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私は秘密を持っている  作者: つっちーfrom千葉
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私は秘密を持っている 第三話


 そこからはなるべく人目を避けて裏通りを選び、焦らずにとぼとぼと移動した。用心はしているが、マスコミ記者が手にする望遠レンズが常に自分の背中を狙っているような気がして、寒気がした。多くの悪だくみと罠から逃れるように、十五階建ての自社ビルに静かに乗り込むのであった。毎朝、通勤時間帯だけで、これだけ神経をすり減らしていると、さすがに日々の疲れをひしひしと感じてくる。ロビーの入り口では、警備員の蛇のような視線が、私の社員証を確認してくる。やがて、この国有数の特殊な存在である私の顔を見て、にこやかに微笑み、尊敬の眼差しでこの背中を見送る。会社の広いロビーには赤絨毯が敷かれている。そこを通過する際に、受付の前で、我が社自慢の美人スタッフたちに、さっそく呼び止められることになる。一般の会社員なら、一本二万円のシャンパンでも開けてやりたくなるような展開であろうが、私のような選ばれた人間になると、このような些細なイベントで動揺を見せることは出来ない。我が身に起こるすべての僥倖を、ごく当たり前のことだと、受け止めねばならないわけだ。


「おはようございます。お顔が冴えませんが、どうなさいました? 通勤途中でカメラマンに追われてしまいましたか? 報道によると、今朝もまた、誰にも秘密を明かさずに、ここまで来られたらしいですが?」


 清楚なグレイのスーツに身を包まれた受付嬢は、私の姿を確認すると、目を輝かせながら、愛想よくそう尋ねてきた。彼女は、社内の多くの(恵まれない)独身男性から、常に注目を浴びている人気者である。ただ、月給五十万円ほども稼げないような、つまらない、ありきたりの社員に対しては、私に今向けられているような、愛くるしい笑顔を決して向けたりはしないだろう。この界隈においても、もっとも煌めいている、このお嬢でさえ、この私とならば、お近づきになりたくなるのも当然である。ここからは想像になるが、出来れば、肉体関係にすら持ちたいと、そういう表面には決して出さない淫らな願望すら、胸に秘めているはずなのだ。それは、この私が会社員であると同時に、広い世界で唯一の特別な身分を隠し持つ人間だからだ。このような研ぎ澄まされた立派な秘密を、この胸の内の金庫に隠し持っている人物は、他にはなかなかいないわけだ。こんな謎めいた存在と同じ仕事場で働けるのは、天空に住まう運命の女神が、ほんの悪戯で魔力の杖を振るってみた結果であり、この現実世界でいえば、ほとんど起こり得ない、まったくの偶然である。誰しもが私と友人知人になりたいと願っている。一緒に都会の裏通りにある、会員制の薄暗い酒場で、密談を交わしながら、時には肩を組み合って、夜通し飲み明かしたいと思っている。その会話の中で、期待していた情報も飛び出してくるかもしれないからだ。アルコールに飽きたら、陽気な気持ちのままで、歓楽街の路上をしばらくぶらつきつつ、少しきな臭い店にでも立ち寄って、ビリヤードでも楽しみたいと思っている。


 しかし、この受付嬢ときたら、秘密というものを、銀のスプーンで口に運べば、すぐに舌の上でとろけてしまう、甘い洋菓子ぐらいにしか考えていないらしい。OL同士の付き合いで交わされる、内緒事であれば、その程度の扱いで構わない。ただ、社会経験の薄さの為せる技とはいえ、それはひどく幼稚な考えだ。政治家御用達の高級料亭には到底連れていくことは出来ない。お偉い人の傍に少しでも長い時間いたいのなら、伏せるべき膨大な言葉のリストくらいは頭に入っていなければ……。言い換えれば、大企業のロビーで多数の来客を相手にするという危険な職に就いていながら、まだ、その純な心が汚い人間関係によって、汚されてはいない、という証でもあるのだろうが……。


