ハワイアン・スレッジハンマー 世界J・ウエルター級王者 藤 猛(1940-)
”ハンマーパンチ”が代名詞の藤猛の人気は凄まじかった。日本人の世界チャンピオン経験者がフライ級とバンタム級しかいなかった時代にフェザーもライトも飛び越えてJ・ウエルター級である。約2ヶ月後に沼田義明が”東洋の閃光”と謳われた名王者フラッシュ・エロルデを攻略してJ・ライト級タイトルを獲得したが、沼田は玄人好みの技巧派であって、派手にKOの山を築いてゆく藤の前では影が薄かった。日本人の体格が小さかった時代、国内ではウエルター級は重量級と見なされており、「重量級チャンプ」という看板も藤の人気をさらに盛り上げることになった。
見てくれは古風な日本男児だが、話し始めるとヘンな外人。
リングの上では闘争心剥き出しのラフファイトを見せながら、勝利者インタビューでは人懐っこい笑顔とたどたどしい日本語で周囲の笑いを誘うところなど、まるで後年の具志堅用高のようだった。ただ強いだけでなくユーモラスなキャラクターが大衆受けした藤は、ひと頃は世界バンタム級チャンピオン、ファイティング原田もかくやというほどの人気を博していた。
藤猛ことポール・タケシ・藤井はハワイ出身の日系三世である。祖父の代に広島からハワイに移住し、父親も日本人と結婚したため、国籍はアメリカでも外国人の血は一滴も入っていない。初めて日本の地を踏んだのは海兵隊在籍中の昭和三十六年六月のことで、二年間厚木基地で過ごした後に除隊となった。そのため藤は外見こそ日本人でも、日本語はほとんど理解できなかった。
藤に物心がついた頃には日本は戦争で負けており、ハワイでも日系人の子供はよくいじめられた。しかし藤は気性が激しく腕力も強かったので、売られた喧嘩は買い、やがてアメリカ人、フィリピン人、プエルトリコ人といった近所の外国人までを従えるお山の大将になった。
ボクシングに興味を示すようになったのは幼稚園の頃からで、アマチュアボクサーだった父武男と旧知のエディ・タウンゼントのジムを覗いているうちにその魅力に取りつかれ、ジュニアハイスクールで本格的にボクシングを始めた。ハイスクール時代にハワイのアマチュアJ・ウエルター級、ウエルター級の二冠を制すると、ボクシングを続けるために入隊した海兵隊でも抜群の強さを発揮し、全米選手権で準優勝している。もしこの大会に優勝していれば、ローマオリンピックのアメリカ代表になるところだった。
日本で除隊した後は横浜の不動産屋で外国人相手の住宅斡旋業務に従事するかたわら、夜は酒びたりという自堕落な生活を送っていた。そんな藤には裏の顔があった。外国人専門のバーが軒を並べていた本牧から元町、南京町界隈では、「ヒゲのポール」と言えば、タチの悪い不良外人たちも恐れる危険な男だったのだ。
藤は一六八cmと小柄だが、怠惰な生活のため肥満しており、ウエイトだけならヘビー級だった。荒くれ者揃いのアメリカ海兵隊の中でも敵なしだった男にとっては、相手が大男の外国人であろうが何ら臆することはない。
日本人女性にからんでいる外国人、酔ってインネンをつけてきた外国人等々、藤は相手を選ばず片っ端からストリートファイトで叩きのめしていった。その勇名はやがてプロレス王力道山の耳にも届いてきた。
昭和三十七年二月、力道山はリキジムを開設し、プロボクサーの育成にも着手し始めたところだった。
軽量級中心の日本において、迫力では段違いの中量級・重量級の強打者を育てることが夢だった力道山にとって、藤のような名うてのストリートファイターは喉から手が出るほど欲しい素材である。早速手分けをして「ヒゲのポール」を探し出すよう指示したが、三十八年暮れに刃傷事件で急死したため、藤と直接会う機会はなかった。
同じ頃、不完全燃焼の日々を過ごしていた藤もまたボクシングを再開する決意を固めつつあった。昭和三十九年の正月明け、旧知のエディに相談しようと後楽園ホールの日本ボクシングコミッショナーを尋ねたところ、リキジムでトレーナーをしていたエディと連絡がつき、二人は十数年ぶりの再会を果たすこととなった。
