受入れられぬ現実
「…………。」
息をひそめていた。
覗いていたスコープの向いた400メートル先に、小銃を背中にかけた男が、無防備に森に向かって放尿をしている。
「スタンバイ……」
隣で双眼鏡をのぞいて同じ男を見ている観測手の男が小さくつぶやく。
男が放尿を終えて、肩を震わせた瞬間、右手で握っていたL115A3のグリップの引き金を軽く引く。改造してトリガープルを軽く調整していた。頬を当てていたチークパッドから強めの反動が伝わり、それを肩から右足に受け流す。銃口から強烈なマズルフラッシュが夜闇に瞬き、銃口が跳ねあがり、スコープから見る世界がいきなり暗転する。
「ヒット」
シュミット&ベンダーの5-25x56スコープの倍率を20から6倍に変える。そして、先ほど撃った男に照準を戻して倍率を20倍に上げる。
男の右足が太ももの根元から10メートル先に吹き飛び、千切れた肉片と一緒に断面からどろどろとした血が滲み出ている。
その男はまだ命があるらしく、驚愕と激痛に目を見開きながらヒステリックになにかを叫んでいる。それにつられた敵兵士が一人、その男に丸腰で近づいていく。
「……ッ」
またもう一発、のろまに近づいた男の頭に向かって撃ち込む。
「ヒット」
僅かに間をあけて観測手が告げる。
「次、北北東402メートル」
観測手が、先ほどの男とは違う目標を指示してくる。さっき撃った男はどうせ大量出血でショック死するだろうから放置していてもいいだろう。
「ヒット」
建物のベランダで間抜けに辺りを見回していた男をさっさと片付ける。
「次、北420メ……」
頬を何かが高速で掠め、観測手が短いうめき声を上げる。チークパッドから頬を外さずに左目で観測手を見ると、目の前に彼が持っていた双眼鏡が落ちてきた。そのレンズは割れ、その傷は右の接眼レンズまで貫いていた。
「おい……」
動かなくなった彼に向かって声をかけると、頭の上半分が吹き飛んでドロリとした脳漿が覗いている彼の体が何かに殴られたように吹っ飛ぶ。それに続いて山を揺るがす大きな音が鳴り響いた。
「チッ……」
彼の脳漿と血を頭からかぶりながら、スコープ倍率を10倍にして、敵のスコープに月明かりが反射した反射光を探す。
観測手だった彼の頭の傷と、着弾と発砲音の差、彼の死体が倒れた方角からすると、敵の装備は50口径の狙撃銃で、西の方から1000メートルを超える狙撃をやってのけたのだろう。
プロの狙撃兵によるカウンタースナイプ。
一気に頭の中が冴えて、自然とグリップを握る右手に軽く力が入る。
「北西1100メートル」
見つけた僅かな反射光との距離を感覚で掴み、倍率を上げて敵を捕らえる。ゼロインの照準点にそいつを合わせ、引き金に指をかける。
「ッ……!?」
その時、スコープで見る先にオレンジの閃光が瞬く。それを知覚した1秒後に右側頭部を何かが貫いていった。右側頭部を思い切り誰かに殴られたかのように左に突き飛ばされ、頭を割るほどの灼ける痛みが波のように押し寄せてきて頭蓋の中をガンガン鳴らす。
「あああああああ‼!」
激痛に悶えながらもスコープを覗いていると、またオレンジ色の閃光が瞬く。
「ッ……!」
最後の抵抗とばかりにろくに照準もせずに奴に向かって引き金を引いた。
既に視界は暗く、赤く滲んでいた。
× × ×
「…………。」
目を開けると、真上で輝く太陽の強烈な光が目に痛かった。
「昼、か……」
起きようとして、右手が何かを掴んでいることに気づいた。
「L115A3……」
手にしていた、イギリス軍の長身のスナイパーライフル。
「うっ、うえっ、おっ」
飲み込んだ血が、喉を遡って口まで伝わって吐いてしまう。
「ここは……?」
存分に血を吐いた後、立ち上がって自分の体を見る。DPM迷彩服に鍔の広い迷彩帽、黒いブーツ。イギリス陸軍第22SAS連隊B中隊第2小隊第1分隊のクリス・カリヤ軍曹を表すドッグタグ。そして、その金属板に刻まれたFuriousの単語。
覚えている最後の場面では、香港でマフィア化した旧中国軍と地元民のゲリラ基地の制圧作戦の前哨狙撃兵として、外にいた敵兵をこのライフルで狙撃していた。そして、1100メートル級の狙撃をしてくる敵スナイパーに遭遇して、右側頭部を撃ち抜かれて──。
「う、ああっ!あああっ⁉ああ‼」
あの灼けるような痛みがフラッシュバックして、草原の真ん中で叫び声を上げながら崩れ落ちる。
「はあっ、はっ、はあ」
叫びつくすと、草むらに仰向けになって呼吸を落ち着かせる。
とにかく、誰にここまで運ばさせられたのか分からないが、ここがどこか確かめねばならない。
動こう。ここにいても仕方がない。
× × ×
「…………。」
山中の木々に隠れてしまえば、迷彩服の強みを改めて実感できる。ライフルを構えて、スコープで自分のいる崖の下を歩いている女と老人の様子を観察する。
