悪魔(メフィストフェレス)の代償 - 帝国の黄昏
石炭と魔石の煤煙が立ち込める工業都市アウグスブルクで、ハンス・ミュラーは毎朝同じ時刻に目を覚ました。妻グレーテの寝息を聞きながら、彼は天井の染みを数える。十七個。昨日と同じ数だった。変わらないものがあることに、どこか安堵していた。
王立機械工廠への道のりは、蒸気馬車の轟音と魔導街灯の青白い光に包まれている。石畳に響く工員たちの足音、遠くから聞こえる汽笛の音。帝国の心臓部とも言えるこの都市で、ハンスは歯車の一つとして五年間働き続けてきた。そして五年前、彼はグレーテと結婚した。
当時のグレーテは、工廠の事務室で働く地味な女性だった。茶色い髪を後ろで束ね、厚い眼鏡をかけ、いつも書類に向かって黙々と作業をしていた。ハンスが彼女に惹かれたのは、その控えめな美しさと、時折見せる優しい微笑みだった。二人の恋愛は静かで、穏やかで、工業都市の喧騒の中にあって小さな安らぎを与えてくれた。
結婚式は質素だった。教会ではなく、市役所での簡単な手続きと、同僚たちとのささやかな祝宴。グレーテは古いドレスを着て、はにかみながらハンスの腕にすがった。「幸せです」と彼女は言った。その言葉に嘘はないと、ハンスは信じていた。
変化は結婚から三年後に始まった。ある朝、ハンスが目を覚ますと、隣に寝ているのは別人のような女性だった。グレーテの顔だが、肌は磁器のように白く滑らかで、髪は絹のように輝いていた。眼鏡は不要になり、露わになった瞳は宝石のように美しかった。
「どうしたんだ?」ハンスは驚いて尋ねた。
「新しい化粧品を試したの」グレーテは微笑んだが、その笑顔にはどこか影があった。「気に入った?」
ハンスは頷いたが、心の奥で違和感を覚えていた。化粧品でこれほどまでに変わるものだろうか。しかし、美しくなった妻を見て、彼は密かに誇らしさも感じていた。
やがてグレーテの美貌は工廠内で話題となった。男性職員たちの視線が彼女を追い、女性たちは嫉妬の眼差しを向けた。グレーテ自身も変わった。以前の控えめさは影を潜め、自信に満ちた振る舞いを見せるようになった。そして、高級な服を着るようになり、貴族街の社交界に出入りするようになった。
「お金はどこから来るんだ?」ハンスが尋ねると、グレーテは曖昧に微笑んだ。
「新しい仕事よ。貴族の奥様方の美容相談員として働いているの」
ハンスは信じたかった。しかし、夜遅く帰宅する妻の服には、見知らぬ男性の香水の匂いが染み付いていた。
そして先月、ハンスは決定的な証拠を目にした。貴族街のカフェで、グレーテが見知らぬ男性と親密そうに話している光景を。男は中年の貴族らしく、高価な魔法石の装飾が施された杖を持っていた。二人は人目を憚ることなく手を繋ぎ、男はグレーテの耳元で何かを囁いていた。
その夜、ハンスは妻に問い詰めた。
「あの男は誰だ?」
グレーテは一瞬動揺したが、すぐに冷たい表情を作った。
「仕事上の付き合いよ。あなたには関係ない」
「夫婦なのに関係ないだって?」
「夫婦...」グレーテは嘲笑うように呟いた。「私たちが本当に夫婦だったことがあるの?あなたは機械のことしか考えない。私の気持ちなんてどうでもいいのでしょう?」
その言葉は、ハンスの心を深く傷つけた。確かに彼は仕事に没頭していた。蒸気機関の改良に夢中になり、妻との会話を疎かにしていたかもしれない。しかし、それでも彼は彼女を愛していた。
それから三週間、二人の間に会話はなくなった。グレーテは毎晩遅く帰宅し、ハンスは一人で夕食を取った。工廠の仲間たちは気を遣って声をかけてくれたが、ハンスは愛想笑いを浮かべるだけだった。
そして、運命の夜が訪れた。
午前二時過ぎ、ハンスは異様な気配で目を覚ました。空気が重く、電気を帯びているような感覚。寝室の向こうから、低い男の声が聞こえる。
「時が来た、美しき魂よ」
その声は、この世のものとは思えない響きを持っていた。ハンスは慌てて起き上がり、居間へと向かった。
そこで彼が見たものは、悪夢のような光景だった。黒いフロックコートを着た長身の男が、グレーテの首を片手で掴んでいる。男の周囲には古い文字で描かれた魔法陣が浮かび上がり、赤い光を放っていた。グレーテの美しい顔は恐怖に歪み、声にならない悲鳴を上げていた。
「グレーテ!」
ハンスが叫び声を上げると、男はゆっくりと振り返った。その顔は完璧に整っていたが、瞳の奥には地獄の炎が燃えているようだった。唇には残酷な微笑みが浮かんでいる。
「ほう、夫君の登場か」男の声は蜂蜜のように甘く、同時に毒のように危険だった。「私はメフィストフェレス。君の美しい妻とは、古い約束がある」
「離せ!」ハンスは男に飛びかかろうとしたが、見えない力に阻まれ、壁に叩きつけられた。
メフィストフェレスは優雅に一礼した。「自己紹介が遅れた。私は誘惑の悪魔、契約の履行者。ファウスト博士をはじめ、数多の人間と取引をしてきた」
ハンスの視線がグレーテに向かった。妻は顔を逸らし、震えていた。
「五年前、君の妻は私と契約を結んだ」メフィストは淡々と語った。「永遠の美貌、男性を魅了する力、そして富を手に入れる機会。その代償として、彼女の魂を私に差し出すと約束した。そして今夜、その時が来た」
