おっさんside*笑顔を取り戻したくて。
ダーシェルがファクルの店を――いや、アルアクルの元から去って、三日が経っていた。
その間、アルアクルはいつもどおりだった。
ファクルの店の従業員として、一生懸命がんばっていた。
「……いや、違うだろ」
アルアクルの様子を厨房から窺っていたファクルの口から呟きがこぼれ落ちる。
笑みを浮かべながらファクルが作った料理を常連客の元へ運んでいるアルアクルの姿は、一見したところ、確かにいつもどおりに見える。
いつもどおり一生懸命で、従業員として全力でことに当たっているように感じられる。
だが、違う。
ファクルにはわかる。
今のアルアクルは笑みを浮かべているのではない。
笑みを貼り付けているのだ。
いつもどおり一生懸命、従業員として全力で事に当たっているのではない。
まるで何かを忘れるかのように。
あるいは、そうすることが償いであるかのように。
いつも以上に厳しく働くことで、自らを罰しているのだ。
たぶん――いや、絶対に気にしているに違いない。
ダーシェルのことを。
ダーシェルがしでかしてしまった迷惑の数々を。
ダーシェルが去ってすぐ、流した涙が乾かないうちに、アルアクルは頭を下げて謝った。
ダーシェルがとんでもない迷惑をかけて、本当に申し訳ないことをしたと。
あまりにも必死すぎて、ファクルの胸の奥が痛むほどだった。
どうしてアルアクルがこんなに謝る必要がある?
その姿を見て、ゲンジから受け継いだ店を貶された時以上に、ダーシェルに対して怒りを覚えたほどだった。
とにかく、アルアクルが迷惑をかけたわけじゃないから、アルアクルが謝る必要はないと告げ。
さらに、自分は気にしていないし、もう大丈夫だからと、彼女の目を真摯に見つめながら言った。
そのかいもあってか、アルアクルはかすかだが確かに笑って、「ありがとうございます」と、そう言ってくれたのに。
はらわたが煮えくりかえるというのは、このことを言うのだろう。
こんな経験は生まれて初めてのことだった。
再びダーシェルと会うことがあれば(そんな機会が二度と来ないことを願うばかりだが)、こてんぱんにしてやるとファクルは思った。
ああ、まったく。本当に腹が立つ。
腹が立つと言えば、精霊王だ。
ここは迷いの森と呼ばれている場所。
精霊王が導かなければ、入ることは叶わない。
つまり、ダーシェルが入ることができたのは、精霊王が導いたからということになる。
ファクルはその理由を問い詰め――ではなく、穏便に尋ねた。
ただ、そう、ちょっとだけ。
大人しく白状しなければ、金輪際、精霊王には食事を提供しないだとか。
当然、デザートもなしであるとか。
そうつけ加えたりしたが。
あと、同席していた精霊王の伴侶も、こちらに味方してくれたのは大きかった。
涙目になった精霊王によれば、ダーシェルからアルアクルと近しい匂いを感じたので、アルアクルの関係者だったとしたら会えたらうれしいのではないか?