すでに二十三歳の藤は、とてもボクシングができる体型ではなかったが、試しにサンドバッグを打たせてみるとパンチ力だけは凄まじかった。減量すれば何とかなるかもしれない、そう考えたエディは過酷な減量を条件に入門を許した。
トレーニング開始当初は、老け顔ということもあって練習生たちからは「太ったジジイ」と陰口を叩かれもしたが、日本人離れしたパワーを見せつけられているうちに、周囲もこの古武士然とした男が国産品ではなく、当時は舶来一流品の代名詞であった「メイド・イン・アメリカ」であることを実感し、一目置くようになった。
同じ頃、リキジムでトレーニングに励んでいたのが、日活に入社して間もない頃の渡哲也で、藤とはその頃から顔馴染みだった。藤が世界チャンピオンになった頃には、渡も若手アクションスターとして人気急上昇中だったこともあってか、二人揃ってトランクス姿で雑誌のグラビアを飾ったこともあるが、これは当代の人気者同士を組み合わせた芸能雑誌にありがちな演出などではなく、真の友人同士が過去を再現してみせていたのである。
昭和三十九年二月から本格的なトレーニングを開始した藤は、四月十四日のデビュー戦をKOで飾るや当たるを幸いなぎ倒し、五戦五勝(四KO)の好成績で一年目を終えた。まだボクシングは不恰好ながら、そのズバ抜けたパンチ力に恐れをなした上位ランカーが対戦オファーを拒むようになったおかげで、翌四十年は年始から五ヶ月ほどハワイのリングに立っていた(戦績は五勝三KO)。
その後、再来日した藤は、日本J・ウェルター級タイトル決定戦(六月十八日)で笹崎那華雄を一ラウンド四十五秒でKOし、従来の日本タイトルマッチの最短KO記録を大幅に更新した。
デビューからわずか一年二ヶ月でチャンピオンの座に就いたとはいえ、そのパワーボクシングはまだ荒削りでスタミナ面も未知数だった。それでも藤が数多くの試合を望みより強い相手を求めたのは、自身の年齢と、アマ時代に勝利したルイス・モリナやゲーブ・テレネスがすでに世界ランカーになっていることに対する焦りだった。
結果、ハワイで技巧派のジョニー・サントスを追いきれずに初黒星を喫し(十一月十六日)たばかりか、タフなフェル・ペトランザ(比)にはガス欠気味になったところでボディを狙い打たれ、屈辱的な六ラウンドKO負け(四十一年六月五日)と大きくつまずいた。
トレーナーのエディは「全ては経験」と割り切っており、連勝記録などに対するこだわりは一切なかった。話題性で藤を売り出す気なら、格下を相手に連続KO記録を作ることも可能だったかもしれないが、目先の話題性よりも世界に照準を合わせているエディにすれば、幾度もの修羅場を経験させることでメンタルを強化する方が先決だったのだろう。KO負けの余韻も覚めやらぬ藤に、気を休める暇もないほど次々と試合を組んだ。
この辺の切り替えの早さは何事にもポジティブなアメリカ人らしく、藤もKO負けからわずか二週間後に地方巡業でKO勝利すると、つきものが取れたかのように再びKO街道を驀進した。
久々に東京のリングに戻った九月二十九日には“根性男“渡辺亮をKOして東洋王座に就いたばかりのロッキー・アラーデ(比)を失神KOで屠り、東洋J・ウエルター級タイトルまで手に入れた。ここまでデビューからわずか二年半足らずである。
藤と従来の日本人ボクサーとの決定的なパワーの差の要因はフォロースルーにある。連打で倒すことに主眼を置いた日本人ボクサーはスピードとコンビネーションに磨きをかけてきたのに対し、藤は空振りの度に上体が半転するほど強く打ち抜くため、衝撃は段違いである。ただしベタ足で黒人選手のような柔軟性も持ち合わせていないため、攻撃が直線的でパンチの的中率は低かった。
デビューからしばらくの間は上体を小刻みに左右に振って相手に接近するスタイルで戦っていたが、空振りするとバランスを崩すという難点があった。それでも格下相手であれば、藤の獰猛な顔つきとパンチの迫力で気後れしてしまい、最後は藤の術中に落ちるのが常だったが、百戦錬磨の世界ランカークラスとなるとそうはゆかない。大振りな分、カウンターを狙い打ちされる危険性も出てくるからだ。
