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饂飩(うどん)

作者: 新界徹志

かつて都が置かれいにしえに栄えた盆地を東に行くと、両脇を深い緑で固められた小さな村がある。山々は決して高さを誇る程ではないが、急峻でなおかつ険しい。村は狭隘な谷筋に沿って長く延びている。太陽の道筋と重なっているお陰で日当たりも悪くはない。この村で生まれ育った者は皆、大空というものを知らない。青い空が細長く延び、その間を太陽も月も通ってゆく。日々の繰り返しや季節の移ろいを知るのに不足はないが、夜空を見上げても、無数の星が輝いて見える割には星座の数は限られている。谷筋に沿って延びた星々の帯を天の川と信じていた者が、他所の土地に行き夜空を見上げた時、それが間違いであったと気付かされ、初めて本当の空を知る、というそんな村なのである。

美千がこの村に嫁いで来たのが二十歳はたち、三十五になった現在いま、早や十五年の歳月が流れた。夫である徳治に対し満足こそしていないものの取り立ててあげつらうほどの不満もない。だが、時々、美千は嫁いできたことを悔やみ、ひどく落ち込むことがある。徳治に嫁いで来たつもりであったのが、暮らしていくうちに、実は自分が嫁いだ先は夫でも家でも無く、この村なのだと否が応でも認めるより他なくなった。その偏狭さと身勝手さに驚き愕然がくぜんとさせられ、未だに脳裏の片隅でもぞもぞと蠢き、時折、美千の心を揺り動かす。

新しい憲法の下で民法も生まれ変わり、既に十有余年経ったというのに、未だに古いしきたりの方が巾を利かせるという村である。戦後民主主義の息吹いぶきに触れて育った若者の間には、不平や不満が漏れ始めているが、誰も正面切って長老達にそれをぶつける者はいない。そうすることによって、自分が変わり者のレッテルを貼られて村で爪弾つまはじきにされるのが怖いからである。寧ろ、進んで殊更ことさらにアナクロニズムの風を吹かせることによって、長老達に取り入り、自らの足下が揺るがぬように取り計らっている者もある。しかし、そうでもしなければ居づらくなるほど、この村は封建的で前時代的なのである。

寄合よりあいや村の行事には如何いかな理由があれ休む訳にはいかない。家族の誰かが顔を出すことによって村に義理を立てるのだ。確固たる決まりがある訳ではないが、そうせねば、普段の暮らしに差し障るのである。一度ひとたび、村の掟や風習に逆らったならば、葬式と消防以外の付き合いを絶つという村八分の悪しき慣習が未だにまかり通っている。民主主義など何処どこ吹く風、人権蹂躙じんけんじゅうりんも甚だしく、その概念さえないのである。

年功序列の考えが天下御免であり、「親は親たらずとも子は子たれ」、「年配は年配たらずとも若輩は若輩たれ」が巾を利かせ、村の古株連中は絶対的な尊大さを以て若年の者を従わせ、村で行う事どもは全て必ず長老にお伺いを立てなければならない。

それに倣って男尊女卑も著しく、「夫は夫たらずとも妻は妻たれ」とき出しの亭主関白が、この村では大股おおまた闊歩かっぽしているのだ。妻は夫より先に食うなかれ、先に湯浴ゆあみする勿れ、先に眠る勿れ、後に起きる勿れ、云々(うんぬん)、一方的な押し付けに過ぎぬ「勿れ」主義が当然であり、もし「勿れ集」などというものでも作るとすれば次々にその事例が出てくるのでは無いかと疑うほどである。

要するに女は男に従属、否、男の付属物でしかないのだ。しかも、村社会の階層構造に完全に平伏ひれふした形での男尊女卑なのである。結婚とは、個人の都合では無く、村の共同行為の一つに過ぎない。嫁入りまたは婿入りしてきた者は、家に迎えられるよりも寧ろ村に迎え入れられるのである。村では博識と敬われている長老が述べた言葉がそれを如実に示している。

結婚言うのは『ゆい』の縁組をするちゅうこっちゃ。」

結とはこの村に限らず古くから日本社会の広きに渡って伝わってきた集落ごとのしきたりである。さまざまな共同作業における相互扶助の制度と考えれば良い。長老が言うのは、嫁入り、婿入りというのはその制度に加わることであり、従って、おのれ一人の問題ではない、それどころか家族の問題ですらなく、村の問題だということである。結を納める、とは高砂たかさご人形や昆布、するめなど寿ことほぎの品々を納める行事などではなく、嫁や婿となる者が「どうか結に加わらせてくれ」と村に懇願することだと言うのだ。嫁や婿を迎えるのは村のためであり、それゆえ村の承諾なしには済まされない。

村のどこかの家で婚儀がある度に、長老はそう言って聞かせる。

しかし、共同作業なしでは農作業も済ますことのできなかった昔ならいざ知らず、垣内かいとの清掃や祭と言った僅かの行事にのみその名残が止められている時代となって、『結』などというものもかび臭くなるばかりである。それにも拘わらず、その形式だけが終戦を経て十数年経ち、民主主義がそこかしこに根付くようになってからも根強く残っているのだ。

結婚は未だ良い方だ。これが子供のこととなると話はさらに厄介になる。結婚は『結』に加わるというその形式さえ整えば、その後は夫婦生活の内面にまで干渉することはない。だが子供のこととなると形式だけでは済まされず、実質的『結』の存続を巡って、村の慣習が家庭の内面にまで押し寄せて来る。子どもができるか否かは、家内に止まらず村全体にまで及ぶ問題だと言う訳である。継嗣あとつぎがいないとその家系が断たれるだけでなく、『結』の存続も危ぶまれ、村としては重要な事案として浮かび上がってくるという次第だ。この村は、継嗣に係る問題について、とりわけ神経質である。

言い伝わるところによれば、いつの時代か定かでないが、飢饉か流行病はやりやまい何某なにがしかの事情があって、村の人口が激減したらしい。それ以来、どう言う訳か子どもが誕生する機会がめっきり減って、継嗣あとつぎに恵まれず村及び『結』の存立が危ぶまれるという事態にまで陥ったようだ。村の東口には男綱おづなと言って男性器をかたどった男魂おだまと言うものをぶら下げた綱が張られ、反対側の西口には同じく女性器を象った女壺めつぼ女綱めづなと言うものをぶら下げた女綱めつなが張られており、旧暦の正月にはそれぞれ新しいものに取り替える神事が行われる。その時、前年の男綱と女綱を神社の境内に運び、女壺に男魂を差し込み、予め竹で組んで置いた炎錐えんすいと呼ばれるものの周りに巻き付け、火を点け燃やす。他の地域で『とんど』や『左義長』と呼ばれる行事の一種であるが、一義的には子孫繁栄を願ったものである。

こうした慣習に頼らねばならぬほど、この村にとって継嗣の問題は深刻と言う訳である。だが、それは女が子を産む道具としてしか見做されないという意味をはらんでおり、男尊女卑が根強く蔓延はびこる土壌を形成する要因となったとも言えるのだ。その極めつけは、子を産む道具としての用が足せないとなるとお払い箱にされる、そんな忌まわしい慣習まで生まれたことであった。

村に嫁いで数年が経ち、尚、子供ができないとなると、長老を中心に話し合いがもたれ、夫に対し離縁し嫁を貰いなおすようにと勧める。強要するのではないが、これまでその勧めに応じなかった例は稀である。大抵は昔からの決まりだからと承諾する。そして、日取りを決めて、若衆らが妻を強制的に里に帰してしまう。ひどいことには、妻を大きな樽に入れ、その樽を担いで実家まで送り届けるのである。まるで物を運ぶようでこれほどの侮辱はない。「子を産まぬ女なんぞ、その辺に転がっている石に等しい」と言わんばかりである。この行為が一つの儀式として営まれるのだが、それは子を産めぬ女を災いと見做し退けるためである。男綱と女綱は結界けっかいを表し、それを越えて二度と災いが入り込まぬようにと祈るのである。離縁を勧めた後は夫婦に任せておけば良さそうなものだが、そうしないのはこういう事情がある為だ。バスや乗用車を頼らず、人力で行うのも儀式の威厳を保つと共に、また嫁や入り婿に対する見せしめの為でもある。

見せしめと言う考えが傲慢であるが、そもそも、子どもを産めないことが他人からとががめられねばならないことであるのか、それこそが不条理であり、その仕打ちは如何いかにもむごい。だが、これまで誰一人としてそれに逆らった者はいない。

「里返し」と呼ばれるこの儀式が何時から始まったのかは定かでないが、子のないあるじに対し村の方から勧める場合もあれば、主自ら進んで村に申し出をする場合もある。ただし、夫婦仲が悪かったり、夫か妻の何れかの素行が悪いという理由では決して「里返し」は行われない。それは私事でしかありえず、村とは全く無縁のものであるからだ。あくまで子がないことによって村の存続までが脅かされることになるのを防ぐために行う儀式なのであって、決して濫用が許されない。妙なこだわりではあるが、それがせめてもの救いであるとも言える。

「里返し」の儀式は決して女だけに与える仕打ちでは無い。養子婿もまた同様で、やはり婿入りして数年間、子どもができないでいると「種無し」と蔭でさげすまれ、里に追い返されるのだ。寧ろ、養子婿に対する仕打ちは容赦がない。女の方が男に比べ出産適齢期が短く、子どもができぬとなればさっさと見切りを付けて別の婿を迎え入れなければならないからだ。男尊女卑が強い集落において、それだけが男女平等と言うのも皮肉である。

美千は嫁いできてからの十五年間で、幾度もこの「里返し」を見てきた。

始めてこの儀式を目の当たりにした時、美千はみにくい習慣だと嫌悪した。そして誰もめさせようとしないことに更なる憤りを感じた。とは言え所詮は他人事に過ぎなかった。まさか自分自身が子宝に恵まれぬなどとは思いもしなかったからだ。しかし子ができぬまま三年、五年、十年と経ってくると、最早、他人事と悠長に構えてはいられなくなった。段々焦りが募り、醜い習慣と唾棄するだけでは済まされず、美千の身辺を脅かすようになった。

夫との努めは、結婚以来欠かしたことがない。毎夜、毎夜、夫の徳治は激しく美千を求め、美千もそれに素直に応じてきた。それが妻の務めだと信じ、なされるがままに夫に身を委ねるのだ。三度の飯を欠いたとしても、それだけは欠かしたことがない、と言うほどの勤勉さである。徳治は決して脂ぎった如何にも好色という風貌ではない。どちらかと言えば、淡泊そうで精力も旺盛ではなさそうに見える。だが一旦事に及ぶと、見かけによらず激しく粘っこい。他に男を知らぬ美千は性豪せいごうとはこのような男を言うのかなどと思ってみたりする。それにも拘わらず、十五年経って尚、子宝に恵まれる気配がないことに焦っているのか、ますます徳治の性戯せいぎは激しくなる一方で、やむなく美千もそれに合わせている。

毎夜、徳治は床に入る前に、神棚に向かって、「子供をお授け下さい。」と祈るのだが、信心深いこの男の願いを神様は叶えて下さらない。

「神さんは一体何を基準にしたはるんやろか。わしのどこが足りんのや。教えて貰いたいわ。」

そんなことをやけくそに呟いてみたりすることもある。

「私は石女うまずめなんや。」

と自身に言い聞かせ、とっくの昔に子供のことなど諦めている美千とは随分隔たりがある。離縁されても仕方あるまい、既に美千はその腹もくくっている。

だが、五軒離れて筋向かいの善衛ぜんえの妻が「里返し」の仕打ちを受けた時は余りに衝撃的に過ぎ、愈々(いよいよ)、年貢の納め時かと脳裏に暗雲が垂れ込めた。

善衛は徳治と同い年で、善いことも悪いことも同じように経験しながら育ってきた。善衛は一度、二十五の歳に結婚したが、妻は三年目に病を患い、亡くなった。それがショックだったのかどうかは知らないが、以来、善衛はずっとやもめ暮らしを続けてきた。しかし、四十しじゅうを前にして、村の長老が縁談を持ちかけてきた。恐らくは善衛の身を案じてと言うよりも、村の都合によるものだったのだろう。相手は一回り年下の初婚の女だった。器量も悪くは無いのに三十手前まで独身と言うことに、善衛は多少の引っかかりを感じたが、他に取り立ててあげつらうような悪いところも無さそうであり、結婚することに決めた。

善衛の再婚相手である富貴ふき健気けなげな女で愛想も良く、村の長老らにも受けが良かった。美千ともすぐに打ち解け、夫婦共々行き来が盛んになった。善衛は惚気のろけてばかりいた。時々、零す愚痴さえも惚気のひとつでしかなかった。しかし、残念なことに、富貴は嫁いできてから五年経っても子供を産めずにいた。

美千は自分と同じ境遇に同情を寄せ、そのことが一層、二人の関係を緊密にしていったのである。共に「里返し」の風習が頭をかすめはしたが、互いにそのことには一切触れないようにしていた。

ある日、まだ空が白みかけたばかりの頃、善衛宅の表門を叩く音がした。眠そうな顔をした富貴が出て行くと、垣内かいとの男が数名立っていた。男衆おとこしと呼ばれる役付の男連中である。富貴はすぐに察した。「何ぞ、ご用ですか。」と聞くまでも無かった。富貴は怒りと混乱で頭の中が掻き乱され、放つ言葉を失っていた。「里返し」という悪習に対する反駁はんばくは勿論だが、他人行儀にも夫から自分に一言の相談もなかったことに対して、これ以上ない憤りを感じていた。夫に「離縁してくれ」と言われれば、何もこのような風習に則らずとも、実家に帰るつもりだった。夫は自分にその勇気と踏ん切りがつかないために、時代遅れの悪習に頼ったのだ。これなら、村からの申し出であり止むをえなかったと理由がつき、心も痛まないとでも思ったのだろう。富貴は弱気な夫の態度に辟易へきえきし、煮えくり返った腹が固まったのである。

