ステーキドンブリ
おじさんはプロの料理人ではありません。
おじさんは料理の前には必ず手を洗っています。
おじさんのお店はあくまで喫茶店です。
悪魔の森。その中心部にはとんでもなく美味い飯屋がある。
そのような噂話が一年程前から冒険者ギルド内で流れるようになった。
しかし噂話は所詮噂話であり、信じる者はほとんどいなかった。
西の海の果てには無人島がありそこには海賊王が隠した財宝が眠っているといった噂や、北の果ての氷の台地には古代の魔王が封印されているといった荒唐無稽な噂の一つとして扱われているうちにいつしか悪魔の森の飯屋の噂は冒険者達の話題にも上がらなくなっていた。
しかし、噂話を信じる人間はいつの世にもいるものである。
「ここがキッサという飯屋か」
そう呟くこの少年はつい先日16歳という若さでAランクに昇格したカツ=フナモト。
剣と魔法をバランス良く扱うことに定評がある彼はこの地域の冒険者ギルドでも上位に位置する実力者だ。
家名があることから分かるように、彼はとある貴族家の五男坊である。
しかし五男では家を継ぐことが出来ないため、子供の頃から冒険者として働いていた。
この年ですでに冒険者歴は五年を越えており、今では一流の冒険者として活動している。
そんな彼はとある先輩冒険者から悪魔の森の飯屋の話を聞かされ森の中心部までやってきていた。
お目当ての建物を目の前にして安堵の表情を浮かべつつも、さすがAランク冒険者だけあって周囲への警戒に抜かりはない。
「ここで間違い無いはずなんだけど、なんだか飯屋っぽく無い建物だな」
少しだけ森が開けた場所になぜか一件だけぽつんとログハウスが建っている。
何とも言えない違和感を感じたカツは、いつもの癖で探知魔法を唱えようとしていた。
「あれ?」
建物内の生体反応を瞬時に把握できるはずの魔法がなぜか発動しない。
カツは先輩冒険者から聞いていた話を思い出した。
「飯屋の周辺では一切の魔法がキャンセルされるってのは本当だったのか」
魔法をキャンセルするという仕掛けは、王都でも極一部の施設でしか施されていないほどの大変珍しい物だ。
カツ自身も魔法自体をキャンセルされた経験は今までに一度しか無い。
「たしかに悪魔の森に家を建てるなら、これ位の備えがあるのは当たり前か」
しかし、カツはそのような珍しい状況を素直に受け入れてしまっていた。
前もって先輩冒険者から飯屋についての詳しい情報を得ていなければ、これほどすぐにこの状況を受け入れることはできなったであろう。
逆に、そのことにより、ここは悪魔の森の飯屋で間違いないと確信を深めることになった。
カツはゆっくりと入り口のドアを開いた。
『カランコロンカラーン』
ドアベルの音が薄暗い店内に鳴り響く。
店内には眼鏡をかけた男が一人、カウンターテーブル席に座りながら黒い板を触っていた。
「いらっしゃいませ」
男は黒い板をテーブルに置きすぐに立ち上がる。
清潔そうなエプロンと帽子を身に着けているこの人物がこの飯屋の料理人で間違いないとカツは確信した。
「あの、ここはキッサという飯屋で合っていますか?」
「キッサ?ああ、ここは喫茶店ですが貴方の言っている飯屋で多分間違い無いと思いますよ」
童顔だがカツの父親よりもすこし年上み見える男は笑顔で答えた。
キッサテンという聞いていたものとは微妙に違う名前に若干違和感を感じつつも、男の自然な笑顔を見てカツは安心感を覚えた。
「ああよかった。僕はAランク冒険者のカツといいます。この場所はSランク冒険者のアキさんから聞きました。なんでもこの店では美味いものが食べられるそうですね」
カツはグルメである。
若いながらも実家の貴族家の料理で多少は舌が肥えていたこともあり、食事には人一倍うるさいと評判であった。
そんなカツが美味い店があると聞けば行かないわけがない。
ちなみにSランク冒険者アキもグルメとして評判の人物であった。
「ああ、アキさんのお知り合いの方なんですね。私はこの店の店主です。すぐにメニューをお持ちしますのでどうぞこちらにお座りください。荷物とマントは足元の籠の中にどうぞ。剣は腰に差したままで大丈夫ですよ」
店主はそう言いながら手慣れた様子でカツをカウンターの一番左端の席に案内した。
カツはマントを脱ぎながらも物珍しさから店内の様子をついキョロキョロと見てしまう。
「初回にお一人でご来店されたお客様にはカウンター席をお願いしているんです。色々と説明しないといけないこともありますので」
店主は目線を一度店の奥にあるソファー席に注いだ後、申し訳なさそうな表情をしながらそう口にした。
「いえ、この席で大丈夫です。店内が珍しいのでつい」
カツはそんなつもりはなかったが、カウンター席に案内されたことに不満があると男に誤解されてしまったのではないかと思い慌てて席に着いた。
「アキさんから聞いていると思いますが、この店ではお金は使えないんです。その代わりに魔石を頂いています」
「はい、聞いています。あの、これで足りますか?」
カツはそう言うと胸元に隠していたマジックバッグからこぶし大の魔石を取り出した。
「へえ、大きいですね」
店主は目を見開く。
「これはガンリュウトカゲの魔石で、少し前に僕が退治した物なんです」
ガンリュウトカゲはそう簡単に退治できる魔物ではない。
この魔石をギルドの買い取りに出せばそれなりの値段で買い取ってもらえるのだが、カツは気にする様子も無く男に手渡す。
「うちの店ではお代を前払いで頂いております。万が一お出しする料理に満足頂けない場合でも、この魔石をお返しすることはできませんがよろしいですか?」
男は申し訳なさそうな表情をしつつも、大事なことだからと念を押す。
