第1章-4 噂
十日かけて山を下り森を抜け、途中小さな村で一泊してさらに平原を三日かけて歩き街と呼べる程度の集落に着く。
リエトへはさらに国を一つ挟む。道程は遠い。
遠くはあるが、大きな問題もなく順調に旅路は進む。山中の行軍を思えば街道の何と歩きやすいことか。野盗はアランにかかれば物の数ではないし、路銀もヴィートが歌えばすぐに溜まった。アランは道中の護衛でもして路銀を稼ぐつもりでいたのだが、ヴィートのおかげでその必要はなくなり最短路を最短日程で進めるようになった。
また驚いたことにヴィートはどういう情報網を持っているのか、興行と称して酒場に出かけて戻ってくると、片手に土産の情報をぶら下げているのだった。噂に強いというのは事実らしい。
ヴィートを協力者にして正解だったと認めざるを得ない。
「お前には随分借りを作ってしまったな」
「何言ってるんだい。ついて行きたいと言ったのは俺だし、唄の題材っていう対価もきっちり貰ってるだろ」
事も無げにヴィートは笑って言う。
せめて華々しい交代劇を披露するのが彼へ貸しの返し方だろうか。
けれどそれを不可能にしかねない信じられない――あるいは信じたくない事実をもたらしたのは、一月かけてリエトの国境手前の街までたどり着いたときのことだった。
「アラン、聞いてくれ。俺はとんでもない話を聞いてきたんだ」
先に宿に戻っていたアランに、ヴィートは部屋に入るなり言った。
小さなテーブルに荷物を広げて整理していたアランは、手を止めて顔を上げる。
リエトへ向かうこれまでの道中、ヴィートともすっかり馴染んでいたが、ここまで深刻な顔を見るのははじめてだった。
「なんだ?」
硬い声音で先を促す。
ヴィートは商売道具のリュートをベッドの上に下ろすと、自分もその端に腰掛けた。そして一息ついて気を落ち着けてからようやく話を切り出す。
「そうだな――結論から話すよりも順を追って話そう。その方が分かりやすいし、それに受け入れやすい」
ただならぬ様子に、アランも身構えて椅子の向きを変えヴィートに体ごと向き直った。
「いやそれこそ結論から語った方が劇的だろうか。意表もつける」
「いいから話せ」
あらぬ方向に考え込むヴィートにつっこむアラン。今の彼はその話とやらを効果的に盛り上げる旋律まで練り上げているに違いない。
「わかった、では急かすようなら結論から。
イリヤ殿下はどうやら男らしい」
「は?」
いやいやいやいやいやいやいやいやいや。
思考が体が表情が固まる。
それが事実なら男の自分が恋した相手が男だということになるではないか!
いくら幼少期の性別は分かりづらいとはいえそれはない。イリヤは確かに女だった。
そうだ。大体イリヤが生まれた際は将来の女王誕生と華々しく国中で祝われたはずだ。
それなのに男であるはずがない。
アランは止まっていた思考を進める。
「ヴィート、急かして悪かった。順を追って話してくれ」
「いいとも。
俺もその話を聞いた時、勿論当然この耳を疑ったさ。先王の娘イリヤ殿下は男でした、なんて、センスもない出来の悪い冗談だろうってね。
何しろ俺はイリヤ殿下が生まれたときに、国中が将来の女王の誕生を祝福したことをしっかりと覚えている。あの国中が歓喜に包まれた様子は忘れられないね。あちこちでお祭り騒ぎで祝い酒だ。
だから俺はどういうことかと詳しい説明を求めた。
するとまぁこういうことだ。
これまた信じられない話だが、実は男だと言われた後じゃあ頷くしかない。
体は確かに女らしいが、中身は男なんだとさ。
ああなんて理不尽だ!」
「――――――――――」
どうにも語りめいた口の説明にはもう慣れたが。
絶句。
中身――心は男。
そんなはずはない。
――でなければあの時あんな科白が出てくるものか。
あれはイリヤが女だから言えた科白。
それなのにこの噂だ。
どういうことかと考えるアランに、ヴィートはさらに事実を付け加えた。
「こんな大事、公にして国民に知られる訳にはいかないから、今じゃあ王宮を出されて地方の侯爵家に預けられてるらしい」
「王宮を出された!? 一体いつ!?」
「十年くらい前。先王が崩御して、今の王が即位するあたりの話だ」
アランは昔王宮に住んでいた。
そこを追い出されたのが六年前。先王が崩御しブラトが即位したのが十年前。
その四年の間、確かに姿を見せることもなく、大人達や使用人達に居場所を聞いても知らないと答えられるか言葉を濁されるだけだった。