距離はおよそ50メートル。この距離なら風の影響は無視できる。武装は老人の杖ぐらいといったところか。両方ともイングランド人のような顔だちをしている。
上海事変の後の動乱で、中華人民共和国は崩壊した。その後、イギリス人は全員香港から脱出したはず。だからこそ、こうやって彼女らが山中をピクニックをしているはずはない。
「左130メートル。男が3人。武装、斧と剣……?」
何も知らずにのんびりと歩いている彼女たちの先に、薄汚れたボロ着をまとい、斧や粗末な剣で武装した顔立ちはアジア人の3人の男が待ち伏せていた。恐らく山賊の類だとは思うのだが、武装があまりにも貧相で前時代的だ。せめて、拳銃くらいは用意できなかったものなのだろうか。
もうすぐ、彼女たちはあの男たちと遭遇してしまうだろう。せっかく発見したイギリス人だ。英語が通じる人間をわざわざ殺すわけにもいかないだろう。
マガジンを見ると、中に入っている弾薬は残り一発。マガジンを外して、迷彩服に縫い付けて作った実包入れから四発の.338ラプア・マグナム実包をマガジンに装填する。
相対距離130メートルほど。この実包なら二人抜くことも可能だ。3角形の陣形をとって立ち止まっている彼らの内、後ろの二人の頭を抜き、その後すぐさまにボルトを引いて、前の一人を狙撃する。そのイメージを脳内で固めて、実際にスコープを覗いて一連の動作を繰り返して頭の中に叩き込む。
「よし」
伏せた姿勢からバイポッドを立てて、スコープの倍率を最低の5倍に調整する。レティクルの真ん中に後ろの二人の頭を貫く直線を捉えて、息を止めて引き金を軽く引き切り、強烈な反動を肩で受けて右足に流す。すぐさま薬室のロックを外し、ボルトを引いて排莢する。ボルトを押し戻して装填して、薬室をロック。後ろの二人に何が起きたのかわからずあたふたしている最後の男をレティクルの中心に捉えて引き金を引いた。
山間に響き渡る爆音に、驚いた鳥の群れが慌てて飛び去っていく羽の音がうるさかった。
× × ×
崖を迂回して下に降りて山賊の男たちの死骸まで戻って来ると、女と老人が目を見開いて座り込んでいた。その目には、頭を無慈悲に吹き飛ばされた死体を見た恐怖が浮かんでいた。
「大丈夫ですか。お嬢さん方」
「あ、あなたは……?」
死体の次はスナイパーライフルを担いだ迷彩服の男が現れた。一般人がそんな光景を見れば、腰を抜かして驚き、恐怖で歩けなくなるのも無理はないだろう。だって、目の前に脳漿をまき散らした死体があって、その男を殺しただろう男が目の前にいるのだから。
「私はイギリス陸軍第22SAS連隊のクリス・カリヤ軍曹です」
「イギリス……陸軍?」
「ええ、私はイギリス人です。あなた方もそうでは?」
それを聞いた彼女らは互いに信じられないといった感じで互いの顔を見つめていた。
「その国は、カインケルスの、敵ですか」
彼女が怯えたように、見定めるように、警戒したように言い放った。
「カインケルス……」
聞き覚えのない国の名を、受けいられない自分に言い聞かせるように呟く。
「あなたは、私たちの敵ですか?」
その言葉に、頷きをすぐに返すことができなかった。カインケルスという国も組織も聞いたことはない。ブリーフィングでそのような単語が出てきたことすらなかった。それに、俺は一介の兵士である。上の意向など知っているはずもない。それは政治家と将校の仕事だ。
しかし、俺は前哨狙撃兵として、観測手のSAS隊員と二人、それがもう一チームの一個分隊で行動していた。それが逸れてしまい、無線通信機は先程から音沙汰がない。
戦場の、敵のホームのド真ん中で孤立した。
それが如何に危険かということを今更説明するという手間は省きたい。
ただ言えることは、俺は今後一人で、中国に派遣されたイギリス陸軍の本隊に合流しなければならない。そのためには、俺が一人で様々な判断を下していかなければならない。
ならどうだろう。カインケルスとは偉大なる王国の、国王陛下の敵なのだろうか。普通に考えるならば、それは暫定政府を名乗っていた中国内のマフィアが新興国を名乗り始めたか、本格的にマフィア化したかというところだろう。
その場合、目の前の老人と女はイギリス人ではない。今すぐ射殺しても差し支えはない存在だ。その意味で言えば、俺は彼女らの敵。
しかし、目の前のイングランド人の顔つきの女はイギリスなど知らないと言った。国連常任理事国で、かつて世界中の港を支配し、海上輸送の元締めとなっていた大国を知らないという人間は地球上にいるはずがない。特に、目の前の女のような、ある程度の水準の教育を受けた、比較的裕福な家庭の娘が、イギリスという”国自体”を知らないと言うはずがない。
もし本当に知らないのだとして、その事実は有効に使えるか?
