私は秘密を持っている 第十四話
「19××年、佐世保に某大国の原子力空母が燃料補給のために急遽寄港することになった。相手側からの要求を完全に飲む羽目になったわけだが、軍事同盟を結んでいる間柄でもあるし、政府内の見解でも特に問題はないと判断された。国内左派からの強い反発は予想されたが、正式な外交ルートを通じて交渉を行うとなると、第三国との緊張をはらみ、ことが余計に厄介になりかねないからな。この情報がマスコミによって知らされたとき、案の定、世論はますます賛成と反対に分断された。空母の巨大な姿が海上に現れたその瞬間、佐世保港周辺は各種民主団体と警察や機動隊が入り乱れて、文字通りの紛争状態となった。その様子は、民放各社がありがたいことに生中継によってお茶の間に届けることになった。まったく、見たくもない光景だったよ。ただ、その傍らでは、恒久の平和を願い、両国の国旗を振って歓迎ムードに浸っている市民らの集いもあった。各地から集った圧力団体が、ほぼ丸一日にわたって、激しいデモを続けたために、数百人規模の逮捕者は出たわけだが、重傷者や死者はその当日はとりあえず出ずに済んだ。三日後の早朝、予想よりは比較的穏やかなムードの中で、一連の給油活動は順調に行われ、それらが無事に済むと、空母の船長は『我々を歓迎してくださった地元住民の皆さんには、深くお礼を申し上げたい』と、喜びだか嫌味だか分からぬような、曖昧な声明を発表した後で再び出航していった。まあ、正直、巨大な船舶が出航していくその後ろ姿を、モニターで確認したときには、私もこの胸を撫でおろしたわけだよ」
「しかし、後の調査によって、実際には海水が高濃度の放射能で汚染されていたことが判明したわけですね?」私はそこで鋭く追及の言葉を挟んだ。
「むむ、よくそれを知っているね。それとも、君は直感が鋭い方なのかね? その通り、各大学から集められてきた、超優秀な(少し語気を強めながら苦々しく)研究チームによる調査では、付近の海中において、とてもごまかしきれぬほどの放射能汚染が起こっていることが確認されたわけだ。しかも、彼らは先手を打つ形で、簡易的ではあるが、記者会見まで行ってしまった。そのために、この事態は、今さらごまかしの効かないほどにまで発展していたわけだ……。明朝の各紙において、轟々とした政府非難記事が躍ることが確定してしまったわけだ。さて、事態は進み、私の首には、いよいよ縄がかかってきた……。二百年前の管理者ならば、この時点で、すでに腹を切っているわけだが、現世には色々と抜け道もあるわけだ。人生は常に賭けといえるのだが、もし、まだ生き延びることができるのならば、もう少し、生きてみたい気もした……。さあ、こういうとき、君ならどうする……? その妙に冴えている脳内から、今度はどういった妙案を捻くりだすかね?」
「太古の昔から、何度も見てきたかのような事件ですね。大国の利害関係だけを追求させるための、首脳同士の取り引きによって、実際には、一番下辺にいる市民たちが大きな被害を被るという……。君ならどうするか、ですって? 私に聞くまでもないでしょう。いつものように、見ない、聴かない、記憶にない、責任などとらない、で強引に押し通せばいいじゃないですか。船舶はそのときすでに帰国しているんだし、それ以上の証言はとれない。マスコミ発表の追加なんて、まるで必要ないでしょう。ただ、大学の教授連中がマスコミ相手に先に動いてしまったのなら、これはもう既成事実とほぼ一緒ですからね。事態がここまで進んできて、後追いでもみ消していくのは、さぞかし大変だったのでは? どんなに強い愛国心に燃え、国を守ることを望む大衆が多くても、放射能という単語を聴くと、とっさに拒絶反応を示す国民性ですからね。こりゃあ、次の総選挙にもかなりの影響がでそうではないかと、上は閣僚クラスから下は市議会議員の秘書まで、もみ消しに大わらわだったのではないですか? しかし、今度ばかりはもみ消そうにはないように思えますが、貴方だって、今になっても、まだ、その立派な椅子に座っておられる……。あの劣悪な局面から落ち延びてきた、ということですか……。いったい、どうやって、ごまかしたんですか?」
言論のみで相当に追い詰めてきたつもりだったが、書記官はこれまで何度も見てきたような陰険な笑いを、またしても浮かべるのだった。『いちいち、説明しなければ分からないのかい? 君になら、とっくにわかっているだろう』とでも、言いたげだった。
