35#穏やかな日常、その裏に潜む影。
皆さん、おはようございます。
わたしです。アルアクル・カイセルです。
誰だって痛いのは嫌なはずなのに、どうして誰かを傷つけようとするのでしょう?
自分がされて嫌なことを、誰かに強いる真似ができるのでしょう?
皆さんには理解できますか?
わたしは無理です。
さっぱり理解できません。
朝です。
穏やかな日差しが窓から差し込んで、廊下をやわらかく照らしています。
今日もいい天気です。
ファクルさんのお店には、きっとお客さんがたくさんやってくることでしょう。
常連客のドラゴンさんに、先日から仲間入りしたスライムさん。他にもたくさんいらっしゃいます。
皆さん、ファクルさんの料理を本当に楽しみにしています。
何を隠そう、わたしもその一人だったりします。
今日の朝食はいったい何でしょう。
いい匂いが家中に漂っています。
わたしは共同のリビングに足を踏み入れる前、入口のところで立ち止まって、身だしなみを確かめます。
寝癖は直しましたし、顔に寝ている時にできた変な跡はありませんでした。
大丈夫です。
頬をぐりぐりともみほぐして、いつもの笑顔を浮かべます。
……たぶん、できているはずです。
鏡がないのでちょっと自信はありませんけど。
よし、と気合いを入れて、リビングに足を踏み入れました。
「お、アルアクル。おはよう」
テーブルのそばで朝食を並べていたファクルさんがわたしに気づいて、挨拶をしてくれました。
やさしい笑顔です。
やわらかくて、穏やかで。
今も窓から降り注いでいる、この日差しみたいな感じで。
みんなの心を大らかに、やさしく包み込んでくれる――。
「ファクルさん、大好きです……!」
「ふぁっ!?」
「あ、ごめんなさい。間違いました。思っていたことを、ついぽろっと。本当はおはようございますというつもりだったのに」
「そ、そうなのか。それはまた、ずいぶんなうっかりだな……」
「わたしとしたことが、こんな失敗をするなんて」
「いや、アルアクルは自分で思っている以上にポンコツだぞ? まあ、そこが微妙にかわいかったりするんだが」
「ファクルさん、何か言いましたか?」
声が小さくて全然聞こえませんでした。
「な、何も言ってない」
「嘘です!」
だって微妙に声が裏返っていますし、顔が赤いですし。
いえ、違います!
耳の先まで真っ赤になっています!
これは照れているんですね!
照れたファクルさんは本当にかわいくて、わたしは何時間でも語り続けることができるんですけど。
今までに最後までわたしにつき合ってくれた人がいないのが寂しいです……。
誰か、わたしとファクルさんのかわいさについて語り合える人、いませんか!?
わたしは大募集していますよ!
心の中でそんなことを思いつつ、わたしは照れたファクルさんを見つめます。
朝から照れたファクルさんを見られるなんて、しあわせです!
……あれ? でも、わたしが近くに行くと、ちょくちょく照れているような気もしますね?
もしかしてわたしからファクルさんを照れさせるような何かが放出されているとか!?
よくわかりませんが、今は照れたファクルさんです。
「じ~っ」
とわたしが見つめると、ファクルさんはぷいっと視線を逸らして、決して合わせようとしません。
なら、その視線の先に回り込みます!
するとファクルさんは視線を逸らして。
再び、わたしが先に回り込んで。
それを繰り返します。
くるくる回り続けて、まるで踊っているみたいですね。
「……なんか踊ってるみたいになってるな」
ファクルさんの言葉に、わたしはドキッとしました。
同じことを思ってた……?
それだけのことが、なんでこんなにうれしくなるのでしょう。
「どうした、アルアクル。顔が赤いぞ?」
「あ、え、えっと、何でもありません!?」
「いやいやいや、その言い方、何でもなくないだろ!?」
「ほ、本当に何でもないですから……!」
「ほー……」
そう呟いたファクルさんが、ニヤリと笑ったように見えたのは気のせいでしょうか。
わたしが何だか恥ずかしくて視線を逸らすと、ファクルさんが回り込んできました。
さっきと逆です。
わたしが逸らす方、逸らす方に、ファクルさんが回り込んできます。
「ファクルさん、どうして追いかけてくるんですか!?」
「すごい偶然もあったものだな?」
「絶対に違います! もしかしてさっきの仕返しですか……?」
「さあ、どうだろうな?」
絶対にそうに決まっています!
