変なやつ
「へ?」
思ってもいなかった発言に間の抜けた声で返すと、不来方ははっと目を大きく見開いた。
「……ごめん、やっぱり今のなし。忘れて」
ほんのり頬を赤く染めて、俺から顔を逸らす不来方。
今すぐにでもここから逃げ出したさそうにしていたが、セツを起こしてしまうからか、その場から動けずにいた。
——合鍵、か。
数瞬、俺は思考を巡らせてから、
「……少し待ってな」
「え、ちょっと……!」
ソファから立ち上がり、部屋を出る。
「確か……ここにしまってたか」
それから玄関に立ち寄ってからリビングに戻り、玄関から取ってきた物を不来方に手渡す。
「はい、合鍵。一つしかないから失くさないようにな」
そして、ソファに座り直せば、不来方は唖然と俺を見つめると、肩を竦めてため息を溢した。
「……ねえ、今、忘れてって言ったよね」
「おう、言ったな」
「だったら、なんで……?」
彼女の疑問は尤もだ。
確かにここで彼女の意思を汲んで、聞かなかったことにすることもできた。
けれど——、
「今要望に応えないと、なんやかんやで無かったことにされそうな気がしたから」
「別にそんなことは……というか、なんでこうもあっさり鍵を渡すの? 言い出した私が言うのもなんだけど、少しくらい警戒を——」
「する必要ないだろ。少なくともお前相手には」
不来方の発言をぴしゃりと遮り、断言する。
「俺だって誰彼構わず大事な家の鍵をポンと渡しはしねえよ。それこそ昔から付き合いのある慶司……同じクラスの岡崎が相手でもやんないっつーの」
「……だったら、なんで私には渡したわけ?」
「んなの、信頼してるからに決まってるだろ。不来方なら合鍵を渡しても悪用しないって」
不来方が変に警戒しないで俺の家に来てくれているように、俺だって彼女のことをかなり信用しているつもりだ。
そうでなければ即決で鍵を渡す判断なんか出来るわけがない。
俺の答えがよっぽど予想外だったのだろう。
目をぱちくり瞬かせる不来方に俺は続けて、
「それにさ。今日、俺、体育祭の実行委員に立候補したじゃん。多分、その関係で帰りが遅くなる日も出てくると思うんだよ。そうなったら、合鍵持ってた方が色々と便利だろ」
俺が家に不在でもセツに会いに来れるし、わざわざインターホンを鳴らして中から鍵を開けてもらう手間も省ける。
ついでにセツも誰かと一緒にいる時間が減らずに済む。
全員に何かしらの利がある我ながら一石三鳥のナイスアイデアだ。
あと——いや、これはいいか。
この件に関しては触れるべきではないと、直感が告げている。
「そういうわけだから、そいつは不来方が持っててくれよ。セツの為だと思ってさ」
そう言えば、不来方は何か言いたげにこちらをじっと見つめていたが、ちらりと眼下のセツを一瞥すると、
「……そこまで言うなら、その——お借りします」
恭しく鍵をパーカーのポケットの中にしまってみせた。
* * *
人気のない夕闇の中をゆっくりと歩く。
道沿いに建てられた街灯はまばらで、周囲を見渡した先にあるのは、閑静な住宅街と田んぼ。
更に遠くに目を向ければ、四方を山々が覆っている。
東京ではまず目にすることのなかった風景をぼんやりと眺めながら聖蘭は、心の中で自分に問いかける。
——このままで大丈夫なのかな、と。
ここに引っ越してからずっと漠然とした不安が全身に纏わりついている。
……いや、こうなるようになったのはその少し前からだったか。
「どうでもいい」
思考を振り払うように声に出す。
だが、そんなことで不安が消えることはなく、むしろ聖蘭の中で膨れ上がっていくばかりだ。
和らぐのは、あの温もりに触れている間くらいか。
あの日、自分と同じで帰るところが分からなくなってしまったあの子犬の温もりを感じるあの瞬間だけ——。
絞り出した声は、土と緑の匂いを含んだ風に溶けてあっという間に消えていく。
訪れた静寂は不思議なくらい心地が良くて、無性に泣きたくなるくらい聖蘭の心をちくりと突き刺した。
一つ息を吐いた後、気を紛らわそうとポケットの中に入れたワイヤレスイヤホンを取り出そうとして、別の物に指先が触れる。
それは、先ほど半ば無理矢理押し付けられる形で借り受けた同級生の家の合鍵だった。
「……本当に、変なやつ」
鍵を手渡された時のことを思い出しながら、ぽつりと呟く。
あの時は色々屁理屈を捏ねられて結局押し切られたが、それでも彼は肝心なことには一切触れなかった。
きっと、分かっているはずなのに。
私が——あまり家にいたくないことを。
聖蘭はワイヤレスイヤホンと一緒に預かった鍵をポケットから取り出す。
鍵を手のひらに収めたままイヤホンを装着すると、ノイズキャンセリングが外界の音を遮断する。
とは言っても、風の音が消えた程度であまり変化がなかったが、僅かな雑音すらない人工的に生み出された静けさは、聖蘭の心を少しだけ落ち着けた。
スマホから楽曲を再生し、ケースをポケットにしまう。
それでも聖蘭の手のひらには、彼の家の鍵が握り締めたままだった。




