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第一話/魔の道を往く者達

 少女――朝霧麗奈あさぎりれいなは走っていた。全力で、今にも崩れ落ちてしまいそうな程に。

(な、なんだって言うのよ……あれは……!!)

 駆ける。疾走する。その度に下半身が悲鳴を上げ、呻き、軋むが――構わない。

 そんな事よりも優先すべきものがある。それは自分の命。もし少しでも気を緩めてしまえば最期、少女は呆気なくこの世からいなくなる。全身を噛み砕かれ、咀嚼され、飲み込まれてしまう。そんな危機感が彼女の脚を動かせた。とっくに限界は超えているし、吐き出す息は切れぎれで呼吸さえままならない。それでも襲い掛かる死への恐怖が彼女の背中を押していた。

 長い茶色の髪を一つに纏め上げ――一般的にポニーテールと呼ばれる髪形だ――、すらりと伸びた体躯は、下手な同年齢の少年達よりもしっかりとしている。百七十センチ、という、女の子にしては高い身長を持ちながら、しかし、少女はどこか可憐な雰囲気を残していた。人形のように整った少し幼さの残る顔立ちと、白く美しい肌がそう思わせているのだろうか。

 服装は夏の季節にピッタリな薄桃色のTシャツに純白のミニスカート。細いがしっかりとした長い脚には黒のハイニーソックス。靴は白と赤の混ぜ合わさったスニーカーで、そんな格好から、彼女が運動をする人間だという事がはっきりと解る。

 そんな少女――麗奈れいなの脚力は、やはり優れていた。彼女は学生だが、同学年、下手をすれば全学年中でもトップクラスの実力を持っている。

 そんな麗奈でも限界は限界だった。もはや、かれこれ二時間以上は走り続けている。背後に迫る凶暴な気配は未だ衰える事はなく、むしろ次第に近付いてさえいるように感じた。このままではまずい、と頭では理解出来るものの、これ以上駆ける速度を上げるのは無理だった。

(誰か……誰かいないのっ!?)

 そんな心の叫びも、もはや何度目か。しかし今は夜――深夜零時を回っている。そして、彼女が今走っている場所は街外れの倉庫街。どう足掻いても、人の気配を感じる事はなかった。

 街の方へ逃げれば、と何度思ったか解らない。けれど、今自分の背後に迫っているソレは尋常じゃない。狼とか熊とか、そんな可愛らしいものですらない。

 ――一言でいえば、怪異バケモノ

 追う速度はそこまで速くない。平均的な人間の走る速度と同じか、それより少し下ぐらいのものだ。だから最初は振り切れると思った。ソレと対峙した時、その姿を脳裏に焼き付けてしまわなければ。

 人型である事は間違いない。しかし、頭の天辺から爪先に至るまで、それは人間とは程遠い姿形をしていた。まるで屍。魚のように尖った輪郭をした頭部は完全にただれていて、全身は黒く染め上がり、身体の節々から骨のようなものが飛び出ているし、腕や脚と思われる部位は歪み切っていった。動く事すらままならないのではないかと思える程の姿。怪異バケモノ、と形容せずにはいられなかった。

 何故、どうして自分が追われているのか。その理由は解らない。しかし、理由を問い詰められるような相手とはとても思えなかった。だから、麗奈は逃げ出した。自慢の脚力を駆使してしまえば、あの程度の相手ならすぐにでも撒いてしまえると思った。

 けれど、駄目だった。

 網膜に焼き付けたあの姿を思い返す度、麗奈の身体は震えた。自分の背後に怪異バケモノが迫っている――そう考えるだけで、身体は竦み、力が抜ける。全力で駆け抜けているつもりでも、身体は素直だった。

 それでも命の危険に変わりは無い。ただ、今出せる全力で麗奈は疾走する。脇目も振らず、ただ真っ直ぐに。もはや倉庫街を何週したか解らない。街へ戻る事だけは出来なかった。そこに人はいるだろうが、こんな怪異バケモノが街へ繰り出せば何が起こるのか――それを想像しただけで、麗奈は自分の死と同じぐらい恐怖した。

 体力はとうの昔に尽きている。このままではいずれ倒れてしまう。そうなったら、あの怪異バケモノは自分に襲い掛かるだろう。一体どうすればいいのか――麗奈は必死に考える。走りながら、身体が訴えている悲鳴を無視するように思考する。

 しかし、解決案は見当たらない。人を探してもいるはずがないし、そもそも人がいたところで何が出来るというのだろう?

