は半泣きになりながら、亜笠にズイッと顔を近づけた。
「すみませんすみません! 大丈夫ですか怪我してませんか救急車呼びますか!?」
「いや、救急車ってほどじゃ……」
青年の勢いに気圧される。余程急いでいるらしく、青年は汗だくで息がゼーゼー切れていた。亜笠が落とした鞄とICカードをグイグイ押し付けてくる。
「救急車呼ばなくて大丈夫ですか!? 大丈夫ですね!? お願い大丈夫って言って!」
「大丈夫……です」
半泣きで縋り付かれ、思わず首を縦に振る。青年は「良かったぁあああ」と叫ぶとあたふたしながらスーツの内ポケットを探った。名刺を一枚取り出すと、呆然とする亜笠の手に握らせてきた。
「ほんっとうにごめんなさい薬の患者が急配で! 急いでるので何かあった際にはそちらまでご連絡くださいそれでは失礼しますっ!!!」
ほとんど一息で言い切って、青年は座り込んだままの亜笠に目もくれずに、一目散に走り去って行った。
よほど急いでいたらしい。
走り去るその背中から、なぜか目が離せなかった。
「おい、邪魔なんだよ!」
背後を通る中年男性から怒鳴られ、亜笠はようやく我に返った。
立ち上がって、ICカードを改札にあてて通過する。
呆然としながら人波から逸れて、壁際まで来て立ち止まる。
手は震えて、唇は歪んで、もう限界だった。
「――――ぶっ、あはははははっ!」
ぶはっと息を吐いて、声を上げて笑う。周囲は怪訝そうな目を送るが、どんどん通り過ぎていく。通勤ラッシュのど真ん中。
そこで自分は、腹の底から笑っていた。
足を止めて、周りから奇異の目で見られて、それでも亜笠は笑い続けた。笑いが止まらなかった。
なんなんだ、今の人は。この通勤ラッシュの中、改札を逆走して、閉じた改札に激突して転んで、自分にぶつかって――――しかも改札にICカードを通してない。あれじゃあ改札を出る時に困るだろうに。
(薬の患者が急配でって、どんな日本語なんだ、それ)
必死で謝って、一秒だって惜しいはずなのに名刺だけはしっかり渡して、汗びっしょりで走って行って、帰りのことなんかてんで頭になくて。
「はははっ、は……」
ああ――――あの人、いいなぁ。
わき目も振らずに必死で走ってく、あの姿。涙目で、謝りながら名刺を差し出して、それでも走ってく背中。あんな人の傍にいられたら。
予測がつかなくて、毎日がドタバタで、きっと楽しいに決まってる。
笑いながら、亜笠は涙を流した。それは笑いすぎだったのか、それとも別の何かがあったのか、今でもわからないけれど。
その瞬間、亜笠誠一郎はその男に恋をした。
職場で酷い扱いを受けたことも、恋人に裏切られたことも、全部が吹き飛んだ。胸を締める重い憂鬱感もない。代わりに、あの人の傍で生きたいというその思いだけで胸がいっぱいだった。
やっと笑いを止めて、亜笠は踵を返した。満員の電車に揺られて職場を目指す。そこにはもう苦しみやつらさがなかった。
怒鳴り散らす上司にもにこやかに退職願を提出し、恋人に最後の連絡を入れた。その日のうちにアパートの解約手続きをした。
彼がくれた名刺だけがあれば、すべて事足りるような気分だった。
明日葉護――――株式会社河和青梅営業所、在庫管理部担当。
会社は青梅市。ひとまず立川あたりに家を借りて、そこから動けるようにしよう。彼はどこに住んでるんだろう。今この時も、どこかでわき目も振らずに仕事しているんだろうか――――
明日は何をしよう。
夜の電車に揺られながら、亜笠は迫りくる未来に思いを馳せた。
暗い窓に映るのは、幸せそうに微笑む青年の顔だった。