「はい、それは聞いています。でも魔石の価値に見合う美味い料理を食べさせてもらえるんですよね?」
その言葉を聞いた店主の顔は、先ほどまでの申し訳無そうな表情から何やら困ったような表情に一変した
「すいません。正確に言えばこちらで魔石の価値を査定させてもらった上で、その価値に合った素材を使用した料理を出しているだけなんです。なので珍しく高価な食材を使用した町の食堂レベルの料理が出てくると思って頂ければ有難いのですが」
「でもアキさんはこの店の料理をすごく褒めてましたよ。酒と肉がこの世の物とは思えないほど美味しかったって言ってました」
「ああ、アキさんは和牛ステーキとオーストラリア産の赤ワインを頼まれることが多いですね。牛のお肉が好きな方であればステーキはお勧めですよ」
カツは店主の説明に若干不安を感じていたが、グルメ仲間でもあるアキのことを信頼していたこともあり食事を注文してみることにした。
「じゃあ、そのワギュウステーキを下さい。もし料理が口に合わなくても文句は言いませんよ。飲み物は料理を見てから考えます」
「かしこまりました。ではその前に魔石を鑑定しますね」
店主はそう言うとテーブルの端に置いていた黒い板を手に取り、何度か指先でなぞってから魔石にかざした。
『……カシャッ』
小さな光と不思議な音が黒い板から発せられる。
「あれ?光った」
「すいません、驚かせてしまいましたね。魔石の価値を確認しているところなので少々お待ちください」
店内に若干の沈黙が流れる。
「一万円か」
店主は黒い板を見ながらなにやらぶつぶつと呟いていたが、その後すぐに笑顔を見せた。
「この魔石は一万円……ではなくて一万ポイントの価値がありました。このメニューの中から一万ポイント分注文頂けますので、もしステーキ以外にも食べたいものがあればおっしゃってください」
そう言われてメニューを読み進めて行くと『ワギュウステーキ 4000』との文字が目についた。
「ワギュウステーキは4000ポイントか。残りは6000ポイントだからまだ他にも沢山注文できそうだな。へぇ、甘味もあるのか。すごい品揃えだな」
町の食堂レベルどころではない料理の種類の豊富さに驚いていると、突然刺激的な音が目の前から聞こえてきた。
『ジュワワァー』
同時に肉の焼ける匂いが店内に広がりカツの鼻腔を刺激する。
慌ててメニューから視線を外すとカウンター前のキッチンでは店主が肉を焼き始めていた。
「へぇ、魔道具で火を起こしているのか。それにしても胃袋を刺激されるたまらない匂いだな」
今日はまだ携行食しか口にしていなかったこともあり、カツの食欲は限界を迎えていた。
視線はフライパンの中に集中してしまっている。
「和牛のサーロインです。これは良い肉なので常温でも脂が溶け始めるんですよ」
常温で肉の脂が溶けるなんて店主は冗談が上手いなと思いつつも、目の前で肉が焼けていく光景からカツは目が離せない。
その後店主は肉を裏返すと、フライパンに蓋をして少し時間を置いてから火を止めた。
「そういえば、パンとライスはどちらにするか聞いてませんでしたね?」
その言葉を聞いてカツはハッとする。
カツは普段はライスを食べることは少ないのだが、
この店の話を聞いた時にアキがステーキはライスの丼で食べるのが最高と言っていたのを思い出したのだ。
「あの、アキさんはステーキをライスで食べるドンブリが最高と言ってたんですけどできますか?」
「ああ、ステーキ丼ですね。たしかにアキさんは来店して一枚目に食べるステーキは丼で注文することが多いです。ではステーキ丼にしましょうか」
「お、お願いします」
ドンブリという謎の言葉の響きにカツの心は魅了されていた。
◆◆◆
「お待たせしました。ステーキ丼です」
「こ、これがステーキドンブリ」
カウンター越しに目の前に置かれた料理を見てカツは思わず息をのんだ。
ライスが敷き詰められたボウル皿の上には細長く綺麗にカットされたステーキ肉が並べられ、その隙間からは薄いピンク色の綺麗な断面が覗いていた。
さらに玉ねぎとニンニクの匂いが交じり合った黒茶色のソースが上からかけられ、仕上げに白ゴマと細ネギのみじん切りがパラパラと振りかけてある。
「こちらは、サラダとスープです。スープはおかわり自由です。丼の場合はライスのお替りはできないことになっているんで希望される場合は別料金になります。ではごゆっくりどうぞ」
カツは店主の言葉を聞き終える間もなく無言のままスプーンを掴む。
そしてステーキ肉を一切口にした。
「や、柔らかい」
まず最初にカツは口の中で肉の油が溶けていくことに驚きを感じた。
「噛むたびに脂の旨味が広がって」
先ほど店主がこの肉の脂は常温で溶けると言っていたのは嘘ではなかったようだ。
「それにニンニクの香りのするこのソースがまた」
口の中でいくつもの旨味が重なってゆく。
カツはこの旨味を充分に満喫してからゆっくりとステーキ肉を呑み込んだ。
「美味い、美味すぎる。店主、これはいったい何の肉ですか?」
「和牛ですよ。美味しく食べられるために丁寧に育てられた牛の肉です。それよりも、せっかくの料理が冷めてしまうので話は食事が終わってからにしましょう。ほら、肉と一緒にライスを食べるとさらに美味しくなると思いますよ」
その言葉を聞いてカツは慌てて二杯目を口にした。
今度は肉の旨味にライスの甘みとボリュームが加わったことで先ほどよりもさらに満足感が強まってゆく。
「……ああ、これは神の食事だ」
そう呟くカツの右手は止まらない。
喫茶店に新たな常連客が誕生した瞬間である。
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