だって、その証拠に、ファクルさんってば、意地の悪い笑みを浮かべているじゃないですか。
むぅ。面白くありません。
なので、それをファクルさんに伝えることにしました。
物理で。
あるいは人によっては肉体言語というらしいです。クナントカさんが言っていました。
もちろん全力じゃありませんからね?
わたしは勇者。
全力を出したら、ファクルさんが大変なことになっちゃいますから。
――ぽかぽか。
音にすればこんな感じで、ファクルさんに物理で訴えかけます。
「意地悪なファクルさんには、こうです!」
「お、アルアクルが怒ったぞ。怖いー」
「怖いとか言いながら笑っているじゃないですか」
「そうか?」
「そうです!」
「だが、そういうアルアクルも笑ってるんだよなぁ」
「違います。そんなことありません。わたしはものすごく怒っているんですから。笑顔なんて浮かべているわけがないんです!」
「めっちゃにこにこしてるんだよなぁ」
「ファクルさんは分からず屋です!」
わたしがぽかぽか叩き続けていたら……。
「あはは。見てくださいよ、イズヴェルさん。あの二人、朝からめちゃくちゃ自然にいちゃついてるんですけど」
「まったくけしからん。アルアはイズの嫁なのに」
リビングの入口から顔だけ覗かせたクナントカさんとイズがそんなことを言っていました。
ちなみにわたしはイズのお嫁さんではありません。
あと、クナントカさんはいちゃいちゃとか言いますけど、わたしとファクルさんがしているのは普通のことですよ?
「そうですよね?」
とファクルさんに確認したら、
「ソ、ソウダナ」
ほら、やっぱり。
なぜかファクルさんに注がれるクナントカさんとイズの眼差しが、急激に生温かいものに変わったような気がしますけど、どうしてでしょう?
「そ、それより、ほら、何だ! 飯にするぞ!」
ファクルさんが言いました。
お料理を作るお手伝いができない分、せめてテーブルの上に料理を並べるくらいはお手伝いしたいと思って、がんばりました。
そうやって並べた今日のお料理も大変おいしそうでした。
いえ、違います。
どれも大変おいしいものでした。
今日のお料理はオカーユと呼ばれる、コメをやわらかくなるまで煮たもので、上にいろいろなものを乗せて味の変化を楽しみます。
「これはまたすごい料理ですね! コメのほのかな甘みが最大限に引き出されているので、そのまま食べても上品でおいしいですし。上に乗せるトッピングによって時に情熱的に、時に哀愁を漂わせ、オカーユが千変万化の表情を見せつけます……!」
「お、わかってくれるか、クリス」
クナントカさんの言葉に、ファクルさんがうれしそうな顔をします。
「ファクルさん! わたしも思いますから! その、千変万歳みたいな感じだって……!」
「変態と張り合うアルアが尊い。そして微妙に言い間違えてるあたりがかわいすぎる。好き」
隣にいたイズがわたしに抱きついてきます。
べ、別に張り合ってなんかいませんし。本当にそう思ったから言っただけで……え、言い間違えましたか、わたし? 本当です?
見ればファクルさんとクナントカさんが、何とも言えないやさしげな眼差しをわたしに向けていました。
わ、わざとですから!