戦場において、事実などと言うものほどあやふやなものはない。たまにあがる異常な戦果報告は、ほとんどがヒステリックになった新兵の戦果の誤認か、スコア目当ての水増しであるし、突如として友軍の制圧地域の中に敵兵が突然沸くこともある。それは、戦場の空気が彼らの脳内をかき回すせいであり、現状、それの有効な対策はない。
だから、そこに付け入る余地がある。それも、一手なのかもしれない。
「ええ、イギリスはあなた方カインケルスの敵ではありません。私たちは、中国内の皆様を戦乱から救うために派遣されました」
「中国っていうのも、何ですか?」
意味がわからない。ここは、中国ではなかったのか?中国が崩壊して久しいが、それでも2年も経っていない。目の前の女が知らないはずがない。それとも、身分を知って俺をここで引き止めているのか。イギリス人を、イギリス人を使って抹殺するために。だとすれば、目の前の女はロシアのスパイとなる。
だが、俺をあの野原に連れて行くまでに殺すタイミングなど幾らでもあった。
訳がわからない。ただ、彼女をロシアのスパイと仮定して動いた方が良さそうだ。目の前の人間がスパイと分かれば、なるべく目を離さない方が良いだろう。
「とにかく、あなた方はその身を守る手段を何一つ持っていません。先ほどのような賊もいます。護衛が必要なのではないでしょうか」
「は、はぁ……」
煮え切らない態度の彼女に、空に向けてシグザウエルのP226を一発撃つと、彼女はその音に驚いて身を硬ばらせた。
「目の前の死体が見えますでしょう?賊は、私におまかせください。私には、あなたを住まいまでお護りする力があります」
自分の監視下に入らねば射殺する準備があるということを言外に孕ませて、言った。
× × ×
ここは中国ではなく、カインケルスという国の領土の中の森である。そして、最近、隣国が滅びてしまい、ここいらの治安も悪化してしまった。そして、そのカインケルスは、海に面した海上国家でもあり、海外との貿易も盛んであるが、ここ最近は竜の動きが激しく、輸送船団がしばしば襲撃されて、かつての盛り上がりを失ってしまった。
即興の設定にしては、手が凝っている。それとも、ロシアの諜報機関ではこれが目標と会った時の常套句なのか。
そんな、現実離れしすぎた話をずっと彼女としていた。この世界は、フィッシュ&チップスがあって、国王陛下がいて、その息子と娘たちが国民から慕われている俺の世界とは異なるらしい。
聞いてて馬鹿らしくなってくる。
「しかし、竜なんて伝説上の生き物がいるはずがない。第一、彼らの翼ではあの巨体を宙に浮かすことができるはずがないでしょう」
基本的なところでカマをかけてみる。
「もしかして、竜を見たことがないのですか?竜の翼は、体をはるかに超えています。比率は、体が横1縦18だとして、翼は横20縦12もあるんですよ。体自体も大きくて、頭が家の二階を超えることだってあるんです」
比率は適当なのかもしれないが、よくもまあ、スラスラと嘘八百を並べられるものだ。こちらはそこまで騙しやすい相手だろうか。
「それは一度、見て見たいものですね。ロイヤル・エア・フォースの|ガンシップ(AC−130)とどちらが大きいか楽しみなものです」
「ガンシップ……それは、どんなものですか?」
「低空を維持旋回して、地上にいる敵兵士たちに対して戦車砲と、機関砲と、バルカン砲の弾の雨を降らせる、戦場の神ですよ」
「その神は、どの宗教の神なのですか?」
彼女は興味を持ったのか、目を輝かせながら言った。
「そうですね……強いて言うならば、アメリカ、でしょうか」
「アメリカ……聞いたこともない宗教です」
彼女は顎に手を当てて、ふむと頷く。その演技のうまさに僅かな腹立たしさを覚える。
「強いて挙げるなら、ですよ。基本的に、兵士は無宗教です。敬虔なクリスチャンも、ムスリムも、戦場では無宗教になります。戦場においての絶対の神は、銃と大砲と爆弾ですから」
「戦場……この世界には、争いをしている国があるのですね……」