富貴は、「暫くお待ち下さい。」と一旦家に入ると、服や小物など身の回りの品をまとめた風呂敷を持って、門口に現れた。

男衆おとこしの中の頭取とうどりと呼ばれる代表の男が一人、富貴の前に歩み出て言った。

「女」

男はもう、「富貴さん」とも「奥さん」とも呼ばなかった。

「只今より、古式にのっとりうぬを里にお連れ申す。」

「申すう。」

他の男衆おとこしが声を合わせ、辺りに響かせた。その声で、垣内の者らは集まってきた。徳治も遠巻きに様子を眺めた。富貴は衆人環視しゅうじんかんしに晒され、それだけでも相当な屈辱であった筈である。垣内の殆どが集まったのを見計らうと、頭取は姿勢をただし、天に聞こし召すように、大声を張り上げて言った。

「うぬが与えしとがは神明にてゆるし給うが、代わってこれよりうぬの本地ほんじまかすこと一切能あたわず。」

富貴のこれまでの罪については赦す代わりに、二度と垣内へは来るなという意味である。

『咎』、毎度のことに徳治はこの言葉に首を傾げる。不義密通を働いたとでも言うならいざ知らず、否、それでも村は習わしに従い、「里返し」の儀式を免れさせてきたではないか。どうして子供を産めないことが罪になるのか、徳治には全くせないでいた。義憤のようなものを感じながら、しかしそれに逆らうこともできずにいた。そして、自分がそうでありながら、これまで誰もそのことに疑問を投げかけてこなかったことに不思議さと不快さを催した。

「女」

また、そう呼ばれても富貴は動じなかった。腹の内ではどうにも憤りが収まらなかったが、敢えてその不埒ふらちに逆らうつもりもなかった。むしろ、時代にそぐわぬこの非道をお天道てんとう様の元にさらけ出して、村の連中に思い知らせてやるぞ、という思いであった。男衆の一人が手を差し伸べるのを払いけ、富貴は着物の裾をまくり上げ自ら進んで樽に入った。富貴が樽に身を沈めるのを認めると、男衆のひとりが蓋を閉めた。まるでむくろか囚人を閉じ込めるようであった。

樽の中は真っ暗な上に窮屈だろう。常人なら気が狂いそうになるに違いない。樽に閉じ込められた富貴を思いやるより、人のわざとは思えぬ仕打ちに徳治は背筋に怖気おぞけが走った。

樽の縁に通した縄紐に一貫棒を通すと、頭取はまた大声を張り上げ、

「では、女、まいるぞ。」

と叫んだ。他の男衆はそれに合して、

「おう」

一斉に声を上げると、樽の前後に二名ずつ分かれ、一貫棒を肩に乗せ樽を担ぎ上げた。交代の者も含め、総勢八名の男衆が富貴の里に向けて歩き始めた。

半時間ばかり続く儀式の間、善衛は一度たりとも表に顔を出さなかった。

勿論、そう言う決まりであるのだが、気まずさで、とても富貴と顔を合わせるなどできる筈もあるまい。仮にも数年間、夫婦めおとじょうを交わした相手である。未練が残らないという保証などどこにもない。それを断ち切るために、「里返し」をされる者の連れ合いは、見送りに出ることを禁じられ、儀式の済むまで家に引き籠もるのがしきたりとなっている。だが、そのしきたりがなかったとしても、一体、どのつらげて、見送ることなどできるだろう。

「女」と呼び捨て、樽に放り込み屈辱を味わわせた上で里に追い返す、その行為の非道さと後ろめたさを隔離という方法によっておおい隠しているに過ぎないのだ。このしきたりの身勝手さはここに極まると言うべきである。胸の内では多くの村人がそう思っているに違いないが、誰も口に出そうとはしない。徳治とて例外ではない。

善衛は、仏間に引き籠もっていた。富貴と別れるのが悲しいのか、長老たちに抗うことが出来ずにいたのが悔しいのか、善衛は一日中、メソメソしていた。そもそもが気の弱い男なのである。誰とも顔を合わさないよう日が暮れるまで、仏間から一歩も出ずにいた。

徳治はと言えば、本来は男衆の役に当たっていて自分も「里返し」の列に加わらねばならなかったのだが、他の用事と重なっていることを理由に隣家りんけの者に交代して貰っていた。用事と言っても大したものではなく、徳治で無ければならないようなというようなものではなかった。垣内かいとの連中もそのことは承知の上で、仲の良い者どうしのこととてその気持ちをおもんぱかったのだ。徳治は、「里返し」の一行を見送ると、断りの理由にした用事をさっさとこなし、家に帰ると、神棚のある奥の部屋に籠もり、大の字に寝そべった。

自在に変化へんげを繰り返す天井の木目を見ながら、徳治は考えにふけった。

「五年もと言うけど、たったの五年やないか。」

「産めへんのやのうて、産まれへんだだけやないか。」

「善ちゃんも善ちゃんや。勝手過ぎんか。嫁に貰う時はあんだけ喜んどったのに、子供がでけんとなったらお払い箱かい。そんな殺生なことあるかい。たまらんわ。」

「女はほんま損やの。子供がでけるか、でけんかで値打ちが決まりよるんや。」

「富貴はん、涙の一つもこぼさなんだな。強い女子おなごや。」

「樽ん中、しんどいやろな。窮屈やろな。」

「富貴はんとこの実家もびっくりするやろな。嫁に行かせた娘が突然、連れ戻されるんやからな。家のもんは誰も簡単に承知せんやろ。それでも、やっぱり、無理に置いてくるんやろな。」

「よう分からんけど、こうゆうのんは民主主義と言うのに反してるんやないか。」

「昔とちごうて、交通の便も良うなったし、十キロ先言うてもそう遠うないわい。いつまたどこで富貴はんに会うとも限らん。もし、そうなったら、善ちゃんはどないするつもりなんや。」

「阿呆やけど、底抜けの阿呆やけど、、、、、善ちゃんも、、、やっぱり、可哀想やな。」

徳治はぐるぐる考えを巡らした。そして、ふと思った。

おいとこはどうやろ。」

善衛、富貴夫婦は子どもがなかったと言っても、たった五年のこと、それに比べて徳治、美千夫婦に至ってはその三倍の十五年である。

これまで何度か長老等がこっそり、

「ヨメはんを里に帰して若いヨメはんをもろたらどや」

などと勧めに来ることはしばしばあったが、

「おおきに、考えとくわ」

とその場は適当にはぐらかしておいて、そのまま返事もせずに放ったらかしにしておく。徳治一流の手口である。

「また、徳さんにやられたわ。」

「いつもああや。」

「のらりくらりとな。小っさい時からあの調子や。」

暖簾のれんに腕押しやのうて暖簾に頭突きやな。」

「子供がでけんままで、どないするつもりや。」

「代々続いた森元の家も徳さんで終わりやの。」

「ヨメはんもあの歳になっては、もう、子供は産めんやろ。」

「徳さんは諦めてしもうたんかの。」

「そんなことあらへんやろ。」

「ほんだら、なんでやろの。」

「ヨメはんのあそこがよっぽどええんやろ。」

「せやろか。あのヨメはんも大人しそうな顔しとんのにの。」

「阿呆か。顔とあっちは関係あらへん。」

「は、は、は、」

口さがない垣内の連中が陰口を叩いて自分を虚仮こけにしているのを、徳治は薄々勘づいていた。それでも、

「人の言うことなんかいちいち気にしとったらやりきれんわ。」

と、一向に気に留めることはなかった。

傍目はためばかりを気にする徳治にしては珍しいことである。

しかし、この村にいる限り、いつまでもそれは通用しそうもない。

「うちのヨメはんも到頭、追い返さなならん時期が来たんやろか。」

考えていると徳治は段々気が重くなり、畳に寝転んでいるのでさえ息苦しく感じられてきた。楽な体勢を取ろうと、何度も寝返りを打つ度、天井の木目が織りなす表情がさまざまに変化した。徳治は心の奥を覗かれているような気がして、尚更、息苦しくなった。

徳治は美千とのこれまでを振り返ってみた。

美千と添うことになったそもそもが生活のためであり、徳治の中に愛情というようなものはなかった。三十路みそじを過ぎて、結婚もしないでいるのは村でも徳治一人だった。

り好みしてる歳でもないやろ。」

周りからそう言われるが、徳治にそんなつもりはない。できることなら早く嫁をめとりたい、そう思いつつも縁がないのだ。

そんな時、徳治を気遣って、美千との縁談を持ってきたのは親戚の者だった。終戦後すぐのことだった。

「戦争も終わって、これから日本ニッポンも良うなる。お前もいつまでも一人でおらんと早う結婚して子どももうけて、新しい世の中を作っていかな。」

それがどう言う意味か、正直なところ、徳治には分かりかねていた。言っている本人が理解しているのかも怪しい。ただ、世間では新生日本だの新しい時代の幕開けだのと誰もが当然のように口にするようになったので、それに合わせているだけだろうと徳治は思った。

だが、その漠然とした言葉が決め手となって、相手の写真も見ないうちに結婚することに決めたのである。美千の方も、それほど深く考えもせず、相手が良しというのであれば、と言う簡単な理由で結婚を決めたのだ。

二人にとって共通する点は、結婚とは即ち生活でありそれ以上の意味もなければそれ以下でもないということである。共に飯を食らい、共に働き、共に一つの布団で寝る、その相手がどうしても徳治でなければ、あるいは美千でなければ、という特別な理由などなかった。「惚れた腫れた」など生活の足しにもならない、それが二人の言い分でもあった。

ねやの営みでさえ、徳治にとっては生活の一部に過ぎない。たっぷりなさけを注ぐと言うより、何が何でも子どもが欲しい、その一心で女房を抱くのだ。そのくせ異様なほどしつこい。女房が「眠たい」と言おうが、「疲れている」と言おうがお構いなしに挑みかかり、「子どもをおくれやす」と祈りながら粘っこく交わるのである。

時々、美千は激しい息づかいの下でこの男の本心を図りかねることがあった。

「うちの人は何を考えてんのやろ。」

徳治自身にもそれはせぬことであった。

おいは嫁はんと一緒になって何がしたかったんやろ。」

天井を見上げながら、徳治はいつもと同じように自問した。時々、天井に浮かぶ表情が徳治の心を射貫くような眼差しを向けて見えた。

徳治は一日、何をする気も起こらなかった。

「善ちゃん、阿呆やな。」

「富貴さん、可哀想やな。」

その言葉が何度も頭に浮かび、胸の奥に潜めていた不安が形を結んでいくような気がした。

夜がけて、寝床に就こうとする頃、戸を叩く者があった。

「こんな夜分に誰や。」

そう思って、戸を開けると立っていたのは善衛であった。

真っ赤な顔で呂律ろれつが回らず、足下あしもと覚束おぼつかない様子であった。それなのに、まだ呑むつもりなのか、酒瓶を一本右手にしっかり握りしめていた。徳治が下戸げこだと言うのを知りながら、それを相手に呑もうと言うのだから、余程どうにかしている。

善衛はすさんでいた。

気が短く、喧嘩っ早いところはあるが、徳治との間ではいさかいは元より、やけを起こして派手に立ち回る場面は一度たりとも見せたことがなかった。最初の女房が亡くなった時でさえ、善衛は夜通し泣き言を聞かせはしたが、いくら酒をあおってもその勢いで荒ぶる態度を見せることはなかった。

「上がれよ」とも言わないのに、善衛は草履を無造作に脱ぎ捨て部屋に上がり込むと、

「徳ちゃん、お前も呑め。」

と酒瓶を差し出した。その勢いに徳治も逆らうことができず、台所から湯飲みを二つ取って来て、酒をいだ。

善衛が呂律ろれつの回らない口で繰り返すのは、富貴のことばかりであった。これまで、惚気のろけ話を散々聞かせるほど惚れていた女房である。

大体が、前妻を病気で亡くしてから十年以上もの間、再婚もせずやもめを通した男だ。いかつい風貌とは裏腹に根が優しいのである。

「気立てのええヨメやったんや。」

「所帯持ちのええ女子おなごやった。」

「気がよう利いてな。」

「何があってもニコニコわろうてた。」

「床も上手やった。」

言わずとも良いことも含め、善衛はひとしきり富貴を褒めちぎった上、

「可哀想や。」

を何度も繰り返した。

それ程までに言うなら、何故、里に返した、徳治はそう言いたかった。だが、それを許さないのが村のしきたりであることも重々承知している。善衛はそれに忠実過ぎただけである。女房を思いやる優しさは、長老に歯向かうこともできない優しさでもあったのだ。徳治のようにのらりくらりと交わすことができれば良かったであろうに、善衛にはそれができない。善衛なりに思案し苦しんだに違いない。胸も痛んだだろう。痛んだ挙げ句、村のしきたりに平伏ひれふしたのだ。そんな善衛を徳治は責める気にはなれなかった。

「ヨメさんを寝取られるよりも辛いわ。」

善衛がぽつりと言った言葉が徳治の頭を揺さぶった。

かつて、村では他家の嫁を寝取った男が寝取られた男に刺されると言う事件があった。大事には至らなかったが、事はそう簡単には収まらなかった。不義の仲の二人は駆け落ちし、寝取った男の妻はそれを苦にして首を吊った。寝取られた男も居づらくなって村を離れた。善衛が言っているのはその事だが、それよりまだ始末が悪く辛いというのだ。

この話と富貴を里に返した話とでは引き合いにするにしても次元が違いすぎて比較にもならない。また、嫁を寝取られた者の気持ちなど、その本人でない限り知る由もなく、不適切である上に無責任である。善衛もそれは分かっている筈だ。分かっていて敢えて言うのは、無念な一心を吐露したいだけなのだ。それを思うと、善衛の言葉は徳治の耳をきりのように突き刺した。

富貴との間に子供ができなかったことを悔やんでいるのか、それとも「女」という一般呼称で実家に連れ戻された富貴に懺悔ざんげしているのか、あるいは、しきたりそのものを呪っているのか、善衛はむせび泣き、次第に声を張り上げ叫ぶようにくだを巻いた。

「し、し、声が大きい。」

徳治は必死に善衛をいさめた。美千にまでそんな話を聞かせたくないのである。しかし、いくらいさめたとて善衛にとりつく島は無く、一人で尚も泣いたりわめいたりし続けた。いやが上にも、その声は土間を挟んで向かいの部屋にまで届いた。

