第2章-1 四阿の茶話
「僕は王位を継がない。継げないし、そのつもりもない。
何度も言ってるだろう、ヴァルトル」
「ああそうさ、分かっていて何度も言ってるんだ。お前が一向に聞かないからな」
「なら僕は何度でも同じ答えを返すまでだ」
お互い主張は今回ばかりでなく今までにも出し尽くしているため、最後にはこんな押し問答にしかならない。最近では主張を省略していきなり押し問答に入るくらいである。
言い合っているのは剣士の装いをした二人だった。庭の四阿で長椅子に腰掛け、傍らには模造剣が立てかけてある。先程まで剣の稽古をしていたことが伺えた。
ヴァルトルと呼ばれた一人は堂々たる偉丈夫で精悍。もう一人は対照的に細身だが、しかしその面持ちや雰囲気は凛々しく、偉丈夫と並んでも見劣りすることがない。
二人はこのまま押し問答を続けるのも子供じみていると理解はしているし、また相手がそう簡単に主張を曲げないことも知っている。その主張を理解もしている。なので二人ともある程度のところで場を見計らってお仕舞にする。
そのきっかけはどちらかが溜息と共に現時点ではそれよりももっと重要そうな――と見せかけて実は適当な話題を切り出すことが多い。他にも第三者の登場によって終わることもあるが、今回の場合はそれだった。
「二人ともそこまでにして。アドリアナ姫の誕生会の話なんて持ち出した私が悪かったわ」
そう言ったのは四阿にいた三人目。華やかさはないが、知的で淑やかな印象の娘だった。いかにも下に妹弟が何人もいそうな雰囲気を持ち、実際にその通りである。
アドリアナは王の長女。つまり次期王の順当な候補であり、そこからあの二人の押し問答が発生したのであった。
「それにちょうどお茶が届いたわ。折角私がこの侯爵邸に遊びに来たのだから、もっと近況を聞かせて頂戴」
使用人がお茶を持ってちょうど四阿に入ってきた。ティーポット以外にガラスの水差しもある。運動を終えた後の二人への行き届いた配慮だ。
「そうだな、悪かった。
久しぶりにエヴェリーナと会えたんだ、もっと君と話さなくちゃ。ヴァルトルとならいつでも話せる」
「口が上手いのは相変わらずのようね」
呆れた口調のエヴェリーナにヴァルトルもやれやれとばかりに同意する。
「まったくだ。屋敷の女使用人は皆口説き落された」
「ひどい言い草じゃないか。僕はただ素直に思ったことを口にしただけなのに。
――――ミントか。爽やかでいいね、動いた後にすっきりする。君達の心配りにはいつも感心させられるよ」
注がれた水を一口、爽やかな笑顔で言われる傍から口説き落とす。下心が見えないのがかえって性質が悪い。
使用人の娘は嬉しそうにはにかむと、それでも給仕はしっかりこなし一礼まで忘れず終えてその場を離れる。その後で黄色い悲鳴が聞こえた。仕事振りを褒められたのだから仕事の間は手は抜けない。いじらしい努力である。
溜息をつくヴァルトルに対し、
「男の嫉妬は見苦しいね」
「お前が言う―な――ぁ……」
不自然に言葉を止め飲み込んだ。ヴァルトルは気まずい顔をする。
それを見ていっそわざとらしいほどに溜息をついた。
「その生真面目さは嫌いじゃないけど、いい加減割り切って欲しいものだよ。それこそ使用人の子達みたいに適応してほしいね」
「イリヤ」
ヴァルトルは短く責めるように名を呼んだ。
先程まで言い合いをしていた、その前までは剣の打ち合いをしていた者の名を。
長い鳶色の髪を三つ編みで一つに束ねて無造作に背中に垂らす。装飾などない剣士の姿は男らしさは出せても女らしさを出せるはずもない。けれど凛とした面持ちのその造形は、長い睫毛に縁どられた丸い眼、ふくよかな頬に柔らかな唇、丸みのある輪郭、美しいと称されるに足る女性の顔だった。――例えその口調、座り姿、所作、どれをとっても男らしいとしても。
「ヴァルトルは頭が固いのよ。イリヤが諦めた方がきっと早いわ」
エヴェリーナの言葉にこういうとき女は女の肩を持つ――と内心で思ってしまったヴァルトルは眉間に寄った皺をさらに深める。