リキジムは藤が世界ランキング入りして間もなく世界J・ウェルター級チャンピオン、カルロス・ヘルナンデス(ベネズエラ)との対戦交渉に入っており、内諾を得ていたが、ヘルナンデスが四度目の防衛戦でサンドロ・ロポポロ(伊)に敗れたため、白紙撤回されていた。
ところが、藤を破ったペトランザが次期挑戦者候補に挙ったのも束の間、ペトランザはムサシ中野にKOされて脱落。ムサシは藤のライバルと目されていたが、一階級上のウェルター級のため、藤ともロポポロとも対戦は実現しなかった。
そうこうしているうちに、藤が世界ランクを上げ、ロポポロの二度目の防衛戦の相手に選ばれた。
ロポポロはデビューから三十連勝したこともあるテクニシャンで、KO負けの経験もないことから、藤の強打をもってしても歯が立たないのではないかという意見が多かった。これは、「顎割りパンチャー」の異名を取る強打のヘルナンデスがロポポロのディフェンスを破ることができなかったことと、日本のボクサーはフェザー級以上では世界に通用しないというコンプレックスが残っていたことによる。
金子繁治、高山一夫といった国内では無敵のフェザー級でさえ、世界チャンピオン相手となるとほぼ一方的にあしらわれているうえ、重量級のホープと言われた高橋美穂(東洋J・ウェルター級チャンピオン)が世界戦では非力なエディー・パーキンスにKOされた過去は、日本ボクシング界にとっても大きなトラウマとなっていた。
スピード主体の軽量級でこそ白井、原田、海老原のように世界王者を輩出できても、それに加えてパワーとタフネスが求められる中量級となると体格の問題もあって日本人では層が薄く、一撃でごつい外国人ボクサーを屠るほどのハードパンチャーも怒涛のラッシュを足でかわせるフットワーカーも育たなかった。
しかし、藤は顔つきや背丈こそ日本人と変わらないものの、生活環境はアメリカである。骨太で筋肉質な身体つきは日本人とは一線を画しているうえ、アマ時代から本場のパワーボクシングを仕込まれてきただけあって、KOに繋げるコツも熟知している。つまり一般的な日本人の中量級ボクサーとは土台が違っていたのである。ロポポロは、藤が日本人の仮面を被っているだけの米国製のハードパンチャーであることに気付かなかったのではないだろうか。
ロポポロ戦を控えてハワイから呼ばれたタッド河村トレーナーが藤に伝授したのがデンプシーロールの亜流である8の字ローリングである。
世界ヘビー級チャンピオン、ジャック・デンプシーでおなじみのデンプシーロールは、極端なクラウチングスタイルで上半身をローリングさせながら間合いを詰めてゆく攻防一体のテクニックである。
屈み込むような体勢のため、相手はジャブやストレートを当てるのが難しく、アッパーとフック主体の攻撃を強いられるが、不規則な上体の回転に惑わされなかなかクリーンヒットが奪えない。
逆にデンプシーは相手の空振りに合わせてローリングした勢いでパンチを放てるため、ダッキングやスウェーバックと違って防御から攻撃に移るまでのタイムラグが最小限に抑えられた。
藤の8の字ローリングは、左方向に弧を描くようにダッキングしながら起き上がってくる反動で左フックを放ち、その勢いで右方向にダッキングし、右からも同じ動作を繰り返すというものだ。この一連の動作を正面から見ると、数字の8を横にしたような軌道を描くため8の字ローリングと呼ぶ。
腰を落として身体の軸さえブレなければ、8の字軌道を連続してもパンチが流れないのが最大の利点だが、藤は左をわざと空振りするか、ガードの上に叩きつけておいてから、右のショートでボディ、あるいはすくいあげるようなスイング気味の右を顔面に叩き込むのが実に巧みだった。
藤は一見するとアウトレンジからでもビッグパンチを狙ってブンブン振り回すタイプのようだが、エディは天性の勝負勘とインサイドワークに長けたクレバーなボクサーと評価していた。