寝床にいる美千は、善衛が来た時からずっと二人の会話に耳をそばだてて聞いていた。否、耳栓をしていても通るような大きな声はわざわざ耳を澄ますまでも無かった。。

「次は自分の番か」

漠然と美千は考えた。五年、子供ができなかったくらいで里に追い返された富貴さんに比べ、こっちは十五年だ。何時いつ追い返されたとしても不思議ではない。徳治と同じことを考えた。

嫁いできてから、何人の「女」が里に帰されるのを見てきたことか。理不尽だと憤ったのは最初のうちだけだった。いくつもの例を目の当たりにしてくると、それもいつの間にか慣れっこになり、そういうものなのだと自然に受け入れるようになってきた。それからは、何時かそのうち自分にもお鉢が回ってくるのではと言う不安を抱えながら、時を経るにつれ、「どうなとなれ」という開き直った気持ちさえ出てきたのだ。だが、富貴の一件でその不安は胴身に染み一生と言わず何生分もの心配が込み上げてきた。

福田美千から森元美千に変わって十五年、この名字と名前の組合せにすっかり馴染んでしまったと言うのに、また福田姓に戻ることが何より不様ぶざまで口惜しい。「森元さん」と呼ばれて照れ臭かった頃と全く異なる意味と感情において、改めて「福田さん」と呼ばれることの気恥ずかしさは想像するだけでも鬱陶うっとうしい。

それにしても、よくもまあ、今まで、追い返されずに済んだものだ。あの徳治のどこにそんな器量があったというのだ。美千にはそこがどうも理解できない。

徳治は如何にも頭の古い男である。社交的で進取しんしゅ気性きしょうに富んだところもあるのだが、元来が意固地いこじなまでに保守的で守旧的な性格の持ち主である。その生来しょうらいの気質の上に垣内かいとの風土が相俟あいまって、徳治は、前近代的な尺度でしか物事を捉えたり考えたりしかできない。男女同権などという思想など、この男には片鱗も見られない。

そんな男が、

「子がでけんのはどっちの責任でもあらへん。運がないだけや。」

と物わかりの良いことを言う。

子のできぬ責任を女房一人に押し付け、散々、悪態をついたりする者もあるというのに、徳治は子のできぬ美千をなじったこともなければ、捨て鉢な言い方をしたこともない。何故なにゆえ、女だけが重荷を背負わねばならぬのだと、封建的な男らしからぬ考えを持っているのだ。

鷹揚と言うよりあかんたれの気性のせいかも知れない。あかんたれとは、この辺りで気弱で引っ込み思案を言うが、慈悲のある優しい心を指して言ったりもする。徳治はそういうあかんたれの部分があるのだろう。

そのあかんたれが、「里返し」に極まる子孫繁栄のしきたりにはどうにも納得がいかず敢えてくみしない、ということなのだろうが、美千にはそれが当然にも見えつつ、違和感を覚えもするのである。

徳治なりの大義なのか、それとも優しさなのか、あるいは只のなりゆきなのか、子を産めぬまま十五年経つ女房を残しておく本当のところを覗いて見たかった。如何に理不尽であったとしても村にとっての鉄の規律によって定められたような「里返し」のしきたりに逆らう夫の心のひだには何が隠されているの、それが知りたかった。

美千は土間を通して聞こえてくる二人の会話から、徳治の本心をいささかでも探ることができないかと耳を澄ませていた。だが美千を気遣いながら、辛抱強く酔っ払いの相手を続ける徳治の言葉からはそのようなものを汲み取ることはできなかった。漏れ聞く言葉の様子から、善衛につき合わされて、珍しく酒をあおる徳治は、既に酩酊している様子であるが、うっかり口を滑らすようなことはなかった。なかなか本心を見せぬ男である。

徳治と善衛は何時いつ尽きるともなく話し続けた。最早、会話とは言えず、銘々が勝手に喋っているだけだが、よく飽きもしないものだと美千は感心した。その間にも柱時計はボーン、ボーンと何度も時をらせた。日付はとっくに変わってしまっていた。

何時いつまで話すつもりやろ。」

呆れながら同じように何時いつまでも耳を傾ける美千にも呆れる。

壁や窓を通して冷えた空気が忍び込んできて、布団を被っていても堪えられないほど、一段と冷え込みが厳しくなってきた。美千は華奢きゃしゃな身体を震わせ、ますます目が覚めるばかりだった。

同じ話を何度も繰り返す善衛は、時々、むせび泣き、嗚咽おえつまで漏らすのが聞こえてきた。

だが、美千は同情しなかった。可哀想なのは善衛より富貴の方だ。

戸外の様子が段々怪しくなってきた。木枯らしが表戸や雨戸をガタガタ打ち鳴らす音が不気味で心細い。この寒さの中で、富貴は今、何を思うのだろう。美千はふと気になった。

表の細い路地を木枯らしが渦を巻きながら通り過ぎる音がおぞましく響き、それが一層激しくなった頃、ようやく善衛も帰る決心がつき、重い腰を上げた。

「送ろか。」

呂律ろれつが回らぬ声で徳治が言うのが聞こえた。

「いいや、わし一人で帰る。」

余程、善衛の方がしっかりして聞こえる。

徳治が善衛を送ったとしても、その覚束おぼつかない足取りが不安になった善衛は今度は自分が徳治を「送ろう」と言い出し、送ったり送られたりの繰り返しでいつまで経っても切りがない。そんな様子を美千は想像して可笑しかった。

「徳ちゃん、遅うまで邪魔して悪かったな。ほんだら、お休み。」

善衛が帰った後、徳治は卓袱台の上をそのままにしておいて、向かいの部屋に入り、布団に忍び込んだ。美千に身体を寄せ、呂律の回らぬ口でつぶやいた。

「ぜ、善の奴ぁ、あ、阿呆や。たった五年で諦めてヨメはんを帰してしまいよった。底抜けのあ、あ、阿呆や。阿呆は死んでも治らんわ。」

幼馴染おさななじみをし様に言うやり切れない気分に夫の優しさが滲み出ているように思えた。美千はほんの僅か夫を愛おしく思った。

「あんた。」

そう言って美千は徳治の足に自分の足を絡ませた。冷たくなった足下を自分の体温で温めてやるつもりだった。

「な、何や、起きとったんかいな。」

「あんな大っきな声で喋っとったら、嫌でも聞こえますがな。」

「せ、せやな、す、すまなんだ。」

詫びてから、

「ぜ、善のや、奴は、ほ、ほんまに阿呆や。」

呂律の回らぬ口で繰り返し、

「お、俺はちゃうぞ。ヨ、ヨメはんえたから、え、ええうもんや、な、ないわい、そ、そんな、か、か、簡単に子供が、で、でける訳なんか、あ、あるかい。あ、あきら、諦めへんど。ど、ど、どないしても、こ、こ、子供こさえたるわい。」

どもりながらであるが、強い語調で言った。

そうして、美千の上に覆い被さり、寒さで震える身体をはだけさした。

何故か悔しさが込み上げてきて、徳治は力任せに美千を抱いた。まるで親の仇を取るように、徳治は、激しくそして執拗しつように絡んだ。先程まで寒さに震えていた美千の身体にじっとり汗がにじみ出していた。

「この男は、余程、好色なんや」

仁王のような形相で激しく揺れる肩越しにぼんやり天井を眺めながら美千は思った。

泥に埋まる根っこのように絡み合った身体を引き離すと、徳治は暫くして、

「なあ、あ、明日あした、ちょ、長暦寺ちょうりゃくじはんに参ってみいひんか。」

うつらうつらし始めた美千に訊いた。酒臭い息と共に吐き出された言葉が、本気なのか、それとも酔いに任せた戯言ざれごとなのか、美千は戸惑い、まどろみの中で「うん」とも「いや」とも返事をしかねていた。そのうち、言いっ放しにしたまま、徳治は気楽に大きないびきをかき始めた。何時いつものこととは言え、その無責任さが美千は少しかんさわった。

「まだ、諦めんつもりなんやろか、この人は。」

頬をつねってやりたい気持ちだった。

ヒューヒューと表で渦を巻く木枯らしの音が、忘れかけていた肌寒さを思い起こさせた。汗ばんだ美千の背中に悪寒おかんが走り、思わず夫の身体に肌を擦り寄せた。雨戸を揺らす木枯らしに混じって、屋根を踏み荒らす音も加わり出した。どうやらひょうでも降ってきたらしい。隣で鼾をかいている夫を恨めしく思いながら、美千は次第に心細くなってきた。屋根を打ち付ける雹の音は激しさを増し太鼓のようにも聞こえた。ときの声にも似て、心がざわつき、美千は不安でなかなか寝付けなかった。それに加え、「長暦寺はんに参ってみいひんか。」と言った夫の言葉がずっと気になって仕方がなかった。まるで、喉に刺さった小骨のように、美千の心を突き刺したまま離れず、眠れぬまま時を過ごした。美千が眠りに就いたのは夜中の二時を過ぎた頃だった。

庭の木々が激しく揺れる音で美千は目が覚めた。どうやら雹は止んだらしいが、風は昨晩より一層強くなったようである。外で悲鳴を上げる甲高い音は冷たく耳に響き、そのまま寂寞せきばくの色を連想させる。美千は重苦しい色で塗りつぶされた空を想像して憂鬱になった。

さらに憂鬱なことは、昨日きのう一昨日おとといよりさらに寒さが増し、布団に入っていても凍えそうに感じることである。剥き出しになった額や頬にまで霜が降りてしまいそうなとてつもない寒さである。

裏のとり小屋からはときを告げる声もまだ聞こえてこない。六羽の雌鶏に混じってたった一羽いる雄鶏の仕事と言えば、それだけなのだが、今朝はそれさえも怠っているのだ。雌鶏は雌鶏で、きっと卵を産んでいないに違いない。一昨日、昨日もそうだった。この冷え込みでは流石に億劫になるのだろう。美千もまた鶏小屋まで、薄氷うすごおりの張った地面を踏みしめながら、卵を確かめに行くのは億劫であった。

布団を口元まで引き上げ、美千はそんなことを考え、起き上がるのを躊躇ためらい、怠惰な時間を過ごした。

夕べ洗った髪がすっかり冷え切って、複雑に絡み合っているのが美千には気になってならなかった。元より剛毛につき、子供の頃より櫛通りの悪いのが悩みの種で、いつも髪をくのに往生するのだが、今朝は尚更である。頭に手をやり、ほとほと気が滅入った。

「これやから冬は嫌いだ。」

忌々しげに美千は呟いた。だが、美千の本当の憂鬱はそれではない。

夕べ夫が発した言葉が未だに頭にこびりついて離れないのだ。

然るに当の本人はそんなことなど一向にお構いなしの様子で口を開けて呆けたように眠っている。暗がりの中でかすかに覗かせた表情はすこぶる穏やかで、その暢気のんきさが羨ましく、また腹立たしく思えた。鼻をつまんで起こしてやるか、美千はそんな意地の悪い気持ちにもなったが、「しゃあない人やな。」と片付けて、却って可笑しな気持ちになった。

「長暦寺はんに参ってみいひんか。」

その言葉が耳の奥で唸っていた。

長暦寺は家から四キロほどの距離にある願掛け寺である。商売繁盛、無病息災、家内安全、交通安全、ありとあらゆる御利益ごりやくを掲げる、何とも万能な仏さんなのである。それとも寺僧らが欲深く、より多くの参拝者を当て込んで、何でもかでも御利益を仏さんに被せただけなのかも知れない。何れにしても美千は御利益そのものに関心がない。

そもそも、森元の家は神道であり、仏門とは縁がないのだから、長暦寺に参ること自体が間違っている。一度、そのことを徳治に具申ぐしんしたことがあったが、

「日本は昔から神仏習合しんぶつしゅうごうや」

と理由にならない答えを返され馬鹿らしくなって、それ以来、逆らうのをやめた。

但し、これだけはたださねばならぬと常々感じていることがある。長暦寺の仏さんは万能そうに見えても、沢山ある御利益の中に欠けたものがいくつかある。「子授け」の御利益もその一つだ。寺のどこを探しても、それが目に触れることなどまずない。恐らく、徳治は「安産祈願」と「子授け祈願」とを混同しているのであろう。しかし、その二つはそもそもの趣旨が違う。「安産祈願」は妊婦が出産の無事を願うものであり、不妊の女が子を授けてくれと願うものでは決してない。

長暦寺の僧籍そうせきらが賢明なところは、何にでも御利益があるように装いながら、可能性が薄いものについては初めから除いてあるということだ。「商売繁盛」も「無病息災」も「家内安全」も「交通安全」も、それに「安産」にしても、絶対に無理なものでは決してない。それはがんを掛ける者の捉え方次第なのである。十円でも儲けが多ければ商売繁盛、風邪を引いてもこじらせさえしなければ辛うじて無病息災、喧嘩が絶えなくとも寝食を共にさえしておればまずは家内安全、交通事故など滅多に起こることでもないから大抵は安全、産みの苦しみは妊婦なら誰にもあることであり無事に産まれさえすれば安産、医者か産婆が「思ったより安産でしたね。」と言いさえすればそれで済むのだ。とどのつまりは、わざわざ神仏にすがるまでもなく普通に出来ることを勿体つけて掲げておくのが御利益というものなのだ、と美千は思っている。

「不老不死」を御利益に掲げる神社仏閣など全国のどこを探しても見当たるまい。有り得ないことに願を掛けるのは参拝者の勝手であるが、それに責任を持たされるのは寺や神社にとって迷惑なことである。「子授け」も同じだ。「商売繁盛」のように儲かったとも言えるし、儲からなかったとも言えるし、というような中途半端な判断は「子授け祈願」に通用しないのである。

稀に「子授け」を御利益に掲げる神社仏閣もがあるようだが、長暦寺の僧籍そうせきらは恐らく「大胆なことをしよるのう。」と冷ややかに見ているに違いない。

美千はそんな風に考え、早くから長暦寺のこの絡繰からくりに気付いており、

「ここは子授け寺やあらへんで」

と何度も意見するのだが、徳治にはそれを聞き入れる様子が微塵みじんもない。懲りもせず、夫婦でお参りし

「子宝を恵んでおくれやっしゃあ。」

と祈り、妻にも強要するのである。美千はそれが面倒でならない。

美千は教養こそ乏しいものの実に聡明な女子おなごである。

長暦寺に対する当てこすりのつもりではないが、現世利益げんせりやくなどと言うのは仏の道にはずれているのではないかと美千は考えている。美千が知る仏の教えとは、人がこの世で生涯を終えた後、御仏みほとけが浄土へお導き下さるということであり、御利益などと言うものは御仏とは無縁で、かような世俗の仕業しぎょうを御仏に委ねることは無礼極まりないことだと言える。美千は仏を信用しないのでは無く、仏に御利益を求めることを躊躇ためらっているのだ。長暦寺に参って子授けを祈願するなどおこがましいにも程があるとして美千は気が進まないのである。