 秘密を握ること自体に、莫大な利益を見出だす者にとって、これを手にすることは、大金庫の奥に山と積まれた、純金の延べ棒や店舗の内部に所狭しと並べられている、限定品のブランド物のハンドバッグを手にすること以上の差を、ライバルにつけることが出来るのだ。私を無邪気な顔で誘ってくる、この受付嬢についていえば、決して悪意はないように思えるが、他の社員の中には、恐れ多くも、この私を上手く手なずけて、どこか、裏通りの廃屋にある密室にでも連れ込んで、脅迫したり、勧誘したり、どうにかして秘密を聞き出すと、それを持って、その日のうちに外国へと高跳びしてやろうと目論んでいる、欲深い人間たちも、当然のように存在するわけだ。私の持つ秘密を、あわよくば自分の出世の糸口に利用してやろうと企んでいる人間もいるだろう。だから、私としては、大学を無事に卒業して、企業社会という大海原へすでに漕ぎ出していながら、いまだに人を騙すことも騙されることも体験したことのない、こんな純粋無垢な娘に対しても、甘い顔をしてやることはできないのだ。


「悪いがこれからすぐに重役との会議でね。とにかく先を急ぐんだ。君と不要な長話など、しているわけにはいかない。そもそも、君のような口と尻の軽そうな女に、この秘密を少しだって、打ち明けてやるわけにはいかないんだ」


 彼女の浮ついた表情をひと睨みしながら、キツイ口調でそう言い渡してやると、受付嬢は心中半ばアイドルとなっていたことを恥じて、それを何とか忘れようと、すっかり我に返り、普段の冷静さを取り戻すことができたようだ。彼女はどんな美貌でさえも、最大の秘密を得るための道具にはなり得ないことを悟り、毎日の来客を迎える際の、清楚で冷静な表情に戻って、ペコッとお辞儀をした。この私が可愛い女であれば、誰にでも甘い顔をする男ではないと、ようやく悟ってくれたらしい。


「うっかりして身分違いのことを忘れ、気安く話しかけてしまいまして、まことに申し訳ありませんでした。体内の秘密になど、あまり気を取られずに、今日も一日、お仕事をがんばって下さい」


 私は置き土産に軽く手を振ってやり、彼女と別れた。余計な時間を取られたので、早足で廊下を進み、エレベーターに乗り込むと、今度は背後から、別の何者かに話しかけられることになる。やれやれ、いつものこととはいえ、本当に日常生活を送ることさえ大変だ……。


「やあ、T君、次の日曜日なんだが、一緒にゴルフでもどうかね? 実は取引先の幹部たちにも、近いうちに君を紹介しようと、必ず一緒に連れていくと、約束してしまったんだよ」


 その声は営業部の部長であった。彼は私の姿を見かけることが出来た、ただ、それだけのことで上機嫌になっており、いつもとは違う溌剌とした表情で、ずいぶん気軽にそんなことを話してきた。身分の差や歳の差などで国家の内部での序列を飛び越えようなどと、そんな不謹慎な考えを企業の幹部が持つことが、果たして許されるものであろうか?


「部長、まことにすいませんが、それは、どうあっても無理というものです。なぜって、その理由は部長だって、当の昔から知っておられるではないですか。何しろ、私の身体の中には、あの秘密が埋め込まれているんですよ。人混みなどに出かけようものなら、好奇心旺盛な無名の人々の視線のすべてが、私のこの心臓めがけて飛んでくることでしょう。『大衆紙なんて恥ずかしくて読めない』なんていう上品な方々でさえ、私の動作のすべてを何とか盗み見ようとするわけです。普段は誰の視線も許してはならないわけですが、そんな緊張の鎧を脱ぎ捨ててしまい、土日の弛緩した趣味などに興じていては、その隙にせっかくの秘密が高性能スコープで覗き見られてしまい、霧散してしまうかもしれません。そうなったら、ノーベル賞候補の物理学者でさえ、完全には元には戻せません。私の持ち得る時間は、すべて国家によって管理(Control)され、厳格に保護されているということなのです。その辺りは、オスカー俳優や生まれたばかりのパンダの赤ちゃんと同じです。この私でさえ遠い未来においては、寿命という悲しい定めによって、この世から消え去ってしまう。多くの人の涙に見送られて……。ただ、その瞬間までは、壁にかけられたカレンダーの上に細かく書き込まれた予定については、すべて心中の奥深くに埋められたままになっているわけです」


