私は秘密を持っている 第十三話(追加分)
書記官の態度からは焦りや反省の色を見出すことは出来なかった。どんな反抗を受けようと、自分たちの立場を淡々と表明するだけであり、こちらが集中を切らして折れるのを待っているかのようであった。どこまでが善か、どこからが法律違反かなど、初めから考えに入れていないとでも言いたげなのだ。彼は一応の反論をしようかと、上半身を前に乗り出してきた。しかし、またもや現れた邪魔者が、二人の前を素早く横切っていった。軽いつまみの入った銀皿をひっくり返し、戸棚の上に飛び乗ると、上等なワインのボトルを三本もなぎ倒していった。ペットの方からすれば、何の悪気はなく、ただ甘えたくて、あるいは、少しでも相手にして欲しくて、そうしているわけだが、せっかく貯めこんだ高級ブランドを亡きものにされた書記官としては、普段の仏頂面を捨てて、なるべく、大声を張り上げてしつけようとしているわけだ。一見、どうでもいいその光景に、私は動きばかりか、呼吸まで止められてしまった。書記官とペットの犬、その二つが混じり合っている光景はすでに諦めていた私の記憶、すなわち、秘密を埋め込まれる前か、あるいは、その密談の中での微かな記憶を蘇らせたのだ。そう、秘密を埋め込まれるという無謀な契約を承諾してしまい、その契約書にサインをしたその日、私は今のやり取りとほぼ同じものを目にしたのだ。
「勘弁してくれよ。こんなときに……、まったく、困った奴だなあ……」
書記官は慌てて愛犬を追いかけていった。やんちゃ犬は大好きな飼い主が傍まで来てくれると、ようやく動きを止めると、尻尾を激しく振って、三時のオヤツや飼い主の愛撫を要求するのであった。愛犬家はその一つひとつに対応しなくてはならないのだ。傍から見ているとバカらしくても、彼らにとっては、常識的な行動なのである。その道化を終えると、書記官はまたしても正気に戻るのだった。
「君は今、情報や結果の内部にある必要のない部分、まあ、旨味のない部分とでも表現しようか、我々がその不必要な部分だけを弱い人間たちになすりつけていると、そう表現したようだが……、ひとつの疑念を単刀直入に述べさせてもらうならば、それは果たして悪いことなのかね? どうだ? 本当に我々のやってきたことは卑怯か、汚いか? ひとりを殺すことで大勢を救うことは、社会的道徳観からして、腐っているのか? 人道に劣っているか? 総合的な見地から語れば、そんなことは決してないと思うのだが……」
「どういうことです? まだ、言い足りないんですか? 出版社から何度も表彰された学者さんや、毎日テレビに登場する売れっ子芸能人、あるいは、この国を代表するような、スポーツマンに秘密を持たせた場合、その内容がいかに大衆を小バカにしていたり、人道的に許されないモノであったとしても、秘密を所持している人間が、つまり、心の外側を覆う膜の部分が、その内側を水滴に曇らされた梅雨どきの窓のように漠とさせ、その内面をほぼ覆い隠してしまいます。普段の言動がまともな人気者を、このひとつの失態だけで、きつく責められる人間など、それほど多くはいません。この自分にだって、他人には決して見せられぬ、恥ずべき弱みがあることを誰もが心得ているからです」
「いいかい? 情報の黒い部分であれ、汚れた箇所であれ、それを一般の人間の前に披露するということは、よくよくのことなんだ。もし、分からないのであれば、(秘密を持ち得ない)通常の人生の場合を考えてみたまえ。我々と同じ職場で働こうと思ったら、一流大学の首席クラスの能力は必要だ。天才やコネ、家系や財産、様々なものが必要となる。この国を動かせるような職に就いている人たちは親の代どころか、四代くらい遡っても、超一流の家柄なんだ。そういう人たちが上級公務員として就職を決めて、その後は厳しい競争に晒されている。文学、数学、物理学、法学、哲学、生物学など……、知識と行動力を兼ね備えていて、何でも人一倍にこなせる人間たちによる、さらなる競争群像が展開されているんだ。では、ここで少し尋ねてみるが、君はどういう人間なんだ? まあ、これまでの議論の中で主張したいことはだいたい分かった。生まれの良し悪しで、低い身分を押しつけられ、その上、不幸まで押し付けられてはたまらない、というわけだな。