6.
朝から雲行きが怪しい。冷たい風が吹きつけ、ベルタスの石畳には灰色の影が落ちていた。
その空気を象徴するかのように、街全体がどこか張り詰めた雰囲気に包まれている。原因は、辺境に派遣されてきた王都兵と地元の兵士・冒険者たちの間で繰り返される摩擦、そして“新しい聖女”の存在による混乱。
わたし——セレスは、店の扉を開ける前から嫌な胸騒ぎを覚えていた。昨夜、黒鎧の男(おそらくは“魔王”と噂される彼)が起こした衝突でけが人が続出したばかりだというのに、今朝は妙に兵士たちの足音が響いている。
「何か始まるのかしら……」
扉を開けて外へ出ると、慌ただしく行き交う王都兵の姿が目に入った。彼らは一斉に街の外れへ向かっているようだ。地元の兵士や冒険者たちもそちらへ合流している。
どうやら、辺境での“大規模な魔物討伐作戦”が本格的に始まるらしい。数日前から「近くの山岳地帯に魔族の大群が出没する」という報告が相次いでおり、領主からの命令で討伐隊を組織することになっていた。そこに王都兵たちも加わって、一気に根絶やしにしようというのだ。
作戦の規模はかなり大きいらしく、街の北門を出てすぐの荒野に、仮設のテントがいくつも張られていた。いわゆる“前線基地”を設営して、そこを拠点に山中へ攻め込む算段なのだろう。
「セレスさん、おはようございます!」
わたしに声をかけたのは、手伝いに来ている若い兵士のひとり——アデル。彼は手に包帯や薬瓶の詰まった木箱を抱えている。
「おはよう。皆、準備を始めているのね。わたしも治療用の薬を運ぶわ」
「いえ、重いものは任せてください。先生……じゃなかった、セレスさんは回復魔法で体力を使いますから、あまり無理をしないで」
彼は真面目な瞳でそう言い、ほかの仲間たちも次々に荷物を運び出している。最近この店を手伝うようになった若者たちは、救護活動にも意欲的だ。
わたしが店の奥から薬箱を取り出し、アデルに手渡すと、外から人声が聞こえてきた。どうやら王都兵の指揮官が通りかかったらしい。小柄だがきりりとした面差しの女性騎士で、皆から「隊長」と呼ばれている。
「そちらの薬師殿か。これより前線基地へ同行し、医療班に加わってもらいたい。用意はいいな?」
簡潔な口調で指示され、わたしは躊躇なく頷く。先日、黒鎧の男との話の中で“自由を侵さない範囲での協力”と決めていたが、これだけの規模なら一般市民も巻き込まれる恐れがある。わたしが役立つのなら喜んで協力したいと思った。
「もちろんです。わたしの手伝いをしてくれる仲間たちも連れて行きますが、構いませんね?」
「構わぬ。そなたの腕前は評判だ。大勢で来てくれたほうが助かる。こちらにも宮廷の医術師がいるが、戦線が広がれば手が回らぬからな」
そう言って隊長は急ぎ足で立ち去る。その背を見送りながら、わたしは複雑な思いを胸に抱く。
というのも、“宮廷の医術師”が来ているということは、当然あの“新しい聖女”も同行しているはずだ。彼女は前にもわたしの店を訪れ、不穏な探りを入れてきた。いまだにわたしを怪しんでいるようだし、今回の作戦で顔を合わせたくはない。
(けど、避けては通れないか……)
苦い気持ちを抱えつつ、一つひとつ準備を進めていく。店のカウンターには「しばらく救護任務のため臨時休業します」という張り紙を残し、鍵をかける。
数時間後、わたしと仲間たちは街の北門を出てほどなく設置された前線基地に到着した。そこにはすでに大勢の兵士たちが集結しており、重厚な鎧をまとった騎士、遠距離攻撃を得意とする弓兵や魔法兵など、さまざまな役職の者が忙しく行き来している。
テントの一画には医療班が待機するスペースがあり、わたしはそこに薬箱や調合道具を広げた。簡易ベッドがいくつも並んでいるが、見渡す限りまだ空いている。つまり、これから本格的な戦闘が始まり、負傷者が運び込まれるだろうということだ。
「うわあ、ずいぶん立派な設備だな。さすが王都からの援助があるだけある」
「でもこれから大量のけが人が来るかもしれないんですよね。気を引き締めないと……」
手伝い組の若者たちが興味津々に辺りを見回しながらも、不安そうに呟く。わたしも同感だった。
「皆、落ち着いて。患者さんが来たときにスムーズに対応できるよう、道具や薬を整理しましょう。応急処置の手順を改めて確認しておいて」
「はい、セレスさん!」
そのとき、どこからか鋭い声が飛んだ。
「……そちらの薬師、到着したならまずは私に挨拶をしなさい」
聞き覚えのある、高慢とも言える響き。振り向けば、予想通りそこには“新しい聖女”が立っていた。白い神官服に金糸の装飾、長い銀髪をゆるやかに流して、仰々しいほど高潔なオーラを漂わせている。
医療班の一角を中心に、彼女に仕える神官や護衛騎士が陣取っているらしい。その周囲の兵士たちは彼女の存在を敬意を込めて見つめ、あるいは少し距離を置いて会話を交わしていた。
やはり、ここでも彼女は特別扱いなのだろう。
わたしは極力感情を表に出さないよう、穏やかな顔を心がける。
「ごきげんよう、聖女様。わたしは薬師のセレスといいます。医療班として来ていますので、よろしくお願いいたします」
「ええ、あなたが噂の薬師ね。……まあ、変わりなく“ただの薬師”なのでしょう?」
わたしが礼をすると、彼女はわずかに鼻を鳴らしてそう言い放つ。傍目には優雅な微笑みだが、その奥にある敵意や警戒心は先日のまま。
仲間たちがぎこちない空気に固まっていると、彼女の護衛騎士らしき男が横槍を入れた。
「さあ、聖女様はここで休まれる。緊急時には奇跡を行使するのだ。その時の指揮権は聖女様が握られるから、よく従うように」
「はい、心得ております」
この護衛騎士の態度もあからさまだ。まるで「彼女が最高権威。ほかの医療関係者は従え」と言わんばかり。実際、伝統的に聖女には高い権力が与えられるし、周囲がそう崇め立てるのもわからなくはない。
それでも、わたしは命を救うために来たのだ。変な上下関係に振り回される気はない。
「そちらの方も、どうか皆さんを癒やしてあげてくださいね。わたしも同じく、患者さんに応じて治療させていただきます」
わざと丁寧な言い回しをする。すると、彼女は「ふん」と冷たく笑った。
「あなたに治せる範囲で、勝手にどうぞ。ただし、本当に深刻な傷病者はわたしのところへ回しなさい。あまり目立ちすぎるのはやめてほしいわ」
言いたいことはいろいろあるが、いちいち反発しても大人気ない。それに、今は作戦が優先なのだ。口論している暇はない。
「はい、わかりました。まずは皆で協力して、負傷者を救いましょう」
そう言うにとどめて、わたしは作業に戻った。
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