7.
しばらくすると、遠くから号令や太鼓のような合図が聞こえ始めた。どうやら討伐隊が山岳地帯へ出発するらしい。最前線にいる兵士たちが交戦すれば、後方の医療班に負傷者が担ぎ込まれてくる。
案の定、それからそう長くは経たないうちに、最初の救護要請が入った。小規模の魔族の群れを相手にしたらしいが、毒を使う魔物が混じっていたとかで、毒矢を受けた兵士が次々に運ばれてくる。
「アデル、急ぎで解毒薬を! ……はい、そこの兵士さん、まずは傷を洗浄しますからじっとしていてくださいね」
「う、うっ……熱い、でも……痛みが和らぐ……?」
わたしは手分けして仲間たちと処置を進める。毒の影響で意識が混濁している人には魔力を送り込み、体内浄化を促す。すぐ隣ではほかの手伝い組が包帯や薬を用意する。
「こっちも頼む! 切り傷が深い!」
「了解です、すぐ行きます!」
野営地の医療区域はあっという間に修羅場と化した。叫び声やうめき声が響き渡り、血と薬草の匂いが混ざり合う。慣れない若者たちは必死に動き回り、わたしも忙しさのあまり息をつく暇がない。
だが、それでも王都から派遣された医師や、ほかの薬師もいるおかげである程度は回せているようだ。
ふと隣を見やると、彼女——新しい聖女は、神官や騎士に守られながら、重症らしい兵士の治療にあたっている。金色の光が眩しく辺りを照らし、患者の傷がみるみるうちに塞がっていく。彼女の放つ光は、確かに圧倒的な神聖力だと思われる。
ところが、その治癒の場面を一部始終見ていた王都兵の医術師が、ひそひそと呟く声が聞こえてきた。
「……聖女様の奇跡、以前より不安定ではないか? 回復の光が暴走しかけているような……」
「しっ。下手に口にすると危険だ。殿下も聖女様も、とにかく派手な奇跡を求めてるんだ。無粋なこと言うんじゃない」
そう言えば、わたしも微かに違和感を覚える。あの光は眩しいばかりか、時おり激しく揺らめくように見える。もし制御できていないなら、患者に余計な負担をかけることになりかねないが……。
(……余計な口出しはしないほうがいい。今は自分の役目に集中しなくちゃ)
自分にそう言い聞かせ、次の患者へ向かおうとした瞬間、突如として山のほうから地鳴りのような衝撃が響いてきた。まるで大地が揺らぐほどの衝撃音に、兵士たちが一斉にざわめく。
「何だ!? 山から煙が上がってないか?」
「魔族が集結しているのかもしれない……急いで偵察を!」
野営地でも警戒態勢が敷かれ、戦闘準備を取る兵たちの声が飛び交う。医療班は後方で待機するように言われたが、もしこれから大規模な衝突が起きるなら、今以上の負傷者が発生するはず。
そのときだった。わたしの傍へ、息を切らした兵士が駆け寄ってきた。
「セレスさん! 街のほうに戻っていた隊員が、奇妙な魔物の一団を目撃したそうです! どうやら街の裏手、森を回り込んで基地を奇襲するつもりらしいって……!」
「何ですって!? それじゃあ、前線に集中している間に背後を突かれる形になるわ。大丈夫なの……?」
「わかりません。でも、領主から派遣されている“あの黒鎧の男”が動き出したとかで……」
黒鎧の男の名が出た瞬間、胸がずきりと疼く。この危機的状況下で、あの人はいったい何をするのだろう。——もし噂の通り“魔王”なら、むしろこの混乱を望んでいるのか、それとも……。
考えている暇もなく、周囲がさらに慌ただしくなる。指揮官クラスの兵士が「あちらの道を封鎖しろ」「魔導師隊は防壁を張れ」など次々と指示を飛ばし、医療班のなかにも臨戦態勢を取る者がいた。
「ここに攻め込まれたら大惨事よ。救護している人たちも危険に晒される……」
わたしは一瞬、店に置いてきた物資や街の人たちのことが頭をよぎる。あちらにも防御隊はいないわけではないが、もし強大な魔物が回り込んできたらひとたまりもないかもしれない。
すると、不意に鋭い声音が響いた。
「この程度の混乱、私の奇跡で収めてみせますわ。皆、慌てないで」
新しい聖女だ。彼女はまばゆい光を放ちながら、神官たちを引き連れてテントの中央に立つ。
