【短編小説】心のトンネル[恋愛]
綾音が「トンネル好き」になったのは、小学生の頃のある体験がきっかけだった。夏休みの家族旅行で訪れた山間のドライブコース。窓の外に広がる緑の風景は、やがて灰色のコンクリート壁へと変わった。トンネルに入ったのだ。車内は一瞬静まり返り、ライトの明かりが壁に揺らめく。そのとき、綾音は妙な感覚に囚われた。無音のようでいて、どこかで響いているような音。トンネルの奥から誰かが呼んでいるような、かすかな残響。
「なんか、ちょっと怖いね」助手席の母がそう言ったのを覚えている。だが、綾音は怖さよりも不思議な魅力を感じた。それ以来、綾音はトンネル探索に惹かれるようになった。廃道や隧道の写真を集めるうちに、「トンネル探索オフ会」の存在を知った。気後れしつつも参加してみると、意外にも同年代の若者が数人集まっていた。その中で、礼儀正しく落ち着いた青年・達也と、寡黙で冷淡な雰囲気の悠人が特に印象に残った。
オフ会終了後、達也が「もう少し話さない?」と声をかけてきた。悠人は黙って後ろに立っていたが、達也の誘いには何も言わずついてきた。三人は喫茶店に入り、これまで訪れたトンネルの話をした。「ここのトンネル、入ると少し湿った空気がするんですよね」「こっちは、壁の模様が独特だったな」そんなマニアックな話で盛り上がるうち、綾音は気づけば二人に心を許していた。
その日を境に、綾音は達也と悠人とともにトンネル探索に出かけるようになった。週末のたびに待ち合わせ、地図を片手に古い隧道や廃道を巡る。「ここ、1890年代に掘られたんだって」達也はトンネルの歴史に詳しく、古い資料や工事記録まで調べてきては語ってくれた。悠人は達也の隣で静かに聞いているばかりだったが、いざ現地に行くと、道の崩れやすい箇所や危険な足場を素早く見抜く頼もしさがあった。
ある日、山奥の廃道に向かう途中、綾音は達也と並んで歩きながら、ふと尋ねた。「悠人さんって、トンネルのこと好きなんですか?」「あいつは別にトンネル好きじゃないよ」達也は笑いながら答えた。「俺の付き添いっていうか……まぁ、そういう感じ」その言葉の意味が気になったが、悠人の無表情を思い出すと、それ以上は聞けなかった。
トンネルの探索が終わると、三人はよく食事に行った。達也が「ここのカレーがうまいんだ」と提案すると、悠人も黙ってついてくる。会話の輪に加わることはほとんどなかったが、綾音がふと目をやると、悠人はいつも達也の言葉にしっかり耳を傾けていた。綾音は、そんな二人の関係が不思議だった。まるで悠人は、達也の影のように寄り添っている。——それでも、達也がいると不思議と安心できた。綾音はいつしか、トンネル探索の予定が何よりも楽しみになっていた。
「なあ、聞いたことあるか? トンネルの中で声がするって話」その日、三人は都内の喫茶店にいた。探索の帰り道に立ち寄った店で、食後のコーヒーを飲みながらの雑談だった。「声?」綾音が聞き返すと、達也はカップを片手に微かに笑った。「迷信みたいな話だけどさ、トンネルって音が反響するだろ? それがたまに、人の声に聞こえるって話があるんだよ」「へえ、面白いですね」綾音が興味を示すと、達也は少し声を落とした。「実は……俺も、聞いたことがあるんだ」その言葉に、悠人がスプーンを置いた。「助けて、って声だった」達也の表情はどこか沈んでいた。「最初は空耳かと思ったけど、はっきり聞こえたんだ。振り返ったら、誰もいなかった」「それ、気のせいだろ」悠人が静かに口を挟んだ。その声音はいつになく鋭かった。
「まあ、そうだろうな」達也は苦笑したが、綾音は彼の表情がどこか引っかかった。それから数日後、三人は再び探索に出かけた。訪れたのは山奥の旧道にある、石造りの古いトンネル。入り口には苔がびっしりと張り付き、湿気を含んだ冷たい空気が流れ出していた。「ここ、雰囲気あるな……」綾音がつぶやくと、達也が「声がしたの、こういう感じの場所だった」と言った。不安を覚えつつも、綾音は二人のあとに続いてトンネルに足を踏み入れた。
トンネルの中は昼間でも薄暗く、空気はひんやりと肌にまとわりついた。壁には古いレンガがむき出しになっていて、ところどころ剥がれ落ちた跡が黒く染まっている。「思ったより長いね……」綾音が呟くと、達也が懐中電灯を壁に向けた。「この造り、明治時代のものだな」達也が歴史の話をし始めると、綾音の緊張は少し和らいだ。だが、悠人は後ろで黙ったまま、まるで何かを警戒するかのように辺りを見回していた。