「放射能漏れが起こっているという、その一報をこの耳が聴かされたとき、政治家の大多数と官僚の過半数は、これは大した事件にはならないだろうと、高を括っていたようだ。だが、私はこれを聴いてすぐに前代未聞の大ごとになるだろうと思った。首相官邸よりも自分が真っ先に動かねばならないと思ったわけだ。ただ、これを無事に解決できる確率はそれほど高くはないことも知っていた」
「しかし、原子力潜水艦が寄港すること自体は、地元の住民やマスコミに公表してあったのですよね? では、なぜ、大量の放射能が漏れていた一件は彼らにバレなかったのですか?」
「マスコミの仕事とは、権力者にとっては有益で、大衆にとっては無意味な情報を必要以上に作り出して、それを布教のごとく広めていくことだ。自分たちの的を得た意見が、いずれは大衆の思想に訴えかけるのだ、なんて高尚な言葉を使いたいのであれば、それくらいは認めてやってもいいだろう。だがね、国家の存亡の際には、マスコミだろうが、マフィアだろうが、すべてのことが丸く収まるまでは、きっちりと足並みを揃えてもらわないと困る。抜け駆けや博打ち的な取材は、このような状況ではいっさい必要ないし、許されない。いらぬ混乱や政権への不信を招くような記事を書く行為は、国家の転覆を狙う輩のテロ行為とまったく同じなんだ。どんなに小賢しい知恵を発揮してもらっても構わないが、誰しも自分の権限を飛び越えることなど、できやしないからね。事実はどうあれ、後に行われるはずの政府発表が真実のすべてとなる。政府の意向に従順になるのが、新聞テレビ各社の正しい在り方だ。もし、それが出来ないのであれば、愛国者という定義からも外れて然るべきだ。先ほどの件でも、新聞社の編集デスク連中は、怪しげな臭いをすぐに嗅ぎつけて、その取扱いに対して、大いに頭を悩ませ、多くの記者が食うも寝るも惜しんで、裏で動いていたらしいが、夜明けを迎えてみれば、結局のところは、当たり障りのない記事に終始するしかなかった。それは言うまでもなく『記事を書いた後』と『読者に発送する前』の僅かな時間の隙間に、政府からの強力な圧力がかかったからなのさ。こちらとしては、その拙い主張をどんなに素晴らしい文章によって貫いてもらっても一向に構わないのだが、それが本当に発表できることなのか否かは、こちらの胸三寸なのさ。本当に何でも書いていいのは教室の後方の壁に貼られている、くっだらない学級新聞の記事くらいであって、一般の大衆紙に勝手に重大な事件でもあったかのように書かれてても困るわな。この国においては、不祥事は起きていても起きてはいないのだ。統制者と大衆は同じように振る舞わなければならない。でなければ、他の列強国に対して示しがつかない。
かくして、事態は生まれ変わる。愚かな大衆どもは、何ごとか起きたのは分かっているから、ニワトリの鳴き声と共に玄関のポストに駆けつけ、一面にドンと書かれた、目の覚めるような鋭い大見出しを期待していたわけだ。だが、実際に書かれていたのは、増税法案の強行採決に成功したと大威張りをする政府の敏腕ぶりを褒め称える提灯記事だったわけだ。マスコミが権力者たちの傀儡に過ぎないこと、政府の思惑を裏切る記事を書くことなど、永遠に不可能であることを、再び思い知らされたわけだ。つまり、世論は再び沈黙した」
「マスコミの口を封じたって、そんなに簡単な問題ではないでしょう。学者たちが放射能汚染について、小規模ながらも正式な発表をしているんですよ。どんなに強力な権力でも、それを覆すことは困難なはずです。なぜって、数字という確定的な事実によって示され、それを一度知らされてしまった市民の思考回路は、そう簡単には恐怖や不信から抜け出せないからです」
「だからだよ、だからこそ、彼の存在が大いに役に立ったわけだ」
「先ほど、貴方が説明していた、あの場末の飲み屋でスカウトしたとかいう、彼ですか?」
「そう……、学者どもや、反体制派の発表を、彼に頼み込んで、その腹の中にその一件のすべてを飲み込んでもらったのだ」
「理屈の上では分かりますが、どうやったら、そんなことが可能になるんですか?」
「なに、それは君の場合とほぼ一緒さ。手術をして腹を割いて、心の壁をドリルで砕いて、その内部に黒い秘密のすべてを蝋や蜜でも流し込むように、押し込んでいくのさ。実際のところ、君のときと異なるのは、埋め込んだのが、脳か腹かの違いくらいなのさ……」
「一応確認しておきますが、それを埋め込まれた彼は、その後でどうなったんですか?」
「死んだよ。それ以外の結末が生まれるわけもなかろう」