そう考えたかららしい。
それだけを聞けば、精霊王はいいことをしたと言えるだろう。
近しい者と再会して喜ぶアルアクルの姿を、精霊王は幻視したのかもしれない。
実際、そうなっていたとしたら、それはどんなに素晴らしいことだったろう。
ファクルは喜んで精霊王に特別メニューを振る舞っていたに違いない。
しかし、結果はこれだ。
精霊王の小さな親切は、余計なお世話でしかなかった。
いや、むしろ最悪な結果をもたらしたと言えるのではないか。
アルアクルに無理をさせているのだから。
そのことを遠回しにねちねちとクリスが責め立て。
イズヴェルが止めを刺そうとした時はさすがに止めた。
半分くらいにしておきなさいと。
精霊王の伴侶からも許可を得たので、問題はないだろう。
というか、そんなことよりもアルアクルだ。
今も笑みを貼り付け、いつも以上に一生懸命、接客業に従事している。
無理をしているアルアクルの姿を、ファクルは見ていられなかった。
いや、見ていたくなかった。
だから。
ファクルとアルアクルは、迷いの森の中を歩いていた。
鬱蒼と生い茂った木々の隙間からは、やわらかい光が差し込んでくる。
ファクルはさっきから隣を歩くアルアクルが、ちらちらと自分を見ていることに気がついていた。
いつものように情熱的な感じではなく、何かを心配するような、そんな感じの視線だ。
そして、それがよくなかった。
そうやって他のことに気を取られていたせいで、アルアクルの足が木の根に引っかかり、転びそうになったのだ。
「っと、危ない」
枯れ葉が降り積もった地面に激突する寸前でファクルが抱き留め、事なきを得る。
「あ、ありがとうございます」
思いのほか、すぐ近くから聞こえてくるアルアクルの声。
当然だろう。
ファクルは彼女を抱き留めたのだから。
だが、それを意識してしまうと、ファクルは自分の顔に熱が集まってくるのを感じた。
この年になって、こんなことぐらいで顔を赤くするなんて恥ずかしすぎる。
だが、この年まで経験がないのだから仕方がないだろうと開き直る。
「い、いや、いいんだ」
声が震えてしまった。完全に開き直ることはできなかったようだ。
とにかく慌ててアルアクルから身を離す。
遠ざかるぬくもりを一瞬、惜しいと思ってしまうのは、男の悲しい性か。
だが、アルアクルがかすかに漏らした吐息にも似た声に、彼女も同じ気持ちなのだろうかと思うと、胸の奥が何とも言えずくすぐったくなる。
「というかあれだな。アルアクルなら、俺の手助けなんかなくても転ばなかったよな」
何せ彼女はCランク冒険者であるファクルと違って勇者なのだ。
「そんなことありません! わたしだって転ぶ時は転びますし! 今がそうでした! なのでファクルさんに助けていただいてとてもうれしかったというか、その、できればもう少し抱きしめていて欲しかったというか」
アルアクルとしては、最後の方の呟きは自分だけに聞こえる程度の囁きのつもりだったのだろう。
だが、ファクルにはばっちり聞こえてしまった。
やはり、アルアクルも惜しいと思ってくれていたのだ。
自分と同じ気持ちだったのだ。
うれしさがこみ上げてくる。
叫びたくなる。
が、それをぐっと我慢して、胸の内の興奮を悟られないよう、平静に返事をする。
「そ、そうか。なら、よかった」
全然ダメだった。声は上擦り、平静とはほど遠い。
何より、アルアクルをまともに見ることができない。
ガキか俺は――という呟きを、胸の内でこぼす。
立ち止まっていた足を動かし、再び歩き始める。
そうすると、アルアクルのちらちら見てくる視線も復活した。
このままではまた転ぶかもしれない。
そう思ったファクルは自分から水を向けることにした。
「まだ気にしてるのか?」
「え? あ、っと、その……」
アルアクルがもにゅもにゅと唇を動かす。
かわいい――違う。そうではない。
「…………………………………………はい」
長い沈黙の果てに、アルアクルはうなずいた。
「だって、やっぱりよくないと思うんです。大事なお店を休むなんて」
アルアクルの言うとおり、ファクルは今日、店を休むことに決めた。
「ファクルさんのお店、大人気ですし」
実際、店の外には開店前から常連客が並び始めていた。
「いいんだよ、たまには休んだって。働き過ぎはよくないことだって、俺の師匠も言ってたし。それに確か、こんな名言もあるとか何とか」