 静寂と暗闇が支配する倉庫街に、二つの足音が響く。

 ――これ以上はもう、無理だ。

 麗奈は限界を突破しながらも、自らの身体を極限までに動かして、そして感じる。

 光明はない。救いは訪れない。どうしようもない。これは全て運命だった。最初から、逃げ切れるはずがなかったのだ――。

 麗奈の身体がここまで稼動していたのは、ただひたすらに意思の力によるものだった。それが崩れようとしている今、彼女の身体が崩れてしまうのも近かった。

 そして、遂に。

「――ッ!? きゃあぁっ!!」

 なんでもない、ただの段差だった。今までならちゃんと避けていた、飛び越えていた、その程度の段差。しかし、限界を超えた麗奈の身体は、遂にその段差に躓いてしまった。

 ――終わった。

 麗奈は覚悟を決める。ここで倒れてしまったら、もう立ち上がれるはずがない。もともとそんな力は残っていないのだ。ここまで走っただけで奇跡。呼吸は荒れ、身体は軽い痙攣を起こしている。

 ここまでだ、と麗奈は悟った。

 近くから足音が聞こえる。そして、それは麗奈のすぐ傍で停止した。

「ぐ、あぁっ……!?」

 ふいに頭を掴まれる。そのまま持ち上げるようにして麗奈の身体が宙を浮いた。

 身長の高い麗奈を簡単に持ち上げるのだ、恐らくこの怪異バケモノはかなりの大きさなのだろう。そんなどうでも良い事が脳裏を過ぎっている内に、今度は麗奈の服――薄桃色のTシャツが破かれた。

「グゥアァ――」

 低い獣のような呻き声を吐き出しながら、目の前の怪異バケモノは頭を掴んだ手を離さずに、もう片方の手で麗奈の服を破り捨てたのだ。まったく予想外の出来事に、麗奈の頭は動転する。

 シャツが破かれ、白く柔な肌が曝される。元々軽い外出のつもりで家を出てきたせいか、ブラの一つも着けていない麗奈の胸元は完全に剥き出しになっている。

「くっ……!!」

 羞恥心よりも、屈辱感が麗奈を襲った。こんな怪異バケモノが自分の身体をどうしようというのか。そもそも何故こんな真似をするのだろう。さっさと殺してしまえば良いのに。麗奈はもはや気が狂いそうにさえなっていた。

 漆黒の怪異バケモノは、シャツを破り捨てるだけでは飽き足らず、今度は彼女のスカートにまで手を伸ばした。これ以上の恥辱は耐えられない――麗奈はそう思い、自らの舌を噛み切ろうとして、

「グ――ォ――アァ――!!」

 どさり、と麗奈の身体が地面に落とされる。呻き声を上げているのは、先程まで彼女を掴み上げていた怪異バケモノだ。膝を付き、何かに苦しんでいるような素振りを見せる。

(な、なに……何が起こったの……!?)

 急な出来事に戸惑いを隠せないまま、麗奈はここぞとばかりに力を振り絞った。身体がぐらつくが、文句は言っていられない。舞い降りた絶好の好機を逃すわけにはいかなかった。持てる全ての気力を使い、麗奈は立ち上がる。そして――そうする事で、ようやく気が付いた。

 怪異バケモノの背後に、一人の少年が立ち竦んでいる。少年、とすぐに形容できたのは、それが学生服に身を包んでいたからだ。良く見知ったその服装は、彼女と同じ高校の制服だった。

 少年は怪異バケモノを睨みつけていた。麗奈に対して一瞥もくれず、ただ冷徹な瞳で黒い怪異バケモノを見下しながら、一歩、一歩と近付いていく。

 その手には一冊の本が握られていた。場違いなその分厚い本は、次の少年の一言によってその形を変貌させる。

「――『アル・アジフ』」

 その瞬間、本は宙に浮かび、光を放つ。ばらばらとページの一枚一枚が破れ、意思を持つように少年の周囲を飛び回る。少年はただ静かに手を天に掲げて、それらを自らの手元に集めた。