「……ええ」
何を白々しいことを。そう言ってP226をホルスターから抜いて彼女の頭を殴りそうになった自分を必死で自制する。平静を装いつつも、喉の下まで煮えたぎる鉄が出かかっていた。
「悲しいことです」
彼女からは見えない左手の拳を握り締めながら呟いた瞬間、右正面の森の茂みがガサリと大きな音を立てた。驚いた彼女は咄嗟に俺の背後に周り、俺はホルスターからP226を素早く取り出して茂みへと銃口を向ける。
「グルルルゥ……」
その茂みから、低く喉を鳴らして、一匹の巨大なトカゲに似たような生物が現れた。そいつは、こちらに気づくと、両腕を広げてみせる。同時に、その両腕に乗っていた枝が落っこちて降りかかってくる。
翼竜のものとしか形容できない、そのあまりにも大きすぎる翼。
その巨大な翼を目一杯に広げたその姿は、気高く荘厳で、あまりにも痛々しかった。言うなれば、目一杯威嚇してみせた手負いの野犬のような。
すると、そのトカゲによくにたナニカはまぶたをすっと閉じてその巨体を横に倒してしまった。ズン、と腹にくる衝撃と共にそのトカゲに似た何かは動かなくなってしまった。
「手負いで助かりました」
荒くなっていた呼吸を落ち着かせるように深呼吸を何回かして、彼女の方に顔を向ける。
「竜がどうして、こんなところに……?」
認めようとして、認めまいとしていた事実を彼女が無神経に告げる。
イグアナを細身にして、その体に不釣り合いなほどに巨大な翼を与えたような姿。その竜は、絵画で見るようなものとは全然似ても似つかなかったが、言われれば納得するしかない、竜としか形容できない生物。
自分の目が信じられなかった。
俺の世界には、こんな生物は古来存在したことがなかった。恐竜の図鑑で見たどの生物にも当てはまらない。動物園で見たこともない。大英博物館の展示にすらなかった。
じゃあ、目の前で倒れている不思議な生き物は何か。
間違いなく竜だ。
では、俺の世界に竜と呼ばれるべき、空を飛ぶトカゲはいたか。
いるはずもない。それは、フィクションの中だけだ。
これは現実か。
今俺は、足の裏でブーツのメッシュとゴム越しに地面を踏んで大地に立っている。自分の両手は自由に動かせる。生まれてこのかた、薬物には無縁な生活をしてきた。背中を伝う冷や汗の感覚は、本物の重厚さをもって襲いかかってくる。
「──貴様達ッ!そこで何をしている‼︎」
突然、男の怒声が耳を突き、その機能のほとんどを停止させた脳は、間抜けに頭をその方向にゆっくりと向けさせる。
なんだ、この小男は。アジア人みたいだ。でも、中国人と聞かれたら首を傾げてしまう微妙な顔立ち。
そうか、これが日本人か。それにしては、古臭い格好をしている。憲兵隊の真似事だろうか。こんな暑い時にそんな暑いスーツを着なければいけないとは、日本は遅れている。
そうだ。これが現実か確かめる方法があるじゃないか。この男を殺してみよう。こいつを殺せたら、これは現実だ。
「な、何をしているッ⁉︎」
こちらがP226の銃口を向けると、男は露骨に慌てた様子を見せる。それでも、怒りを無理やり引き起こさせて、黒い棒を取り出して向かってきた。
引き金を引くと、乾いたいつもの音がする。しかし、手首に必要な力が入ってなかったため、銃弾があらぬ方向へと飛んで行ってしまう。
その間に間合いを詰めてきた男の持っていた棒で右手を思い切り叩かれて、体術をかけられて地面に叩きつけられてしまった。
左の頬が擦り剥けて、そこから血が出てくる。
痛い。
痛覚がある。ツンとするこの痛みは、現実だった。
「痛い……痛い」
ぼそりと呟く。俺を組み伏せている男はなにやら言っているようだが、左頬の痛みの悲しみと怖れで脳内が占有されて耳に入ってこない。
「現実……これが、現実……」
この痛みを、受け入れることができない。
「現実、これは現実なんだッ‼︎」
だけれども、逃れられない現実は存在する。
逃げることができない現実がある。
久しく忘れていた。
これが、現実だってことを。