逃げたワンコと一匹狼
俺が不来方聖蘭と初めてまともに言葉を交わしたのは、日中に家から脱走してしまっていた飼い犬のセツを方々探し回った末のこと。
「……この子、アンタのところの子?」
吹き抜ける風がまだ肌寒い四月の夕暮れ。
彼女が河川敷沿いにある高架下からセツを抱えて俺の前に姿を現した時だった。
俺——陸奥将道が今月から通い始めた高校には、一匹狼と呼ばれている美少女がいる。
不来方聖蘭。
背中まで伸ばした黒髪は軽やかで透明感があって、真っ白で滑らかな肌はまるで柔らかな月の光を彷彿とさせる。
獣のように鋭くも長いまつ毛に覆われた大きく丸い瞳は、見られるだけで身が竦むような威圧感を放ちつつも、それでいて否応なく惹きつけられるような美しさを誇っている。
加えて、入学と同時に東京から越してきたことも相俟って、学年内だけでなく他学年からも顔と名前を覚えられるくらいには、彼女はちょっとした有名人となっていた。
けれど、異様なまでに整った容姿に反して、彼女の評判はあまり芳しいものではない。
というのも、一匹狼なんて揶揄されるほど周囲に一切馴染もうとしない協調性の無さのせいだ。
おまけにいつも仏頂面なおかげで、入学直後こそ色んな生徒が彼女に話しかけにいっていたが、次第に関わろうとする人間はいなくなり、一週間もすれば完全に孤立してしまっていた。
まあ、それでもとびきりの美人には変わりないから、告白は度々されてはいるみたい——当然と言うべきか、その悉くが撃沈している——だけど。
そういうこともあって、正直俺も彼女に対してあまりポジティブな印象は抱いていない。
なので、傍目から眺めるだけなら申し分ないが、どうにかお近づきになったり、あわよくば甘酸っぱい関係になれたら……なんて浮ついた考えは一切浮かんでこなかったし、仮に望んだとしてもそうなれるとは微塵も思わなかった。
一応、彼女とは同じクラスではあるが、きっと大して関わることなく一年が過ぎていくのだろう、なんて漠然と思っていた。
——セツを両腕で優しく抱き抱えている姿を目の当たりにするまでは。
そもそもの話、元を辿れば全ての原因は、俺がちゃんと戸締りをしないで家を出てしまったことに尽きる。
学校に向かう途中でその事に気づいたものの、わざわざ鍵をかけるためだけに戻るのも面倒だったし、これまで何度か忘れたことはあったけど、特にこれといって困ることもなかったから、今回も大丈夫だろう、と高を括っていた。
その結果が半端に開いた玄関の扉ともぬけの殻と化したリビングである。
家中探してもセツを見つけられなかった時は、冗談抜きにこれまで生きてきた中で一番肝が冷えたね。
だからまあ、誰が悪いかと言うと、もれなく百パー俺なわけで、今こうして全身汗だくになってあちこち走り回っているのも、猛烈な不安と吐き気に襲われているのも、何もかも俺の自業自得でしかない。
「セツ! おーい、セツー!」
大声で呼びかけながら、家から大分離れた河川敷沿いの道を駆け足で進んでいく。
ここには一、二度だけ散歩で連れて来たことしかなかったが、他のめぼしい場所にはいなかったので、一縷の望みにかけてやって来ていた。
もしここにもいなかったら、完全にお手上げだ。
その場合は、保健所やら警察やらに相談して、あと親父にも連絡して——などと半分真っ白になっている頭で必死に思考を回していた時だ。
ふと前方の高架下に人影が見えたのは。
(あれは……!)
薄暗くて視界は悪かったが、着ていた制服とダークグレーのパーカー、それと背負ったスクールバッグで誰なのかはすぐに分かった。
——不来方だ。
なんでこんな時間にこんな場所に、という疑問はあるが、今そんなことはどうだっていい。
重要なのは、地面に座っている彼女が白い何かを大事そうに抱えているということだ。
小さくてもふもふした白い子犬らしき何か——。
視認できた直後、俺は彼女の元へ駆け出していた。
セツの特徴と一致していたからだ。
少し遅れて不来方も俺が駆け寄って来ていることに気が付くと、立ち上がってこちらに向かってゆっくりと歩いて来る。
高架下を出て俺の前の立った彼女の両腕には、白くてふわふわした毛並みのマルチーズが抱かれていた。
「っ、セツ!」
瞬間、込み上げてきた安堵から俺は、堪らずその場にしゃがみ込んだ。
「ああ、マジで良かった……!」
気温が低いせいか小さく縮こまっているが、どこも怪我した様子はなく、普通に元気そうだ。
本当に何事もなくて良かった。
けれど、安心したのも束の間、
「……この子、アンタのところの子?」
——静謐で透き通った声。
見上げれば、不来方が俺に冷たい眼差しを向けていた。
彼女の鋭い目つきについたじろぎそうになるも、乱れに乱れた息を整えながら答える。
「ああ、セツっていうんだ。俺が学校行ってる間に脱走しちまって超絶焦ってたんだけど、保護してくれて助かったよ。ありがとな、不来方」
「……別に。ただ、この子が車に轢かれでもしたら寝覚めが悪かったってだけ」
言って、不来方は小さくため息を溢すと、
「それより、陸奥……だったっけ?」
「お、おう」
「この子の飼い主ならもっとちゃんとしなよ。私が偶然見つけたから何事もなく済んだけど、そうじゃなかったら今頃どうなってたか……」
「うぐ」
ぐうの音も出ない正論だった。
声色的に別に怒っているわけではなさそうだったが、俺を捉える瞳は完全に冷め切っていた。
とはいえ、呆れられるのも仕方ない。
セツはまだ生後半年だ。
そんな幼い子犬が一匹で外を出歩こうものなら、どんな事態になったとしてもおかしくない。
それこそ車に轢かれたりといった何らかの災難で命を落とす可能性だって十分に考えられたわけで——。
「とにかく、マジでありがとな。本当に感謝してる。今度、何か礼を——」
「いらない」
俺が言い切る前にぴしゃりと遮ると、不来方はセツを俺に預けてそのまま横を通り抜けた。
「あ、おい……!」
咄嗟に声を掛けるも、彼女は振り返ることなく足早にこの場から去っていく。
追いかけようにもついさっきまであっちこっち駆けずり回っていたせいで、もう走れるだけの体力が残っておらず、遠ざかる背中をただただ見送ることしかできなかった。
「……ったく、なんだってんだよ」
親切にセツを保護してくれてたと思ったら、急に突き放すような態度を取ってきて。
あいつの思考が全く分からねえ。
……けれど、きっと周りが思っているよりはずっと優しい奴なのかもしれない。
湯たんぽみたいに身体が温かいままのセツに顔をペロペロと舐められながら俺は、彼女に対して持っていた認識を改めた。