 早朝のこの時間帯ということもあり、やや機嫌が悪かったので、私はかなり手厳しく、そして、少し上目遣いに、そう告げてやると、営業部長は、その発言の重さや圧力にすっかり恐れをなして、すぐに頭を下げた。


「それは、すまなかった……。私としたことが、実際には何の権力も持たないくせに、まるで友人のような気安い態度で、君を遊びに誘ってしまうなんて……。どうか、ここは腹を立てないでくれたまえ。ゴルフのことは、もし都合がついたら、でいいんだ。もちろん、君のことは部下ではなく、来賓のように大事に思っている。我が社の管理職は皆それを心得ているはずだ。今度、心に余裕ができて、時間が空いた時にでも、一緒に腹を割って話そうじゃないか。考えておいてくれたまえ……」


 部長は本当にすまなそうに、そう謝罪すると、まるで、社内での立場が逆にでもなったかのように、深々と頭を下げた。そして、何か彼にとってもっとも恐ろしいものから遠ざかるように、足早にエレベーターから降りていった。彼のような重役でも、私の存在を心底恐れていることが見て取れた。あるいは、今の会話は他の目的があったのかもしれない。例えば、上層部から私の様子を探ってみるように命令を受けたとして……。


 こういった一連の出来事でも、はっきりとわかるように、社内での私の地位は、地面のどこからでもあっさりと拾えるような、他のありきたりな社員とは別格である。現実的な視点でいえば、うだつの上がらない、万年平社員だが、体内に大きな秘密を埋め込まれていること、そして、その情報のいくつかを、わざわざこの国全体に知らしめていることによって、ある意味、管理職以上の特権を手にしているのである。うちの会社の幹部たちにしてみても、私という存在が社内にいることによって、人材の面において他のライバル企業を一歩リードしている気にもなっているらしい。普段から腹の探り合いが続く、半ばライバル関係ともいえる取引先との会合でも自慢話にすることが多いらしい。


『うちの会社には、T君という社員がいましてね……。もちろん、そちらでも、ご存知でしょうね? そうそう、巷で噂のあのTです、顔が良いというわけではない……。家系もありふれたものです。強力な背景を持っているわけでもない。格別仕事が出来るというわけでもないのですが……。しかし、何しろ、あなたもご存知の通り、すごい秘密を持っているらしいんですよ……。もちろん、それをどういう形で使わせるかは、上司である私の一存で決められるわけです。彼は私の言うことであれば、どんなことでも聞いてくれるんです。何度も試したことがあります。つまり、国家を揺るがしかねない秘密を、どう扱っていくかは、私の指先一つで決められるわけなんですよ。今期の受注先は、絶対うちの会社にしておいた方がいいと思いますよ。あの秘密が社内にある以上、御社には決して損はさせません』


 重要な取引きがあると、私の存在をそうやって決め文句として使うらしい。秘密の効果は絶大である。常日頃は金や権力に目もくれない業者でさえも、秘密というものの魅力には逆らえず、最初は視線をそむけて抵抗しようとも、いずれは、飼い犬のように尻尾を振ってついてくるわけだ。おかげで私が入社してから、我が社の業績は右肩上がりとなっている。ただ、時には、こんな私だって、仕事に失敗することもあるわけだ。残念ながら、秘密の存在によって完璧な人間にはなり得ない。些細なミスの積み重ねにより、上司から呼び出しを食らうことさえある。


