11.
長い一日が終わる頃には、前線基地の状況はだいぶ落ち着きを取り戻していた。暴走していた聖女もどうにか安定し、魔物の大群も撃退されたとの報告が入る。被害は大きかったものの、最悪の壊滅状態は免れたようだ。
夜が更け、わたしもさすがに疲労が限界に近い。仮設テントの隅に腰を下ろし、一息ついていると、外からこっそりわたしの名を呼ぶ声がした。
「セレス、少しいいかな」
「……あれ、バルドさん? こんなところに来てどうしたんですか」
バルドは街の商人で、店の倉庫を貸してくれた恩人だ。彼がこんな夜遅くに前線まで足を運ぶなんて、よほど重要な用事なのだろうか。
バルドはわたしの隣に腰を下ろすと、小声で打ち明けた。
「実はさっき、例の黒鎧の男——あんたがよくしてるって噂の人物——に呼び止められてね。『セレスに伝えておけ』と言われたんだ」
「彼、何を……?」
「『自分は夜明け前に街を離れる。用があるなら北の外れまで来い』とね。……ちょっと荒っぽい口調ではあったが、そんな内容だった」
やはり彼は“魔王”ゆえに、この混乱をある程度解決したら、さっさと人間の領域から去るつもりなのかもしれない。
わたしは心臓がやけに早鐘を打つのを感じた。バルドが「行くのか?」という目を向けてくる。
「どうしよう……。まさか、わざわざバルドさんを経由して伝言を残すなんて。わたしに“会いに来い”と言ってるようなものですよね」
「そうだな。あんたに何か伝えたいことがあるのかもしれない。行かないならそれっきりだが……いいのかい?」
わたしは短く息をついて目を伏せる。あの男は、あれほど傲岸不遜で気まぐれなくせに、肝心なところでは手を貸してくれた。きっと「見返り」を求められてもおかしくない。
でも、わたし自身が“ありがとう”を言いたい気持ちもあるし、もしかしたら、今後も何かしらの形で出会うかもしれない。中途半端に去られて後悔するよりは、ちゃんと顔を合わせたい。
「……行きます。今夜は少し眠って、夜明け前にここを抜け出すわ。うちの仲間には少しだけ留守にすることを伝えておきます」
「そうか。じゃあ、一応安全に通れる道を教えておく。あっちも魔物が残ってないとは限らないからね」
バルドは地図を広げ、暗がりの中で懐中ランプを灯しながら、北の外れへ続くルートを示してくれた。
◇◇◇
そして夜明け前。わたしは最低限の支度を整え、作戦本部のテントをそっと抜け出した。兵士たちは仮眠をとったり交代の見張りに就いたりしており、そもそもわたしが夜明け前にどこへ行くかを問い詰める余裕はない。
バルドに聞いた道をたどると、岩場と薄暗い森の狭間にある開けた場所へ出た。そこは、月が沈む直前の蒼い闇が広がり、冷たい風が吹いている。
「……本当に、ここでいいのかな」
辺りを見回しても、人影は見当たらない。万が一、待ち伏せする敵がいたらどうしようと思い始めたころ、不意に背後から声がした。
「よう。ちゃんと来たな」
「っ……!」
振り向けば、やはり黒鎧の男が木陰に立っていた。夜目でもわかるほど逞しい体躯と、その身に纏う殺気のような威圧感。けれど、不思議と恐怖より安堵を覚えてしまう。
「あなた……わたしに何の用ですか。バルドさん経由で呼び出すなんて、随分まわりくどいわね」
「お前と直接話すと、また周囲が騒ぐだろうからな。この場所なら邪魔は入らん」
男はわずかに険しい表情をしている。昨夜の戦闘の疲れが残っているのか、あるいは別の考えがあるのか。
それでも、その瞳は明らかにわたしだけを捉えて離さない——そんな熱を帯びていた。
「どうしても言っておきたいことがある。……まずは礼だ。暴走する聖なる力を抑える際、お前の魔力を借りられたのは大きかった。あれがなければ、もう少し面倒だっただろう」
「礼……? そんなの、わたしこそ助けられたわ。あなたがいなかったら、あの聖女の暴走は止めようがなかった」
わたしが素直に感謝を伝えると、男は鼻を鳴らすように「ふん」とそっぽを向く。照れているのか何なのか、その態度に少し笑みがこぼれた。
そして、男はわずかに黙り込んでから、重い口調で続ける。
「今後、俺は魔族領へ戻る。そして、いずれ人間界との衝突は避けられないだろう。……が、お前だけは好きに生きろ」