「私が“浄化の光”を広範囲に展開して、魔物どもを一掃してさしあげます。……兵士たちは安全を確保して下がりなさい」
それを聞いた周囲の兵士たちが色めき立つ。
「なるほど、聖女様の広域奇跡なら一網打尽だ!」
「確かに、危険を冒して前線に出ずとも、彼女の力で数多の魔物を滅せられれば被害は抑えられる」
ざわめきが広がり、隊長をはじめとする指揮官たちも「うまくいけば一瞬で事態が解決する」と期待を寄せている。
しかし、わたしの胸には不安が募った。以前から感じていたあの力の“揺らぎ”が気にかかる。もし大規模に行使し、力が制御不能になったら……。
「……大丈夫なのかしら」
思わず小声で呟くと、聖女の護衛騎士がこちらを睨む。
「失礼なことを言うな。聖女様のお力を信じろ。お前は黙って治療を続けていろ」
彼らがまったく疑いを持たないのも無理はない。聖女は王国のシンボル。圧倒的な癒しや浄化の奇跡を起こす特別な存在なのだから。
わたしは口を噤み、作業に戻る。——どのみち、わたしにどうこう言う権利はない。万が一何かあれば、できる範囲で動くしかないのだ。
緊迫の空気が満ちたまま、時間だけが過ぎていく。山のほうでの激しい音は断続的に聞こえ、背後を回り込む魔物もまだ行方が掴めていないらしい。
そんなとき、前線基地の端のほうが急にざわつき始めた。何事かと目をやると、黒い鎧を身につけた男が姿を現したのだ。
兵士たちが一瞬身構えるが、黒鎧の男はまるで堂々とした王のように人々を押しのけながら、真っ直ぐこちらへ向かってくる。
「……あのっ、あんたは……!」
「邪魔をするな。俺はここへ来ただけだ」
人垣をかき分けた末、男の視線はわたしを探し当てた。強烈な眼差しが一直線に向けられ、心臓が早鐘を打つ。
わたしが思わず固まっていると、彼はぐいと腕を引き寄せてくる。
「ちょ、ちょっと……!?」
「お前、こんな混乱の中心で好き勝手に働いている場合じゃないだろう。こんな連中のために骨を折って、利用される気か?」
少し低い声が耳元に響き、ぞくりとする。彼はいつもどおり“俺様”な態度だが、その言葉にはどこか苛立ちが滲んでいる。
「別に、利用されてるわけじゃないです。街や兵士の皆さんが困っているなら、助けたいだけ」
「ふん。まあいい。……だが、覚悟しておけよ。すぐに大事が起きる」
「大事……?」
「そう遠くないうち、‘あちら’が制御不能になる。俺にはわかる」
そう言いながら、黒鎧の男の視線は少し離れた場所にいる聖女へ向けられていた。まるで何かを見通すかのように、冷徹な光が宿っている。
わたしの胸は緊張で強張るが、事情を知る余裕はない。今は患者たちが優先だ。
「わたしはここを離れません。まだ治療を待っている人もいるし、あなたが何者だろうと、今さら振り回されるのは御免なの」
きっぱりとそう言うと、黒鎧の男は意外にもわずかに口元をほころばせた。
「はは、嫌に強気だな。……上等だ。その生き方を貫け。ただし、俺の言葉を頭の片隅に入れておけよ」
周囲の兵士たちは、わたしと黒鎧の男の奇妙なやり取りを遠巻きに見つめている。中には「まさか彼が魔王なのでは?」と疑う声も飛び交うが、断定する証拠もなく、迂闊に手を出せないらしい。
男は最後にわたしの肩を軽く叩き、来たときと同じように人垣を突き破りながらどこかへ消えていった。
「セレスさん、大丈夫ですか……?」
仲間たちが心配そうに駆け寄る。わたしは息を整えながら頷いた。
「う、うん。行動は荒っぽいけど、特に危害を加えられたわけじゃないから……」
ただ、あの言葉がどうにも引っかかる。“あちらが制御不能になる”——つまり、新しい聖女が起こす大規模な奇跡が暴走し、何か取り返しのつかない事態を引き起こすのではないか。
——まさか、そんなことが起きては困る。
この戦場で彼女の力が暴走すれば、助かるはずの命も巻き込まれるし、ベルタス全体に甚大な被害が及ぶかもしれない。
わたしはその可能性をかき消すように、再び治療に没頭するしかなかった。
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