「T君、君が二ヶ月前に企画して自信満々で提出してきた例のプロジェクトだがね……。どうやら、客の入りが想定よりも、芳しくないらしくて、大幅な赤字を見込みそうなんだ……。このままでは、資金を提供してくれた銀行にも頭が上がらない……。我が社としては由々しき事態だ……。いくら、君だからといっても、今度ばかりは、特別扱いは出来ないかもしれん……」


 眉間に何重ものシワを寄せた、うちの課の課長代理から、そう通告されたときも、私はまったくひるまなかった。


「なんですって? 私の企画が大失敗に終わったと、そう、おっしゃるんですか? あなた、この私に向かって、よくも、そんな無礼なことが言えたもんですね。私の体内のどこかには、とてつもない秘法が埋められていることぐらい、とうにご存知ですよね? 今は羽蟻に過ぎませんが、人生の分岐点に立つごとにずる賢く立ち回って、これを上手く使えれば……、まあ、それは人として限りなく薄汚れた手段にはなるでしょうが……、例えば、顧客の耳に顔を近づけ、秘密を上手く囁きながら、人脈づくりに精を出し、立ち回っていければ、こんな平凡な企業に飼われなくたって、いくらでも社会的に成功出来るんですよ。私だって、こんなこと自分から言いたくはないですよ。ですが! あなたより遥か上の地位にだって、いつだって好きなときに就けるわけです。入社以来、私の面倒をよく見てくれたあなたを、新大陸発見の際の開拓奴隷のように、顎でこき使おうだなんて、そんな大それたことは想像だにしません。マフィアでさえ恩義や上下関係を重んじるものですからね。ただね、年商千億にも達していない、こんなちっぽけな会社に、私のような燦燦と輝く存在がいること自体が奇跡であります。さらに言えば、この貴重で稀有な存在として、いつまでも居てやらなくたっていいくらいなんです。そのくらい、あなたにも、おわかりですよね? どんな世界的大企業だって、私の記憶に埋め込まれた秘め事を、たったの一欠片でもいいから、目にしてみたい。手に入れてみたい、と思っているわけです。


 これでこちらの言い分は理解できましたか? 私がこんな不毛な会社に、きわめて低賃金で、ひとりの社員としてバビロン捕囚のように幽閉され、収まっていることは、いわば企業社会全体へのあふれ出る恩情からなんですよ。時給数百万円を稼ぎ出している、投資家や芸能人だって、この私と細い道ですれ違えば、喜んでその道を譲り渡すわけです。産まれたての赤子にも容赦なく唸りをあげ襲いかかる、野良犬や野生の熊でさえ、私の秘密を心のどこかで恐れている。理性を持たない生物であっても、見えない畏怖を感じるものです。大統領は確かに偉いわけですが、彼だって大統領にしかなれません。私はハリウッドスターでも名探偵にでも、NYの個人投資家にでも、上半身裸のストリップ劇場の踊り子にでも、どんな存在にだってなれるんです。コンビニで免許証を提示するように、この秘密さえ、浮浪者の目の前でお札をなびかせるように、相手の眼前でチラつかせてしまえばね。もちろん、私は自分の秘めた才能を、一般庶民の前で、あえてひけらかすような、そんな低レベルな真似はしませんけどね。あくまでも、可能性を論じているに過ぎません。おそらくは、どの方面の才覚においても、あなたがたより格段に優れているのだ、という自己満足に浸っているだけで十分なわけです。ですから、あなたが今、どんな無礼な言葉を、大統領の耳にも等しいこの耳にぶつけてきたとしても、暗雲を突き破って降臨された、自己犠牲の神に身を委ね、あえて、それを許そうと思うわけです。大筋でいえば、私たちは仲間ですからね。ただ、この私と業務上の建設的な会話をしたいと願っておられるのであれば、もう少し言葉遣いには気を使って頂けませんと……」