ハンスの世界が音を立てて崩れ落ちた。妻の美しさが、自分への愛が、すべて悪魔の契約によるものだったのか。
「グレーテ...本当なのか?」
グレーテはついに顔を上げた。涙に濡れた瞳は、以前の優しさを取り戻していた。
「ごめんなさい、ハンス。私...あなたに見てもらいたくて。愛してもらいたくて。でも間違っていた。あなたは最初から私を見てくれていたのに」
ハンスの記憶が鮮明に蘇った。五年前のあの日。突然美しくなったグレーテに心を奪われた瞬間。しかし、それ以前から彼は彼女に好意を抱いていたのではなかっただろうか。彼女の真面目な働きぶり、同僚への優しさ、小さな気遣い。美貌に惑わされて、それらの記憶が薄れていただけなのかもしれない。
「君が彼女を愛したのは、私の魔法があったからこそだ」メフィストが冷笑した。「人間の愛など、所詮は表面的な魅力に過ぎん。美しさが失われれば、愛も消える」
「違う」ハンスは立ち上がった。血が頬を伝っていたが、彼は気にしなかった。「俺がグレーテを愛したのは、彼女の心を知ったからだ。美しさなんて関係ない」
「では、なぜ彼女は他の男を選んだ?」メフィストの声に嘲りが込められていた。「君の愛では物足りなかったからではないのか?」
その言葉は、ハンスの胸を鋭く貫いた。確かにグレーテは貴族の男性と関係を持った。金と地位のある男を選んだ。しかし、それでも─
「それでも俺は彼女を愛してる」ハンスの声は静かだが、揺るぎない決意に満ちていた。「人は間違いを犯す。俺だって完璧じゃない。でも、愛することをやめる理由にはならない」
メフィストの表情が変わった。興味深そうに、そして僅かに驚いたように。
「興味深い。では、取引をしよう」悪魔は杖を床に突いた。瞬間、部屋全体が赤い光に包まれる。「君の妻の魂を解放してやろう。だが、代償が必要だ」
「何が欲しい?」
「君の肉体だ」メフィストの瞳が燃え上がった。「私は長きにわたり、この物質界に完全な形で顕現できずにいた。君の身体を器として借り受ければ、この世界で自由に活動できる。妻の命と魂、そして彼女の美貌─すべてを元に戻してやろう。その代わり、君の身体を私によこせ」
ハンスは迷わなかった。グレーテを見つめ、そして悪魔に向き直る。
「いいだろう」
「ハンス、だめ!」グレーテが叫んだ。「私なんかのために...私はあなたを裏切ったのよ?なぜそこまで?」
ハンスは妻に歩み寄り、頬に手を当てた。
「愛してるからだ。それ以外に理由がいるか?」
彼の手は温かく、グレーテはその温もりを五年ぶりに感じた。魔法による美貌も、悪魔との契約も、すべてが色褪せて見えた。
「契約成立」メフィストが宣言した瞬間、ハンスの身体に変化が起こった。
意識が薄れゆく中、ハンスは幼い頃の記憶を思い出していた。父親が語ってくれた古い物語。善が悪を打ち負かす話、愛が憎しみに勝利する話。しかし現実は物語とは違う。善良な者が必ずしも報われるわけではない。それでも、愛することには意味がある。
「どうして...」グレーテの嗚咽が聞こえた。「どうして私なんかを...」
ハンスの意識が完全に闇に沈む直前、彼は最後の言葉を紡いだ。
「君が...幸せになれば...それで十分だ」
メフィストフェレスはハンスの身体を動かし、鏡を見た。平凡な機械技師の顔が映っている。しかし、その瞳にはもはや人間の温もりはなかった。
「素晴らしい器だ」悪魔は満足そうに呟いた。「この身体で、帝国の人々の欲望を存分に満たしてやろう」
グレーテの美貌は瞬く間に失われた。魔法石のような輝きを失った髪、普通の女性に戻った容貌。しかし、彼女の瞳には以前にはなかった深い悲しみと、同時に何かへの理解が宿っていた。
その後、メフィストフェレスはハンスの身体を使って帝国中を巡り、新たな契約者を探し続けた。欲望に駆られた人々は、次々と悪魔の誘惑に落ちていく。美を求める女性、権力を欲する政治家、知識に渇く学者たち。
一方、グレーテは小さなアパートで一人暮らしを始めた。工廠を辞め、貧しい子供たちに読み書きを教える教師となった。時折、街でハンスの姿を見かけることがあったが、その男はもう彼女の知っているハンスではなかった。冷たい微笑みを浮かべ、人々を誘惑する悪魔の化身となっていた。
それでも、グレーテは毎晩祈った。ハンスの魂が、どこかで安らかに眠っていることを。そして、いつか彼の愛が報われる日が来ることを。
帝国は大戦の足音を聞き始めていた。古い秩序が崩壊し、新しい時代が幕を開けようとしている。魔法と蒸気の時代もまた、終わりを迎えようとしていた。
しかし、人間の愛だけは変わらない。たとえ悪魔が世界を支配しようとも、真実の愛は永遠に残り続ける。ハンス・ミュラーという平凡な男が示した無償の愛は、一人の女性の心を永遠に照らし続けることになった。
そして風の噂では、静かな夜に工廠の近くを歩く者は、今でも蒸気機関の音に混じって、優しい男性の声を聞くことがあるという。
「君が幸せになれば、それで十分だ」
その声は、消えることのない愛の証として、アウグスブルクの夜に響き続けている。