ともあれ、徳治が「長暦寺」の名前を口にしたのは何時以来だろう。富貴の一件があったから出し抜けに言ったのだろうが、一体、どういうつもりだったのだろう。酔いの上の戯言ざれごとだったのか、それとも寝言だったのか。朝になっても、美千は思い悩んでいた。寒さにふるえなかなか布団から抜け出せずにいる美千の頭でそれは堂々巡りしていた。

ボーン、ボーン、思い悩む美千の頭の上で、柱時計が六つ時を数えた。

「これ以上愚図愚図ぐずぐずはでけんな。」

時計が鳴り止むと同時に、美千は思い切って体を起こした。その気配も感じぬのか、徳治はぐっすり寝入っていた。夕べの酒が余程、こたえたのだろう。深い眠りの底にいて気持ち良さそうに寝息を立てている徳治にさわらぬよう、美千はそっと掛け布団をまくり上げた。

布団から出ると四つん這いになり、部屋の隅にある行燈あんどんのところまで行き、その辺りを手探りした。マッチを手に取り行燈に火を点すと、仄かに部屋が明るくなった。

美千はこれまで幾度、

「電灯を付けてくれろ。」

と徳治にせがんだことか。だが、

「どうせ、寝るだけの部屋やないか。」

徳治はそう言って頑として受け容れてくれはしなかった。それをいつも不服に思うのだが、仄暗いと言うべきか仄明るいと言うべきか、行燈のやわらかな灯りが千々(ちぢ)に乱れる美千の心を優しく撫でるような気がした。

行燈の灯りに照らされ、徳治の寝顔が暗がりの中でぼんやりと浮かんだ。子供のようなとてもあどけない寝顔である。四つん這いのまま、美千は側に寄って見下ろすと、

「良う寝てらっしゃるわ。」

と呟いた。口元からよだれまで垂らしてだらしない夫が美千には少し可愛く思えた。美千が嫌がるような点が徳治にはいくらでもあるのだが、こういうやんちゃ坊主のような可愛らしさがあるから決して憎くは思えない。それに嫌な点を探し出せば切りがなくなりそうだから努めて気にせぬようにしている。

妙に理屈っぽいくせにいい加減であり、几帳面なのかずぼらなのかも分からない、勤勉かと思えば平気で仕事をほっぽり出して遊びに出かける。

「他のひとやったらとっくに見捨てたはるわ。」

そんなことを思ってみたりもするが、結局は放っておけないのである。

黴臭かびくさい考えで男尊女卑を平然と振りかざす割には、亭主関白然として尊大に振る舞ったり、癇癪かんしゃくを起こして当たり散らしたことは一度もなかった。まして女房に手を上げるような姿は想像さえできない。お調子者で、みっともないほどにおしゃべりな徳治は子供のまま大きくなったような男であり、それ故、これまで添うてきたのだ。だらしない寝顔を見ながら、美千は、「しゃあない人やな。」と呟き、可笑しさが込み上げてきた。

「うちらに子供がおったらな。」

封印していた言葉が一瞬疾風はやてのように美千の脳裏をかすめていった。だが、すぐさま考えをひるがえし、

「子どもがいたらどうやと言うんや。」

美千は自分に問うた。そして、子どものことを気に掛けているのは徳治より寧ろ自分の方ではあるまいかと疑った。

「そろそろけじめをつけんといかんのかもな。」

そう思うと、少し身が軽くなった気がした。美千は己の中に一つの決断を下すことにした。

早速、ふすまを開け隣の部屋に入り、嫁入り道具に一竿いっかんだけ持って来た小さな箪笥たんす抽斗ひきだしの底にしまっておいた余所よそ行きの着物と帯を出して寝床の横に並べた。

徳治は相変わらずよく眠っている。美千がごそごそと動くのも気付かぬ様子である。

この時間は、夏場なら、とっくに野良仕事に出かけひと汗かいている頃だ。否、冬は冬でまた、徳治は何かと落ち着かぬたちである。早朝から納屋を片付けたり、かまどの灰を除いたり、用もないのに裏の畑に行ったりじっとしてはおられぬのだ。

その徳治が昨夜の飲酒が余程、たたったのだろう。一向に目覚める気配がない。まあ、それも良かろう、たまにはゆっくり寝させておくか、その方が自分の方もはかどる、滅多に罰が当たることもあるまい、そう自分に言い聞かせて、美千は自分の仕事に取りかかった。

徳治の丹前を拝借して羽織ると、美千は裏庭の鶏小屋に向かった。卵はともかく、餌をやらぬ訳にはいかない。一日くらいサボったところで死にはしないが、そういう甘い考えは止めておこうと思った。

木枯らしは少し収まってはいたが、外の空気はいつになくひんやりし、触れた途端、素肌が凍えるようだった。庭に張った薄氷を踏みしめながら、そろそろと鶏小屋まで行くと、案の定、卵を産んだ気配はなかった。美千の影を認めると、鶏の群れは一斉にく、く、く、く、と唸り声をあげ、首を上下に振りながら美千の元に寄ってきた。餌箱に餌を入れると鶏たちはせわしげについばんだ。こんな寒さの中でも、食欲だけは衰えぬのだな、と美千は感心した。

それが済むと、今度は表に回り、木枯らしに吹き散らされた木の枝葉やちり竹箒たけぼうきで掃いた。腰をかがめると丹前の隙間から冷え切った空気が忍び込み、全身の体温を奪って行くようだった。さっさと掃除を済ませ、美千は急いで家の中に入った。かまどの火をおこし、薬罐やかんをかけ、焚き口に手をかざした。美千は、かざした手を懸命に擦り合わせ、冷えた指先を温めた。赤々と燃える薪を眺めているとそれだけで身体が温まる気がした。薬罐の注ぎ口から噴き出す湯気が 天井を這い家中に広がるにつれ、僅かずつだが暖まってくるのを感じた。

さて朝ご飯は、何にしよう。夕べの残り飯に茶懸けで良いか。夕べの煮染めの残りをおかずにしてあとは梅干しがあれば十分か。美千は矢継ぎ早に考えを巡らせ準備にかかった。

朝ご飯の支度が整うと、美千は寝間にいる徳治に声を掛けた。だが、何の反応もない。もうすぐ七時になろうというのにまだ惰眠をむさぼっているようだ。こうなるくらいなら飲まなければ良かったのに、美千は呆れた。何度呼んでも起きる気配のない夫にしびれを切らした美千は寝間に入り、いびきをかいて気持ちよさそうにしている徳治の体を揺り動かし、

「あんた、何時まで寝てんの。」

耳元で声を張り上げた。

その声に驚き、徳治はピクリと肩を動かし目覚めたが、美千と目が合うと安心し、

「ああ、あー。」

暢気のんき大欠伸おおあくびをした。徳治はまだ夢の中にいるようだった。余程、景気の良い夢でも見たのか、重そうなまぶたをしばたたかせながら口元はゆるんでいた。

「ほれ、朝やで。うてる間に七時になるで。」

そう言われても、徳治は億劫そうに上半身を起こすだけで、そのまま胡座あぐらをかいて項垂うなだれうつらうつらした。夕べの酒の痕跡が白目に堪って真っ赤になっていた。

美千は、借りていた丹前を徳治の背中に掛け、

「さ、さ、早よう起きてご飯食べてき。」

と言った。

「あ、ああ、もうそないな時間か。」

「せやから、もうすぐ七時やて言うたやろ。」

丁度、その時、柱時計がボーンボーンと鳴った。

「ほら、もう七時になってしもうたやない。」

「ああ、ほんまやな。」

卓袱台ちゃぶだいに用意したるから、早う食べといで。」

「わ、分かった。ほんだら食べよか。」

「わては後で食べるさかい、先に食べといて。」

「一緒に食べへんのかいな。」

「ええ、わては用意がありまっから、それ済ませてからにしますわ。」

普段、人の言葉に敏感な筈が「何の用意や」などと問い質したりもせず、

「そうか。」

と言うだけで、のらりくらりと丹前に袖を通し、おもむろに立ち上がると、よろめく足で朝飯あさはんを食べに部屋を移った。徳治が食べている間に美千は雨戸を開け放ち、布団を上げ、ほうきで寝間を掃いた。そして、先程、箪笥から出した着物を手にして鏡台のある奥の間に移った。

着物に着替えた美千が朝飯あさはんを食べに行くと、徳治は卓袱台ちゃぶだいを前にぼんやり座っているだけだった。米びつから茶碗に飯をよそうだけなのにそれさえもせず、眠たそうな顔をしたままゆらゆら身体を揺らせていた。徳治の膝の横には空になった酒瓶や湯飲みが昨夜のまま転がっていた。美千は呆れ顔でだるそうなその様子を見下ろし、徳治と向かい合わせに腰を下ろした。卓袱台においた米びつを自分の元に寄せ、二人の茶碗にそれぞれご飯をよそい茶を掛けた。

「あんた、ご飯よそたで。今朝はお茶漬けや。早う食べ。」

「お、おう。ほな、いただくわ。」

徳治はまだぼんやりした表情で茶碗と箸を手に取った。茶碗を口に付け、そのまま流し込むように箸でご飯を掻き出そうとしたその時、いつもと違う美千の様子に徳治はようやく気付いた。余所行きの着物の華やかな柄が徳治の目に飛び込み、ぼんやりした頭は否応もなしに覚まされた。

「なんや、その格好は。どっか行くんか。」

「何をとぼけたことうてますの。長暦寺はん行こて言い出したんはあんただっせ。」

そう言われても徳治にはその覚えが全くない。

何時いつ、そんなこと言うたんや。」

「阿呆らし、寝る前に言わはりましたがな。」

「ほんまかいな。」

「ほんまだす。」

「覚えあらへんなあ。」

徳治は茶碗を持ったまま、箸を動かすのも忘れ、考え込んだ。

「うーん、全く覚えあらへん。」

昨夜、善衛が来たことさえ忘れているのではないか、美千はそんな気がして、その後、寝床に入って言ったことなど覚えている筈もなく、いくら説明したところで無駄だと判断し、痺れを切らしたように言った。

「そんなこと、もうどうでも宜しいわ。早う、支度しなはれ。わての方はもう行くまわりできてまっからな。あ、そう茶椀は帰ってから片付けるさかい。それに、あんたの横にある酒瓶とい湯飲みも流しに置いといてくれたらええから。それより早よ食べて、まわりしなはれ。」

かした。

徳治はまだ合点がいかぬ顔をしながら、

「天気は大丈夫なんか。」

と言った。

自分から言い出したくせに、その記憶がないものだから、天気を口実に行かないつもりなのだろう、美千は夫の胸の内をそう読み、

「ああ、よんべの風もひょうももう収まっとるわ。」

と事も無げに言い放った。折角、自分がその気になっているのにうだうだと御託を並べようとする夫に美千は苛立っていた。

「あんた、ちゃっちゃとせなんだら放っときまっせ。」

そう言われては、徳治も顔がない。

「分かった、分かった。すぐまわりする。」

二人は急いで朝飯あさはんを掻き込んだ。

朝飯を食べ終えると、徳治は背広に着替えた。その間もまだ夕べの事を思い出していた。

酩酊した状態の善衛が家に転がり込んで来て、泣き言を並べた記憶はある。「富貴」「富貴」と里に返した嫁の名前を、涙ながらに何度も呼んだことも耳の奥にこびりついている。だが、何を話したかはおぼろであり、後の方になると曖昧と言うよりもほぼ記憶がない。善衛が何時いつ帰ったか、またその後どうしたかも全く覚えはなく、まして長暦寺にまいろうと女房に誘いをかけたなど、今となっては思いも寄らぬのである。果たして本当にそんなことを言ったのか、その理由も意図も自分自身、理解できないのである。

それにもまして、普段、「長暦寺」と聞くだけでえない表情を浮かべる女房が、乗り気にさえ見えるのが、徳治には理解できないでいた。

「あんたあ、もう支度はでけましたんかいな。」

既に玄関に立って待っている美千が声を張り上げて、徳治を呼んだ。

「おう、すまん、すまん、すぐ行く。」

徳治は急いで玄関に出て、靴を履いた。

「あんた、どうせまた、バス代けちって、歩いて行こ言わはるんやろ。」

皮肉っぽく言ったつもりだったが、鈍感な徳治にそれは通じなかった。

「せやのう、一里くらいは大したことあらへん。健康のために歩こやないか。」

徳治は、昨今、巷で流行っている『健康』という言葉を用い、すました顔で言った。その言葉で、バス代が惜しいという本心を押し隠し、バスを使わぬことを合理化しようとするあざとさが気に入らなかったが、美千は刃向かいもせず、徳治の言うように歩いて行くことにした。

「へいへい、それやったらさっさと歩いて行きまひょか。」

表も裏も戸締まりしたのを確かめ、揃って家を出た。

長暦寺までの四キロもの道のりは大半が坂である。着物姿に草履という美千の出で立ちは如何にも歩き辛い。美千が長暦寺参りをいとうのも、理由のひとつはそこにあった。

明け方まで凄まじかった木枯らしは止んだが、肌に触れる空気は尚も冷たく重い。冷頬は締め付けられ声を発することもままならない。普段、口数の多い徳治も口元の筋肉が硬直して何も言えず、押し黙るほかなかった。

手足に至ってはさらにひどい。

二人とも、手袋もめずき出しになった手が真っ赤に腫れ上がり、指先の感覚は麻痺していた。両手をこすり合わせたくらいではどうにもならないのだ。

膝から下はまるで他人のもののようで、歩いているという実感が乏しい。

革靴の徳治はまだしも、草履の美千はいくら足袋を重ね履きしたところで、霜が立った地面の冷たさが草履の底から伝わり、凍える爪先の痛痒いたがゆさはこらえようもなかった。

