第1章-2 吟遊詩人
最初に戻ったのは聴覚だった。
ごうごうと――水の流れる音。
肌寒いと感じる。
アランがうっすらと目を開けて周囲を見回すと、川の傍に寝かされているようだった。
だるさは残っているが、体には傷の痛みも痺れもない。
上半身を起こして自らの体を見下ろすと、傷などどこにもなかった。痕すらない。
そんなはずは――自分は竜と戦って酷い傷を負って――負いながらも勝って――そうだ勝った! そして血を浴びだ! 不老不死になったのだ!
竜の尾の一撃を受けたはずの腹や、爪が掠ったはずの腕をゆっくりと擦る。これが不老不死の効能か。古傷もかなりあったはずだがそれさえも消えていた。そのことは少し残念に思わないこともない。
親指を噛み千切るつもりで噛んでみる。鉄を噛むような固さだ。歯が触れる感覚はあるが痛みはない。
もう二度と傷つくことのない体になったのだ。
意識が一度途切れたことでようやく興奮もおさまっていた。冷静に自分は竜の騎士になったのだと静かに受け止める。
と――ようやくアランは気づいた。
なぜ見下ろしただけで傷の有無が分かったか。
血が拭われているのだ。さらに服を着ていない。足には毛布がかかっている。体にかけられていたものが上半身を起こした際に落ちたのだろう。
寒くないようにとの配慮か、傍には焚火が燃えていた。
「一体―――」
アランはさらに周囲を見渡す。
まだ周囲は明るいが、今の時期この辺りは夜が遅い為、時間の経過はよくわからない。場所は深い森の中だ。竜を倒した場所より標高は下っているらしい。急流がすぐ傍を流れている。
川縁で一人の男が屈んでいた。竜の血を浴びた後で声をかけてきた、あの金髪の男だ。川の中に突っ込んでいた手を引き上げると、うっすらと赤く染まった布が握られていた。
男が布を絞って立ち上がり、こちらを振り向く。
アランが起きたことに気付くと、彼は安堵の笑みを見せた。
「気が付いてよかった」
そう言ってアランの傍に来て腰を下ろす。
「介抱してくれたことに礼を言う」
「畏まらなくていい。
――俺はヴィート。君は?」
「アランだ」
「よろしくアラン。
血塗れの君をあそこにあのままにはしておけなかったから、水辺まで運ばせてもらった。途中で君の旅荷も見つけたから回収しておいた。服はぼろぼろだったから脱がせるときに破ってしまったが、替えぐらいその荷物に入ってるよな?」
自分の横に視線を投げると、そこには確かにアランの旅荷が置いてあった。竜殺しの邪魔になるので途中で置いてきたものである。よく見つけてくれたものだ。
「ああ、問題ない」
「ならまずは体を洗って着替えてきなよ。一応体は拭いといたし水温はかなり低いけど、その方がさっぱりするだろ。川岸の岩の陰なら水流も速くない」
「ありがとう、そうさせてもらう」
荷物から着替えを取り出すと、アランは川に向かう。
そして教えられた岩の陰の水を覗き込んで驚き困惑した。
流れの緩やかな水面に映っていたのは血の色。深く濃く暗い赤。その色が水中に広がりもせず留まり続ける。
数拍それを食い入るように見つめてから、それが自分の髪の色なのだとようやく気づく。
アランの髪は褐色だったはずだ。
血を被ったからか――
水で洗えば落ちるだろう。
アランは肩を落として川の中に足を入れた。その水温の低さに躊躇したくなったが、構わず水中に潜って頭まで濡らす。
わずかに水が濁る。
頭から体中洗ったところで川から上がり、もう一度水面を覗き込んだ。
「落ちてない――」
もう一度洗っても結果は変わらない気がした。
ぐしゃりと潰すように自らの髪を掴む。
血のような髪の色。
竜を殺して不死者となった竜の騎士にはお似合いか。むしろ厭わしい父親と同じだった髪の色でなくなり清々する。
アランは冷え切った体を拭いて着替えに袖を通した。
そして頭を拭きながら寝かされていた場所まで戻ってくると、ヴィートが湯気の立つカップを差し出してくる。
「コカ茶だ。冷えただろ」
「……………」
見ず知らずのアランに何から何まで至れり尽くせり。感謝しなくはないが、これでは逆に怪しいというものだ。
とりあえずそれを礼を言って受け取ると、ヴィートに倣って焚火の傍に腰を下ろす。冷え切った体が内側と外側から温まる。
「あんたもあの竜で不老不死になるのを目的に来たんだったら悪かったな。もう俺が殺した」
ある種の嫌がらせだろうかとアランは謝った。もしくは代わりに不老不死となったアランにやらせたいことでもあるのかと予想をつける。
竜を殺せそうな風体には見えなかったが、他にこんな場所に来る理由も思いあたらない。
男は飄々と答えた。
「まさか。俺に竜を倒せるほどの力はないさ。
風の噂でこの竜の棲む山に剣を持った男が向かっていると聞いてね。これは竜の騎士を目指しているに違いない、あわよくば不老不死の者とお近づきになれるかと」
「――近づいてどうする」
「そう警戒してくれるなよ。
――君を題材にしていい詩曲が作れないかと期待したんだよ」
そして男は言った――歌うように。
「俺はしがない吟遊詩人さ。
だから知りたいんだ。君がなぜ不老不死を求め、そして不老不死となったこの先どんな運命を歩むのか」
胡散臭すぎる。
道などない山の中、街道を歩くとはわけが違う。体力だけあっても準備がなければ獣の餌。この名もなき山脈はそういう場所である。
旅歩きとはいえ吟遊詩人が来れるような場所では――
と、ヴィートが自分の後ろに手を伸ばし、そこにあった革張りの大きなケースをとった。それを開けて中から取り出したのはあろうことか本当にリュートだった。