序
一部グロい描写が出ますので苦手な方はご注意を。
ポシャンッ…と椿が音の方向へ目を向ければ、庭の池の中を蛙が悠々と泳いでいた。
垣根に植えられた赤い花は今が盛りで、獅子おどしの音に合わせてさわさわと揺らいでいる。よくありがちな金持ちの庭を模して造られたそこは、手入れは行き届いているがいささか淋しげだった。
「どうかしましたか、姫」
目の前には学生服を着た青年がお盆片手に立っている。長い前髪で表情は窺えないが、椿が唯一信頼している人物、御影静だった。
久野椿は小さく首を振ると、目の前で湯気を立てている朝食に手を合わせた。
「いただきます」
古いちゃぶ台に置かれたご飯、味噌汁、あじの開き。いずれも質素だが見た目良く食欲を誘う匂いが漂っている。しかし椿と御影は表情一つ変えることなく、黙々と箸を口に運んでいた。
小さく聞こえて来るのはテレビのアナウンサーが告げるニュースだけ。
『また殺人事件です』
5月に入って何件目かの連続殺人事件の続報。犯人は未だ捕まらず現場が比較的近い場所であったことから、椿の通う学校では毎日のように注意を呼びかけていた。
「最近物騒になりましたね」
ちらりとテレビに目を向けた御影が、お茶片手にしみじみと呟く。
椿は箸を置くと、たいして興味なさそうにテレビ画面を見やった。
「躍起になって取り上げているだけで、昔から殺人なんて日常的にあったさ。それより年金問題の方が私は気になるね」
「貰えるかどうか分かりませんし、今は学生ですからね」
「払うのは義務だが、しかし私の場合は……」
「『久野椿』が成人してから考えましょうか。まだ先は長いのですから」
急がないと遅刻しますよ、と促され椿は食器を片付け始める。
八畳程の居間、その横に台所がありそこも一般家庭と比べるとかなり広さがある。他も似たような大きさで、住んでいる椿自身何部屋存在しているのか忘れてしまう程の数だった。
全て御影による『姫』に相応しい邸宅を、という考えによるものだ。
もっとも『久野椿』には領地はなく、姫と御影が一方的に呼んでいるに過ぎない。何度異論を唱えた所で、御影には変える気はないようだった。
「お待たせしました。行きましょうか」
お弁当の包みを渡され、椿は御影と共に家を出る。
外は雲一つない五月晴れ。
周りの風景が時代の流れに変わっていっても空の色だけは変わらないと、椿は口元をほころばせる。
ヒラヒラした制服にも使用頻度の少ない携帯電話にも今は慣れた。
『久野椿』都立高校2年。それが今の椿を表す存在証明だった。