「こない寒うなるんやったら、なんだら良かった。」

そんなことも頭にはちらついたが、美千は踏ん張った。泣き言は喉の奥に引っ込め、何食わぬ顔で歩こうと努めた。いつもとは違う美千の様子を徳治はいぶかしんだ。

「富貴はんが里に返されたのが、余程、こたえたんやろか。」

徳治は美千の心を推し量った。

富貴の二の舞にはなりたくない、その思いが、「長暦寺はん」に願を掛ける決心をさせるように仕向けたのではないか、そのように理解した。

手足の感覚が乏しくなるのとは裏腹に、冷えた空気は昨夜の酒でドロドロに淀んだ徳治の頭は澄み渡らせていった。断片的であるが、善衛の吐いた言葉がひとつひとつ頭に浮かび、それにつれ、憐れなほど純真な善衛の気持ちが痛いほど胸に染みた。

恐らく、美千も同じことを考えているに違いない。徳治はそう思ったが、願を掛けに行こうとしている時に、そんな話をするのもげんの悪いことだと言わぬことにした。

会話するのも面倒に思えるほどの寒さの中、二人は巡礼のように黙々と只ひたすら歩いた。一約時間半かけて四キロの道のりを歩き、ようやく長暦寺に辿り着いた。

山門をくぐり抜けると、すぐ目の前につづら折りに長く延びた石段が現れた。延びると言うよりもそびえると形容した方が良さそうな石段であり、それ自体がこの寺の重要な造形物であった。一体、最上段まで何段あるのだろう。数えたことは無いが、頂上のお堂など途中の石段の屋根に隠れてふもとからはその一部さえ見通すことができない。何か途轍とてつもなく長い石段に思え、一気に上り切ってしまおうと奮い立つ気持ちなど初めから失せてしまうのである。

凍える寒さの中を歩いて来て、ほとほと疲れていた。少し休んでからにしよう、徳治はそう思い、石段の脇に置かれたベンチに目をやった。

「おい」

亭主関白面をして、女房を呼びつけ、

「ちょいの、一服してから行かんか。」

徳治は言った。

しかし、美千は応じず、それどころか、その言葉を払い除けるように、

「一遍、腰下ろしたら、面倒臭めんどくさなる。このまんま上っていくわ。休みたかったら、あんた一人休んどきなはれ。あとで追いかけてきたら宜しいがな。」

と言った。

「どないなっとるんや。」

首をかしげる徳治の前を、美千はさっさと過ぎ、石段を上り始めた。

「さよか。ほんだら、そうしょうか。」

徳治も仕方なく休憩するのを諦め、続いて上るよりほかなかった。徳治は数歩、自分の前を行く美千の足取りが軽く見え、意外に健脚であるのに驚いた。段差は小さいが、各段に傾斜があり、まるで坂を登っていくようなものである。それを事も無げに上っていく女房の姿が山野を巡る野鹿のようにも思えた。アルコールの抜けきっていない身体は重石おもしを抱えたように鈍重で、徳治は先を行く美千の背を羨ましく眺めながら一段一段足を運ぶのに難渋した。

石段の両脇にたくさんの山茶花さざんかが満開に咲き誇るのが見えてきた。同じ色の花ばかりをまとめて植えてあるので、美千は、赤の檀の次は、白の檀、その次は薄紅色の檀、と目印にして上った。

薄紅色の檀を過ぎると、間もなく最上段である。その頃になって、後れを取っていた徳治が俄然、元気を取り戻し、足を速め美千に追いつき、やがてその脇をすり抜けるようにして前に進んだ。「先に行く」と声を掛けるでもなく無愛想に追い抜いていく夫のことなど気にも止めず、美千は相変わらず自分なりの速度で一段一段丁寧に石段を上った。

美千が石段を上りきると徳治は腕組みをし、まるで勝ち誇ったように仁王立ちして待っていた。先程までへたばっていた癖に得意気な顔をして

「とろいのう。」

と吐き捨てるように言うのも、普段なら気に入らない筈の美千だが、別に気にも掛けなかった。「相変わらずやな。」と腹で笑い、

「へいへい、すんまへん。」

と軽くあしらった。

徳治の横に並ぶと美千は

「ほな、参らして貰いまひょ。」

と言って、揃ってお堂の前に立った。

徳治は懐から財布を抜き、五円銭を取り出し賽銭箱に投げ入れた。五円はご縁に通じると言うのは徳治の口癖だが、それは吝嗇家りんしょくかの自分に対する言い訳でしかない。尤も、苦しい家計においてはその五円でさえ貴重であり、徳治にすれば身を切る思いで奮発したつもりである。

徳治はいつもの癖で柏手かしわでを打ち、手を合わせた。仏教の作法くらいは徳治も心得ているつもりだが、手を合わせる前に、つい、叩いてしまうのである。

「ここは神さんやおまへんで。」

以前ならそう言ってたしなめた美千も、いくら言っても治らぬので、この頃は諦めて何も言わずにおくことにしている。幸い、二人の他、周りには誰もいないので、気を使う必要もない。

はよう子供を授けとくんなはれ」

徳治はいつもと同じ台詞を口にし、仏様に願を掛けた。それから暫くぶつぶつ口ごもりながら何かを唱えているようだったが、美千にはよく聞き取れないでいた。

その姿を横目で見ながら、美千も手を合わせた。

願掛けなどというものに興味もなく、また頼る気のない美千は、徳治に申し訳ないと思いながらも、「子を授けて欲しい」と願う代わりに日頃の感謝を胸の内で表した。

「いつも健康で暮らさせてくれはって、ホンマに感謝しとります。」

それは美千が長暦寺に参る度にいつも繰り返してきたことであるが、この度はいつもと違っていた。美千は徳治と沿うてからの十五年余を振り返り、その年数の分だけ積み重ねてきた日々の暮らしに感謝し、御仏に祈りを捧げた。

「今までホンマにおおきにさんでした。もうよう来んようになるかと思いますけど、これからもよろしゅうお頼み申し上げます。うちの人のことも見守ってやっとくれやす。」

美千は心でそう呟き、深々と頭を下げた。顔を上げると、徳治はまだ何やらぶつぶつ唱えているところであった。いつもより念を入れて拝んでいる様子が、美千には少し憐れに思えた。美千は後ずさりして、徳治が拝み終えるのを待った。

頭を下げる夫の背中を見ていると、一張羅いっちょうらのスーツの襟にほころびがあるのが目に止まった。にわかに愛おしさが込み上げ、美千はその肩を抱きしめたくなった。

「あんた。」

思わず叫びそうになった時、拝礼を終えた徳治は美千に向き直り、にんまりと笑った。

「今日はたっぷり拝んどいたど。仏はんもちゃんとおいの願い聞き届けてくれはる筈や。今度こそ、間違いあらへん。きっと、子どもを授けてくれはる。きっとや。な、おまんもちゃんとお願いしたんか。」

これまで何度同じことを繰り返し、その願いが空しいまま過ごして来たか。それを忘れてはいるまいに、何の根拠があって、それほど自信たっぷりに言えるのか、美千は不思議でならなかった。しかし、そんな徳治が憐れにも見え美千は軽く肯いた。美千は嘘をついた。嘘をつく自分が嫌な人間に思え、申し訳ない気持ちになった。

「ほんだら、帰ろか。」

徳治は言うと、さっさと下りて行った。美千は苦労して上ってきた石段を下りるのが少し惜しい気がした。惜しいと言うよりも、下りてしまえば、これでもう最後と思うと寂寞の思いが込み上げてきて、美千はもう一度お堂を振り返り深々と頭を下げた。そんな美千の気持ちなどつゆ知らず、徳治は一人でどんどん下りて行った。

下りは上りより尚辛かった。

地球の重力は自分が思っている以上に強力で、しっかり身体を支えなければ今にも転がり落ちてしまいそうで、美千は足腰を踏ん張り、一段一段、来た時以上に確実に踏みしめながら下りるようにした。しかし、身体面以上に精神面の方が美千には重くのしかかって、どれほど慎重に歩いたとしても、足取りを阻まれるようで辛くて悲しかった。

長い石段を下り山門を出ると、二人は立ち止まり振り返って見えなくなったお堂の方角に向かって拝礼した。

門前町の商店街は、ひっそりとしていた。昔に比べ減ったとは言え、縁日えんびに関わりなく参拝者が行き交う門前も、悪天候のせいで人足が途絶えたようである。それを見越してのことか暖簾のれんを掲げる店も今日は少ない。人通りもなければ開いた店もない閑散とした通りを歩いていると、いつしか天候は吹雪に変わり大粒の雪が縦横無尽に飛び散ってきた。

「ううっ、っぶ。」

徳治は、身体を震わせた。

まるで身体からだ雁字搦がんじがらめにするように四方八方から雪が吹き付け徳治と美千を苦しめた。剥き出しになった手は真っ赤にれ、息を吹きかけ両の手をこすり合わせてみたところで幾らの足しにもならなかった。ゴム底の靴を履いた徳治に比べ、白足袋に下駄履きの美千は尚、気の毒であった。普段の美千なら、ここで夫に愚痴をこごし辛く当たるところだが、健気けなげにも何も言わず大人しく歩いていた。

暫くすると、数十メートル先に、暖簾のれんが風にあおられてはためいているのが目に入った。

「こんな日でもちゃんといとる店もあるんや。」

徳治は聞こえよがしに言うと、

「どや、そこの食堂にでも入ろか。」

と美千を促すように言った。

「どないしたん。珍しいこともあるもんやな。えらい気前のええこと。」

これまで数えるほどしか外食に誘ってくれたことのない徳治がどういう風の吹き回しだろうと美千はいぶかしんだ。別に皮肉を込めて言ったつもりではなかったが、徳治にはそう聞こえたのだろう。

「阿呆ぉ、おいかていつもケチってばかりおるわけやないわい。」

苦笑いする徳治の顔には照れ臭さが混じっているようだった。

「寒うてたまらんさかい、なんぞ食って行こうか思うたんや。ちょつと、だんを取った方がええやろ。」

「そうでんな。そうしまひょ。けど、あんた、お金大丈夫でっか。」

「心配しな。めし食うくらいの金は持っとるわ。」

「そうでっか。それやったら、よろしいわ。」

懐具合ふところぐあいに心配を掛けながら、それどころでないこの寒さに美千は、

「ほな、そうしまひょ。」

と言って、徳治に従った。吹雪が激しく舞い容赦なく襲うこの寒さは美千の華奢きゃしゃな身体には毒であった。一刻も早くそこから逃れたい、その一心であった。二人は共に足取りを速め、吹雪に煽られた暖簾を目がけて一目散に進んだ。向かい風に煽られ着物の裾がまくれ上がるのも気に掛けている場合ではなかった。

「今朝な、目ぇ醒める前や。せやな、丁度、お前に起こされる前くらいやったんかいなあ。弁天さんやったんか観音さんやったんか、どっちか分からんけど、わしの夢枕に立たはったんや。」

徳治はまたおかしなことを言い出した。

弁財天と観音、宗旨の違う二つをどう折り合いを付けて話すつもりか知らないが、美千にはどうでも良さそうな話に思われた。

「ほんでな、俺らに嬰児ややを呉れたる、そう言わはったんや。」

またその話か、美千はこれまで何度も似た話を聞かされ、いい加減うんざりしていた。

「その弁天さんか観音さんは、大和言葉やまとことばを喋らはりまんのかいな。」

からかい気味に美千は言った。

「おおよ。おいらが分かりやすいようにと思うてこの辺の言葉で話してれはるんやろ。」

「そうでっか。都合のえことでんな。」

「せやな。相手がアメリカさんやったら、エンゲリッシュでも喋らはるんやろな。」

徳治はふざけて言った。こうした冗談を言って話をはぐらかそうとするのも徳治一流のわざである。

「阿呆らし。」

美千が小馬鹿にするように言うと、徳治は、少しムキになって、

「俺の話を本気にしとらんな。ま、それはええとしてや、今日はきっと御利益がある。間違いあらへん。」

と強弁した。

どうでも良いが、徳治は一体、家の神さんか、長暦寺の仏さんか、それとも弁天さんか、あるいは観音さんか、どなた様に子を授かるつもりでいるのか、美千は測りかねた。

「ま、あんたの好きにしたらええわ。」

自分の話を真剣に取り合うつもりのない美千に徳治もそれ以上話すのを止めた。

吹雪は収まるどころかひどくなるばかりだった。

漸く、ぱたぱたと舞う暖簾が目の前に現れた。藍色の生地に「萬福食堂」とあり、その横にうどん、そば、めし、とそれぞれ染め抜きされている。ありがちな名前にお似合いのありがちなたたずまいのこじんまりした店である。これまで幾度となくこの前を通っていながら、ふところ具合ばかりを気にかけ、こんな店があることも気付かずにいた。

暖簾をたくし上げ、古びた木の引き戸を開けると、

「いらっしゃいませ。」

しわがれた声がかかった。

腰の曲がった老婦人がそろそろと出て来て、二人を奥のテーブルに案内した。

徳治は、品書きを見ないまま、

「天麩羅うどんできまっか。」

と尋ねた。

「へい、おます。」

女将おかみおぼしき老婦人が答えると、徳治は美千の希望も確かめず、

「ほんだら、それふたつ。」

と言って注文した。女将は厨房に向かって、

「天麩羅うどんふたつ」

と大声で注文を通した。

「はいよお。」

厨房の奥からさらにしわがれた声が返ってきた。返事をしたのはここの主人であり、女将の夫なのだろう。夫婦二人でやりくりしているのだな、徳治はそう思いながら、店の中をぐるりと見渡した。造りも調度も見栄えのするものは何一つない。柱や天井のすすけた具合からすると随分年季が入っているようだ。明治の終わりか大正にでも建てられたものなのだろう、徳治はそう推測した。

暫くして、女将が大きめの鉢を二つ盆に載せて運んで来た。

「はい、天麩羅うどんおふたつ。」

女将は嗄れた声で言って、テーブルに盆を載せた。大きな鉢とは不釣り合いな女将の小さな皺誰家の手に徳治は危なかっしさを覚え、手ずから鉢を受け取ろうとした。徳治が手を差し伸べようとするまでもなく、女将はそろりとそれぞれの前に鉢を置いていった。

