クラリス外伝:わたしの居場所は、あなたの隣
その日、私は屋敷の正門前で風に揺れるバラを見ていた。
白く、儚げに咲く一輪。その隣には、どこか頼りなげな青年の姿。
「ようこそ、エーデルローゼ邸へ」
彼──レオン・ウィンベルグは、緊張した面持ちで門をくぐってきた。
質素な旅装、真っ直ぐな眼差し、どこか影を引きずる静けさ。そのすべてが、私の心の奥を揺らした。
(……ああ、似ている)
亡き父を思い出した。口数は少ないけれど、誰よりも優しくて、あたたかい背中。
レオンの姿には、あの人と同じ“寂しさを抱えている誰か”の匂いがあった。
それが、私が彼に惹かれた始まりだった。
「ご期待に添えるよう、精一杯努めます」
ぎこちなく頭を下げる彼の姿は、決して完璧ではなかった。
でも──だからこそ、放っておけなかった。
「ふふ。そんなに肩肘張らなくていいのよ。ここでは、あなたも大切な“家族”なんだから」
私の言葉に、彼はわずかに目を丸くし、それから小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は確信していた。
(この人に、ここにいてほしい)
華やかな貴族のパーティーも、飾られた社交の場も、私にはもう必要なかった。
それよりも、日々の生活のなかで静かに交わされる、あの笑顔を守っていたい──そう思った。
それから数日、彼は真面目に、丁寧に、与えられた仕事をこなしていった。
庭の手入れをしながら、落ちた花びらを一枚ずつ拾い上げるような、そんな優しさ。
重い箱を運ぶメイドを見かければ、無言で手を差し伸べる行動力。
どれもこれも、当たり前のようでいて、当たり前ではない“気配り”だった。
私は気づけば、彼の姿を目で追っていた。
仕事の合間、廊下の窓から見える中庭、紅茶の香りが漂う時間……
(……どうして、こんなに気になるんだろう)
令嬢として育てられた私は、恋などほとんど縁がなかった。
でも、そんな私が思ったのだ。
(もっと知りたい。もっと近くで、彼の笑顔を見たい)
この気持ちに名前をつけるには、まだ少しだけ時間がかかるけれど。
──この日を、私はきっと忘れない。
“癒やしの管理人さん”と初めて出会った、あの白いバラが揺れていた日を。
***
レオンが屋敷に来てから、季節がひとつ変わろうとしていた。
彼は変わらず真面目で、控えめで、けれど誰よりも誠実だった。
私が淹れた紅茶の温度にも、花壇の花の配置にも、毎回ちゃんと気づいてくれる。
落ち葉の掃除を手伝ってくれた日なんて、私が箒を持つ前に手袋を差し出してくれたくらいだ。
(……もう、ずるい人)
優しさが自然すぎて、心がくすぐられてばかり。
彼と並んで歩く庭の小道。何気ない一言に微笑む彼の横顔。
それだけで、一日がきらきらと色づいて見える。
(こんなふうに思うのは、きっと“恋”なんだろうな)
そう気づくのに、時間はかからなかった。
でも、彼のほうは──少しも私を“特別”として見ていないようだった。
それどころか、どこか一線を引くように接してくる。
紅茶のおかわりを注ごうとすれば、「ご自分でお召し上がりください」なんて丁寧に断られるし、 夜に少し話したくて部屋を訪ねれば、「明日でも構いませんよ」とやんわり拒まれてしまう。
(そうよね……私は“ご主人様”で、彼は“使用人”だもの)
彼の態度は、決して失礼ではない。
でも、それが逆に悲しかった。
私は、レオンにとって“誰でもない人”なんだろうか。
優しい笑顔の向こうに、誰も踏み込ませない距離を感じて──胸が、少しだけ痛んだ。
ある日の午後、彼が蔵書庫で本を整理しているのを見かけた。
黙々と動くその背中が、ひどく遠く感じられた。
だから、私は声をかけずにそっと去った。
もし今、呼び止めて振り返ってくれなかったら、泣いてしまいそうだったから。
その夜──私は初めて、ひとりで紅茶を淹れた。 彼と一緒に飲むときは、甘めに淹れていたけれど。
今夜の紅茶は、やけに苦かった。
***
リシェルとレオンが中庭で笑い合っているのを、書斎の窓から見かけたのは、ほんの偶然だった。
リシェルは明るくて、気さくで、誰とでもすぐに打ち解けられる子だ。
レオンとも、まるで昔からの友人のようにじゃれ合っていた。
冗談を言い合いながら肩を突き合わせて笑うふたりの姿が、どうしようもなく眩しくて。
(……私には、できないこと)