「名言?」
「『働いたら、負け』」
「………………………………名言?」
こてり。首を傾げるアルアクルがかわいい。違う。そうではない。
「ま、まあ、とにかく。いいったら、いいんだ」
すでに並んでいた常連客たちには、明日、デザートを一品おまけすると言ったら、それなら仕方がないと納得してくれたし。
何も問題はない。
「でも、あれですよね。今日、急にお休みにしようってなったの……わたしのせい、ですよね?」
「違う!」
自分でも驚くぐらい、大きな声でファクルはアルアクルの言葉を否定した。
「でも、ダーシェル兄のことがあって、わたしが仕事に集中できてないから。こうやって気を取り直す時間を作ってくれたんですよね?」
アルアクルが今にも泣き出しそうな顔で訴える。
「違う、違うんだ。そうじゃないんだ。今日、休みにしようと思ったのは、アルアクルのせいなんかじゃない」
ファクルはアルアクルを見つめる。
思いを伝えたくて。
「アルアクルに元気になって欲しかったんだ、俺が」
だから、とファクルは続ける。
「アルアクルのせいなんかじゃない」
「ファクルさん……」
「元気になって、いつもの笑顔を取り戻してくれ。俺のために」
「いつもの笑顔……?」
ファクルはうなずく。
「俺はアルアクルのいつもの笑顔が好きなんだ」
するりと漏れ出た言葉はファクルの本心だった。
だが、すぐに自分が何を口走ったのか気づいて、ファクルは「ぐあっ!!」となった。
目の前にアルアクルがいなかったら、そこら辺をごろごろ転がって、羞恥に悶えていたことだろう。
「そう、ですか。……わかりました! わたし、笑顔になりますね!」
しかし、アルアクルにはそれほど深く受け止められなかったようだ。
よかったと胸をなで下ろすファクルは気づかない。
かすかに俯いているアルアクルの耳が、先っぽまで真っ赤になっていることに。
ともすれば緩みきってしまいそうになる口許を、必死に引き締めようとはにかんでいることに。
「そ、そういうわけだから、ほら、行くぞ」
照れくさくてアルアクルを見ることができないファクルは、アルアクルのそんな様子に最後まで気づくことはなかった。
「はい……!」
さっきまでと違って、元気を取り戻したような声で、アルアクルが返事をする。
店を休んだファクルたちは、今回のことを申し訳なく思った精霊王が教えてくれた、この迷いの森のとっておきの場所に向かっていた。
イズヴェルはついてきたがったが、クリスがファクルとアルアクルのふたりきりにさせてくれた。
その方がきっとアルアクルを元気づけることができるからと、そう言って。
『そんなことない。イズも一緒の方がアルアも喜ぶに違いない。イズにはわかる。だから一緒に行く。というか行かせろ』
『ステイですよ、イズヴェルさん。今回はファクルさんに花を持たせてあげましょうよ。ほら、アルアクルさんが涙を流した時、一番最初に動いたじゃないですか。抱きしめて、涙を拭っていたじゃないですか。あのヘタレなファクルさんががんばったんですよ? ご褒美をあげてもいいと思うんですよ』
『……確かに。アルアのこと、大事な人だって言ってたし。ヘタレのくせにあいつ、なかなかがんばった』
『でしょう?』
『わかった。今回だけ、特別に許す』
とか何とか、そんなやりとりがあって。
そして、今日の目的地である場所にたどり着く。
そこは一面に花が咲き誇る場所だった。
「ファクルさん、見てください! すごいです……!」
アルアクルが駆け出す。
「空気が甘い……! なんかおいしそう……!」
確かに花の香りに満ちていて、甘く感じるが、おいしそうとは。
アルアクルらしくて、ファクルは思わず笑ってしまった。
「あっ、なんで笑ってるんですか?」
「別に、何でもねえよ」
「嘘です! その顔、絶対に嘘をついてます!」
アルアクルに、胸をぽかぽかと叩かれる。
もちろん、まったく痛くないし、むしろ心地よくすらあった。
「あー、また笑ってます! 今度は何ですか!?」
むー、と頬を膨らませるアルアクルはかわいい。
違う。
めちゃくちゃかわいい、が正しい。
精霊王のとっておきの場所。
秘密の花園で一日過ごした、その日の夜。
「ただいま帰りました……!」
店に戻ってきたアルアクルの顔には、いつもの弾けんばかりの笑みがあった。