 私にこのような手厳しい台詞を突きつけられてしまうと、幹部たちでさえも、薄っぺらな座布団の上で、頭を大地にこすり付け、もうとにかく平謝りに徹するしかないわけだ。これまで紹介してきた事例の通り、私を不用意に怒らせてしまった日には、この社会が誇るすべての規則や常識、これまでの記録、あるいは天地さえもひっくり返されることになる。日曜の昼間に教会から礼拝を終えて出てきたばかりの、信心深い淑女が、一皮剝いてみたら、実はシリアルキラーであったということもあり得るだろう。正義と法律順守を標榜する警官組織が、いつしか殺戮兵器を携えた、凶悪な人格に変貌して、時をおかずして暴力組織となる。サキュバスとパンドラの双方が否応なく人の理性を狂わせていく。それぞれの人間の動向は兎にも角にも両極端だ。そもそも、秘密の持つ意義は途方もなく大きいのだ。人間界がほんの少しずつ積み重ねてきた膨大な知識の山を、秘密のひと息でいとも簡単に吹き飛ばしていく。普段は社内で共に働いている誰であっても、気のおけない関係を築いているわけである。私が一度怒れば、それは雷神ゼウスが天上からその杖を振りかざすに同義であり、その矛先は社会のどこへ向くかさえわからない。私の感情の変化によっては、多くの人々の心の平和が奪われてしまうかもしれない。長い年月にわたり、心中の奥の奥に隠されてきた、その秘密が暴発したとき、その影響が及ぶ範囲はきわめて広大であり、すべての建物や障害物を貫通する。誰しも逃げきることは出来ないだろう。つまり、本当のところは、誰もが心底私を恐れているわけだ。


 ただ、他人を騙し続け、本当の自分の姿をひた隠す、覆いを被ったような生活を続けているうちに、私自身も、精神的に疲れを貯めてしまうことはある。それは、私に対して、心の内側を打ち明けてくれる人がまったく存在しないからだ。上司はもちろん、ほぼ同期の社員たちでさえ、私とは一定距離を置きながら仕事をしている。


『できれば、昨夜のサッカーの試合について、少しでも話しかけて来て欲しい』


 だが、彼らは皆、私をくだらない問題に巻き込んで、迷惑をかけまいとしている。私と深い付き合いに陥ってしまうことで、自分の心中を透かされてしまうことや、現在の地位を失いかねないような、弱みを握られてしまうことを恐れているらしいのだ。企業社会においては、十年も働けば、誰だって、打ち明け難い隠し事のひとつやふたつは出来るものだ。誰もが社会への貢献者であると同時に、犯罪者でもある。一般的な人間関係においては、隠し事というものは良くないとされるわけだが、心中に隠し事さえ持たないような人間の社会的評価などは、余計に低いものになってしまうだろう。すべての企業人が、私の心の奥底に、どこまでも深くて、果てなく暗い底無しの沼があって、私との付き合いが長くなると、そこから手招きされてしまうことを熟知しているのだ。私の秘密を恐れるがあまり、いつしか、その笑顔はどこか歪んでいき、当初は放たれるはずであった本音は、少しずつ虚構に彩られて変化していく。この広い世界のどこを旅したとしても、真実を語りあえる友人というものが、私にはいないということだ。自分の能力だけでは絶対に解決しえない、真実の苦悩が生まれてしまったときには、いったい誰に相談すればいいのだろう? 


 会社というものを動物園だと仮定するならば、他の社員は一般的な集客用の見せ物である、つまり、誰もが一度見して通り過ぎる程度の象や猿やペンギンやアリクイだろう。しかしながら、この私はいわば絶対的な人気者の、パンダやコアラだといえる。つい最近、この世に産まれついたばかりの赤子から、片手で杖をつき、全身を震わせながら、よろよろと歩く老年まで、皆が私の行動に注目しているはずだ。私がその気まぐれな心境により、愛嬌を振りまいたり、日がな一日、檻の中で笹を噛んでいるところを見るために、遠地からはるばると電車を乗り継いでやって来ている。正門のすぐ外側で、朝も早くから、家族そろって長い列に並んで、膨大な時間を潰して、ようやく、私がひっくり返っているだけの檻の前へとたどり着ける。高性能のカメラレンズは、そのほとんどが私にのみ向けられているだろう。カバは自分の檻の前に誰も来なくとも、それを気にすることなく、大きなあくびをしている。そういう存在がいることも確かだ。誰もが私の行動を逐一知りたいと思っているし、その振る舞いのすべてを、我が眼で観察するために、ここへ来ているわけだ。他の動物からすれば、その孤高の存在は、否応なく嫉妬の対象になり、一目置かざるを得ない対象でもある。自分に来るはずのお客をまとめてかすめ取られても、文句ひとつ言えず、自分より餌を多めに与えられているところを、まざまざと見せつけられても、隣の檻の中のやせ細ったリスは苦々しい愛想笑いを、あえて振りまかなければならないはずだ。情報は社会全体の所有物であるはずだが、絶対的な秘密については、個人によって保持されている。もし、秘密が権力の象徴であるならば、権力闘争の推移は、秘密を隠し持つ、個人の思うがままに、その航路は進んでいく。