「ゆっくりしとくんなはれや。」

そう言って女将がテーブルを離れようとした時、徳治は疑問を晴らしてみたくてふと訊いてみた。

「ここは何時からやったはりまんのかな。」

それには社交辞令の意味もあったが、女将はそれも心得た上で、訊き返した。

「何時からて、創業のことでっか。」

「そうですわ。」

「大正の確か十三年やったと思いますわ。うちの人のお爺さんが関東大震災でこっち逃げて来やはってから始めやはったらしいですわ。」

徳治にとっては意外な事実であった。こんなところで関東大震災という言葉を耳にするとは思いも寄らなかった。関東大震災が起こったのは、徳治が八つの時だった。新聞でも大々的に報道していたので、真珠湾攻撃や終戦の詔勅と同じくらい、今も鮮明に徳治の記憶に残っている。しかし、遠方の出来事とて、まるで外国の事件のように、これまでは縁遠いことのように思っていた。徳治は始めて関東大震災と言うものを身近に感じた。それと同時に女将が先程言った「ゆっくりしとくんなはれや。」の言葉がにわかに奇妙に思えた。関東大震災と聞いた後に、女将の話すこの辺りの言葉が如何にも不似合いであるように思えるのだ。関東の言葉が実際どんなものであるのか徳治は知らない。だが、NHKのラジオで耳にする言葉とは明らかに異なっていることだけは分かる。女将の使う大和言葉と関東という地名とは余りに隔たりヶあるように思われるのである。

尤も良く考えれば、こちらに移って来たのは祖父の代のことであり、二回も代が替わればの言葉に馴染むのも当たり前である。徳治のそんな心の内を見透かしたわけでもあるまいが、女将は

「わては先祖代々、もんでっけどな。」

と言った。

簡単なことだ。わざわざ考えるまでもない。関東大震災で逃げてきたのはこの店の主の祖父であり、女将は代々、この辺りのざいの者だと言うことだ。何事も殊更のように複雑に考える己の性分に徳治は恥ずかしさを覚えた。それを悟られてはいまいかと、湯気の向こうの美千の顔をそっと盗み見た。その視線など美千は気にも止めている様子などなかった。それよりも何かしら別のことを考えているようにも見えた。

女将が厨房に去ると、美千は

「さ、冷めへんうちに食べまひょか。」

と言って、割り箸を二本手に取って一つを徳治に渡し、自分の一本を割って湯気の立つ鉢に突っ込んだ。

海老の天麩羅が浮かんだ焦げ茶色のつゆは確かにこの辺りのものとは一風異なっていた。これが関東風かと考えながら、鉢に顔を寄せると、立ち上がる湯気にゆるんだ徳治の鼻から人中にんちゅうを伝い鼻水が垂れ、鉢の中にこぼれそうになっているのに気付いた。

「あんた、ハナ垂れとりまんがな。」

美千は帯に挟んだハンケチを差し出して、情けない顔の徳治の鼻を拭いた。

「すまんの。」

「あんた、もうちょっとで鉢ん中にハナ垂れるとこやったで。」

「阿呆か、その前にすすり上げるわい。」

何言うてますの、そんなんしたかてまたすぐに垂れてきますわ。」

そう言われて、徳治は苦笑いした。

「ほんま、あんた、いつまでも子どもみたいやな。」

「阿呆抜かせ。」

阿呆違ちゃいます。ほんまのことだっせ。」

「ええわい、それよりお前も早よう食べえや。」

そんな他愛ない夫婦の会話が、黄昏たそがれて聞こえた。

美千は海老天に箸を付け、つまみ上げてみてその肉厚に驚いた。度肝を抜かれたと言っても大袈裟ではないほどである。

「今まで口にした海老というのは一体何やったんや。」

そんなことを思わざるを得なかった。この辺りで買う海老はどれもこれも身が痩せ、煮ても焼いても揚げてもどう調理しようと悲しいほどお粗末な代物しろものであった。中心街には線路の高架下に商店街がある。戦後の闇市がそのまま残ったもので、店舗とは呼べないような屋台並みの小さな店が並んでいるのだが、そこにある天麩羅屋などひどいもので分厚い衣の中に痩せた身が申し訳程度に入っているだけである。どうも噂では、近くのどぶ川に棲むザリガニを捕って来て使っていると言うことだ。真偽は定かでないが、少なくとも身がお粗末な上に、味もすこぶ不味まずい。それと比べると箸でつまみ上げた海老天は雲泥の差で比較にもならない。その店に限らず、美千が買い物に行く先々の店はどれもこれも似たり寄ったりで肉厚が薄い上に、味もまともではない。海のない地で生まれ育ったから、海老の本当の味を知っているわけではないが、それだけにこれまでずっと「もしや騙されているのでは」と疑っていた。実際、それが証明されたような気がした。

「これがほんまもんの海老なんやろか。」

美千は箸でつまんだまま、暫く肉厚の海老天に見入った。

「こんな海老、何処で手に入れるんやろ。」

特別な仕入先があるのだろうと気にはなったが、海老など滅多に買うこともないだろうから、その問いは胸にしまっておくことにした。

美千は、つまみ上げていた海老天をもう一旦、つゆに戻し、麺をすくい上げ口に入れた。麺は太く腰もしっかりしている。美千が普段、口にする安物の、箸でつまんだだけでぶつぶつ切れるような麺とは大違いである。掬い上げた麺に何度も息を吹きかけ、そっと口に入れた。舌の上を這うようにして喉の奥に流れていく麺から、鰹の風味が利いた出汁だしの旨みと酒、塩、醬油、味醂が合わさった甘辛い味が滲み出た。麺を掬い息を吹きかけ口に入れ、その間に汁をすすり、それを繰り返すうちに最後に海老天だけが鉢に残った。

美千は何だか食べるのが惜しい気がし、箸を付けるのを躊躇った。できることならこのままにしておきたい。そんな気までして、じっと鉢の底に沈んだ海老天を眺めていた。すると、向かい合わせの徳治が、

「何や、おまん、海老天食わへんのか。」

と物欲しげな目で言った。

「阿呆なこと言わんといて。食べてしまうのが勿体ない気がして眺めてるだけや。」

「そんなことしてたら、冷めてしまうで。」

物欲しげに言う徳治に折角の海老天をさらわれてはならぬと、美千は慌てて掬い上げ口に放り込んだ。衣にまとわり付いた油とつゆが混じり合い、口内に広がっていった。肉厚の海老は身が締まり、思った通り弾力が豊かで噛み応えがあった。淡泊な中にほのかな甘みが宿り、汁と馴染んで舌を滑るように体内に流れ込んでいった。

食感も食味も、これまで口にした海老とは比べものにならなかった。

「今まで一体何を食べとったんやろ。」

身の痩せた海老を頭に浮かべ、そんな疑問さえ湧いてきた。やはりあれはまがい物だったのだ、と美千は確信した。

「ああ、美味し。」

感慨を吐き出すように言った。

「世の中にこんな美味しい物があったんや。」

美千は何度も「美味しい」「美味しい」を繰り返し、汁まで全部飲み干した。食べるという行為を生存の目的以外で捉えたことがない徳治の性分は、美千にも伝染していたが、その美千が味わう楽しみというものを生まれて初めて知ったような気がした。

からになった丼鉢を眺めて感動に浸っていると、味覚はうとい筈の徳治も満足そうな顔をして、

美味うまかったのう。」

と言った。それだけで止せば良いものを、調子者の徳治はいつもの悪い癖で、

「栄養もちゃんと捕ったし、今夜はいっつもより頑張れるの。」

とまた余計なことを口走った。

「阿呆、何言うてんの。いやらしい顔せんといて。」

折角の心地良い気分に水を差された美千は、気遣いの無い徳治をなじった。

「すまん、すまん。せやけどのう、夢のお告げがあった上に、こんなごっつい海老天食って栄養もついたしな、何や今日はほんまにうまいこと仕込める気がするんや。」

まだ言うつもりなのか、美千は呆れた。呆れながら、そんな徳治が憐れに思えた。

「それより、あんた、帰りはどないすんの。」

「せやの、帰りはバスにしよか。」

そう言って立ち上がり、代金を支払おうと女将を呼んだ。

「天麩羅うどん四十五円二杯で締めて九十円になります。」

女将の返事に徳治は慌てた。気前よく注文したは良いが、値段も確認しなかったことを今になって悔やんだ。店内のあちこちに品書きが貼ってあるのに、勘定の段になるまでそれらを確かめもせず、自分の頭で勝手に値決めをしていたのだ。しかし、その基準は駅前の立ち食いうどんの値段であり、せいぜい一杯二十円にもならない。そんなものと今、食べた天麩羅うどんに差があることくらいは見当が付きそうなものだが、外食など滅多にしたことのない徳治にはそんなことに頭を巡らすことができなかった。

「あんた、どないしたん。お金足りんのか。」

落ち着きのない徳治を心配し、美千は訊いた。

「阿呆、それくらいあるわ。心配しな。」

女将にはばかって声を潜めて言ったが、動揺は隠しきれず、虚勢を張っているのは明らかだった。財布の中身をそっと覗いたが、やはり百円札一枚切り入っているだけであり、それを抜き取り女将に渡すと、空っぽになった。辛うじて、持ち金で足りたことに徳治は安堵した。

「はい、確かに頂戴します。」

と言って、女将は百円札を受け取り、前掛けのポケットにいれた。そして同じポケットから十円玉を取り出し、

「はい、お釣りです。」

と、徳治に渡した。

「おおきに。また、お越しを」

と女将が言うのも聞かぬ間に、徳治は美千を促し大慌てで店を出た。

暖簾をまくり上げると徳治の心の色を表すように空が暗く沈んでいた。前より吹雪が酷く荒れていた。美千は自分の肩掛けを傘代わりにして、二人の頭にかけ肩を寄せ合うようにして歩いた。

浮かない顔をする徳治を見て、美千は言った。

「あんた、うどん代払はろうたら、なんぼも残ってへんのとちゃうの。」

徳治は返事をしなかった。虚勢を張ろうにも、財布には十円しか残っていないという事実は変えようもなかった。家を出る時、財布に入れたのは百円札と賽銭の五円玉だけ、そして品書きも確かめず天麩羅うどんを注文し、さらにはバスで帰ろうなどと口走り、全てが行き当たりばったりであった。

「あんた、やっぱりバス代がないんやね。それやったら、天麩羅うどんなんかせんと、素うどんくらいにしといたら良かったんやない。」

美千の言葉は、正直に言うのを躊躇っている徳治の胸を射貫いた。そのくせ、徳治はまだ虚勢を張って、

「ええやないか。たまにはこれくらいの贅沢。」

うそぶいた。

天麩羅うどんを食べたお陰で帰りもバスを諦めて歩いて帰らねばならない、そのことのどこが贅沢なのか。そう思わざるを得なかったが、美千はそれ以上詰ったりはしなかった。初めて口にした肉厚の海老天を思い浮かべれば、それくらい我慢することにした。

「そうですな。あんな美味しい海老天を食べさしてもろうて、今日はほんまおおきに。ご馳走さんでした。ああ、美味しかった。ほな、歩いて帰りましょか。」

皮肉な言い方にも聞こえたが、美千の方から歩いて帰りましょと言ってくれたことで、徳治は救われ、面子も保たれた。

「ああ、そやな。」

気のない返事をし肩を落とす徳治に美千は

「シャキッとせな。今晩、頑張るんやろ。」

と冗談を言って励ました。

「せやの。」

徳治は力なく言って苦しそうな笑いを浮かべた。

大粒の雪が吹き荒ぶ中、二人はまた四キロの道のりを歩いた。



美千が体調を崩したと訴えて寝込んだのはその二月ふたつき後だった。健康だけが取り柄と誇らしげに言う美千が朝から寝込むというのは異例である。

数週間前から少し異変があることには気付いていたが、大したことはないだろうとうっちゃっておいた。しかし、風邪さえ引いたことのない美千が、時折、激しい頭痛に見舞われ、それまで感じたことのない気怠さに悩まされる日々が続いた。

その日、夕飯を済ませた後、美千は急に吐き気を催した。徳治はさっき食べた鯖のせいではないかと疑い、食中しょくあたりでも起こしたら大事だと考えた。しかし、美千は医者を呼ぶため隣の家に電話を借りに行こうとした徳治を制した。

「あんた、もうええ、大丈夫や。一寸横になったら治るわ。」

お腹を押さえながら美千は言った。

それでも起き上がるのさえ辛そうにしている美千を見て、徳治の胸に不安が広がった。

「ほんまに大丈夫か。」

「大丈夫、一晩寝たらすぐ治る。」

その言葉で簡単に消えるような不安ではなかったが、徳治もその言葉を信じることによって、少しは気慰めにしたいと思った。

「布団、敷いたろか。」

どんな些細な家事も手を染めたことのない徳治が、殊勝なことを言う。美千は喜ぶより前に驚いた。

「あんた、ええで。私がする。」

「阿呆、お前、しんどいのに無理しな。おいがやったる。」

そう言って、さっさと布団を敷き出した。

掃除は愚か布団を上げたことさえ一度も無い、そんな男が進んで布団を敷いたのである。そればかりか女房に対してぞんざいな口のきき方しかできぬ男が、

「大事にせぇよ。おまんが寝込んだら、おいはどないしたらええか分からんようになるよって。よう寝て、早う治すんやで。」

と優しい言葉をかけた。

自分の女房を「おい」と呼び捨て、「めし」「風呂」「寝る」の単語で用を足してしまおうと言う「亭主関白」の男にしては珍しい気遣いである。

戦後民主主義の流れの中で、女性のみならず少なからぬ男性が「男女同権」の考えに目覚め、厨房に立つことをいとわぬ男性が増えたというのに、徳治は全く動じないでいる。そんな言葉に耳を貸す気もないのか、厨房にたつどころか、自分の食った茶碗と箸を片付けようとさえしない。料理をする美千を尻目に自分一人早々と卓袱台ちゃぶだいの前にどかんと腰を下ろし、新聞を広げる。野良仕事で汚れた手拭いを洗濯籠に放り込むことさえせず、汗のにおいをぷんとさせたまま、上がりがまちに放り出しておく。そんな徳治が、まるで人が変わったように女房を気遣っているのだ。