(な、なに……これ……)

 麗奈は、自分が正気を失っていると思った。むしろこれは夢なのではないか。あの怪異バケモノに追われた事も、こうして目の前で起こっている不可思議な現象も、何もかもが夢ならどれだけ楽なのだろう。

 だが、麗奈は解っていた。それがただの現実逃避でしかない事を。自分が正気を失っているわけでもない事を。それでも、そう思わなければ理解出来ないような光景が、彼女の目の前で展開されているのだ。

 やがて、少年を包んでいた光は彼の右手に集約し、一つの形を作っていた。

 それは――剣。

 本であったはずのものがバラバラに飛び散り、集まり、別の形を作り出したのだ。

 少年はその剣を空高く掲げた。その瞳は未だ怪異バケモノへと向けられている。

「闇を屠るは光、悪を断つは神の裁き。外なる異形は世に在らざるもの。我は魔を持って神の術を行使する――」

 唱えるように言って、少年はその剣を振り下ろす。

 その先にはあの怪異バケモノがいる。怪異バケモノは呻き声を上げる暇さえないまま、その一刀を受けた。

 汚らわしい血が飛び散る事もないまま、綺麗な一筋の光は怪異バケモノの身体を真っ二つに両断していく。その切断面からは光の粒のようなものが現れ、怪異バケモノの身体は次第に光となって消えていった。

 そして、数秒としない内に、怪異バケモノは跡形も無く消え去っていた。

「す、すごい……」

 目の前で繰り広げられた光景に、麗奈は感嘆し、呟いた。

 その瞬間――気の緩んだ身体が一気に疲労を訴えて、麗奈は糸の切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。


  ◆


 少年、神門悠奇みかどゆうきは、高校生にして既に天涯孤独の身であった。

 幼い頃に母親が病死してからずっと悠奇は父親と二人で暮らしていた。男二人で何かと苦労したのを覚えているが、それでも何とかやってこれていた。家事全般は悠奇がしっかりとこなしていたし、父親は仕事だけは立派にこなせる人だった。少々酒グセが悪かったが、それでも悠奇は父親に一度も殴られた事はないし、怒鳴られた事もない。

 二年前の事だ。悠奇が中学を卒業しようという、まさにその頃――父親の古くからの知り合いであり、古書店の店主を務めている一人の男、大道寺だいどうじから電話があった。内容は父の失踪を知らせるものだった。詳しい話は解らない。ただ、一週間も父親が家に帰らなかった間、仕事先に一度も顔を見せていないという話を聞かされた。

 数日間、父親が家を空ける事は良くあった。けれど、それは大抵が仕事絡みでの事だ。それでも悠奇は父親が帰ってくると信じて、ひたすらに待ち続けた。結局、父親は未だ帰らない。二年の歳月が過ぎた今現在、悠奇は一人で暮らしている。

 最初は大道寺から一緒に暮らすかと誘われた。だが、悠奇は父と暮らしたこの家を出るつもりはなかった。いつ父が帰ってくるか解らない。もしかしたら、明日にでもひょっこり戻ってくるかもしれないのだ。そんな淡い期待から、悠奇は一人で家に残った。何の変哲もない一軒家だが、幸いな事にローンは残っていないし、父親がいない今、全ての財産は子である悠奇のものという事になっているらしかった。

 とは言え、父親が残した貯蓄はお世辞にも多いとは言えなかった。高校入学にあたり、悠奇は推薦を貰っていた。頭の良かった悠奇は、中学でトップクラスの成績を残していたのだ。高校に進学する時も、手持ちは少なかったが推薦のお陰でどうにかなったし、学費も奨学金で済ませている。将来に不安が無いと言えば嘘になるが、それでも悠奇はなんとかする自信があった。

 そんな事がありながら、けれども悠奇の人生は全てが平凡に、慎ましく進行していくはずだった。一人の少女――ナイアルラトホテップと出遭うまでは。

「それにしてもお人好しですね、悠奇。あのまま置き去りにしてしまえば良かったのではありませんか?」

 深夜、悠奇は自宅へと戻っていた。今日は倉庫街で発生した異形の処理。そして、巻き込まれた一人の少女を背負い、連れ帰ってきたところだった。帰ってきた悠奇を迎えたのは、呆れ顔で溜め息を吐く一人の少女。