では、家系や資産のことについては、目を瞑ってやろう。では、頭の方はどうだ? 君はカフカやプルーストの単行本は読めるのか? 一般相対性理論について、さわりだけでもいいから説明できるのか? パスカルは? プラトンは? サルトルの主張について賛否を交えて語れるのか? クルト=ゲーデルの不完全性定理とはいったい何をいっているのだ? 必要となれば、何時間でも時間をくれてやるから、ここで解説してみるか? エリートたちは絶えまない努力の末に、こういった難問のすべてを理解しているんだぞ。君は何も分からないんだろ? サボらないで大学に通っていれば、独りでに頭に入ってくるはずのことが、ひと言も説明できないわけだ。つまり、君が国家公務員の試験を受験しても、それを通ってキャリアになれる可能性など、これっぽっちもなかったわけだ。そのための前向きな努力すらしていないわけだからね。それなのに、君の態度は何だ? 『権力者は大衆をうまく利用している』とか『同じ人間なのに、命の重さに違いがあるのは納得ができない』などと宣うわけか? それは違うだろ。そもそも、君たちは我々と対等な位置には立っていない。権力も給料も責任においても、全てが異なっているわけだ。比較する余地すらどこにもない。自分勝手な生き様を突き進み、自業自得の行く末に、道の端で仰向けになって飢えている爬虫類に対して、わざわざ餌を与える官僚なんて、この国にいるわけないだろ。下手をすると、言葉すらも通じないというのに……」
「そういうねじ曲がった考えを持っている人たちが国政を仕切っているから、この国の制度や慣習は根本から腐ってしまっているんですけどね……。自分が踏みつけている人たちのための立法や行政など、決して行わないと理解しているのなら、民主主義社会においては、権力の立場にいることすら許されないと主張しているんですよ」
我慢できずに、思わずそんな感情的な言葉が口をついた。ただ、こうした議論に持っていくと、彼らの片棒を担ごうとしていた自分にも幾ばくかの責任が生まれることになる。秘密を利用して他人より上に立ちたいと考えていたのは自分も一緒だからだ。
「まあ、そういうなよ……。誰も許してはくれないことを、何としてもやろうとするのが、政治や行政というものなんだよ。庶民が泣こうが喚こうが墓に入ろうが、国を前に進めるしかないんだ。それくらいは分かってくれ……」
この議論に少し疲れたような素振りをしながら、書記官はコーヒーカップを口に運んだ。まだ、帰ってもよいという指示は出ていない。私を法と一般常識の呪縛から解くつもりは、まっさらにないらしい。こちらは操り人形なのか、それとも、ただの遊び道具だったのか、彼らはこの一連のゲームがどのような危険を孕んでいても、頑なにそれをやめようとはしないのだった。長期間にわたり、こんなにおぞましい秘密を持ち得るのは、どうやら、私以外には存在しないのだろうか? 彼が口汚なく吐いてきた言葉たちを、慎重に積み重ねていくと、どうやら、そういうことになりそうだ。
「どうしても、私にこの無茶な仕事を続けさせたいんですか?」
「ああ、そうだ。これは筆舌に尽くしがたいほど奇妙な仕事だがね、今後とも、ぜひ、君に引き受けてもらいたい。『自分ならこんな酷いことにでも、身を投げ出してもいい』といってくれる適任者が他にいない。そちらがあと三年はこれを投げ出さないと約束してくれるのなら、このプロジェクトの期間内は、うちの性悪なスタッフに背後を付けさせたり、マスコミ記者たちによる、プライベートに踏み込むようなしつこい取材を制限したり、そうした煩わしいことについては、こちらできちんと手配することにしよう。報酬についてだが……、今回の一件も考慮した上で、これまでの二倍でどうだろう? 身にすがりつく不安は一生消えないが、多少の贅沢をすれば、単純な安心感で一時的には上書きできることもある。どうだい、この条件なら悪くないだろう? こちらから、身の安全と報酬倍額を提示したわけだ。君にとっては良い部分だけが残ったわけだが……」