体は女。だが心は男。
頭で理解はしていても未だに過敏に意識してしまう。
――イリヤが王位を継ぐべきだ。
その主張がヴァルトルに変に意識させてしまうのかもしれない。
イリヤ・レンカ・サシャ・ラジェール。
先王の一人娘。
当代の王ブラトよりも本来であればイリヤの方が王位継承順位は高かった。
リエトは女王の国。
体だけでも女であるのなら、民衆は間違いなくイリヤを女王として扱う。
男王ブラトの失政が目につく昨今、それは容易に想像できた。
それなのにイリヤに王位を勧めるというのは、それは自らは男だと主張するイリヤに、女王――女であることを強要することになるのだ。
そしてそこまで想像できるというのに、ヴァルトルは主張を曲げることができない。
「まったく、俺は頭が固い」
「それは十分承知してる。何年君と同じ屋敷で暮らしてると思ってるんだい」
イリヤは紅茶のカップを片手に軽く笑い飛ばした。
つられてヴァルトルもふっと口元を緩める。
「そうだったな」
王都からこの地方領に飛ばされて十年。
もうそれほども経つ。何もできず、この地方でただ十年。
幼馴染のこの三人で、今も王都にいるのは――いることを許されたのは――エヴェリーナただ一人。
「そうそう、今夜は吟遊詩人を呼んで演奏会が行われるそうね」
エヴェリーナが話題を変えた。
ヴァルトルもあえて戻そうとは思わないのでそれに乗る。
演奏会のことは確か今朝ヴァルトル付きの使用人が今日の予定で告げていた。
「街で今評判になっているらしいな」
そう言うとイリヤがさらに詳しい説明を追加する。
「実際に酒場でそれを聞いた使用人がいてね、是非屋敷でもと取り成したそうだよ」
「それは楽しみだわ」
「王宮で最高の演奏に聞き慣れている君にも楽しんでもらえると嬉しい。
それに旅の吟遊詩人の唄なんて、かえって王宮では聞けないだろう?」
「勉学ばかりで恥ずかしいことに芸術はあまり解さないのよ。けれど小父様が認めた腕ならきっと素敵な演奏なのでしょうね」
「その息子は芸術なんて興味がない武骨者だけど」
事実なので何も言い返せないヴァルトルだった。
そしてしばらく三人でお互いの近況話に花を咲かせたところで、ヴァルトル付きの使用人が声をかける。
バルトシーク侯爵家の嫡男であるヴァルトルは、地方領領主としての仕事を学ぶため、父である侯爵の補佐をするようになっていた。手を貸せという侯爵の呼び出しである。
ヴァルトルは残念そうに溜息をついて立ち上がる。
「すまない。もう一戦イリヤとできるかと思ったんだが、話し過ぎてしまったようだ。
また夕食の時に会おう」
模造剣を手に取り四阿を出ていく。
それをイリヤとエヴェリーナは見送ると、控えていた使用人にお茶とお菓子の追加を頼む。
これで四阿には二人だけになる。
見晴らしよく広い庭の四阿。人が寄ってこればすぐに気付く。
誰にも話が聞かれない。
「さてエヴェリーナ。最近仕事の調子はいかがかな?」
そう問うイリヤの眼は軽い調子の言葉とは裏腹に、剣呑にエヴェリーナを見据えていた。
ブラト王付の執政補佐官。
それが才媛エヴェリーナ・エギンである。
武のバルトシーク、智のエギンと並び称される、エリザベータと共にリエトを築いた由緒ある名家。
武のバルトシークは王都から追い出せても、智のエギンだけはブラトも追い出せなかった。
「アドリアナ姫の誕生会の準備で大忙しよ」
エヴェリーナはその視線を平然と受けて軽く返す。
「なんて、それも王宮を出てくるまでの話だけれど。
この時期に休暇を出されるなんて、エギンも追いやられたものだわ」
「なら今頃王宮は嵐のような忙しさだろう」
その言葉にエヴェリーナは苦笑する。
「そうね。戻った嵐の後は一体どんな有様なのかしら、心配だわ。
こうした催し物は如実に権力図が浮き出てくるんだから」
そう続けると、予めまとめてあったように王宮内部の動向を報告していくのだった。
――ヴァルトルは知らない。
こうしてイリヤが王宮内部の情報を集めていることを。