 私は独善的であり、私は強権的であり、私は孤独でもあるだろう。わざわざこちらの様子を観察しにくる、多くの客に対して、他の不人気動物たちのように、いちいち面倒くさいパフォーマンスをして人気集めをしなくてもよいのだが、一見、誰からも愛されているように見えて、実は誰からも理解されてはいない。秘密とは謎のままであっても、十分に楽しめるものだからだ。見えずとも触れずとも十二分に社会の利益なのである。私と本音をぶつけ合える人間は、そもそも、どこの世界にもいないだろうし、実際にこの目で見たこともない。私が過去に犯してしまった、数々の愚行を知りながらも、首を横に振り、涙をこぼしつつ、とくとくと説教をしてくれる人もいないわけだ。『あなたのすっかり傷ついた人生を何とか支えてあげたい』と、真実の愛を打ち明けてくれる女性も、おそらくは存在しない。他人との付き合いの中で、どんな大ごとが起きたとしても、それらは、秘密に関する熱意や激情の上で為された行為とは到底いえず、すべて、上辺だけの付き合いで為された出来事である。


「あの人はこれからの長い旅路を行くとき、あの大変な秘密と、どう向き合っていくつもりなんだろう?」


 みんなが堅牢な檻の外から、心からの同情を込めた視線により、私の行動を逐一見つめている。秘密の囲いに捕われている私の境遇を、少しばかりは心配もしてくれているし、それ以上に、私の運命の行く末に残忍な結果が訪れることを望んでいるのかもしれない。私にいくら尽くしても、どれだけ多くの同情を重ねたとしても、その結果として、自分の手元に秘密の恩恵が巡ってこないのであれば、いっそのこと、秘密を抱きかかえたままで、一番見栄えのよい場所で派手にすっころんでくれた方が、彼らにとっては望ましい結末なのかもしれない。秘密の漏洩は、それイコール破滅である。そのときになって、初めて、本来ならば尊敬されるべき私に向けて、大衆からの嘲笑の笑い声が、浴びせられることになるかもしれない。


『手にあまる厄介な存在と、扱いかねていた秘密が同時に消えてくれたぞ。これはめでたい』


 大胆な投資に成功して億千万の財を築き上げた企業家であれ、オリンピックにおいて世界記録を成し得たスポーツマンであれ、一回のコンサートツアーで百万人を動員するロックバンドであれ、百万長者という存在の特異な気の持ちようが、この私にはよくわかる。現代社会においては、自分の身に迫る、ほぼすべての難題は、多額の金融資産を所有することによって、そのほぼすべてが解決できるであろう。それはつまり、必ずしもそれに恵まれていない、周りの人間からすれば、無数の銃弾や砲丸の飛び交う、戦場における装備の有る無しにも等しく、必要以上に羨ましがられることとなる。しかし、頑強な防備を持っている人間ほど、その内部の肉体は薄くて柔いものだ。自分以外のとてつもなく強きものに守られることにこそ、初めて心の安息を見出し、そのことに異常なほど神経質にならざるを得ない。資産を作りあげることに懸命だった人生は、今度は資産を守り切ることに奔走する人生へと変わっていく。先に述べたように、資産家はあらゆる種の人間から羨ましがられるのだろうが、実際のところ、彼らとて、本当は苦しんでいるわけだ。財産が増えていくごとに、それを付け狙う悪党の存在も目に見えて増えていくわけだからである。どんなにタチの悪い野獣の群れに付け狙われても、たとえ我が身が誘拐されてきつく脅されたとしても、自分の存在価値でもある資産というものを絶対に守り通さなければならない。広大な坂道を登る決意をした者は強者であるが、巨万の富を築き上げた後は臆病者となる。命の金を少しずつ削られることは、鋭い刃物で身体を少しずつ刻まれていくのと、ほぼ同様の苦しみである。