「私にへそを曲げられて困るのは、いつだって、そちらの方です。秘密が膨張したために、閣僚級の人間の体内だけでは、その容量を保持できなくなり、漏れ出してきた秘密は行く当てもなく、手持ち無沙汰になってきたと……、そのために、あなたの側でも、その保存場所に憂慮しているのでないですか? 世間においては、最近どうも、根の深い事件が多すぎるではないですか。凶悪犯罪は減ってきているというデータもありますが、人々の荒れた心を見ていると、どうも眉唾です。世の人々は秘密に操られてしまい、その道徳心は腐り始め、秩序の崩壊に向かっていると、私はそういう印象すら持っています。政治家や弁護士といったいわゆる上級職の人間が、重大な犯罪を犯して、裁判にかけられたり、年端もいかぬ子供たちが、誘拐殺害事件の被害者になって悲惨な最期を遂げてしまったり……。もちろん、マスコミが取り上げるような事件は、統計上は取るに足りない程度なのだと諭されてしまうと、こちらとしては強くは反論しかねます。私の手元には詳細なデータがないですし、警察も自分らに都合の悪いデータについては、いちいち発表したりはしません。大衆は新聞やネット記事しか情報源がないと思って『この程度の知識で十分だ』と、高を括っているわけですが……」
「そんな遠回しな言い方では、いまいち真意をつかみにくいが、世間の衆目を一手に集めてしまうような、大胆な秘密の数が、近年になって、こちらの予想以上に膨張して、それをしまい込むところがないから、実際のところは困っているのだろうと……。かといって、アルファベット一文字分でも漏れ出てしまったら、その都度、記者会見を開けと大衆には騒がれるわけだ……。たしかに、管理者としては、考えたくもない事態だわな……。つまり、この私が、大衆やマスコミの肥大する知識欲と、その大胆きわまる動きを管理しきれなくなってきたのではないかと、そういうことを言いたいのかね?」
「そうです。私ほど嫉妬深く、そして、ルサンチマン傾向のある人間は、精神科やあらゆる下級職をあたってみても、なかなかおりませんからね。軍用機を使用してハワイまで探せばみつけられるでしょうかね? 私くらいになると、常に肩をぶつけてくる相手を探しているわけです。怒鳴り散らしてやりますよ。少なくとも、周囲では、自分ほど憎らしく尖がった人間を他に見たことはないんです。あなたは先ほど、こちらの身分や能力の低さについて言及していたようですが、機密情報暴露防止のための生贄として、完全に条件を満たしている、私のような打ってつけの人材は、いくら、あなたのような大権力者が、無数の安物スタッフを動員して、全国をくまなく捜索したとしても、そう簡単には見つけられないのではないでしょうか? そうでしょう?」
「ここに来て、なかなかどうして面白いことをいうね。なぜ、そう思うのかね? これは君自身の価値を必要以上に高めるに至った理由を聞いているわけだが」
「つい先ほど、『できるなら、秘密をもう一つくらい持たないか』との質問がありましたね。そのまま受け止めれば、現時点でこれに関わっているスタッフだけでは、とても処理しきれない秘密が、他にも複数個在る、ということになります。私のような小虫をなかなか手放さない。処分してしまわない理由は、この国の支配層が、秘密の膨張とその充満によって、自分たちの隠れ家でさえ、まるで、拷問用のガス室のように息苦しくなってきてしまい『早く手放さなければ、我が身の破滅に繋がる』と、相当に追い詰められてきているのではないですか?」
「ああ、そのことか。こちらとしても、つい、余計なことまで口走ってしまったようだな。しかし、たったそれだけの台詞から、B級サスペンス映画並みの真相を見抜くとは、君もなかなかやるではないか。仕事にあぶれたら、ぜひ探偵事務所の助手なども選択肢に入れるといい。でもね、実際は大した案件ではないんだ。そんなに身構える必要はない。簡単に説明するとね、秘密の管理に失敗して消えてしまった人間が、数人ほどいただけなのだよ。その穴埋めを君にお願いしたくてね……」
「それは、あなた方の秘密の一部が(世間に対して)バレてしまったと、そう考えてしまっていいんですか? まあ、秘密と言ったって、ほとんど悪だくみなんでしょうけど……」
