1.
王都ヴィンクラータにある大聖堂。その奥の礼拝室では、わたし——セレス・ディアナは“聖女”としての儀式を執り行うために、朝から神への祈りを捧げていた。
といっても、実際には光の力や神聖魔法の祝福を示すだけで、わたし個人の意思や感覚はほとんど無視されている。王家や教会が定める通りに動けばいい。わたしは、まるで素晴らしい聖女の“見本”になるように仕込まれてきたのだ。
“お役目”をこなしてきた十数年。いつしか周囲の期待を背負わされ、わたし自身は自由に街を出歩くことすらままならなかった。巡礼、祈祷、王家の式典への出席。表向きは「王国を護る尊き存在」と称えられながら、その実、人々の前で姿を見せるだけでなく、新たな魔物の被害が出た場所へ赴いて癒やしの奇跡を与える——そんな“やらされ仕事”の日々だ。
「セレス様、お疲れでしょう。昼食をお取りになられてはいかがですか」
礼拝室を出ると、侍女のリサが丁寧にそう声をかけてくる。わたしはわずかに首を振って、かすかな笑みを返した。
「ありがとう。でも大丈夫。今は食欲もないし、少し身体を休めたいわ」
「ですが、陛下や殿下のご用命が……」
「ええ、わかっている。すぐに大広間に向かうわ」
この一言に、わたしの本心はまるで含まれていない。親切なリサの態度に罪悪感を覚えつつも、言うことを聞かねばならない環境なのだ。聖女として育てられたわたしは、王族に従うことが当たり前とされている。
王太子アルフォンス殿下とは数年前から婚約していた。表向きは「聖女と王太子が結ばれれば、王国の未来は安泰」という国民向けの大義名分。だが実際はわたしを“道具”として縛り付けておくための契約のようなものだった。
かつてはそれでも仕方ないと思っていた。自分に与えられた才能が国のためになるなら、それは素晴らしいことだと信じようとしていたのだ。だが、夜も昼もスケジュールは儀式や巡礼ばかり——もはや“わたし自身の意思”というものがどこにもない。
大広間に呼び出されてみれば、そこには王太子アルフォンスが玉座の前に立っていた。隣には王、そして数名の廷臣たちが並んでいる。
「アルフォンス殿下、お呼びでしょうか」
いつも通りの丁寧な言葉遣いで声をかけると、王太子はわたしに気づいてゆっくりと向き直る。そして、どこか冷たい瞳で口を開いた。
「セレス。悪いが、あの婚約はなかったことにさせてもらう。近頃、新たに“聖女の力”を持った女性が現れたのだ」
一瞬、意味がわからなかった。周囲の廷臣も、わたしの侍女リサすら息を呑んでいる。
わたしは視線を王太子の隣にそっと向けたが、そこには誰もいない。いったい誰を指しているのか。けれど、王太子は続ける。
「すでにその娘の力は検証済みで、十分な素質がある。……セレスには長らく助けてもらったが、もはや不要だ。実を言えば、お前には不便なことが多かった。動きも制限されていたし、何かと騒ぎになるからな」
「不便、ですか」
「そうだ。お前は神聖な存在ゆえ、保護と称して宮廷側が過保護に扱う必要があった。俺も好きに振る舞えず、息苦しかった。だからこそ、新しい聖女が出てくれたなら、これ以上お前に頼る必要はない」
王太子が冷淡にそう言い切った瞬間、胸の奥が凍るような感覚があった。……何年もわたしの力を利用しておきながら、用済みになった途端に切り捨てる。その容赦のなさに、失望以上に呆然としてしまう。
とはいえ、このままずっと王城に閉じ込められ、好き勝手に扱われていた状況から解放されるのなら——。ふと、奥底から安堵の気持ちが込み上げるのを感じた。
「……そうですか。では、わたしは用なしということですね」
思わず出たその言葉に、わたし自身も驚いた。どこかのどが乾き、声が少し震えたのを自覚する。一方、王太子は少しも悪びれる様子を見せず、むしろ肩の荷が下りたというように吐息をつく。
「わかってくれて何よりだ。お前は今日をもって自由だ。……ま、俺としては“新たな聖女”と婚約をし、より安定した関係を築きたい。前聖女であるお前に過剰な保護をするつもりもないし、好きにしたらいい」
自由。
その言葉を耳にした瞬間、わたしの胸の奥から熱い感情がふつふつと湧きあがる。今まで厳格なルールの中で、息苦しく押さえ込まれてきたわたしにとって、“自由”という言葉は何よりも甘美だった。
周囲の廷臣たちは微妙な表情を浮かべている。今まで「聖女様」と持ち上げていた相手を、こんな形で切り捨てる王太子に若干の不安を覚えているのかもしれない。けれど、王や大臣たちは止めもしない。つまり、すでに何もかも王家と教会側で話がついているのだろう。
しかしわたしは、これまで感じたことのない清々しさを味わっていた。
ようやく、わたしはわたしの人生を取り戻せる。
その日のうちに、王太子や王家から無情にも追い出される形で王城を後にした。わたしに付き添ってくれていた侍女のリサは涙を浮かべ、貧相な荷馬車に最低限の荷物を運んでくれた。
「セレス様、何かあればいつでも連絡を……。わたしはいつまでもお傍に仕えたかったのに」
「ありがとう、リサ。わたしもあなたには本当に感謝しているわ。……でも、これはわたしが望んだことだから。王都から出られるなら、もう十分に幸せよ」
「……セレス様、どうかお元気で」
彼女は最後まで名残惜しそうに、けれど凛とした瞳でわたしを送り出してくれた。ある意味、王城での生活が長かったわたしにとっては、リサが唯一の心の支えだったと思う。
それでも、わたしは立ち止まらない。王都を離れるとき、不思議と怖さより解放感のほうが大きかったのだ。
王都の門を抜け、荒野を見下ろすと、遠くには山々が連なっている。道は険しく、移動には苦労しそうだ。けれど、わたしはもう聖女の肩書きに囚われなくてもいい。
「さあ、これからどうしようか」
荷馬車の揺れに身を任せながら、わたしは心を弾ませていた。
まずは、かねてから興味のあった薬の研究をしたいと思った。聖女としての癒しの魔法だけでなく、植物や鉱物の成分を活かした薬師の技術にも関心があったのだ。王宮の図書室でこっそり医術や薬学の書物を読み漁っていたこともある。
けれど、王都では自由に行動ができなかったし、自分だけの店など夢のまた夢だった。それが今ならどうだろう。どこへ行くのも、何をするのも、わたしの勝手。
「ふふ、楽しみね」
馬車の御者が気のいい老人で、話し相手になってくれた。聞けば、辺境の地ベルタスに向かう定期便らしい。ベルタスは魔物の出没が多くて治安が悪いと噂される場所だが、豊富な薬草が自生しているのだという。しかも人里離れた山岳地帯では魔物被害のため、実力ある者なら歓迎されるとも聞いた。
「もし辺境で暮らすつもりなら、住居の当てもいるだろう? 地元の知り合いを紹介してやれるかもしれんぞ」
「本当ですか? 助かります!」
わたしは喜んで老人に頭を下げた。わずかな蓄えはあるが、未知の土地では心細い。何より、薬師として独立したいなら少しでも早く地盤を築きたかった。
「もっとも、ベルタスには訳アリの人間も集まっているからな。中にはならず者も多い。お嬢ちゃん、気をつけるんだぞ」
「はい。心に刻んでおきます。……でも、わたしはここで得た自由を絶対に手放したくないんです」
わたしの言葉に、御者は目を丸くしてから、温かみのある笑顔を浮かべてくれた。
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