「酷すぎる……、自分から誘っておいて、死に直結することだけは黙っているなんて……。貴方は悪魔だ……」
「そうかね? それがそれほど悪いことか? そのときの様子は、今でもよく覚えている。彼の口元は最期の瞬間まで笑っていた。己のみが真実を握りつぶしたのだという満足感と充実感によって、最高に高揚感を得たまま爆死したことは想像に難くない。我々にとっても、これ以上ない結末だが、彼だって、ダメ人生の最後まで来て、己の中の頂点を迎えたはずなんだ。まあ、これは自己欺瞞とも表現できるがね……」
「秘密の膨張によって彼の肉体と心理の両方が破裂したのなら、それはあなた方の計画の一部ではないですか。最大の秘密を抱いてもらったまま、その入れ物には永遠に消え去ってもらう……。あなた方官僚としては、いっさいノーダメージだ。そもそも、彼の存在を知っている人間は、貴方とその周囲のほんの一握りだけ……。人間をひとり消してしまえば、この国の首脳たちの全員が助かる。そして、皆で胸をほっと撫で下ろす……。さぞかし、気分が良かったでしょうね? でもね、そんな無法を許す法も真理も実は存在しないんです。その話を聴かされたこの私が許さない。貴方たちがこれまで行ってきたことは、まさに悪魔の所業なんですよ」
「落ち着いて考えたまえ。あの男が何も知らされぬままに死んでいったのなら、同情に値するが、自己の欲望を完遂した後で死ぬことは、ある意味で人生最高クラスの願望達成であり、誰もが望む幸福でもある。彼は立派に仕事をやり遂げた。そして、夢の実現を確認して満足しながら、その身を散らせていった……。その究極ともいえる最期の場面を、私はこの目で見ていた。この国最大級の秘密をその胸に握り、その願望を達成して、今まさにその身が砕け散ろうとしているのに、彼の表情には微笑すら浮かんでいたのだ。その自爆は、視覚と明晰な判断の下で行われたことは、間違いないんだ。君のもつ道徳や疑念よりも、さらに優先されるべきだ。彼の死に関していえば、我々に責任の矛先を向けるのは余りにもお門違いだ」
「それで、その哀れな身代わりのお墓の前に、線香の一本でも与えたのですか? 貴方がこの世界に引っ張って来なかったら、最悪の事態に巻き込まれずに、安楽な余生を送れたのではないですか? もう取り返しがつかないのであれば、せめて、罪悪感だけでも背負っていった方がいい。『自分は何も知らない、命じていない、聴いてもいない』と、すべてを踏みつぶしながら生きるのは清々しいかもしれませんが、多くの怨嗟に満ちた視線を大気の中に取り囲まれながら、生きていて、本当に幸福といえますかね? 私なら嫌ですね。月に一度の焼肉料理も、年に一度の海外旅行もろくに楽しめませんよ。死後と現在と未来のすべての視線が、貴方に対して「早く破滅しろ」と睨みつけてくるわけですからね。これで飯が旨かったり、演劇を見て笑えたなら、これはもう並大抵の無神経を通り越しているはずです。ほとんど狂人の部類ですよ」
「それは、最高権力者であるこの私に対して、『こちらの判断がまずかった。申し訳なかった』と、一度頭を下げろ、と主張しているのかね?」
「その通りです。貴方が踏みつぶしてきた人生のすべてに謝罪して頂きたい」
「しかしね……、大変遺憾だが、霊魂はまるで信じないタチでね。根っからの無神論者なんだよ。たしか……、君もそうだったはずだな。この机のすぐ横まで、あらゆる時代の権力者に恨みを抱く長槍をもった侍たちの霊魂が攻めてきていないのなら、今さら、ここで頭を下げても意味はないはずだ。さっきも教えたと思うが、本当に国家に尽くした者たちならば、それがたとえ何の役にも立たない死であったとしても、満足の笑みを浮かべながら消えていったはずだ。私に対して反駁をしてはいけない。君もきっと彼らと同じような安らかな最期を迎えるられると思う。その僥倖が現れるまで、あと数年の我慢なんだよ……。
我々にできることは、彼の仕事が本当に国家の役に立ったのか、我々の重荷を減らすことに少しでも寄与したか、ということの判断だ。その顔をみると、どうやら不服そうだね? しかし、この事例については、どうか冷静に考えてくれたまえ。君たちの職務、これは国家への貢献の有無と言い換えてもいいだろうが、それは、『秘密を守り切る』ということだ。キャリア試験にも通っていない無能なる君たちに対して、我々官僚が辛うじて期待できることといったら、もう、その一点に尽きるわけだ。その辺りに関しては、もう少し理解を深めてほしい。死んだときに同情してもらえる人間、惜しんで貰える人間、補償をしてもらえる人間というのは、すべからく国家に大きな貢献を成した人間だけなんだ。無駄飯食いの死に際して涙する役人がいるとでも思うのかね? もし、根拠があるのなら、ここに示してくれたまえ。そんな場面を見たことはないんだろう? 古代オリエントにまで遡ったとしても、そんな人物はいなかったし、おそらく、この星が消滅するまで未来永劫現れないだろう。そのくらいならば、かたく誓ってもよい。あとな、これは、永久凍土のように冷たい、私の持論ではないんだよ。これは行政機関における、永遠の哲理なんだ」