「その通りだ。もう少しで我々の野望のすべては水泡に帰すところだった。ただ、今回のような大変な事例については、言うまでもなく、情報を隠し通そうとした本人だけが責任を負うべき問題ではないと思う。国家機密が漏れ出すということは、政治、行政、自治体など、大多数の職員たちの取り組みや連携についても、ある程度の不備が発生したと考えるべきなんだよ。たった一人の裏切りや不始末だけで、最悪の事態が引き起こされることは、まずあり得ないからね。つまり、各個人の思想や事件への関わりはどうあれ、大きな被害を引き起こしかねない事件の勃発というのは、首脳級だけではなく、国家人民全体の連帯責任といえる。私は常にそう決め込みながら行動しているし、『自分だけが責任を取らなければならない』などと思ったことは一度もない、いいか、一度もだ」
そこでひと呼吸を挟むと、書記官は自然な動作により、部屋の奥の方を振り返った。例の不届き者は、ふわふわの羊毛の枕に顔を沈めてすっかり沈黙していた。一通り暴れた疲れを癒しているのか、今のところは大人しくしているようだ。しかし、彼の態度からは愛犬の冒涜を治めきったことによる、安堵の様子はいささかも伺えないのだった。むしろ、はた迷惑なやんちゃ坊主が、今年の初春のイベントにおいて、例の大使館の専従役員から贈られたばかりの豪勢な金の皿を、あと二枚ほども割ってはくれないだろうかと、そうすれば、自分が常に抱いているこの退屈についても、少しは紛れるのに、とでも言いたげだった。
「彼とは二年ほど前に密約を結んだ。その中身については、どんな近しい人にも語ったことはないが、要約すると、君の場合とほぼ同様のものだ。こういう危機的な状況に際しては、概ね似たような人材が選ばれるものだ。彼も実に深みのない、愚鈍で淡白そうな顔をしていて、非常に緩慢で曖昧な判断力を持ち合わせていた。極秘裏に調査させたところ、血縁関係も実に無難なものだった。こういう危険きわまる任務には適切であると、直感的に判断した。私が担当している秘密を、その身に埋め込んだ人間は、実際のところ、君を含めて四人ほどいるんだ。ただ、性質や能力はどれも似たり寄ったりなのさ。つまり、類は友を呼ぶ、放っておいても実利なしさ。ただ、人材の質はなるべく揃えておいた方が、こちらとしても、扱いやすい。何十年も前に作成された、似たようなレジュメの使いまわしが効くわけだからね」
「彼とは誰のことです? 私以外の人物は、どのような人間だったのですか? もうすでに亡くなったのですか? 能力は相当に高かったのですか? あなたのお気に入りでしたか? もし、ここで言いにくいのであれば、公開できる範囲内だけでも結構ですが」
「おぼろげには覚えているが……、その男はたしか、三十代前半の中堅のサラリーマンだったよ。今から二十年ほど前に、私と秘密保持の契約を結んで働いてもらった。遺憾ながら、任務を完遂できずに、途中で爆死した。彼との出会いについては、今でもよく覚えているよ。客の姿もまばらな、場末の飲み屋の隅っこの席で、話す相手もないままに、一人で焼酎と安いつまみをあおっていた。足音を立てないように側にまで寄っていき、よく観察してみると、深酒により、今にも眠りへと落ち込みそうな、虚ろな目をしていた。時々、愚にもつかない独り言を呟いていたこともあった。能力もないくせに、現状にはかなりの不満があったように思える。その辺は君とほぼ同様だね。嘯いているそれが上司への嫌味なのか、それとも、叶いもしない同僚への片思いから、こらえきれずに溢れて出てきたものなのか、そこまでは判別できなかった。しかし、当時の企業社会からの完全なる落伍者であることは明白だった。そのやり切れぬ思いが、こちらにもひしひしと伝わってきたとき、私が自分の罪をなすりつけるために探し求めていたのは、おそらく、この男だろうと、直感的にそう感じたわけだ。そこで、さりげない挨拶を交わしてから、彼の隣の席に自然に座ってみた。もちろん、自分の素性など明かすわけはない。酒や料理の注文もいっさいしなかった。スタッフに顔を覚えられるのはまずいし、交渉が上手くいかなかった場合には、すぐにでも、彼の存在を消し去った上で、そこから立ち去る必要があったからだ」
