11.感謝を捧げる Side:パトリシア
ルーシャス様へ婚約解消の申し入れをした私は、しばらく家に引きこもっていた。
このところはルーシャス様の演奏を聞く為にパーティーに出かけることが多かったので、家でゆっくりするのは久しぶりだ。
寂しく思う気持ちもあるが、これが私に相応な生活なのだと思う。
私は一人でルーシャス様のピアノを思い出した。
あの素晴らしい音色。
私に捧げてくれた美しい旋律。
もうあのような素晴らしい体験をすることはないだろう。けれど私はいつでも鮮やかにルーシャス様の音色を思い出すことが出来る。
私は思い出の中の音楽に身を沈めた。
だけど…
これほどに素晴らしい音楽を捧げ続けてもらって、私はルーシャス様に何もお返しできていない。
これ以上のものを受け取るのをやめたところで、これまでに頂いたものを思い出しながら何もできずに過ごしても良いのだろうか。
私にお返しできるようなものは何もないけれど…それでも私はルーシャス様に…いいえ…ルーシャス様にお返し出来ずとも、この幸運を下さった神に捧げる為に、私も音楽を奏でよう。
私はヴァイオリンを手に取った。
ヴァイオリンの練習は幼い頃から続けてはいたが、ただの習慣だった。外で演奏するほどの腕はないし、ヴァイオリンの演奏を望まれているのは兄であり、私ではないからだ。
だけど誰からも演奏を願われなくとも、私は感謝を込めて音楽を捧げよう。
ルーシャス様に直接披露することはなくとも、神に感謝を捧げる為に。
毎日の練習は続けていたけれど、それでもこれほど熱心に練習したのは久しぶりだ。
毎日家でヴァイオリンを弾く。それはルーシャス様に会えない私の心を落ち着けた。
不思議とルーシャス様を身近に感じるような気もした。
気持ちだけはルーシャス様へ捧げて音を奏でた。
そんな風に音楽に没頭していた私に、音楽会の招待状が届いた。
音楽好きを集めた小規模な演奏会とのこと。
先日ルーシャス様が演奏されたパーティーの主催者からの招待に、私は参加することにした。
毎日自分の音楽と向き合った。
たまには人の演奏も聞いてみよう。
明確に意識したわけではないが、そんな風に人の演奏が聴きたくなったのは確かだ。
誰の演奏なのかは招待状には記されていなかったけれど、私は楽しみに待った。
そして出掛けた演奏会はルーシャス様の独奏会で、
ルーシャス様は、変わらず全ての演奏を私に捧げてくれて、
その日の参加者は口を揃えて、私へ捧げられたルーシャス様の演奏がどれほど素晴らしいものなのかを私に語ってくれた。
曰く「パトリシア様と婚約される前と比べて、ルーシャス様の音楽は愛情深くなりました」
曰く「パトリシア様と婚約されてからのルーシャス様の音楽には心を揺さぶられます」
曰く「もしもパトリシア様に捧げていなければ、ルーシャス様の音楽はここまで伸びやかではないでしょう」
私はそれらの意見に首を傾げた。
確かに私と婚約してからのルーシャス様の音楽は皆様がおっしゃるような変化を感じるものであったけれど、それは私以外と婚約したら更に深くなるかもしれないものではないだろうか。
けれどルーシャス様が私に言うのだ
「君に捧げることが出来ないのならば、私はピアノなんかもう弾かない」
「それはいけません!」
「それなら婚約は続けてくれるね」
「もちろんです!」
こうして私とルーシャス様との婚約は再び続くこととなった。
本当にこれで良かったのだろうか。
そうも思うけれど、これからもルーシャス様のピアノが聴けることをみんなで喜んだ。