世界戦は一ラウンドに藤が撒いた餌にロポポロが食いついてしまったことが全てだった。
一ラウンドの藤は、まるで一発狙いかのように単発の左を次々と繰り出したが、大振りで攻めも単調なため、ガードを固めてカウンター気味のジャブで迎え撃つロポポロの前に空転を続けていた。試合後にロポポロが「第一ラウンドで勝てると思った」と述懐していたのは、この時点で藤のパンチを見切ったという確信めいたものがあったからに違いない。
二ラウンドに入っても、相変わらず大振りの藤に対して、一ラウンドはビッグパンチを警戒し、防御主体のボクシングに専念していたロポポロがにわかに積極的にパンチを繰り出すようになった。まだそれほど腰を入れて打っているわけではないため、藤に大きなダメージを与えるには至っていないとはいえ、狙い撃ちのカウンターが小気味良く決まり、藤の劣勢は誰の目にも明らかだった。
ところが三ラウンド後半、それまでほとんど大振りの左しか出さなかった藤が、左を空振りすると同時にダッキングしてロポポロのカウンターを外すと、8の字を描くように今度は右から返しのロングフックを顎に叩き込んだ。
ロポポロからすれば、左の軌道は見切っていたつもりだっただけに、それに合わせた自身の左がダッキングでかわされ、その後で伸び上がるような右がノーガードの顎目がけて繰り出されようとは、全く想像すらしていなかったはずだ。
藤が左ばかりフンブン振り回す不器用な強打者のように見えたのは全て芝居だったのだ。ロポポロの傑出した防御技術を打ち砕くためには、油断をさせてインファイトに持ち込む必要があった。だからこそ、ロポポロが「藤をKOできるかもしれない」と色気を出してくれるよう誘いかけ、ロポポロはまんまと騙されたというわけだ。
腰砕けになってダウンしたロポポロは、なんとか立ち上がったものの、もう足にきていて藤の追撃をかわすことはできなかった。イタリアのテクニシャンにボクシング人生初のKO負けを味わわせた藤は一躍時の人となり、彼のフィニッシュブローである左右のフックは“ハンマーパンチ”と称された。
ウィリー・クアルトーア(世界1位・西ドイツ)を迎えて行われた初防衛戦(十一月十六日)でも、一ラウンドから喧嘩腰でエキサイトする藤は逆上しているかのように見え、挑戦者の細かいパンチを無造作に浴びていた。
採点は三ラウンドまでイーブンだったが、藤の手数が減り、クアルトーアが防御主体の慎重なボクシングから攻めに転じようとした四ラウンド、ガードの隙間から飛び込んできた藤の左フックで棒立ちになったところに返しの右が炸裂し、唐突なフィナーレを迎えた。
全ては藤の計算どおりで、試合後はジョークが飛び出すほど余裕しゃくしゃくだった。前哨戦でペトランザにKOでお返しした際の右拳の負傷と試合直前の交通事故による軽いむち打ち症を抱えていた藤はコンディション不良を囁かれていたが、規格外のパンチ力がそんな杞憂を一蹴してしまった。
一部のボクシング関係者からは、結果としてKO勝ちしたとはいえ技術の進歩は全く見られず、ホセ・ナポレス(世界ウェルター級チャンピオン)のような超一流と戦えば、化けの皮が剥がれる、と藤のようなパワーボクシングに憧れるボクサーが増えることを危惧する声もあがったが、日本ではこれまで見られなかった豪快なボクシングに多くのファンは魅了され続けた。
人気ランキングでこそファイティング原田の牙城は崩せなかったものの、リップサービスが旺盛でマスコミ受けする藤は、王座獲得早々にペプシコーラと一千万円でCM契約を結ぶ一方、日活映画『藤猛物語・ヤマト魂』(封切は昭和四十三年二月十三日)で主演を務めるなど、本業以外でも引っ張りだこになった。
また興行面でも観客動員力が買われてファイトマネーはぐんぐんと跳ね上がり、ノンタイトル戦ですら一千万円の大台に乗っている。これは世界的な知名度を誇る原田の倍額に相当するばかりか、五十年以上経過した今日でさえノンタイトルでこれほどの高額報酬を得る日本人ボクサーはいない。