「好きに……?」
「ああ。今の王国は腐っている。わずかな力を持つ者を便利な道具としか見ていない。お前も、その犠牲になりかけた一人だ。……だから、俺としてはお前を誰にも支配させたくない」
男の言葉に、わたしの胸が熱くなる。王国の腐敗を嘲笑いつつも、わたしの自由を認めるという矛盾した物言い。だが、それが彼なりの“優しさ”なのだろうと感じた。
「……ねえ、ひとつ聞いていい? あなた、本当に‘魔王’なの? それとも、ただの‘魔族の王’に過ぎないの?」
今さらのように問いかけるが、男は微かに笑みを浮かべる。
「好きなように呼べばいい。人間がそう呼びたいならそれで構わん。俺は俺だ。ただ、後に“魔王”として戦端に立つのは事実だろう」
つまり、いずれは王国と敵対する立場になるのは避けられないということ。すると、わたしは一つの懸念を抱く。
「……もしそうなったら、あなたとわたし、敵同士になるのかしら」
「そう思うなら、それでもいい。だが俺は、お前だけは‘誰のものにもならない’とわかっていても、放っておく気はない」
それは求愛とも宣言とも取れる言葉。わたしははじめ戸惑うが、しかし同時に、その強引さに奇妙な安堵を感じる。
「わたしを所有したい、と言うわけじゃないのよね?」
「ふん。そんなことをしたら、お前が猛反発するだろう。……俺だって、束縛したいわけじゃない。ましてや王都の連中みたいに利用するつもりもない。ただ、お前の自由を‘俺が守る’と言っているんだ」
彼の言葉に、まっすぐな意思が宿っているのを感じる。
王太子も新しい聖女も、わたしをひとつの“道具”としてしか見ていなかった。けれど、この男は、自分の意思でわたしを大切に扱おうとしている。それも、わたしを縛るのではなく、自由を維持したまま。
わたしは微笑みながら、しかし少し意地悪を込めて言ってみる。
「わたしはまた誰かに振り回されるのは嫌よ。あなたが手を貸してくれたことは嬉しかったけれど……気まぐれに振り回されるのも困るし」
「はは、俺の性分をわかってきたな。……いいさ。好きにすればいい。俺も好きにやらせてもらう」
まるで“同盟”を結ぶような、不思議な空気が流れる。確かに彼は、わたしが求めれば一方的に力を行使して救ってくれる。でも、それは無理強いされるものではなく、わたし自身が必要とするときに手を差し伸べてくれる、そんな暗黙の約束に思えた。
「ねえ、ひとつだけ教えて。あなたは、今度いつ戻ってくるの?」
「それは……俺にもわからん。いずれ俺の領土から動く必要があれば来るだろう。まぁ、お前が面倒事を起こさない限り、そうそう急には来ないと思うが」
男は薄暗い森の向こうを見つめながら、その漆黒のマントを翻す。夜明けの気配が空をわずかに染め始め、彼の黒鎧の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
「お前には、これからも好きに生きてほしい。薬師として店をやろうが、何か別の道を進もうが、勝手にしろ。ただ、誰かに踏みにじられそうになったら……俺を呼べ」
「……うん。わかった。ありがとう」
目頭が熱くなる。王都にいたころ、こんなふうにわたし自身を肯定されることはなかった。何をするにも「聖女なのだから」と押しつけられ、苦しいだけだったのに。
いま、わたしはこの人の言葉で、やっと自分の意思を持っていられる気がした。
わたしが深い呼吸をすると、男はわずかに身をかがめ、わたしの手に軽く触れる。ほんの一瞬、指先が触れ合ったかと思うと、彼は照れを隠すようにまたそっぽを向き、
「じゃあな。……今はまだ、ここにいる人間たちが騒ぎすぎている。俺が足止めを食らうのも面倒だからな」
そう言って、ゆっくりと距離を取っていく。
心の中で、「行かないで」と叫びたい自分が少しだけいるのがわかる。でも、わたしもまた、わたしの道を歩いていかなければならない。彼に依存するのではなく、自立したまま、もし何かあれば助け合う——そんな関係を、いつか築けるかもしれない。
濃紺の空が白み始めたころ、男の姿は薄闇の向こうへと消えていった。
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