食愛性優美のドグマ
「本当に今時カニバリズムが流行ると思ってんのかね?」
休み時間、クラスメイトがまだ教室内にいる中で、目の前の怖いもの知らずは口を開いた。
私が慌ててそいつの口に食べかけの衣がしなしなになった串カツを放り込んでやれば、そいつ――イナバは呆れたように笑った。
「だいふぉーふだって」
何を根拠に、と言おうとしたところで、イナバは「不味い」と言って私の口に串カツを投げ入れた。私だって、美味しいからという理由でイナバに食べさせたわけではない。変なことを言って次の食事に参加させてもらえなかったら困るからだ。
「みんなもどうせ、自分と同じようなこと思ってっから」
「……思ってないから、なに、その、流行るんでしょ」
イナバの言葉を流用すれば、イナバは「言葉を間違えたね」と笑った。
「致し方ないってのは、きっとみんな分かってんだよ。カニバリズムーなんてカッコつけた言い方してるけどね、自分だって別の言い方出来るよ?」
どうせ皮肉だろうと高を括る。イナバは世間をからかうような言い回しを好む。
「食事だ」
そしてそれが、時には大勢の敵を作ることも、熱心な味方を作ることも、私は知っている。
何よりもカッコつけた素振りで、イナバは冷めた目の私を見てまたもや笑った。
「要は、生き抜ければ何でも良いんよ。それが生物の本能っちゅーもんなんだからさ。食べるものがただ、人になっただけさね。良く言えばね」
ちゅーっと野菜ジュースをストローですする。
不意に、瞳孔がこちらを捉えた。
「因果応報って知ってっかね、ウサギ」
過去の善悪の行為が因となり、その報いとして善悪の結果が返ってくること。
意味は分かるが、何故今その四字熟語を持ち出してきたのかがわからない。きっとイナバが問うているのは後者だ。私は黙っていた。ストローの中の野菜ジュースが上に登ろうと切羽詰まっているのを観察しながら。
「自分たちは悪いことをしたんさ。だから今、状況は非常に悪い。そして今、自分たちはまた悪いことをしてんね?つまり、これから先も、また悪いことが起きるっちゅーわけ」
ズゾッと品のない音を立てて、紙パックが潰れた。たんぱく質を食べなくなったイナバは、ずっと野菜類を口にしていた。
「それを分かってんのになんで、今尚みんなは、またシャレオツでカッコよさげなことをしようとしてんのかなあ?」
イナバが席を立つ。床を椅子の足が滑って、いやらしい音がした。腹の奥が蠢く。
腹が減った。
「皆、お腹が空くのよ」
「そう、みんなお腹は減るんだ。ああ、自分は今から行われるこの行為を否定してるわけではないからね?ウサギ」
ふらふらと覚束ない足取りのイナバに付いて、教室の中心に近づく。
そろそろ休憩時間も終わりだ。
一番端のイナバの席には、まだ手付かずの食べ物がいくつか残っていた。
あるものはと言えば、一番最初の夜に贅沢で作った串カツと、ただ火で炙っただけの塩の味さえしない肉。たった2種類だけだったが、他に摂れるたんぱく質もなかった。
「幾分人も少なくなったね」
中心に集まったのは、元々のクラスメイトの半分はおろか、4分の1にも満たないたったの6人だった。皆等しく目は虚ろで、限界を迎えた胃袋がけたたましく泣いている。元気なのは、好き嫌いをしない私と、ここにいるクラスメイトより食べていないはずのイナバだけだった。
「ふぅん……よし、このくらいなら大丈夫そうだね」
いつもと変わらない調子でイナバが呟く。
目の前で何が行われるのか、明白だった。大きな鉈と、血のこびりついたまな板……だったであろうもの。
毎日毎日、休憩時間には交代で校内を探索し、食物を探してきた。カニバリズムを拒んだ人間はもうとっくに死に絶え、爆弾と銃が飛び交う市街地には危なすぎて出られない。命がけでスーパーマーケットに足を運んだクラスメイトは、何日経っても戻ってこなかった。
半ば強制的にカニバリズムを実施した我々のクラスだけが、いまだに微かな命を灯し続けていた。今から、1つの明かりに点いた炎を残りの蝋燭に分け与えるのだ。
皆が物欲しそうにクラスメイトを見ている。その視線がこちらに向く度、彼らがどれほど飢えているかが伝わる。
もう機能しなくなったこの街で、未だに幼子のように好き嫌いをして不味い肉を食べないから、皆はそうなってしまうのだ。これ以上必死に生き延びようとせず、カニバリズムを拒否し続けた純潔を守って死にゆけばいいのに。
そんな私の下卑た視線が伝わったのだろうか。公平にじゃんけんで決めるはずの犠牲者の戦いを邪魔するように、6人のうちの2人が一斉に、まるで獣のように飛びかかってきた。
「廃寝忘食」
聞き慣れた声が、後ろから前へなびいた。
気付いた時には、目の前には純血の雨が降り、びしゃびしゃと重たい肉が落ちてきていた。
洪水だ。
「みんな生きるのに一生懸命になっちゃって大変だねぇ。必死に生にしがみついてさぁ。そんな気負わなくてもいいじゃん、生きてても死んでてもそんな変わらんよ」
滴る貴重な水分をバッと薙ぎ払い、イナバは鉈をヘラヘラ笑いながら構えた。
「死んでもね、腹は減んのさ」
風が吹き荒れ、またもや鮮血が血を吸って黒くなった制服を染め直した。糸がぷつりと切れたように、美味しそうな眼球が床を転がった。勿体ない、と思わず手をのばす。
その後、あまりにもな異常事態を引き起こした張本人を見つめる。こちらに背中を向けてまた板の上に鉈を置き直したイナバは、「あ~」と声を出しながら振り返った。
「お腹すいた」
「……食べる?」
手に持っていた眼球を差し出す。鳥の軟骨のような食感がして美味しいのだが、生憎イナバは嫌いらしい。
つまらなそうにそいつは手を振った。
「自分、人間好きじゃないんだよね。あーお腹すいた」
あくびをする。
私は口に眼球を運ぶ。
イナバがぱちっ、と目を見開く。
やっと歯が捉えた眼球が口内で弾ける。
「ウサギ、人間っぽくないもんね!自分でも食べられるかもな!」
ごくり、と嚥下する。
教室の中心で、イナバは意気揚々と再び鉈を手に取った。
「ウサギを狩るつもりはなかったんだけどね、いやーよく気付いた自分。人間の形はしておれど、中身は兎肉かもしれない!うんうん、兎肉は美味しいって言うもんね」
一心不乱に肉をかき集める。飛び散ったクラスメイトの肉片は、肉汁が滴り血という水分もたっぷりで、最高に美味しかった。
お腹が満たされてい
「ウサギが美味しいといいけど」
「案外不味くないじゃん!ナイス判断だったなー。でもなー、ウサギ食べ終わったらどうしよう、ああ、食い繋ぐって大変だぁ」
器用に鉈で肉を割き、血染めのソースに絡めていただく。世間が「兎肉は絶品だ」と囃し立てる理由が、少し分かった気がした。
「市街地に出ていくしかないんかね。危険はいっぱいだけど、まあここよりは食べ物もあるだろうし。うーん、近くのスーパーにでも行ってみっかな」
ぺろり、今日の分のウサギを食べ終える。舌で口の周りのソースを舐め取り、満たされた腹を撫でる。
「こりゃカニバリズムも流行るわ」