あんなふうに自然体で、近くにいられるのが、少しだけ羨ましかった。
もちろん、彼女に悪気がないのは分かっている。
むしろ、ああしてレオンに笑顔を届けてくれていることを、ありがたいとも思っている。
でも、胸の奥に小さな棘のようなものが刺さる感覚を、私は初めて味わった。
(どうして、こんな気持ちになるのかしら)
私は彼の笑顔が好きだった。
私に向けてくれた、あのささやかな微笑み。
それが誰かに向けられるだけで、こんなにも苦しいなんて。
夜、ベッドの中で、ひとりで思い返す
リシェルの笑い声と、レオンの楽しげな声が、胸の奥に反響する。
「……私、嫉妬してるのね」
呟いた自分の声が、あまりに情けなくて、枕に顔をうずめた。
貴族令嬢として、恥じないようにと育てられてきた。
気高くあれと、品位を保てと、何度も教えられてきた。
なのに──たったひとりの笑顔を独り占めしたくて、心がこんなにもぐちゃぐちゃになるなんて。
でも、それでも。
(レオンの隣は、誰にも譲りたくない)
その想いだけは、どうしても譲れなかった。
それはきっと、初めて誰かを好きになった私の、精一杯のわがまま。
***
その夜、私はランプを手にして、静かに廊下を歩いていた。
レオンの部屋の前に立つと、胸の奥がぎゅっと縮こまる。
ノックするか迷って、でもそれでは躊躇ってしまいそうで──私はそっと、扉を開けた。
「レオン、起きてる?」
彼が驚いたようにこちらを見た。その顔を見た瞬間、足がすくみそうになった。
(どうして来てしまったの……?)
自分でもわかっている。
本当は、癒やしも、感謝も、口実にすぎなかった。
私はただ、レオンの隣にいたかっただけ。
でも、その気持ちを正直に言う勇気は、私にはなかった。
「……少しだけ、そばにいてもいいかしら?」
彼が「どうぞ」と頷いてくれて、ほっと胸をなで下ろす。
ああ、よかった。
追い返されたらどうしようって、ずっと怖かったの。
彼の隣に座って、肩に寄りかかる。
言葉は交わさなくても、彼の体温がすぐそばにあるだけで、心がふっと落ち着いていった。
「お仕事、お疲れさま。レオンは……いつもがんばってるわね」
そう呟きながら、彼の髪を撫でる。
この仕草が、彼の疲れを少しでも和らげるなら──そんなふりをしながら、私はただ触れていたかっただけ。
(もっと触れていたい。もっと近くにいたい)
そう願った時には、もうベッドの縁に腰を下ろしていた。
もし、ここで「出ていってください」と言われたら……きっと私は、立ち上がれなかった。
けれど、彼は拒まなかった。
戸惑いながらも、私の言葉や仕草を受け止めてくれた。
その夜、私はひとつのことに気づいた。
私は彼を“癒やしたい”のではなく── “愛されたい”と思っていたのだ、と。
そう気づいたとき、胸の奥が痛むように熱くなって。
涙が落ちそうになるのを、どうにか笑顔でごまかした。
(ありがとう、レオン)
あなたが受け入れてくれたこの優しさを、私はきっと、一生忘れない。
***
朝、レオンの部屋に立ち寄ったとき──
私はリシェルと彼が並んで眠っている姿を、確かに見た。
彼のシャツを羽織って、彼の腕に寄り添って眠るリシェル。
穏やかな寝息と、柔らかい寝顔。
胸が、少しだけ痛んだ。
でも、私は笑った。
無理にでも、笑おうと思った。
「おはよう、レオン」
彼の目がゆっくりと開いて、私に向けられる。
その瞬間、痛みは少しだけ和らいだ。
……ああ、やっぱり。
私は、彼の隣にいたい。
それだけでいい。
リシェルに敵うとは思っていない。
でも、負けるとも思っていない。
ふたりの間に割って入るのではなく、
そっと隣に並んで、彼の心をあたためていけたら──それでいい。
“癒やす”という言葉は、きっと彼だけのものじゃない。
私自身も、彼の存在に救われていたのだと、今ならはっきりわかる。
泣きたい夜もあった。
誰にも言えない不安に震えた夜も、あった。
それでも私が“私”でいられたのは、
彼の優しさが、日々の中に確かにあったからだ。
(ありがとう、レオン)
この気持ちは、伝えられなくてもいい。
伝えて、すぐに届かなくてもいい。
ただ、あなたの隣にいられるのなら。
私は何度でも、あなたに恋をするから。
この屋敷で、何気ない毎日を過ごしながら──
私は、きっとこれからも、あなたを見つめ続ける。
それが、私の選んだ“幸せのかたち”だから。