一匹狼のお願いごと
思考が固まりかけ、後ろから聞こえる足音ですぐに我に返る。
不来方に気づいたセツが、尻尾をブンブンに振り回しながら猛ダッシュで駆け寄ってきた。
これでもかと喜びを露わにするセツを見た不来方は、屈んで控えめに両手を広げる。
セツは空いた膝の上にぴょんと軽快に飛び乗ると、そのままぺろぺろと不来方の頬を舐め始めた。
——はしゃぎすぎだろ。
内心ツッコミを入れつつ、俺は率直な疑問を不来方にぶつける。
「あの……なんでここに?」
訊ねれば、不来方はいつもの冷たく透明さを湛えた表情で俺を見上げた。
「……例の約束、果たしてもらいに」
「約束……って、この前の件のことか?」
「それ以外に何があるの?」
怪訝そうに小首を傾げると、不来方はゆっくりと立ち上がる。
ごめんね、と床に降ろされたセツは、物寂しそうに彼女を見上げたが、帰る気配がないことを察したのか、未だに尻尾を振りつつも落ち着いた様子でフローリングの上に移動した。
「……まあいいか。とりあえず上がってくれよ」
いつまでも客人を立たせるわけにはいかないしな。
不来方をリビングに案内し、L字に配置された二つのソファのうち一人用ソファに座らせる。
それから来客用のコーヒーを淹れて、角砂糖とミルクと一緒に彼女の前に差し出した。
「……ありがと」
短く礼を言う不来方の膝の上では、セツが心地良さそうに丸くなっていた。
セツがここまで懐いてくれるのは嬉しいが、飼い主としてはちょっと複雑な気分だ。
まあでも、ずっと俺の膝の上ばっかりじゃ飽きるだろうし、心なしか不来方も満更でもなさそうなのでよしとしようか。
思いつつ、今度は自分用のコーヒーを用意する。
不来方にはちゃんとしたドリップコーヒーを提供したが、俺のはインスタントで十分だ。
目分量で粉を入れたマグカップに余ったお湯を砂糖とミルクを適当にぶち込んでから俺は、もう一つの二人用ソファに腰掛け、早速本題に入ることにした。
「——それで、具体的に俺は何をすればいいんだ?」
俺の単刀直入な質問に不来方は、僅かな沈黙を挟んでから、
「何もしなくていい」
予想だにしてなかった答えを返して来た。
まさかの発言に俺はつい「は?」と素っ頓狂な声をあげてしまった。
「いやいや……いやいやいや、ちょっと待てよ。マジで言ってんの、それ?」
あの時、念押しの確認をしてまで下した決断がこれかよ。
これじゃあ何の恩返しにもならねえじゃねえか。
けれど、俺を制するように不来方は、小さく嘆息を溢してから言葉を続ける。
「話は最後まで聞いて欲しいんだけど。私が言いたいのは、この子の様子を見にここに来させて欲しいってこと。それさえ許してくれるのなら、他は何もいらない」
「そ、そうか……」
不来方……そこまでセツのことが気に入ってくれたのか。
確かにセツは控えめに言って超絶可愛いし、不来方もそのことを分かってくれるのなら、これ以上飼い主冥利に尽きることはない。
だけど、果たしてその為だけにわざわざここに来る必要があるのだろうか。
セツの様子を見るだけなら、あの河川敷とか近所にある公園とか待ち合わせするだけでも良いわけだし。
——いまいち意図が掴めねえな。
それにセツが目的とはいえ、仮にもさほど仲良くない男の家に上がるのは、色んな意味であまりよろしくない気が——などと疑問を抱いていれば、
「……何?」
不来方から胡乱な眼差しを向けられた。
「ああ、いや……その、なんつーか……本当にそれでいいのかな、と。ほら、身の危険的とかそういう意味で……」
言い淀んでいると、今度は露骨にため息を吐かれた。
「変に警戒するくらいなら、まずここに来てない。これでもアンタのことは信頼してるつもり」
「えっと、お褒めに預かり光栄デス……?」
つまり、ある程度安全な人間だとは思われてることか。
それはそれで男としてどうなんだという話ではあるが、こっちに関しては一旦置いておくとしよう。
「不来方がそれで良いのなら俺は構わねえけど。でも、なんで俺の家なんだ?」
「寒いじゃん、外」
「まあ、そうだけど。けど、もう少ししたら暖かくなってくるぞ」
もうじき桜が開花する頃合いだし。
伴って、朝夕が冷え込む時期も一緒に終わりを迎えるはずだ。
しかし、不来方は膝の上で眠るセツの背中を優しく撫でながら言う。
「……それでも外にいるよりはずっとマシだから」
「あ……」
ひどく寂寥感がこもった声音だった。
初めて彼女の本心の一端が垣間見えたような気がして、これ以上は何も追及できなかった。
——互いにウィンウィンになるならいいか。
不来方がどんな事情を抱えてるかは知らないし、踏み込むつもりもない。
だとしても、ちょっとでも彼女の助けになるのなら、今はそれで構わないと心から思った。