トンネルの中央に差し掛かった頃だった。——「……けて……」耳の奥に、かすかな声が響いた。「……え?」綾音は思わず立ち止まり、後ろを振り返った。薄暗い通路の奥には、悠人が無表情のまま立っているだけだった。「どうした?」達也が振り返り、綾音の隣に並んだ。「今……声、聞こえませんでした?」その言葉に、達也の表情が一瞬曇った。「お前まで変なこと言い出すな」悠人が苛立った声で割り込んだ。その態度に気圧され、綾音は「気のせいかな……」と呟き、歩き出そうとした。
だがその時——。「……助けて……」今度ははっきり聞こえた。綾音は思わず声のした方を見た。そこで目にしたのは、顔をしかめ、額に汗を滲ませた達也の姿だった。「達也さん?」声をかけた瞬間、達也はふらりと足をもつれさせ、その場に崩れ落ちた。「達也!」悠人が駆け寄り、肩を支える。達也はうめき声を漏らしながら、か細く「……声が……近づいてくる……」と呟いた。その言葉が、綾音の背筋を冷たいものが走るような感覚を呼び起こした。
「……あの日、俺は死にかけてたんだ」数日後、達也は綾音にそう打ち明けた。あの夜の出来事が気になって、綾音が「体調は大丈夫ですか?」と連絡すると、達也は「話したいことがある」と言って喫茶店に呼び出したのだった。「数年前、あるトンネルで事故に遭ったんだ」
達也は静かに話し始めた。その日、達也は恋人と二人で車に乗り、山奥の旧道をドライブしていたという。人気のない狭い道で、途中にあった古いトンネルに興味を惹かれ、車を降りて歩いてみることにした。「最初は普通だった。でも、トンネルの真ん中あたりに来たとき、突然、天井から石が落ちてきたんだ」その石は達也の頭をかすめ、額を切った。驚いて振り返ると、さらに大きな岩が恋人の頭上に落ちかけていた。
「……咄嗟に彼女に手を伸ばした。でも、俺が引っ張ったせいで彼女は転んで……瓦礫の下敷きになった」達也は苦しげに目を伏せた。「そのあと、悠人が助けに来てくれた。偶然、俺たちの車を見かけたらしい。でも、瓦礫の下にいた彼女は……」その先の言葉は、かすれ声となって消えた。
「それ以来、トンネルに行くと、彼女の声が聞こえるんだ。『助けて』って……」綾音は何も言えなかった。達也が向き合ってきたその痛みの深さを思い、胸が締めつけられるようだった。「それでも、俺はトンネルに行くのが怖くないんだ」達也は力なく笑った。「彼女の声を聞けるなら、あの場所に行くのも……悪くないって思ってる」綾音はその言葉に、どう返せばいいのか分からなかった。
「……あの日、俺は助けられなかったんだ」不意に声を上げたのは悠人だった。喫茶店の隅で黙っていた彼が、ゆっくりと達也の隣に腰を下ろした。綾音が驚いて顔を向けると、悠人は珍しく目を伏せ、何かを押し殺したような声で続けた。「あの時、俺がもう少し早く駆けつけていたら……彼女は助かったかもしれない」「悠人……」達也が声をかけるが、悠人はかぶりを振った。
「本当はずっと……お前に言えなかったことがある」悠人の声は震えていた。「俺、彼女のことが好きだったんだ。ずっと片想いしてた。だから、助けられなかったことが……悔やんでも悔やみきれなかった」その言葉に、達也は息を呑んだ。綾音も何も言えなかった。悠人は奥歯をかみしめ、さらに言葉を続けた。「お前がトンネルに行くたびに声を聞くって話……俺にはそれが、罰のように思えて仕方がなかった。お前が罪の意識を背負うことで、俺が楽になろうとしてるんじゃないかって……」悠人の手が小さく震えていた。その様子を見た達也は、静かにその手を握った。
「……お前のせいじゃないよ」達也の言葉は穏やかだった。その声に、悠人の肩がかすかに揺れた。「俺が助けられなかっただけだ。だから、もう自分を責めるな」その言葉がきっかけになったのか、悠人は目を伏せたまま、ぽつりと「……悪かったな」とだけ言った。彼の声は、小さく震えていた。綾音は静かに二人を見守っていた。達也の抱える喪失と、悠人の背負った罪悪感。綾音は、その痛みに寄り添いたいと強く思った。
「もう一度、行ってみようと思う」数日後、達也はそう言った。行き先は、彼が事故に遭ったあのトンネルだった。「……本当に行くんですか?」綾音は思わず聞き返した。達也が声を聞くようになったのは、まさにそのトンネルからだった。それなのに、再び訪れるなんて——。「声の正体を確かめたいんだ」達也の声には、迷いがなかった。隣にいた悠人は無表情のまま「……勝手にしろ」と言った。
数日後の週末、三人はそのトンネルに向かった。山道を進むにつれて霧が濃くなり、空気はひんやりとしていた。トンネルの入り口は思ったより小さく、苔がびっしりと壁を覆っていた。入り口には「通行止め」の立て札が掛かっていたが、三人は黙ってロープをまたいだ。「無理しないでくださいね」綾音が声をかけると、達也は「大丈夫」と笑った。その笑顔はどこか無理をしているように見えた。トンネルの中に入ると、湿気が肌にまとわりついた。達也が懐中電灯を掲げ、綾音はその後ろを歩いた。悠人は無言のまま最後尾に立ち、時折後ろを振り返っていた。トンネルの中央に差し掛かったときだった。