「それは、放射能漏れを暴露して自爆してしまった彼と、この私の命運とが実はリンクしていて、その先行きは紙のように薄いと、そう仰られているんですか? 先ほどから私が述べていることの主題は、謝罪云々の話ではないのです。もし、この国自体が隠し持っている情報、まあ秘密と称してもよいです。そういうモノが本当にあるのならば、それを我々の自爆や消滅という形で終わらせるのではなく、あなた方、つまり、お偉方が自分の口を用いて、世間一般に向けて堂々と発表するべきです。権力者というものは、人が口を利けるようになってから遥か数千年、この現在に至るまで、ほとんどすべての発表ごとを嘘で塗り固めているのです。彼らの家の壁の煉瓦に塗られる色彩は、少し不自然と思えるくらいに、真っ赤な嘘の朱赤なのです。それ以外に選択の余地はない。ナポレオンやアレキサンダー大王やチャーチルでさえ、嘘と虚栄によって我が身を飾り、我が身が破滅するその瞬間まで、それを誰にも話そうとはしなかった。国民全員が知る必要のある重大事項が存在するのであれば、それを素直に発表すればよいではないですか。なぜ、そんな簡単なことができないのですか?」
「それは立場がそうさせるのだ。君のような愚民ならば、どんな人の前に出ても好きなことを喋れよう。今現在、私の前でそうしているようにね。だが、上に立つ人物には、どうあがいてもそれは出来んのだよ。なぜなら、偉い人物の口上は人の心を動かすのみにあらず、国を動かし、ひいては歴史を動かし、世界を動かすからだ。『とりあえず言ってしまって、後で責任をとれれば、それでおしまい』というわけにはいかない。全人類の未来に影響するのだ。そして、人類の歴史が続く限り、記録にも残されるわけだ。
なあ、君ももう一度私のために動いてくれないか。私のために星の光になってくれないか。盲目的な人々を裏で操っているとすれば、我々のやっていることは確かに悪いことだが、盲信と妄信は違う。猛進とも違う。組織に利用されていると薄々は知りながらも、それに従うことを選択して、安い対価で実直に働き、やがては散っていった人々、そういう愚かな人間がいたからこそ、この社会は今も国家としての形を保っているともいえる。間違っていることを指摘すること、庶民の立場から国の首脳部による誤りを指摘していくことに一理あることはあえて認める。だが、それにより生まれる対立における損耗のことも、当然考慮に入れるべきだ。どんなに正論を並べても、それが社会を混乱させることに繋がるならば、それは正義足り得ない。正義と効率と大衆感情の三つのバランスを整えることにより、初めて立派な政治家といえる。君の主張してきたことが仮に正しいとして、それが民衆の心を動かしたとして、民衆が国家に反旗を翻して、激しい対立に発展することが本当にこの国の未来のためになるのかを考えてほしい。正論が必ず勝利するわけではないし、理想的な国家が正しい論法を持っているとは限らない。政治による判断と行動は必ず二義的なものだ。国家元首の判断ではなく、運命と確率と大衆行動によって国家の盛衰は決まる。どこに比重があるわけでもない。それらの価値は常に等しい。私と君の主張に隔たりがあるわけではない。どちらに比重を置くかが、異なっているだけなんだ。なあ、もう一度やり直そうじゃないか」
「嫌ですよ。どんな綺麗ごとで正当化しようと、貴方は結局、ひとりの人間を見殺しにした挙句、破滅させることで自分の立場を守ったんです。今回のことを、これは国全体の問題であるかのように随分と強調されていますけど、それは貴方の心理が自分へ向けられた危機感を国全体の政治的な問題であるかのように、無意識にすり替えただけではないですか。つまり、放射能漏れが世間一般にまで知れ渡れば、その時点で民衆の怒りは爆発する。『何を勝手なことをしてくれたんだ!』とね。民衆は物事を表面的に見ることしかないし、政治活動を結果でしか評価はしてくれない。次に現れる兆候として、内閣支持率はガタ落ち、次の選挙での与党敗北は決定的です。その次には、当然のことながら、貴方の立場さえも危うくなる。まあ、責任をとらされるという言葉でいいでしょう。そこまで考えが行き着いた貴方は、秘密を持たせることの替え玉を用意することを思い立ち、すぐに身代わりを探して、その秘密のすべてを押しつけ、そして、彼の肉体を暴発させたわけです。この策謀には、現在までのところ、権力者にとって良いところしかないですからね。閣僚も官庁関係者も誰の身も傷つかないし、証人も物証も消えてしまえば、とりあえず、マスコミの出足も防げるし、大衆への情報の漏洩についても、当座はしのげる。まあ、こちらが黙っていれば、ですけどね……」