そんなふうに過ごす朝の時間はいつもどおりで、本当に楽しくて――。
「それで……あの獣人の子どもたちの様子はどうだ? まだ目覚めないのか?」
ファクルさんの言葉で、その場の空気が一変しました。
三日前のことです。
わたしは迷いの森の中で、ボロボロに傷ついた獣人の子どもを二人、助けました。
子どもたちの体には無数の傷があり、真新しいものはその形状から魔物にやられたものだと思われましたが、問題はそれ以外の傷でした。
顔はもちろん、腹、腕、背中、足、お尻に至るまで。
数え切れないくらいの古傷があったのです。
「あれって虐待ですよね。どう考えても」
クナントカさんの言葉に頷きます。
この世界には人間以外にもエルフやドワーフ、獣人が存在しています。
そんな人たちを亜人と呼んで、差別する人たちがいました。
そういう人たちはこう主張します。
――亜人は人間ではあらず、人間より劣っている存在だから、自分たちが正しく導く必要がある、と。
そうして、奴隷として扱うのです。
魔王を退治する旅の途中、何度か目にしてきました。
一緒に旅をしていた、ア……何とかという王子様たちも、そちら側の存在でした。
でも、わたしは違います。
エルフ、ドワーフ、獣人……みんなわたしたちと同じです。
いえ、むしろ彼らの方が優れていると思える部分がいくらでもあるのです。
たとえばエルフは魔法の扱いに長けていますし。
ドワーフは武器や防具などの製造を任せれば右に出る者がいません。
獣人はその強靱な肉体を武器にして、魔物を退治したりすることができるのです。
どれも人間には真似できないものです。
「ああ、なるほど。今、わかりました」
わたしが呟くと、ファクルさんが「何がわかったんだ?」と聞いてきます。
「どうしてエルフやドワーフ、獣人さんたちを亜人と呼んで差別するのか、それがわかったんです」
ずっと不思議でした。
どうしてそんなことをするのか。
「獣人さんたちが眩しいからです。獣人さんたちの能力は自分たちより優れていて、でも、それを認めることができない人たちは、そんなふうに差別することで自分たちが優位に立っていると、そう思い込みたいんです」
優位に立ったところで、何も変わらないというのに。
「わたしはわたしにできないことをできる相手を尊敬します。ファクルさんもそうですし、イズも、クナントカもそうです」
ファクルさんは冒険者としての深い知識と、素晴らしい料理の腕。
イズは飾り付けの才能。
クナントカさんは……………………まあ、何かあるはずです。たぶん。
「僕だけ扱いがひどくないですか!? ご褒美なんですけど! ありがとうございますアルアクルさん!」
一人興奮しているクナントカさんは放っておきましょう。
「……何にしてもあの子たちは奴隷みたいな扱いを受けてたのは間違いない」
イズの言葉にうなずきます。
あの子たちの体の傷は、すでに回復魔法で完治しています。
でも、あの子たちは未だに目を覚まさないのです。
どうしてでしょう?
「心の傷が深いからじゃないですかね?」
さっきの変態顔から一転、キリッと真面目な表情になったクナントカさんが言います。
「どういうことですか?」
「これは僕が旅をしている時に聞いた話なんですけど。体は無事なのに、眠り続けて目覚めない娘さんがいたらしいんです。で、どうしてなんだろうと原因を探ったら、その娘さん、ゴブリンに襲われていたらしくて……」
「……そうか」
ファクルさんの苦々しい声が、わたしたちの心を代弁してくれていました。
ゴブリンには牝が存在せず、繁殖するために人間やエルフ、ドワーフ、獣人の女の人を襲うという習性が存在するのです。
その女性がゴブリンに襲われていたということは、つまり……。
「そうやって心に負った傷が深いせいで、目覚めたくないと思っているんじゃないでしょうか」
クナントカさんの言うことが本当だとしたら――いえ、ほとんど本当だと確信しています。
あんなにかわいい子たちなのに……。
「……アルア、落ち着いて。今、怒っても、その相手はここにはいない」
イズがわたしの手に触れて、そう言ってくれました。
気がつかないうちに殺気を漏らしていたみたいで、ファクルさんがちょっと困った感じの顔を、クナントカさんが蒼ざめた顔をしていました。
「……ごめんなさい」
「大丈夫だ」
「ですよ。アルアクルさんが怒る気持ち、よくわかりますから」
いつもなら楽しい朝食の時間は、すっかり重苦しい雰囲気に支配されていました。
それを打ち破ったのは、ファクルさんの一言です。
「あの子たちのことは気になるが、そろそろ店を開けないとな。常連客たちが騒ぎ出しそうだ」
確かにです。
窓の外から、ザワザワした声が聞こえていました。
開店時間前から並んでいる常連客たちが、まだかまだかと待っているのです。
朝食の後片付けをぱぱっと済ませると、わたしたちは、みんなで階下に向かいました。
――いえ、一人だけ、立ち止まる人がいました。
誰でしょう?
わたし、でした。
そんなわたしに、ファクルさんたちはやさしい顔でうなずいてくれます。
「あの子たちのそばにいたいんだよな」
どうしてわかったんですか、とは驚きません。
あの子たちを助けたあの日から、ずっとそうしてきたからです。
「大丈夫だ。店の方は俺たちだけで何とかやれるから」
ファクルさんだけじゃありません。
クナントカさんやイズを見れば、二人ともうなずいてくれています。
「アルアクルが店のことを本当に大事に思ってくれているのは知っている。だから、そんな苦しそうな顔をするな」
ファクルさんの手が伸びてきて、わたしの頭をやさしく撫でました。
わたしはファクルさんのお店の従業員です。
つまり、わたしがここにいるのは、ファクルさんのお店で働くためなのです。
ですが今のわたしは、獣人の子どもたちのそばにいてあげたいという気持ちを優先しています。
本当にいいのでしょうか……?
