一匹狼と恩返し
数瞬の沈黙が流れる。
その間、不来方は呆気に取られたように目を丸くしていたが、
「いらない」
すぐに冷えきった瞳を向けて淡々と答えた。
——うん、だよな。
大旨想像していた通りの反応に堪らず苦笑する。
分かってはいたことではあるけど、こちらとしても「はい、そうですか」と頷くわけにはいかない。
ここで簡単に引き下がってしまっては、昨日と同じ失敗を繰り返すだけだ。
「そう言わずに。俺に出来ることなら何でもするから」
「くどい。だったら、もう私に構わないで」
鋭い目つきで凄まれるも、
「断る。それじゃあ何の恩返しにならねえでしょうが」
怯まず即答すれば、あからさまに不来方の表情が歪んだ。
まあ、そうもなるよな。
拒絶の意志を示してるのに、ずけずけと踏み込まれそうになっているわけだし。
俺だって同じ立場なら、きっと面倒に感じるだろう。
でも、ここで日和るくらいなら、初めからこんな望まれてないであろう提案はしていない。
「俺のやらかしが原因とはいえ、あんたには大切な家族を助けてもらってるんだ。だからよ、何かしらは得してもらわなきゃ、俺の気が済まねえ」
「助けたって……特に何もしてないけど」
「寒い中、セツと一緒にいてくれただろ。それだけで十分過ぎるくらいだ」
ここら辺は、県内ではかなり栄えているとはいえ、それでも都会から見れば東北の片田舎。
長いこと東京で暮らしてきた彼女にとっては、こっちの寒さは慣れない……というか、中々に堪えるだろう。
現地に住んでいる俺でさえ、今ぐらいの時間帯は肌寒く感じるし、昨日は特に気温も低かったしな。
昨日の冷えっぷりを思い返していると、不来方が「ねえ」と訝しげに訊ねてくる。
「……なんで、そこまでお礼したがるの?」
「なんでって……助けられたら、その礼をするのは、当たり前のことだろ。……でもまあ、強いて理由を挙げるなら、母親の教え、かな」
「母親の……?」
小首を傾げる不来方に俺は、「おう」と短く頷く。
誰かに助けてもらったり、親切にしてもらったら、自分も同じように助けてあげたり、親切にしてあげなさい——というのが、母の教えである。
言われたから守るってわけではないが、それでも俺の行動の指針の一つにはなっている。
「そういう訳だから、セツを保護してくれた礼は何が何でもさせてもらうからなぁ……!」
「なに、その変な言い回し……」
不来方は暫し当惑していたが、やがてセツを見下ろすと、半ば観念したように小さくため息を吐いた。
「——なら、好きにしなよ」
「よし!」
俺はぐっと拳を握り締めてから、改めて不来方と向き合う。
「じゃあ、近いうちに何して欲しいか考えておいてくれ」
「……あ、今日じゃないんだ」
「いきなり言われてもリクエストなんてすぐには思いつかないだろ。だから、ゆっくりでいいよ。あと俺から提案しておいてなんだけど、今の状態で遠くまで出歩くのはキツイです」
「ああ、そういえば脚痛めてるんだったね」
不来方が俺の両脚を一瞥しながら言う。
「なんだ知ってたのか」
「知っているっていうか……事あるごとに痛い痛い言っててうるさかったから」
残念な物を見るような眼差しが俺に突き刺さる。
「だってマジで痛かったんだもん……」
今だって腰を下ろすと痛いから、突っ立ったまま話しているわけだし。
というか……こいつ、案外周りのこと見てるんだな。
全てに対して我関せずみたいな態度を取っていたから、なんか少し意外。
内心、そんなことを考えつつも、
「つーことだから、また明日な——」
踵を返そうとして、ふとリードから抵抗が伝わってきた。
振り返れば、セツが不来方の膝の上で、この場を離れまいと踏ん張っていた。
「あの、おセツさん……?」
いやまあ、抵抗してるといっても小型犬の力だ。
ちょっとその気になれば、無理矢理動かすことはできる。
……できはするんだけど、セツがこんなに拒み方をするとか初めてなんだよな。
それくらい不来方の膝の上が心地が良いのだろうか。
何にせよ、初めて見せる反応に少し戸惑いを隠せずにいると、不来方が俺とセツを交互に見遣る。
それから今の状況をなんとなく察したのか、小さな嘆息を溢した。
「……いいよ、途中まで付き合ってあげる」
「え、いいのか?」
まさかの発言に思わず訊き返す。
見た感じあまり乗り気ではなさそうだが、
「じゃないと帰れないんでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
頷けば、不来方は「ごめんね」と辛うじて聞こえる声量でセツに呟くと、セツを優しく地面に降ろして立ち上がった。
「それじゃ、道案内よろしく」
そして、何歩か進んだところで、くるりと振り返り、
「ほら、行くよ」
「お、おう……」
弾むような足取りで彼女に付いていくセツを横目に、河川敷を後にした。
河川敷から家に向かうまでの間、不来方との会話はほぼほぼ皆無だった。
彼女は俺の後ろを黙って歩き、遠くの景色を感慨深そうに眺めていた。
近くに車通りの多い道路こそ通っているものの、ぱっと目に映るのは、田んぼに畑に雑木林に山に山——俺からすれば退屈なものでしかないが、都会暮らしの長かった不来方からすれば、多少は真新しく感じるのかもしれない。
四方見渡す限り山が連なってるなんて田舎特有っつーか、東京じゃまず見ない光景だしな。
とはいえ、全く会話がないことはそんなに大したことではない。
成り行きで行動を共にしているだけで、大して仲が良いわけでもないし、お互い積極的に会話を弾ませにいくタイプでもない。
だからまあ、この程度は想定していた範疇のことではあった。
ちょっと予想外だったのは、不来方が結局家まで付き添ってくれたことか。
これに関しては、度々別れようとした彼女をセツが控えめに引き留めたことが原因なんだけども。
離れようとする度、目を潤ませたセツに見つめられると、毎回小さなため息を溢してから、
「……もうちょっとだけだから」
とまあ、こんな感じで帰るのを取り止めるうちにとうとう家の前まで到着してしまったっていう流れだ。
なんかやけにセツへの対応が甘い気がするが、つっこむのは野暮か。
「——なんか、最後まで付き合わせちまって悪いな」
「別にいいよ。他にこれといってやることもないし」
「それならいいんだけどよ……」
口振りからして、本当に気を遣って言っているわけではないのだろう。
だとしても、ここまで付き添わせてしまった以上、手ぶらで帰させるわけにはいかない。
——確か冷蔵庫の中に親父が前に職場から貰ったちょっと高級そうな缶ジュースがあったはず。
口に合うかは分からんが、とりあえずそれだけでも持って帰ってもらおう。
「ちょっとここでセツと待っててくれ。今、何か飲み物持ってくるから」
「え? あ、ちょっと……」
少し強引ではあるが、断られるよりも先にセツを繋いだリードを不来方に預け、俺は家の中に入る。
それから急ぎ足でリビングに入った直後——、
「あだっ!!」
地面に散乱していたタオルを踏んだことで滑ってバランスを崩し、後頭部を床に叩きつける形でド派手にすっ転んでしまった。