母を亡くしたとはいえそれで長いこと臥せるような少女ではなかったから、アランに会い辛くなって避けられているのかとも思っていた。当時はむしろ勝気にもそんなはずはないから大人達が二人を会わせたくないからだと憤っていた気もするが、そもそも王宮にいなかったとは。
アランは椅子の背に深く凭れかかる。
「俺はそんな噂聞いたことなかったぞ――」
耳にしていれば否定して回った。それこそ王宮を駆けずり回っただろう。
王宮に――傍にいたというのに。
彼女が大変な時に何もしてやれなかった。
何をしてやれたかもわからないのに、その状況を知りもしなかった己の無力さと不甲斐なさが腹立たしい。
母を亡くして、男だと馬鹿げた言いがかりをつけられ住み慣れた王宮まで追い出されて――
と、アランはさらに思い出して苦い顔をした。
いちばん肝心な時に自分は傍にいなかったではないか。
先王が崩御した時はちょうど大臣の隣国周遊訪問に同行中だったのだ。
そうだ、王宮からの知らせよりも先に風の噂で王の崩御を耳にして、急いでリエトに戻ったが、それでも崩御から三か月以上が過ぎ葬儀も既に終わっていた。活気あるはずの王都が静まり返り、家々が戸に喪章を下げ深く悼む。先王が死んだのだという事実を容赦なく突きつけたあの光景。
そのアランが不在の時期に流れて揉み消された噂だから、それを耳にすることがなかったのだ。
間の悪い――
あまりにも重なり過ぎだ。そう――重なり過ぎではないか?
先王の死、イリヤの噂、ブラトの即位。
王が崩御し次の王が即位するのは順当な流れだ。だがそこにイリヤの噂が入るとどうだろう。
次の王を選定する時期に故意に流された、いやつくられた噂だとしたら?
途端に作為的ではないか。
「ははっ、そうかだからブラトのような奴がイリヤを差し置いて王になれたのか!」
イリヤの当時の幼さの為かと深く考えはしなかったが、それが理由だとすればいずれイリヤに王位を譲ることが前提だ。
けれどあの男にそんな殊勝さがあるはずはない。
「どういうことだい?」
冷静にヴィートが問う。
「イリヤは間違いなく女だ。だからこそ邪魔だったんだよ」
王が女王――エリザベータであることは、女王の国と呼ばれるリエトにとって重要な意味を持つ。先王のエリザベータ三世がいい例だ。先王は先々代のエリザベータ二世の長女であり第四子。三人の兄を差し置いて玉座に着いたのである。それほどまでに女王であることが重視されるのだ。
そしてその第一子、エリザベータ二世の長男がブラトだった。
王位継承順位は難癖で覆せても性別は理屈で変えられるものではない。
その理屈さえ捻じ曲げようというのだからあの男のいかれ具合には笑いさえ込み上げてくる。
「それで男だなんて到底信じられない出鱈目をでっちあげて、女王を継げなくしてついでに王宮を追い出した。
イリヤも当時は幼かったんだ、無理矢理言うことを聞かせて男のように振舞わせたんだろう」
自らの王位の為には殺しも厭わない男だ、命を盾に脅すくらいやっても驚かない。
当時のイリヤは五、六歳程度のはず。そんな出鱈目もまだ押し通せなくはない年齢か。あと数年もしてしっかり物心がついていれば通用しなかっただろうに。
ヴィートが深々と溜息をついた。
「先王が崩御してすぐにリエトを出て戻るのはこれがはじめてだけど、まさかそんな男が王になっていたとはね」
「なんだ、お前もリエトの出か?」
「いや。ただそれまで長いこと住んでただけさ。
それより今はこれからどうするかだろう? 今までの予定じゃまっすぐ王宮に向かうことになってたけど」
捨てられて捨てた故郷だ、リエトについて語り合いたい訳ではなかったし、語らう状況でもない。閑話休題とアランはそれ以上聞くこともなく話題を戻すことはしなかった。
「当然変更だ。ヴィート、イリヤが今どこにいるか分かるか?」
「もちろん一緒に聞いてきたさ。バルトシーク侯爵家だ」
答えがあっさり返ってくる。
だからそんな極秘であろう情報を拾ってくるお前はなんなんだ。
これを訊いてもただの吟遊詩人さと返されるだけなので、もう訊くのはやめている。
バルトシーク侯爵家。
代々女王と親交の深い家で、アランは少し胸を撫で下ろす。きっと悪いようには扱わないだろう。
けれどそれだけでは気掛かりは拭えない。
――男として振舞う。
それが今でも続いているとしたら。
それはなんて拷問だろう。
目的のついでではあった。
それでも――気づいてしまった。思い出してしまった。
だから願わずにはいられなかった。
男として振舞うことを強いられているのなら尚更。
彼女を女王に、エリザベータに――と。
あの男が簒奪さえしなければエリザベータであった彼女に。