チャンピオンという看板で稼げるだけ稼ごうというのはアメリカ人である藤ならではのビジネスライクな考え方で、当時の日本人にはピンとこなかったのか、人気に比例して藤のがめつさが揶揄される機会も多くなった。
例えば、現在では当たり前の著名人の肖像権にしても、当時の日本ではグラビア撮影などを除けば、出版社が勝手に撮った写真を掲載したところで何の問題もなかったが、藤は記者会見での写真撮影にまでギャラを要求した。藤には悪気がなくとも、日本人の大半がファンサービスの一環ととらえていたことまでビジネスと割り切るというのは、金銭には比較的淡白な多くの日本人にとって眉をひそめるような行為だったのだ。
藤人気に翳りが見え始めたのは、再三の延期の末にようやく八月に開催が決定した世界4位のペドロ・アデグとの防衛戦を直前になってキャンセルした頃からだ。
四十三年四月二日のノンタイトル戦で元世界王者ロベルト・クルスをKOした際に痛めた拳の回復が遅れていたのに加え、ムチ打ちの再発で藤は急遽入院することになったが、過去にもファイトマネーの額で揉めて試合を延期した前科があっただけに、今回ばかりは藤を擁護する意見は少なく、仮病説まで飛び出す有様だった。
非難が集中した藤はやけになり発作的にコミッショナーに引退届けを提出する事態にまで発展したが、幸いこれは受理されず、十二月十二日にWBAの指名挑戦者であるニコリノ・ローチェ(アルゼンチン)との防衛戦に応じることで何とかタイトル剥奪は免れた。
二度目の防衛戦は藤の欠点が全て露呈した最悪の試合となった。
藤の突進を止めるためには強烈な左ジャブが必要であることは前から言われていたが、過去の対戦相手の多くはその迫力に圧されて腰の入ったジャブが打てなかった。しかし、ローチェの速く鋭いジャブは減量に失敗して動きの思い藤の顔面を面白いようにとらえた。
パンチを打とうとした瞬間に強烈なジャブを浴びると一瞬バランスが崩れるため、次の動作にスムーズに移れず、8の字ローリングの効果も半減してしまう。おまけにしばしばジャブで棒立ちになる藤に対しても警戒を緩めないローチェは、ロポポロやクアルトーアのような愚は冒さず徹底的に打ち合いは回避し続けた。
結局ローチェの左手一本に翻弄されていたずらにスタミナを消耗した藤は、十一ラウンドのゴングに応じることなく、半ば試合放棄の形で王座を追われた(十ラウンドTKO負け)。
ふがいない負け方で株を下げた藤だったが、日本ボクシング界最大のスター、ファイティング原田が防衛に失敗した昭和四十三年を境にボクシング人気が下り坂をたどり始めたこともあって、再起後も注目度は高く、肩書きが前王者となってもノンタイトル戦のファイトマネーは相変わらず高額だった。
ところが再起後の藤は勝つには勝っても何となく投げやりな試合が続き、三勝一引分(三KO)の成績を残してリングを去った(最後の試合は昭和四十五年五月三日のベニト・ファレス戦)。
藤には人気が出始めた頃から常に金銭面のトラブルがつきまとったがゆえに、「あいつの大和魂など嘘っぱちで金に汚いアメリカ人だ」などと陰口を叩かれることも少なからずあった。それが、藤がボクシングに対する情熱を次第に失っていった要因の一つだったことは間違いないだろう。
藤にまつわるトラブルを時系列で振り返ってみるとこうなる。
リキジムのあるリキ・スポーツパレスの売却に伴い、しばらくの間は複数ジムで練習するジプシー生活を強いられる(四十二年五月)
エディ・タウンゼントとの日本におけるマネジメント契約解消が発表され、その一週間後にエディが拳銃不法所持で逮捕(四十二年六月)
吉村会長と同乗していた自家用車が追突され、ムチ打ち症で入院(四十二年十一月)
防衛戦の延期をめぐるトラブルの渦中でコミッショナーに引退届を提出(四十三年八月)
ノンタイトル戦の無断キャンセルにより無期限出場停止処分を受ける(四十五年六月)