「アルアクルは本当にやさしいな。だが、それでこそ俺が好きになったアルアクルだ」
「え?」
ファクルさん、今、なんて……?
「あ、いや、今のは…………くっ、食堂に行くぞ! ほら、お前らも来いっ!」
真っ赤になったファクルさんが、食堂に向かってしまいました。
「まったく、もう。あそこで誤魔化さなければいいのに。ファクルさんはダメですねぇ」
「ヘタレだから仕方ない」
クナントカさんとイズがため息を吐き出しながら、それに続いていました。
「けど、まあ、何か考えがあるみたいですからね。ファクルさん。その時は逃げずに、誤魔化さずに、ちゃんとするんじゃないですかね?」
「イズはそんな日なんか絶対に来ないって断言できる」
「おお、僕もですよ。奇遇ですね」
「最悪」
みんないなくなって、一人残されたわたしは、その場に立ち尽くしていました。
いえ、足に力が入らなくて、その場にうずくまります。
顔が熱いです。
胸が信じられないくらいドキドキしています。
嫉妬していると言われた時以上です。
わたしはしばらくの間、その場から動くことができませんでした。
何とか落ち着きを取り戻すことができたので、獣人の子どもたちがいる部屋にやってきました。
ベッドに横たわる二人。
近づき、呼吸していることを確認して、ほっとします。
体に付いた傷はすべて回復魔法で癒しましたけど、この子たちはまだ目覚めません。
クナントカさんの言ったとおりなんだと思います。
心に負った傷が深いのです。
二人は犬の獣人で、人よりも獣に近く、ファクルさんの家で見た、狼獣人の執事さんのようでした。
つまり、もふもふです。
一人は女の子で、もう一人は男の子。
「……何ていう名前なのでしょう」
この子たちが目を覚ましたら、何をしましょうか。
ファクルさんに連れて行ってもらった、あの秘密の花園に行くというのは、なかなかの名案だと思います。
一緒に遊びたいです。
この子たちの元気な笑い声が聞きたいです。
何とかしてあげたいのに、何もできない自分がとてももどかしいです。
「勇者なのに……こんなんじゃ勇者失格ですよね」
せめてここに、この子たちに早く目覚めて欲しいと思っている人間がいることを伝えたくて、わたしは二人の手を握りしめました。
「ここにはあなたたちにひどいことをする人は誰もいないですから。だから安心して、早く目を覚ましてください」
祈るような気持ちで呟いたのが通じたのでしょうか。
「ん…………………………………………………………………………あ、れ?」
男の子が目を覚ましました。
「ここは……?」
ああ、よかった。目を覚ましてくれました。
頬を伝うあたたかい何かがあることに気づいて、わたしは自分が泣いていることを自覚します。
「お姉ちゃん…………違う」
違う?
何が違うのでしょう?
「お姉ちゃん、なんで泣いてるの……? 僕、何か悪いことした……?」
「いいえ、していません! これはうれしくて泣いたんです」
「違うよ、お姉ちゃん。涙は痛い時、苦しい時、悲しい時にしか出ないんだよ?」
不思議そうに、男の子が首を傾げて言いました。
それが何だか苦しくて、わたしは男の子を思いきり抱きしめました。
「そんなことありません。うれしくても涙は出るんです」
「そうなの?」
ええ、そうです――とうなずいてから、わたしは言いました。
「起きてくれて、ありがとうございます」
「……………………………………………………………………そんなこと言われたの、初めて」
そうやって男の子を抱きしめていると、女の子も目を覚ました。
よかったと、そう思ったのは早計でした。
女の子の目がわたしに向けられた瞬間、
「いやああああああああああああああああああああああああああああああ! あっちに行ってええええええええええええええええええ! 来ないでええええええええええええええ! 助けてえええええええええええええええええええええええええ……!」
女の子が絶叫して、再び意識を失ったのです。
男の子が大丈夫だったから、すっかり油断していました。
この子たちがこれまでどんな目に遭ったのか。
誰にそんなことをされたのか。
ファクルさんたちと話して、わかっていたはずなのに。
女の子が負った心の傷の深さを見せつけられ、わたしの胸は激しく軋みました。