「おい、夕飯の片付けもしとこか。」

その気持ちは確かに嬉しいが、慣れぬことをして茶碗を割ってしまうことの方が美千は心配である。

「あんた、そのままにしといて、明日の朝、片付けるさかい。」

美千は夫の好意を無にせぬように断った。

「そうか。ほんだら、このままにしとくで。」

「ええ、そうしといて。」

「ゆっくり養生せえよ。」

徳治の中では、その言葉以上に、女房の容態が心配で堪らなかった。

「おおきに、あんた、今日はえらい親切やな。」

「阿呆抜かせ。俺はいつも親切なんや。それより早う寝さらせ。」

ぶっきら棒な言い方ではあるが、その口調の中に籠もるいたわりを美千は汲み取り、少しは身体も癒されるようだった。

「おおきに、ほな、寝させてもらいますわ。お休みやす。」

美千が寝静まった後も、徳治は心配でならなかった。新聞を読んだりして気を紛らわそうとするが、少しも落ち着かず、柱時計の音で日付が変わったことに気付かされた。気の落ち着かぬまま徳治は灯りを消し布団に入った。隣で眠る美千の寝息を耳にしながら、徳治は呟いた。

「今晩は無理やの。」

満たされぬ欲求を堪えるように徳治は己の股間をまさぐった。独り身であった頃のもやもやした感触が甦って来た。

夜が明けても、美千は怠そうであった。「一晩寝れば大丈夫。」と言うのはやはり強がりでしかなかった。几帳面で身の回りを散らかしておけない質の美千が、卓袱台を昨夜のままにして、「もう少し寝かしてくれ」と布団から抜け出せずにいた。

「どや、大丈夫か。」

徳治は訊いた。心配の余り殆ど寝付けず、朝も早くから起き出してそわそわしていた。目の下に隈まで作って、その表情は美千より余程病人らしく見える。徳治は狼狽うろたええるばかりで、どう言葉をかけて良いやら、何をすれば良いやら分からずにいた。

「あんた、私、後で医者に行って診てもろうてくるわ。」

枯れたような声で美千が言うと、

「俺が連れてったろか。」

徳治は言った。

美千は首を横に振って、

「おおきに。けど、連れて行くうても、自転車の後ろに乗せてくつもりやろ。そんなんして却って悪なったらあかんよってに、私一人で行ってくる。」

「お、お、それもそやな。」

美千の言うのも尤もではあるが、徳治は何か適当にはぐらかされたような気がした。

「大丈夫か。」

「うん、大丈夫や。」

「ほんまか。ほんまに大丈夫か。」

「うん、ホンマ大丈夫やから。あんたは余計な心配せんといて。」

徳治には突き放すような言い方に聞こえた。まるで他人行儀で何か邪険にされているような気さえした。

「もう少し寝たら、バスに乗って行ってきまっさかい。」

「そうか、バスやったら安心やの。けど、途中でどないどなったらあかんよって、やっぱり俺も一緒に行こか。」

「ほんまに気ぃ使わんといて。私一人で行きまっさかい。」

美千は語気を強め、あくまで一人で行くと言い張った。それには徳治も逆らうことができなかった。

「ほ、ほ、ほうか。分かった。け、けど、ホンマ大丈夫やな。」

「大丈夫やて。」

美千は目を瞑ると、まもなく寝息を立てた。

一時間ばかし寝入った後、目を覚ますと、ぼんやりした表情を浮かべながら、のっそり起き上がった。寝間着を脱ぎ、外出用の着物に着替えると、卓袱台の前に座り握り飯を拵えた。そして、

「あんた、お昼はこれ食べといてや。」

と言って、握り飯を入れた丼鉢を徳治に見せて確認させ、布巾を掛けた。

「そしたら行ってきます。後のことはよろしゅう頼みます。」

戸を開けると、冷たい風が吹き込んだ。もうすぐ彼岸と言うのに、春めいた気配が一向に感じられない。天気を気にかけ薄曇りの空を見上げたが、雨は降らぬものと決め込み、美千はそそくさと家を出た。

美千を見送ってから徳治は神棚の前に立ち、美千の無事を祈った。それから暫く経って、徳治は何処の医者に診てもらいに行くのか訊かなかったことに気づいた。

徳治は落ち着かなかった。得体の知れぬ何者かが襲ってくるような不安で気もそぞろであり、野良仕事に出掛ける気にもなれなかった。新聞を読んでも、字面が視界を流れ去るだけであり、内容は全く頭に残らなかった。周りのもの全てが静止し、静まりかえった部屋で時計の振り子と針が進む音が木霊こだまし、その二つだけが世界の動態を知らしめているようであった。不安を抱えたまま、徳治はじっと待ち侘び、その間にも柱時計の短針は四周していた。正午を過ぎても美千は帰らず、出がけに用意してくれたおにぎりに手を出す気も起こらず、そのままであった。

余程悪い病気なのか。

徳治はここ数日の美千の様子を振り返ってみたが、思い当たる節はない。自分が鈍感であるばかりに、気付かなかっただけなのか、徳治は自分を責めてみたりもした。そのうち、想像はあらぬ方向へ飛び火し、病を装って家出をしたのではないか、そんなことまで考えてみたりした。

二時を過ぎた頃、ガラガラ、表の戸が開く音と共に、

「ただいま。」

と言う声がした。ようやく美千が帰ってきた。徳治の不安とは裏腹に、美千の声は明るかった。出かける前よりも晴れやかで、まるで別人の声のようにも思われた。

徳治は慌てて玄関に飛び出し、苛立ちをあらわにして、

「えらい遅かったやないか。」

と責め立てるように言った。

「もう、何を慌てたはりますんや。」

美千は涼しい顔で言った。

「えらいおそなってスミマセン。ちょっと検査してもろうたんで長なりましてん。」

事も無げな言い方が、心配を掛けまいと無理しているようにも聞こえ、却って徳治の不安を一層膨らませた。

「検査てどういうことや。」

上ずった声で訊ねると、美千は笑いながら言った。

「あんた、落ち着きなはれ。そんな大したことやあらしまへん。ちゃんと説明するさかい。けど驚かんといて下さいや。」

前以て驚くなと釘を刺さされる話で実際に驚かずに済む話など滅多にない、その逆説は徳治はこれまでも嫌と言うほど思い知らされている。覚悟して聞け、そういう意味なのか、暗澹あんたんたる思いで女房の口から次に出る言葉を待った。

「あんた、話の前にこれでも飲みまひょ。」

美千は手に提げていた小物入れから黄色い液体の入った小さな瓶を二本取り出した。ニッキ水である。

「帰りに商店街に寄ってうてったんや。朝から天気悪かったけど、帰りはえろう良うなって、ちょっと暑いぐらいやったんでな。喉潤そう思うて買うてきましたんや。」

美千は一本を徳治に差し出した。

「そんなとこで立ってんと、ささ、此処に腰を落ち着けて早よう飲みなはれ。」

美千は着物の裾を揃えて上がりがまちに腰を下ろした。その隣に徳治もへたるようにして腰を下ろした。手に取った瓶から透けて見える原色の黄色がけばけばしく、気持ちが落ち着くどころか、逆に刺激するようであった。徳治は小さな瓶を眺めるばかりで、蓋を開けるのも躊躇っていた。

それを尻目に美千は蓋を開けると一気に飲み干した。

「あー、美味し。帰りはちょっと歩いただけでも汗ばみましたわ。すっとしたわ。」

暢気のんきに聞こえる台詞も徳治にはわざとらしく聞こえた。美千が話そうとする内容が気になった。と同時に、耳を塞いでしまいたい気もあり、その二つが徳治の中で交錯していた。

「あんた、黙ってて悪うおましたな。」

ニッキ水の空瓶を両手に挟みくるくる回しながら美千は話し始めた。

「この間から、何やらだるうて身体動かすのもおとろしかったんですわ。それにこの二月ふたつきメンスもあらへんだんで。更年期にしたら早い気がするし、どこぞ悪いんかと気になっとったんや。そしたら先週くらいから、吐き気までするようになって。これはいよいよ私もあかんようになったんかなあて思うてましてな。一人で悩んどりましたんや。せやけど、あんたに余計な心配掛けたらあかん思うて、よう言わんでおりましたんや。」

静かに話す美千の口から出る言葉の一つ一つが徳治の胸を痛めつけていった。

「ほうやったんか。それは気付かなんだ。すまんかったのう。」

徳治は適当な言葉が見つからず、取り敢えず詫びた。

「何も謝ることなんかあらへん。」

慰めの言葉も皮肉にしか聞こえず、自責と悔恨かいこんの念にさいなまれ、徳治は項垂うなだれた。そんな様子にはお構いなしのように美千は話を続けた。

「吐き気が治まらへんで、どないしょう思いましたんや。せやけど、そうか思うたら、何や知らんけど妙なものが食べとうなったりしますんや。干し芋なんか好きやあらへんだのにそれが欲しいて欲しいて仕方おまへんのや。あんたが壺に入れてなおしたはったん、こっそり戴いてましたんや。なんでこないなもん欲しなんねんやろ、そない思うて、ふと気付いたんですわ。けど、まさかと思うし、こないな歳になったら、人に訊くのも恥ずかしいですやろ。それでずっと一人で悩んどりましたんや。」

徳治は思っていたのとは別の方向に話が流れていくような気がした。

「夕べは流石に辛抱でけんようになりましてな。胸がムカムカして抑えられへんし、私も鯖のせいかと思いましてんけど、どうもそうやない気がしましてな。まさか、とは思いましたんや。今まで一度もそんながおまへんでしたからな。」

美千の話はちんぷんかんぷんで徳治には全く理解できなかった。

「一体、何なんやろと考えたんですけどな、一週間前にも吐き気がしたことがおましてな、その時はすぐに治まったんですけど。これはもしかしたら、と思いましてんけど、この歳になったら恥ずかしいて誰にも訊かれへんでっしゃろ。それに、なまじあんたに期待持たせて、それでちごうたら余計に気落ちさせるだけやと思うて、黙っとりましたんや。とにかく医者に診て貰おうて、それではっきりしてから話そと思いましてん。

美千の言う意味が徳治にもようやく分かり掛けてきた。昨夜、医者を呼ぼうとした時に頑なに拒んだのもそういうことだったのかと思い返し独り合点した。

「ほな、お前が行ってったんは内科やなかったんか。」

「そうです。産婦人科ですわ。」

急に徳治の胸の内がざわざわとうごめき出した。

「それでどないやったんや。」

美千は頬を赤らめ、徳治の目を盗み見るようにして言った。

「お医者さんが言うには、三月目みつきめに入ってるらしいわ。」

暖色に彩られたさまざまな感情が徳治の中からはじけ飛んだ。

「え、ホ、ホンマか。」

素っ頓狂な声が壁や戸、窓を通り抜け、近所に響き渡るようであった。

「ほうか、ほうか。ようやった、ようやった。ほんまようやった。」

つい先程まで項垂れていた男が、まるでいくさに勝ったように大はしゃぎする姿につられ、美千も思わずはしゃいだ。

「あんた。良かったですな。」

「ホンマや。待ったかいがあった。」

「ええ、そうです。」

二人は気が狂ったように喜んだ。

ふと、徳治は我に返り、

「お前、さっき、三月みつき目に入るとこやて言うたな。」

「え、そうです。」

「それやったら、長暦寺さんにお参りに行った日あたりやな。」

「大体、それくらいになりますな。」

「いや、そうや。その日に決まっとる。」

「そうでっしゃろか。」

「そうやて、あの日の天麩羅うどんが利いたんやな。栄養付けて、俺もいつもより頑張ったさかいの。」

「もう、変なこと言わんといてくれやす。」

美千はまた顔を赤らめた。

「ええやないか。あ、それより、あの日見た夢のお告げ通りになったんや。。弁天さんやったか観音さんやったかにお礼言わなならんな。」

徳治は子供を授かったことと夢のお告げが当たったことの両方を無邪気に喜んでいた。

「ふふ、あんた、弁天さんか弁天さんの一体どっちですんや。」

「どっちでもええんや。」

「阿呆らし。」

小馬鹿にしたように言ったが、美千も素直に弁天さんだか観音さんだかに感謝する気持ちになった。それに長暦寺の仏さんにも礼を述べねばと思った。

「あんた、弁天さんや観音さんもええけど、長暦寺さんにも感謝せなあきまへんで。」

「おう、分かっとる。次の日曜でもお礼しに行こう思う。お前は身重やよってに、わし一人で行くさかい。そや、うちの神さんにも礼を言わな。」

そう言って立ち上がり、徳治は神棚の前に歩み寄り手を合わせた。

「弁天さん、観音さん、長暦寺さん、神さん、お付き合いも大変ですな。」

美千は茶化した。

「皆、仲良うしたらええんや。」

「阿呆らし。ま、信心深いのはええことです。」

美千の頭には、長暦寺に参った日の光景が浮かんでいた。

「子を授けてくれ」

と徳治が必死に拝む横で、自分はと言えば、

「もうええ加減、子どもは諦めとります。私もいつ富貴さんの二の舞になったとしてもおかしありまへん。覚悟もでけとります。今まで大病もせんと良う元気に過ごさせてくれはりました。おおきにさんです。」

と言ったのだった。

ところが、運命の悪戯いたずらと言おうか皮肉と言おうか、その言葉とは反対に美千は孕んだのである。美千は複雑な思いであった。夫に対しても長暦寺の仏様に対しても美千は悪い気がした。今度、長暦寺に参る時は、その時の事をまず詫びよう、そして丁重に礼を申し述べることにしよう、美千はそう心に決めた。

柏手を打つ音に混じって、妙な音が響き渡った。神棚に手を合わせながら、徳治が屁をいたのだ。。

「もう、しゃあない人やな。」

美千は聞こえよがしに言った。

だが徳治は自分が放いた屁のことなど気にもしていなかった。神棚を離れると、徳治はまた美千と隣合わせに腰を下ろした。徳治は美千の腹をさすった。まだ膨らんでもいない腹に顔を寄せ、

