1.彼女との婚約 Side:ルーシャス
その時ーー
俺の目に彼女が映った瞬間に、俺の心は彼女のものになった。
彼女がヴァイオリンを構えるのを見て、俺は初めてヴァイオリンを美しいと思った。
気乗りのしないパーティー。
母に頼み込まれて嫌々ながら参加した。
義理は果たしたのだから、そろそろ帰るか。
そんなことを考え始めた頃、彼女の演奏は始まった。
彼女の他にも奏者はいたのだ。
しかし俺の脳裏に残ってはいない。
帰る前に何気なく眺めた中に彼女がいた幸運に、俺は神に感謝を捧げる。
俺はすぐに彼女の名前を母に問いただした。
パトリシア=クロムウェル伯爵令嬢ーー
俺は、速やかに彼女に婚約の申し入れをした。
返事はすぐに来た。
ただし婚約の了承でもなければ、彼女からの返事でもない。
俺を呼び出したのは彼女の父親ーークロムウェル伯爵と、彼女の兄達。
クロムウェル伯爵は、婚約に反対したりはしなかった。
娘が気に入れば、婚約を認めようと和かに答えてくれた。
だが、俺はすぐに彼女に会うことは出来なかった。
なぜなら俺と彼女の間には、彼女の兄達が立ちはだかったからだ。
最初に立ち向かうことになったのは、長兄のアントニー=クロムウェル。
「妹と婚約したいならば、私よりも優秀な頭脳でなければ許せない」と言う。
アントニー=クロムウェルは王立学院に首位で合格し、三年間首位の座を譲らず卒業したと言う生きる伝説ではないか。
伝説に勝とうと思っても既に学院に入学し、首位など取ったこともない俺では勝てるはずがない。
だが俺はパトリシアを諦めることは出来ない。
俺は考えた。アントニー以上の頭脳であると証明するためにすべきことは何かを。
まずは、王立学院の講師陣に講義の内容について質問するところから始めた。やる気を出せば、すぐに首位には届いた。だがこれでは足りないのだ。こんなものではアントニー以上と言えるわけがない。
俺は卒業までの講義内容の全てに目を通した。過去の講義内容についても友人の兄などにも声をかけて聞き、学院にいる留学生にも声をかけた。
そうして学べる限りのことに手を伸ばした結果。隣国と本国の講義の内容で矛盾する点を見つけた。
過去に遡ってみれば、更に情報が揺らいでいる。
不思議に思って、それの研究を始めたところ、文化の違いから解釈がすれ違い、定説とは違う新たな説を作り上げるに至った。
講師陣に意見を聞くうちに論文を纏めるように勧められ、結果、今までの定説を正し、隣国との友好にも寄与したとして、国王からお言葉を賜るという栄誉を受けるに至った。
これを持ってしてアントニー=クロムウェルは俺を認めた。
「運が良かったな。しかし運があると言うのも大事なことだ」
アントニーは俺にそう言って、妹に会うことを許してくれた。アントニーは。だが。
つまり長兄の次には当然のように次兄が立ちはだかった。
次兄バーナード=クロムウェルは、「頭が良くても妹は守れない」と言った。
妹と婚約したいならばバーナードを倒せと言うわけだ。
バーナード=クロムウェルは近衛騎士に入団早々スカウトされたという、この国の若手筆頭と言っていい強さを誇る騎士だ。
勝てるわけがない。だが俺はパトリシアを諦めたくない。
強くならなければならない。
俺は論文を纏める際に仲良くなった留学生を頼った。
彼の護衛は隣国でも腕が良いと彼から自慢されていたからだ。
俺は毎日、その護衛から稽古をつけてもらった。
俺の論文は隣国でも評価され、俺との縁を大事にするように彼が言いつけられていたことが幸いした。
俺は感謝して、がむしゃらに頑張った。
頑張り続けた結果。稽古をつけてくれていた護衛には勝てるようになり、更にはその護衛の師匠というべき人とも勝負させてもらい、苦戦はしたけれど最後には勝つことが出来た。
もっとも護衛の師匠は、俺の強さを認め、勝ちを譲ってくれたのではないかと俺は思っているが。
ともかく俺は努力をし尽くしてバーナードと対峙した。
俺はバーナードに勝った。俺が隣国の剣技を使ったことが勝負を有利にしたかもしれない。次にやれば勝てるとは思えないくらいのギリギリの勝利だった。
とはいえ俺は勝って、バーナード=クロムウェルは俺を認めた。
「妹を必ず守れ」
それがバーナードの言葉だった。
俺は当然パトリシアを守ることを誓った。
さて、長兄、次兄とくれば、当然次の壁は三兄である。
三兄セドリック=クロムウェルは「頭が良くて、強いだけでは妹を楽しませることは出来ないよね」と言った。
まあそう来るだろうとは思っていた。
セドリック=クロムウェルは各国王宮から招待を受ける有名ヴァイオリニストだ。
そもそも俺が初めてパトリシアを見つけたパーティーも、セドリックはパトリシアの横で演奏していたはずだ。
俺の記憶には残っていないが、母がそう言っていたのでそうなのだろう。
頭脳をアントニーが認め、強さをバーナードが認めたところで、更にセドリックに認められる芸術性までもを身につけるのは不可能に近い。
だからこそ今まで三人の兄を超えて、パトリシアに婚約を申し込めた者がいないのだ。
だが俺は別だ。セドリックはそれを知っている。
だからセドリックは言葉を重ねることなく、俺をクロムウェル家の練習部屋まで連れて行った。
俺はピアノの前に座った。
「すぐに弾ける?」
そう訊くセドリックに頷きを返すと、俺はピアノを奏で始めた。
パトリシアを見つけたパーティー。
最初に演奏したのは俺だ。
その為に母から参加を強要されたのだ。
アントニーへの挑戦をしている間もピアノの練習は続けていた。
それが俺に取っては息抜きにもなったし、また習慣であったから。
バーナードへの挑戦をしている間もピアノの練習はやめなかった。
どう考えても次に立ちはだかるのはセドリックであろうと思ったし、やはりピアノに触らないと落ち着かなかったから。
俺が演奏を終えるとセドリックは「腕は落ちてないようだね」と笑った。
「パトリシアを大事にしてくれ」そう言うセドリックに答える時には、やり遂げた感動から声が滲みそうになった。
とうとう俺はパトリシアに婚約を申し込んだ。
パトリシアは婚約を了承してくれた。
そうして苦労の末に、パトリシアと婚約した半月後ーーー
パトリシアが俺に言った。
「ルーシャス様、私との婚約を解消してください」
俺の婚約の申し入れに頬を染めて頷いてくれたパトリシア。
初めてのデートは楽しそうに笑ってくれた。
彼女の嫌がることは絶対にしていないと誓える。
先日の夜会ではダンスも楽しそうに踊ってくれたのに。
なぜ?俺はどうして急にパトリシアから婚約の解消を告げられているのだ?
俺は絶望で目の前が真っ暗になった。