「おいおい、そんな怖いことをいうなよ。私を脅すことの無謀は何度も説明しているはずだ。君だってよく理解しているはずだろう? いくら、良心に訴えても、あいつを殺したことで発生した罪は負えないよ。君の言うとおり、私はこの件で自分が悪いだなんてこれっぽっちも思っていないし、証拠は何も残っていないし、当時の政府部内の人間の記憶を漁ろうにも、この私の記憶でさえも、すでに薄れてきているんだからな……。曖昧な中で、誰が何を語ろうにも、それは証拠とはなり得ない。君が秘密を公にしたところで、場末をうろつく安記者にも、さすがに笑われるぞ」
「ご心配なく、そのときは自分の秘密を大衆の前にすべて明らかにしてみせますよ。いざとなったら、あの猛獣の存在を見せてしまえば、彼らの目にも証拠として分かりやすくなるし、信憑性も大いに増すことでしょう」
「だから、そういった反抗的な態度はやめてくれよ。私の前にみせる分には一向に構わない。私だけがそれを聞いて苦悶しながら、何とかそれを飲み込んでしまえば、それで済むのだからな……。政府関係者の中での被害者は、常に私ひとりがいい。だが、君の発言が国家に唾する行為であるならば、これは許されない。思えば、あの男の態度も常に反抗的ではあったのだが、その悪戯な人生の最期には、自分の宿命をきっちりと受け入れていた。そして、あっけらかんと異世界に消えていった。あれが本来の国民の姿なんだ。君ももう少し勉強してほしい。先ほども説明したと思うが、愚かで素直で少し目をぎらつかせてはいるが、国民を名乗る者というのは、結局のところは、国家の役に立ってくれる。国家のために恥をかいてくれる、敗北してくれる、どんな分に合わない仕事も必ず完遂してくれる、そして、死んでくれる。そこで初めて国家の子どもと認知されるわけだ。反抗は誰しも心に置くものだが、それを貫いてはいけない。長い人生のどこかで諦めるべきものなんだ。なあ、君もそろそろ私の役に立ってくれよ。ぜひ、この私のために死んでくれ。そして、この世界から消えるべきときは、すでに近づいて来ている……。少し寂しい話になってしまうが……。でも、そのときになって、君は初めて国家と私の子どもになれるのだ。初めて、民衆のひとりとして認められるわけなんだ。なあ、そろそろ、仕事を完遂して、私の本当の子どものひとりになってくれよ……」
「貴方は他人にはその国家の秘密とやらを実にあっさりと打ち明け、押しつけておいて、その挙句、何とか消し去ろうとはしますが、それが自分の奥さんでも、お子さんでもできるんですかね? もし、できたなら、そのときこそ、はっきりと病気ですがね。おや、今日初めてその顔色が少し変わりましたね。ご自分の弱みがすっかりお分かりとみえる。へっへっ、自分のお子さんにその真っ黒な秘密を打ち明けられないことが、自分の家族以外を何とも思っていないことと、その秘密がこの国の内部に、本当に危険に存在していることの何よりの証拠ですよ!」
私はそう叫ぶと、いきり立って椅子から立ち上がり、何か大声で叫びながら、エレベーターホールに向けてひた走った。自意識はまったくなく、すでに狂乱という概念すらも超えていた。一階に降りてしまうと、もう、誰も彼もが味方ではない気がして、そのまま一気に赤カーペットと大理石のロビーを突っ切り、入り口の大扉まで突っ走り、それを思いっきりぶち開け、広い世界に再び飛び出した。そのまま、何百メートルも、あてどなしに走った。今のところ、追ってくる者は見えなかった。その場を離れてしまえば、嫌悪すべきことは、すぐに忘れられると思っていたが、全力疾走で走って遠ざかろうにも、背後にあるその白亜の建物は、不気味な存在感を保ったままで、一向に小さくならず、私の背後にあり続けた。
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