 どんな境遇の人間であれ、財産が増えることは最も単純な喜びになるが、それ以上に増やしていくことは、それに付随して発生する苦しみを、さらに大きくしていくだろう。永遠に広がる蜘蛛の巣のような人間関係は、自分の弱みを表面にさらけ出すきっかけにもなる。家族だって、盟友だって信用は出来ない。昨日までは笑顔で会話をして、あらゆる面倒を見てくれたはずの妻が、今日の夕食になって、何の前触れもなく、スープに毒を盛ってくるかもしれない。


『あなた、今までお疲れ様でした。お墓は故郷に用意しておきました。ごゆっくり、お休みください』


 ありきたりの言葉と、霊界の羽毛をかけられて、これまでの愛情はすべて見せかけであったことを思い知らされる。血と汗を流しつつ、これまで貯めに貯めてきた、莫大な貯蓄のすべてを赤の他人に奪われることより、唯一の精神的支柱であった人に裏切られた衝撃の方が遥かに大きいと感ずるのであれば、これまでの長い歩みは、まあまあ真っ当な人生であったと表現できるのかもしれない。ただ、いずれにせよ皮肉な話ではある。今更ながらに沸き起こる、自分自身への後悔や甘すぎた過去の判断を修正して救ってやることが出来るのは、結局のところ、自分ひとりしかいないからである。


 自分が何の前触れもなしに死んだ(殺された)とき、残された遺族たちは、莫大な資産をどう処理すればいいかがわからない。地獄の底から這い出てきた餓鬼たちが、その処遇を巡って、見苦しく言い争い叩き合うことは誰の目にも見えている。せめてものおこぼれに預かろうと、銀行屋や税務署員や弁護士たちも息を潜めて、壁際の向こうで舌なめずりをしている。顔も見たことも無い、挨拶を交わしたことすらない、遠い遠い他人と同義の親戚までもが、金の匂いを嗅ぎつけてすり寄ってくる。


『まだ、この方がちっちゃい頃ねえ、よく面倒を見てやったものですよ……』


 虚実織り交ぜて展開される人情劇。誰の語る言い分も、自分とはまったく無縁なはずの物語であるが、一番もっともなストーリーを供述した者がこの場の勝者となるわけだ。自分の死に際して、せめて、我が身にも益よ降りたまえと、いくらか期待はしている。現世は数十年もの荒れ狂った航海であったわけだが、死んだ後にも平穏や安らぎなどはやって来ない。資産の所有者は変わっても、狂った人間関係だけは延々と持ち越されていく。そういった黒い想像により、次第に人間という存在そのものに対して不信感を抱くようになる。時が経つにつれて、眼前を通り過ぎていく誰しもが信頼できなくなっていく。必ず訪れる暗い未来のことを思うと、今握りしめている金銀財宝をどれだけ長い時間眺めていても、ちっとも楽しく思えないものだ。