『やあ、俺だよ、俺、けっこう会わなかったな。今夜は無事に会えたな。どう、覚えてるかい? いやいや、こっちは完璧に覚えているよ……。しかし、どうだ、今夜にしても、街も人もずいぶん汚れているじゃないか。この国全体が未だ不景気の真っ只中だな。大不況から立ち直る気配もない。こりゃあ、全部、政府首脳や官庁のお役人どもが悪いんだ。奴らは自分の銭入れに影響することにしか手を出さないからな……。そう、まさに、その通りだ。人の心も街角の雰囲気も、とにかく汚い……、みったくもない、そうじゃないか? 人生なんて、十中八九は上手くいくものではないからね。ほとんどの人間は汚い身に生まれ、汚いままに死んでいく……。首切り役人から睨まれるほどの悪事に手を染めれば、いい生活ができることはよく分かるが、まあ、そこまではやらないわな。大衆は騙され好きのいい人ばかりなんだよ。もちろん、俺も君もそのひとりだ。身を粉にして働いてきたはずの汚いタイヤは、最底辺の泥を吸い続けながらも、何の役得もつかむことはなかった。最初から最期まで泥道をひたすらに走り続ける……。誰に顧みられることもない……。実に不憫なんだ。そうは思わないかい?』
「何の面識もなく、部下に事前の調査をさせたわけでもない、行きずりの労働者を、危険なプロジェクトの尻ぬぐいにまで、引きずり込んだんですか?」
「その通りだよ。こういうプロセスの成否は、最重要な部分に限っては、出来るだけ他人任せにはせず、手っ取り早く、自分ひとりで行動するに限るね。不用意に警護や見張りをつけると、却って相手方の警戒を呼ぶことにもなるからね。どこの階層にも疑り深い人間はいるものだ……。大した役職に就いているわけでもないのに、成功した部分についてのみ語る、やたらと自己主張が強い人間、あるいは承認欲求が非常に強い人間は、最初の接触において、下手にマイナスの印象を与えてしまうと、もう二度と取りつく島がなくなることが多いからね。心の井戸の奥底の、泥と石の真下に埋もれている、常人にはまったく理解できない部分だけが、やたらと繊細なんだ……」
「それで、彼はあなたの誘いに対して、何と答えたんですか?」
「一度も会ったことのない人間からの、こんな危険で意味不明な誘いに対して、最初から首を縦に振るような人間は、まずいないさ。そんなに単細胞な人間が取り引き相手だったら、逆に、こちらの方が不安になるくらいだ。君のときだって、そうだっただろう? これから組織の末端でうちのスタッフのひとりとして働くのだから、最低限の警戒心は当然必要になるわけだよ」
「説得するには、ある程度の時間がかかったというわけですね?」
「こういう案件はあまり深くは考えずに、自分ひとりが置き場所を心得ている箱にでも収めてしまえばいいのさ。それで面倒は起こらない。上司の官僚から尋ねられたら、『ああ、きちんと片付けておきましたよ』とだけ応じて、詳細な説明をする必要はない。他人にはいつか忘れてもらう。自分だけは曖昧にでも覚えておく。いつか記者会見が開かれる事案になっても、それなら上手く返答できる。『ああ、その件は記憶に残っておりますが、しかし、非常に微妙な案件でして……』」
「それで、貴方は現地にはひとりで向かったわけだ……。彼はその誘いに対して、何と答えたんですか?」
「まあ、三度目の誘いでYESがもらえたよ。私の隠密行動が功を奏して本当に嬉しかった。なにせ、国家最大の機密に関する事柄だからね。実はこの出会いは、とある大事故が起きた直後のことでもあり、火急にことを進める必要はあったのだが、こちらとしても、慎重にことを運ぶ必要もあった。くだらないミスから、火種を大火事にまで発展させてしまうと、さすがに水道蛇口からの放水程度では元には戻せなくなるからね。子供たちの砂遊びゲームと同じようなわけにはいかない。この世界では、仲間がひとり増えた瞬間に、それを単純に喜ぶスタッフは、ひとりもいないし、仕事の結果に不満を感じるようだったら、どんなに愛着のある部下でも、切るときは必ず切らなくてはならない」
「たった今、大事故が起きたと仰いましたが、気になりますね。それは、いったい、いつのことで、どんな出来事なんですか?」
「それは順序立てて説明しよう。どうせ国家機密を知るのなら、その恐ろしさを徹底的に知っておいた方が、君とっても良いだろう」
書記官はまったく表情を崩さずにそう語ると、Yシャツの襟を一度手直して、ネクタイを緩め、ひと呼吸置いてから、その大事件発生時の詳細の説明に入ったのである。
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