「ぼん、達者で生まれて来いよ。」

と話しかけた。

「あんた、男の子と決まった訳やあらへんのに、何を言うてんの。」

「いいや、男に決まっとる。俺の勘は当たんねんや。見てみ、夢のお告げの通りになったやろが。」

十五年もの間ずっと神様にも仏様にも散々、願を掛けてきて叶わなかったのに、そのことはなかったかのようにして、生まれてくる子は男の子だと言い切る徳治の自信が滑稽であった。何度も腹をさすりながら、「ぼん」と呼んで話しかけ、しまいにはうろ覚えの童謡まで歌い出した。

「しゃあない人やな。」

美千は呟いた。呟きながら、やんちゃ坊主の中に親父らしさを見た。



稲刈りも終え、秋もそろそろ終わりに近づいた頃、美千は無事、出産した。徳治が自信たっぷりに予言した通り、男の子であった。

前日、国会では衆議院が解散し、岸信介首相率いる内閣は退陣した。日米安保条約が自然成立し、国中が揺れ動いた安保闘争は反対派の事実上の敗北で幕を閉じた。退陣はそのけじめであった、

だが、世事せじうとい徳治にとってそんなことなどどうでも良いことだった。安保も散歩も簡保も徳治には同程度の重みしかない。「安保反対」と騒ぐのは頭のいかれた連中の仕業くらいにしか思っていない。そして、そんな連中を一挙に畳み込んでしまうことのできない岸総理は不甲斐ない、退陣するのも当たり前だ、その程度の認識でしかない。徳治にとってのこの間の関心は何と言っても美千が無事出産することだけだった。

美千が産気づくと徳治は慌てて隣の家に電話を借りに行き、タクシーを呼んだ。

信号で止まる度、徳治はイライラし貧乏揺すりをした。運転手もどうやらルームミラーに写る身重の美千を見て焦っているようだった。漸く産婦人科に着くと、直ちに分娩室に入った。医師と看護師と助産婦が入り、出産の準備にかかったが、それからが長かった。二時間ほど苦しんだ後、美千はやっとの思いで一つの命をこの世に送り出した。森元家に新たな一員が加わったのだ。

「おぎゃー」

その声を聞き、分娩室の前のシートに腰掛け不安な面持ちで待っていた徳治の顔が途端に明るくなった。助産婦が、分娩室から出て来ると

「無事、産まれましたで。」

と言った。

「見せて貰うてもよろしいでっか。」

と訊き、その返事も聞かぬうちに、徳治はずかずかと分娩室に入っていった。

看護師が産まれたばかりの赤児を産湯に入れているところだった。不躾ぶしつけにも徳治は、産湯に付けている最中に割り込み、産まれたばかりの赤ん坊の股間を覗き込んだ。

「ついとる。ホンマや、ついとるがな。」

美千がぐったりしている側で、徳治は大はしゃぎして、院内に響くような声で、

嬰児ややこや。嬰児。とうとう嬰児ができよった。」

「男の子や。男の子がでけたんや。」

「跡継ぎができよった。これでやっと俺も一人前や。」

と騒ぎ立て、挙げ句は涙で声にならなかった。徳治は泣いていた。側に看護婦や助産婦がいるのも構わず、徳治は恥も外聞もなく声を上げて泣いた。

「私の苦労も知らんと、ほんましゃあない人やな。」

美千は情けない顔をした徳治を見て苦笑した。苦笑しながらそんな徳治愛おしく思えてならなかった。美千の目にもうっすら涙が浮かんだ。それは徳治に対してか、それとも今しがた産まれたばかりの赤児に対してか、自分でも分からなかった。これが子を産んだ母親の感情というものか、美千は他人事のように考えた。

看護婦は赤児を産湯から上げるとその身体を丁寧に拭き、おむつを巻き、産着を着せた。

「丈夫な赤ん坊でよろしかったな。奥さんもよう頑張らはった。」

看護婦と助産婦は声を揃えて言った。

看護婦は美千の腕に自分の肩を貸し、抱きかかえるようにして病室に連れて行った。赤児を抱いた助産婦がその後を追って病室に入った。

畳敷きの病室には大人用の布団とその隣に小さな布団が敷いてあった。美千と赤児をそれぞれ布団に寝かせると、助産婦は、

「今日はゆっくり休みなはれや。ご主人も奥さんに按配養生させたりなはれや。何ぞあったら呼んで下さい。」

と言った。

「ホンマ、おめでとうさんです。」

そう言って、看護婦も助産婦も部屋を出て行った。

「おちゃん、おおきに。ホンマおおきにやで。」

徳治はまた涙声で言った。

「後で、おまんとこの実家に連絡しとくわ。喜んで孫の顔見に来やはるわ。」

美千はまどろみ、最後まで聞かぬうちに寝込んでしまった。

ぐったりした寝顔を見下ろしながら、徳治は

「疲れたやろ、よう頑張ってくれたな。ゆっくり休み。」

優しく声を掛けた。

徳治は女房の側に付いて見守ってやるつもりだったが、何時しか自分も寝込んでしまった。

それから数時間経って、徳治は目が覚めた。り硝子の向こうが赤く染まっているのが分かった。隣では、美千が赤児に乳を吸わせているところだった。吸わせると言っても真似事だけで、赤児にまだその力はなく、小さな口を乳首に当て、一生懸命、乳房をまさぐっているところだった。

徳治は目を細め、その様子を眺めながら、

「良かった。良かった。」

と繰り返し言った。喜びをどう表して良いか分からず、それしか言う言葉が見つからないのだった。

「おちゃん、俺ら、ホンマ幸せやな。こないに歳は取ってもうたけど、ちゃんと赤児を授かったんやさかいの。」

赤児に乳を吸わせながら、美千はしんみり言う徳治の言葉にじっと耳を傾けていた。

「今頃、富貴さん、どないしてるんやろな。」

突然、何を言い出すのかと美千は驚き、どう返してよいものか考えあぐねた。

「お母ちゃん、今頃、こんなこと言うのも何やけど、俺、富貴さんに悪いことしたな思うてんねん。あの時、俺だけでも引き止めりゃ良かったんやないか思うてな。善ちゃんにも後で俺から案定あんじょう言い聞かせるんやった、てな。酒なんぞ飲んでる間があったら、富貴さんを迎えに行ったったら良かったなあ。」

「あんたが悪いんやないで。」

「せやけど、富貴さんを里に返したのと引き替えに、うちに子ども授かったみたいに思えてならんのや。せやさかい、なんや知らんけど、引け目みたいなもの感じてな。」

「そらしゃないやん。長老さん等が勝手に決めはったことで、わてらが富貴さんを犠牲にした訳やあらへんねんもん。」

「そらそうやけど。」

徳治はその先をどう続けて良いか分からずにいた。どうにも仕舞いの付かぬ感情だけがうごめきひとつも考えがまとまらないのである。

美千は思いも寄らぬところで、徳治が思い詰めていたことを知り、普段、がさつに見える男の深部に分け入った様な気がした。悪いのは村の風習であり、それを今に伝えてきた村の先達である。人道にもとる風習を今更のことに憎く思った。そして、徳治の意外な優しさに触れ胸が熱くなった。

「お母ちゃん、折角せっかくつかんだ幸せや、この子、大事に育てたろな。」

「そうですな。」

富貴の分まで幸せにならねば、美千はそう願った。

「お母ちゃん、里に返されんで良かったな。」

徳治はポツリと零すように言った。

決して口にはせぬ夫の本心が垣間見えたようで、美千はふと思い返してみた。この人は子どもが欲しかっただけではなく、「里返し」というおぞましい因習から本気で自分を守ろうとしてくれていたのではないか。「子どもを授けてくれ」と願いを掛けつつ、それを口実に長老達をあざむき、何時いつまでも粘っていたのでは。もしかしたら、子どものことなどとっくに諦め、自分の中で折り合いをつけていたのかも知れない。正面切っては長老達に逆らうことのできないあかんたれではあるが、この男なりのやり方で村と村の旧い習慣に逆らい、女房を守ったのかも知れない。それは惚れた腫れたの浮ついたようなものではなかっただろう。思い過ごしかも知れぬが、たとえそうであったとしても、美千は夫に対し掛け値ない感謝の思いでいっぱいになった。

「一緒になって良かった。」

美千はしみじみ思った。いつしかその胸で赤児がすやすや眠っていた。それに誘われるように徳治もまた静かに寝息を立てていた。



徳治は息子に隆正と名付け過保護と言える程に大切に育てた。

初めて会う人には息子のことを「六重の塔」と呼ぶのを習いにしていた。自分がよわい六十を数える頃に息子は十歳になる、という意味を自嘲しながら言い、胸の内ではそのことを不憫に思っていた。息子が成人するまでに自分がくたばってしまうのでは、そんな不安さえ抱くこともあった。

隆正は従順で勉強も良くでき、大学を出ると徳治のたっての願いであった小学校の教員になった。隆正にも本当は自分なりの夢があったがそれを胸に秘め、親の描いたシナリオ通りに無難な道を選んだのである。

そんな息子に対して不服などなかったが、隆正が就職して五年を過ぎた頃から、徳治はしきりに「早く結婚して孫を見せてくれ」とせがむようになった。

父の気持ちは百も承知だが、父が思う以上に本人が焦っていることをどうして分かろうとしないのか、隆正は苛立ち次第に父を遠ざけるようになった。

思いを寄せる女性もあったが、何度かの失恋の末、三十歳を前にして漸く隆正は同僚と恋愛の末、結婚した。

同僚や友人を招いての結婚披露宴が盛大に振る舞われ、徳治も終始にこやかであった。そのあくる年、身を固めた息子の将来に安堵した徳治は七十六年の生涯を終えた。孫の顔を見ることはあたわなかったが、穏やかな死に顔だった。

徳治がこの世を去ってから、美千はよく徳治の思い出話をするようになった。

その多くはケチだったとか、あかんたれだったとか、無駄話が多かったとか、身繕いしない人だったとか、亡き夫をけなすような話ばかりだったが、それが決して本気でないことは隆正にも分かっていた。

「いつもお父ちゃんは」

と口を押さえて笑いながら言うところに、長年連れ添った夫婦の情というものを感じるのである。そして母が話す度に、隆正は父を懐かしく思い出し、帰り来ぬ日々に胸を熱くしたり、また痛めたりするのだった。

同級生の親より二十歳以上も年上の父が参観日に訪れ、教室の後ろで和服姿の母親達に混じって、よれよれの背広姿で立っているのが嫌で堪らなかったが、思い返すとそれが愛おしく、また父を恥じた自分を悔いるのだった。

美千は時折、「里返し」で村を追い出された富貴の話をすることもあった。

富貴を最後にして、その悪習は途絶えたが、美千の心にはその時のことが深く刻み込まれたまま消えずに残っていた。あれから富貴と顔を合わせることは一度もなく、善衛も酒浸りになって身体を壊し、五十を前にこの世を去った。家の外では大人しく振る舞っている善衛が、中に入ると何かを喚き散らし、壁に物をぶち付けたり蹴ったりする音が近所中に響き渡ることがしばしばあった。それ程までに慕っていたのであれば、「里返し」などという因習に従わねば良かったのだなどと揶揄もしたいところが、それを阻むところにこの風習の憎み嫌悪すべき汚辱があった。一人、家で荒れる善衛の様子を知った誰かが進言したのだろう。間もなく、寄合で「里返し」の風習をなくすことが正式に決まった。同時に子のできないことで居づらくなるような言動を慎むようにも話し合われたようだった。それができるなら、何故、もっと早くにそうしてこなかったのか、富貴を思い美千は無念でならなかった。

三十年以上も前の話を思い浮かべながら、美千は仲の良かった富貴を偲び、涙を滲ませさえして息子に話して聞かすのだった。

そして、その後には必ず、吹雪の中を長暦寺に参った話を聞かすのだ。果たして、その縁であったのかどうかは分からないが、丁度その頃に隆正を宿したのだと美千は言う。何度も同じ話を聞かされ、子細まで分かっているが、隆正はその都度、初耳であるかのようにして頷くのである。

美千は、その話の余話として、参拝の帰りに食べたうどんの話をするのも忘れない。

「あんなけちなお父ちゃんが天麩羅うどんを奢ってくれてな。」

そう言って、初めて口にした肉厚の海老天をまるで目の前にあるように美味うまそうに話し、丼鉢から湯気の立つ様子まで細かく話した。最後は、うどん代を払った後、金がなくてバスに乗ることができず、牡丹雪が吹き荒れる中、重い足取りで歩いて帰った話で締め括られるのだった。

「もっぺん、食べたいな。」

美千は口癖のように言った。

隆正もその話が気になり、一度、母を連れて食べに行きたいと思ったが、それが叶わぬうちに、美千は認知症を患い、おかしなことばかり口走るようになった。はては、座敷や台所など所構わず脱糞し、いじましいほどに何でも口にし食い散らかした。

優しく穏やかだった母の面影は最早なかった。

苦渋の末、隆正は母を施設に入れると決断し、仕事の後は必ず顔を見せるようにした。しかし、それも次第に無駄と分かってきた。息子の顔を見ても、美千は

「どちらさんどすか。」

と言い、気付かずにいることが増えた。

隆正は「無常」と言う言葉を思い浮かべ、帰宅の道中、車の中でその言葉の意味を深く考え噛みしめるのだった。

その美千も八十三歳でこの世を去った。

年が明けたばかりの寒さ厳しい日のことで、通夜式はさらに吹雪で荒れるという始末であった。「足下がお悪い中」という司会の言葉は社交辞令の常套句などでは決して無かった。

弔問客が去った後、隆正は一人祭場に残って、棺で眠る母の頬をさすった。こけた頬は、冷え切った自分の手よりなお冷たく感じられた。

ふと、母がよく話した天麩羅うどんのことが頭に浮かんだ。

母がそのうどんを食べたと言うのも、こんな悪天候の日だったと言う。果たして、それはどんな味だったのだろう。せめて店の名前だけでも聞いておけば良かった。否、そもそもその店が今もあるのだろうか。できることなら、母を起こして、その口から聞き出したい。そんな叶わぬことを考えながら、もう決して動くことの無い口元を見つめた。

せめてもう一度、お袋に食わせてやりたかった、そう思った途端、隆正の胸は万力で締め付けられたようになった。目の前が湯気で曇ったようになり、母の顔が揺らめいて見えた。口元にうっすらと笑みがこぼれたような気がした。

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