 以上は、資産家は常に孤独である、という話であるが、もちろん、他人事ではない。秘密という概念に侵された、この私とて、彼らとほぼ同じである。信頼のおけない他人を自分の身近には絶対に寄せつけない、国家の宰相でさえ、常にファンに取り囲まれている、スポーツ界の英雄でさえ、私の存在には一目を置くことだろう。俗人を統べる英雄たちよりも、さらに上の世界に住処を見つけたということだ。そのこと自体に圧倒的な優越感は感じている。しかし、この秘密をどのように扱っていき、どのようなタイミングによって、どう処理して手放していけばいいのかは、実のところ、この私にも、さっぱりわからない……。秘密とは思想や道徳や価値観ではない。また、気体や呪いや固形物でもない。私のすぐ背後に常に付きまとい、ときには内臓の奥にまで潜り込み、どこまで逃げてやっても追いかけてきて、生涯離れることはない。そして、いつしか、思い出したように、私の耳元でこう囁く。


「おい、いつまで隠し通していけるつもりなんだ? そろそろ、息が苦しくなる頃だろう。早く、すべてをおおっぴらにして、楽になっちまいなよ」


 しかし、どれだけ辛くても追い詰められても、そんな誘惑に易々とのるわけにはいかない。私は天性の才能を持っているわけではない。人に自慢できる才能も実のところ持ってはいない。つまり、今の職をクビになってしまえば、金策の手段は何ひとつ持ち合わせていないことになる。秘密あっての私なのである。秘密が世間に向けて大々的に発表され、大衆の知識欲を満たすことで、完全に消化され、秘密が秘密ではなくなってしまえば、私はその瞬間にただの一般人になる。冷酷にいえば、誰からも相手にされなくなることだろう。アイドル似の受付嬢もこちらと目を合わすことなく下を向いてしまう。


『今日はお帰りですか。いつもお一人なんですね』


 花のような美女たちの愛らしい笑顔のすべては、私を素通りするようになる。同僚たちからは、今まででかい態度を取り続けたことへの仕返しをされる。暇つぶしに折られた紙飛行機が、頭上を虚しく通過するようになる。


『あいつって、何か本性を隠し持ってるって、嘯いてなかった?』


 ついには、苦虫をかみつぶした上司によって肩を叩かれるのだろう。庇ってくれる同僚などいるはずもない。そのまま、会社を追放される。復讐は私生活にも及ぶだろう。当然だが、これまでの住居にはいられなくなる。日の出ているうちは、うかつに近所の通りも歩けなくなる。社会での競争に敗れた者にとって、貧民たちほど恐ろしい相手はいないだろう。下手にプライバシーを知られている分、刑務所から出てきたばかりの凶悪犯罪者たちよりも、さらに厳しい扱いを受けるだろう。


 そこまで予見してみると、今更、一般人に戻るのはごめんだ。不本意ながら、秘密はこれからも守っていかなければならない。おそらく、私の苦しみをわかってくれているのは、血の繋がった家族だけだ。会社が休みの日に実家に帰れば、家族は心配して声をかけてくれる。


「今の境遇が苦しいのはわかっているけど、こうなったからには、見返りが出るまでは我慢するしかないよね。不幸が幸せに変わるまで頑張るんだよ。それでも、その秘密を道端にぶちまけてしまいたくなったなら、まず、母さんにその内容を教えるんだよ」


「処分するなら、早めに、と言っておいたはずだ。なぜ、そんなに大きくなるまで放っておいたんだ? もう、誰も近寄れないほどに、秘密がでかくなっているじゃないか」


「俺にはわからないなあ。兄貴は、最終的にその秘密をどうしてしまいたいわけ?」


 すでに逃れられない境遇にいる私に向けて、みんなが気を使いながら、話しかけてくれる。同意できる部分も多くある。私は上手く話を逸らしながら、自分以外の人間を、なるべくこの問題には巻き込まないようにしている。


「大丈夫だ、いざとなったら、秘密を上手く切り分けて、小出しに発表して、ある程度の距離をとりながら、このピンチを切り抜けてやるさ」


 私は食卓において、秋刀魚の背骨を器用に外しながら、含み笑いを浮かべつつそう答えるわけだが、心中はすっかり路頭に迷っている。母親が作ってくれた筑前煮も、このところは味がしなくなった。


ここまで読んでくださってありがとうございます。

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