第2章-2 アンコール
微かに鼻をくすぐる香は木蓮。照明具は意図して減らされ部屋は薄暗い。それもこれも全てはこの流れる音色と歌声を引き立てるため。十人ばかりの聴衆達は感嘆の溜息すら堪えるほど音もたてず、その紡がれる物語にうっとりと聞き入っていた。
その視線――いや耳を澄ます先。
そこにはリュートをかき鳴らす吟遊詩人――ヴィートがいた。見目麗しい男は、この貴族の邸宅の豪奢な一室においてまるで音を奏でる家具の一つのようにしっくりときていた。着古しの旅装さえも演出の一つのように映える。
――場末の酒場で聞くより、ずいぶんと化けるものだな――
大衆の娯楽から貴族達の芸術に。
部屋の隅でそんなことを思いながら、アランは聴衆達の後ろからヴィートの演奏に耳を傾ける。
これも彼の腕のなせる技か。ヴィートは天賦の才のある吟遊詩人だ。
今までの道程で飽きるほどにその演奏を聴いてきたはずだが、改めてそう認める。
酒場などではとっつきやすく親しみやすい、ノリの良さを重視した演奏だったはずが、今はそれよりもずっと繊細な調べで抒情的な、洗練された演奏だった。
もちろん演奏場所だけでなく、曲目によってその歌声は陽気に弾み悲哀に泣く。リュートの旋律も繊細かと思えば力強くもなり、まさに物語の場面が変わるように色を変える。貴族のお抱えはもちろん宮廷付でもおかしくない。だが現在彼は流しの吟遊詩人であり、アランの旅の連れだ。
最近はこの屋敷の近隣の街の酒場や広場で演奏を続けていた。そしてつい先日ようやく、このバルトシーク侯爵邸からお声がかかったわけだった。もう少し遅ければ侯爵邸の門前で演奏しようかと本気で検討していたところである。
聴衆はバルトシーク侯爵夫婦をはじめその子供達、および彼らの親しい友人達。ささやかな個人的な演奏会だが、アラン達にはむしろ好都合だった。流れの吟遊詩人を呼ぶのならその程度になるだろうという読みもあった。
ヴィートが歌っている今の曲でこの演奏会は終幕だ。
彼が最後に持ってきたのは「シルヴェストル」と題された不老不死を巡る男女の物語。不死身の騎士に護られる国と呼ばれる国柄だろう、リエトでは不老不死を題材とした唄が多く、その中でも誰もが聞いたことがある有名曲だ。
有名であればあるほど腕に自信がなければ歌えない。聴衆が聞き飽きていたり比べられる可能性が高いからだ。だがそれがヴィートであれば杞憂である。
幼馴染の若い男女。ある日森の中に出かけた娘は、泉の畔で一角獣に見初められ伴侶とされてしまう。嫉妬深い一角獣の前では娘と言葉を交わすことも近づくことさえできず、男は嘆き悲しむ。さらに一角獣の伴侶は不老不死となる。男はこのまま一人で老いて死ぬわけにはいかないと、自らを鍛え上げ、ついには竜を殺しその血を浴び、自分もまた竜の騎士――不老不死となった。しかしそうして娘の元へ帰ってみると、何も知らない娘は男に会いたい思いで一角獣を涙ながらに説き伏せ伴侶を解かせ、不老不死ではなくなっていたのだった。
「――あぁ 君とともに時を重ねないこの身を、土に還れないこの身を
私はこの世が果てるまで嘆くだろう――」
不死者の悲しい恋の物語。
アランとヴィートが出会った時に掛けてみせたのもこのシルヴェストルだったと、懐かしく思い出す。
最後のリュートの余韻を堪能し終わった絶妙のタイミングで――さすが貴族、聴衆も演奏会に慣れているのだろう――、聴衆からヴィートに盛大な拍手が送られた。
ヴィートは立ち上がり深々と一礼をして見せる。
だがアランにとっての本番はここからだった。
――ここまで盛り上がれば上々出来だ。
アランは気を引き締めると筋書きを頭の中でざっと確認しつつ、壁から背を離す。
そして用意した台詞を口にしようとしたその時。
「すまないがもう一曲、アンコールにリクエストさせてもらっていいだろうか?」
鳴り止まない拍手を遮ってそう言ったのは、アランとあまり年の変わらない若い男。確か侯爵の嫡男だ。名前はヴァルトルといったはず。
顔を上げたヴィートは、伺いの意を込めた視線を聴衆の真ん中に座る侯爵に投げる。
「武術にしか興味がないお前がもう一曲など、珍しいこともあるものだ。それほど今宵の演奏は素晴らしいということか。
いいだろう、もう一曲披露してくれ」
「ありがとうございます、父上」
そう言うとヴァルトルはヴィートに向き直った。
そしてリクエストを口にする。実直なままの口振りでその曲名を。
「エリザベータ女王の建国譚を」
その瞬間。
場が固まった。
演奏の余韻も拍手の余韻も消え去り、痛いような沈黙が場を埋める。
女王の建国譚。
それはリエト王国においてもちろんシルヴェストル以上に有名で人気のある定番曲。
だがそれをヴィートはこの演奏会であえて外していた。有名すぎて歌えないなどというわけではなく、侯爵からあらかじめいれるなと言われていたからだ。
バルトシーク侯爵家は代々のエリザベータ女王と縁が深く、それを現国王であるブラトに疎まれているのである。先代女王の在位中は軍の要職についていた侯爵は、今ではその任を解かれ、地方の自領にひっこんでいた。その状況であからさまに女王を褒め称える建国譚など歌うなというのが建前だ。
アランは突然の申し出に内心で焦り、どう対応するべきか必死で考える。
転びようによってはせっかく掴んだ機会を不意にすることになりかねない。
だが逆に転びようによっては追い風になる。
それにはどうすれば――
「ヴァルトル、何を言い出すの!」
小声で侯爵夫人が息子を窘める。
しかしヴァルトルはそれには取り合わず、
「イリヤ。君は聞きたくないかい?」
横に座る娘に尋ねた。
いや、娘といっていいのか。
その顔立ちはむしろ美しい部類に入る女なのだが、その服装、座り姿はどうみても泣けてくるほどに男のものだった。
彼女――彼とは認めたくない――の返答次第ではアランの計画はここで終わる。
一言も言葉さえ交わせずに。
息を飲む音さえ響き渡りそうな沈黙。
だがイリヤはそれを意に介していないように、平然と答えてみせた。
「こんな歌声をもう一度聞けるのなら、曲目なんて問わないさ」
声こそ女にしては低めだが、そのさっぱりとした口調もまるで男のようだ。
「では決まりだ。頼めるかい、ヴィート」
「喜んで承りましょう」
困惑の混じる気まずい空気が流れたが、それもヴィートが一礼してリュートを軽くかき鳴らすまでだった。
まだ不意になってはいない。
アランは再び壁に背を預け、ひとまず胸を撫で下ろしたのだった。
そしてヴィートの唄がはじまる。
エリザベータ女王の建国譚。