「……来るな……」突然、達也がつぶやいた。「え?」「……声が、聞こえる……近づいてくる……」達也は震える声でそう言い、立ち止まった。
「達也!」悠人が声を上げた。彼の声は張り詰め、普段の冷静さは消えていた。「行くな! お前が行けば、終わるんだ……!」その言葉の意味が分からず、綾音は戸惑った。達也は青ざめた顔で立ち尽くし、耳を押さえながら「……やめろ……やめてくれ……」と繰り返していた。トンネルの暗闇の奥から、何かが近づいてくるような気がして、綾音の背筋が凍りついた。
「お前が行けば終わるんだ!」悠人の声は震えていた。暗闇の中、綾音は彼が達也の腕を掴んでいるのが見えた。「悠人、どういう意味?」綾音が問いかけると、悠人はかぶりを振った。「……俺は、知ってたんだ」悠人の声はかすれていた。「達也が声を聞くのは、彼女のせいじゃない。あの日、あいつが最期に言った言葉……」「……お前を助けて、って……」綾音は息をのんだ。
「彼女は、最期に達也のことを頼んでたんだ。『自分はいいから、達也を助けて』って……」「……嘘だろ」達也が呟いた。「ずっと言えなかったんだ。お前が彼女の声を聞くたびに、俺はそれが彼女の怨念なんじゃないかって思ってた。けど違った……。お前が生きてるのが、彼女の願いだったんだよ……」悠人の声は、苦しげにかすれていた。「だから……お前が行っちゃだめだ。お前が行けば、あの声は消えるかもしれないけど……お前まで……」悠人は言葉を詰まらせた。
「……大丈夫だよ」そう言ったのは、綾音だった。彼女はそっと達也の手を取った。「声はきっと、達也さんの心の傷が生み出してたんです。彼女は、あなたの中に生きてるんです。だから、もう無理に応えようとしないで……」達也はしばらく目を閉じ、ゆっくりと深く息をついた。「……そうだな」その声は、ほんの少し穏やかだった。悠人は目を伏せ、達也の肩にそっと手を置いた。「もう……終わったんだな」誰ともなくつぶやかれた言葉が、静かなトンネルの奥に消えていった。
数日後、綾音のスマートフォンに達也からの連絡が入った。「……もう、声が聞こえなくなった」電話越しの達也の声は、どこか晴れやかだった。「そうですか……よかった」綾音は心から安堵した。達也が再び声を聞くのではないかという不安がずっと頭の片隅にあった。彼の声が以前よりも穏やかに聞こえるのが何よりの証拠だった。
「また、どこかのトンネルに行かない?」達也の提案に、綾音は思わず笑った。「懲りないですね」「俺、やっぱりトンネルが好きなんだよ。あの静けさが、落ち着くんだ」「……私もです」それから数日後、綾音と達也は新しい探索に出かけた。場所は小さな町外れにある煉瓦造りのトンネル。古いが趣のある場所で、入口には草が生い茂っていたが、整備されていて歩きやすかった。
「こういうところ、いいですね」綾音がつぶやくと、達也は「うん、静かで気持ちいい」と笑った。その笑顔は以前よりも柔らかかった。「悠人さん、元気かな……」ふと綾音が言うと、達也は目を細めて空を見上げた。「あいつなら大丈夫さ。きっと自分の中で、何かに区切りをつけられたんだと思う」「そうですね……」静かな風が二人の間を通り抜けた。トンネルの先に差し込む光が、まるで希望のように綾音には感じられた。
トンネルの出口に近づくと、暖かな日差しが二人を包んだ。光に目を細めながら、達也はふと立ち止まった。「……俺さ」達也がぽつりと口を開いた。「これからは、もっと前を向いてみようと思うんだ」「前を……?」「彼女のことは、忘れられない。でも、いつまでもその痛みに縛られていたら、彼女が望んでいたことと違う気がしてさ」達也はゆっくりと綾音の方を見つめた。その瞳に迷いはなく、どこか吹っ切れたような穏やかさがあった。
「それでさ……これからも、綾音と一緒にトンネル探索ができたらうれしいな」綾音はその言葉に驚いた。だが、次の瞬間、心が温かくなっていくのを感じた。「……私も、ぜひ」気づけば、自然と笑みがこぼれていた。「それと……」達也はためらいがちに口を開いた。「その……これからは、もっと個人的に会えたら……うれしいなって」綾音は一瞬、言葉を失った。しかし、達也の真剣な目を見て、静かにうなずいた。
「……私もそう思ってました」達也の表情がふっとほころび、柔らかい笑みがこぼれた。帰り道、綾音はふと空を見上げた。青空に白い雲がゆっくりと流れている。その雲の隙間から、どこかで見ているかのように、優しい光が差し込んでいた。「きっと、悠人さんも元気にしてますよね」「そうだな」二人は歩調をそろえて並び、ゆっくりとトンネルを後にした。まるで新しい一歩を踏み出すように。