リキジムの創立者故力道山は各界に太いパイプを持つ有能なビジネスマンであった一方、あくまでもワンマン経営者で傘下のレスラーに対する報酬面ではシビアだった。ワンマン社長の急死後、リキジムの経営を引き受けた元秘書の吉村会長はおそらく力道山のやり方を踏襲したのだろう。
藤のファイトマネーが跳ね上がってもそれに見合った報酬を支払おうとしなかったばかりか、藤と個人的なマネジメント契約を結んでいるエディの存在も邪魔になってきた。
エディはハワイでの興行権を仕切るサム一之瀬やラルフ円福と親しく、藤のハワイ興行に大きな発言力を持っていたからだ。実際、タイトル獲得直後のハワイでの里帰り興行をめぐって会長とエディが対立し、すでに決定していたハワイ興行を延期して国内での興行を優先するという事態が起こっている。
今となっては真相は闇の中だが、当時もエディの逮捕は興行権をめぐる陰謀説が取り沙汰されていた(結局エディは不起訴)。
結果としてエディが排除されたことで、藤と吉村会長の意思の疎通を図りづらくなったことが、両者の溝を深めていったと思われる。残留したタッド河村はトレーナーとしては信頼性のおける人物だったが、元はアマチュアの指導者であってエディのようなショービジネスの世界の人間ではない。会長の言いなりになっているうちに、藤にジムに対する不信感が芽生えたとしても不思議はない。
仮にジムが不誠実なパーセンテージしか藤に支払っていなかったとすれば、人気相当の対価を求める藤を納得させるためには興行権を吊り上げるしかなくなり、内情を知らない興行関係者は興行権の高騰の要因は藤にあると邪推するだろう。ましてや当時の日本のジムでは徒弟制度的な主従関係が一般的であったことを考えると、しょっちゅう会長と揉めている藤はわがままな放蕩息子のように見えたはずだ。
では藤のようなビジネスライクな考え方が、伝統的な日本人精神に反するのかというと、実は全く真逆である。古来日本の侍の世界における主従関係はトップダウンではなかった。日本の封建制度というのはアジア圏では稀有な西洋式の双務的契約であり、功労に対する正当な対価が払われなければ、武士は別の主君に仕えることができた。血縁や地縁に依存した中国の封建制度が周王朝一代で終わっているのは、優秀な人材が飼い殺しになるシステムが王朝の発展を阻害したからに他ならない。
つまり藤こそが本来の侍スピリッツの持ち主であり、日本のボクシング界の方が非効率的な慣習を都合よく美化していただけのことだったのだ。百田家(力道山の遺族)の家計がリキジムの経営のみに依存しているからといって、力道山には何の恩義もない藤には、報酬を削ってまで男気を見せる理由などこれっぽっちもない。
人気と金のためにプロスポーツにエンターティナー的な要素を多分に持ち込んだのは在日朝鮮人の力道山だが、米国籍の日本人である藤が同様のビジネス感覚を持っていたとは奇妙な符合である。
心ならずもボクシング界を去ることになった藤が再びメディアに姿を現したのは、マーシャルアーツやプロ空手に代表される総合格闘技ブームたけなわの昭和五十三年のことだった。
三十七歳の藤はキックボクサーとしてカムバックしたのである。
とはいえ空手の経験などない藤はパンチで戦うしかなかったが、四月十日のデビュー戦では極真空手の東拳司をハンマーパンチで四度もマットに叩きつけ、一ラウンド一分三十秒でKO勝ちしている。
しかし、四月二十九日の二戦目では「キックボクサーなどハンマーパンチだけでKOできる」と豪語する藤に対し、キックを封印して挑んだ大手稔が健闘し、結果は引き分け。これで自身の限界を悟った藤は格闘技の世界から完全に足を洗うことになった。
引退後はハワイに戻り、自前のベンツで観光ガイドをしていた。
私は”ボクサー”藤猛は知らない世代だが、マーシャルアーツ人気に乗じて復活した藤猛のことは覚えている。試合こそリアルタイムで見た覚えはないが、”ハンマーパンチ”という呼称は私たちの世代でも有名だった。具志堅のパンチ力がフライ級では群を抜く150kgであるのに対し、藤はヘビー級並みの210kgという比較も話題になった。