「なんだ、視てたのか。それなら彼女を運ぶの手伝ってくれても良かったのに」

 特に本気でそう思っているわけでもないが、なんとなく皮肉が口に出ていた。悠奇はいそいそと玄関からリビングへと向かう。その後ろを付いてくる少女。

「あ、そうだ。彼女、脚を痛めてしまってるみたいなんだ。悪いけど、冷凍庫から氷出して、水と一緒に持ってきてくれる? あとタオルも」

 何気ない口調で背後の少女へ言う悠奇。背負っていた少女を優しく抱きかかえて、リビングにあるソファへと寝かしつける。

「……貴方はつくづく人使いが荒いですね」

 ボソ、と呟いて、少女はキッチンへと向かった。

「おかしな冗談を言うんだな、君も。君がいつ人になったんだよ、ナイア」

 ――ナイア。それが少女の名前、いや、呼び名であった。正式名称はナイアルラトホテップ。一ヶ月前、悠奇の前に現れた人ならざるもの――強いて言えば神のような存在だ。

 腰まで届く黒い長髪。子供のような体躯に褐色の肌。服装は悠奇が適当に見繕ったもので、細かなフリルの付いた白のワンピースを身に纏っている。ナイア曰く「白は私には合わない」らしいのだが、全身が黒っぽい彼女にはこれぐらいが丁度良い、というのが悠奇の意見であり、ナイアもそれを聞いてからは特に文句を垂れる事もなかった。

 そんな彼女の姿は偽りに過ぎない。あくまで人である悠奇に近付く為に偽装しているだけのものであり、本来の姿は別にある――らしい。悠奇はまだその姿を視た事が無いし、今の彼女の姿が割と気に入っているので、変えて欲しいとも思わないのだが。

「ふふ、確かに。私もそろそろ人間に染まってきてしまっているのかしら」

 少し楽しそうに答えるナイアは、悠奇の言う通りに準備を進めた。最初は嫌がっている素振りを見せていたが、何だかんだで悠奇には甘いのが彼女である。

「そうだったら良いけどね。ほら、手伝うよ、ナイア」

 連れて来た少女を置いて、悠奇もキッチンへとやってくる。

「要りません、一人で充分です。そんな事より、質問に答えて欲しいものですね」

「え、質問?」

「そうです。もう忘れてしまったのですか? 彼女の事です」

「ああ、それか……」

 悠奇はナイアの言葉などお構いなしに手伝いを始めながら、記憶を辿る。

 異形のもの――喰屍鬼グールに襲われていた少女。彼女を助けたのは偶然だった。元々、悠奇は異形を狩る為に深夜の街を徘徊していたのだ。そうしてようやく見つけ出した異形が一人の少女を襲っていた。いつも通り作業の如く異形を退治したのは良いものの、そこには倒れた少女が一人。上半身裸の少女を放置するわけにもいかず、着ていた上着を着せてから、悠奇は少女のポケットを探って携帯がないか確認した。

 しかし、どうやら彼女はまったくの手ぶらで外出していたようで、携帯はおろか財布さえ持ち合わせていなかった。結論として、まずは自分の家へと連れて行く事にしたのだ。

「――さすがに、あんな場所に置き去りなんて可哀想だろ?」

 ひと通りの説明をした悠奇であったが、そんな彼を見つめるナイアの表情は呆れていた。

「だから人が好過ぎると言っているんです、もう。大体、これは立派な『誘拐』というものではないのですか? 人間としての常識は知識でしかりませんけれど」

「あー……」

 ナイアがそこまで言って、どうやら悠奇は初めてその事に気が付いたようだ。

 今度こそ、ナイアは心の底から深い溜め息を吐いた。

「まあ、ナイアには関係のない事だから、良いじゃないか」

「大有りです! これでも一ヶ月と一緒に暮らしてきたのですから、少しは同居人の苦労と言うものをですね――」

「……ぷっ。あはははっ」

「な、なにがおかしいのですか、悠奇っ!」

 急に笑い出した悠奇を見てナイアは頬を膨らませる。外見が幼いだけあって、子供が怒っているだけのようで、どこか微笑ましい。

「いや、君も随分と人間らしくなったものだと思って。うん、僕としては嬉しいところではあるんだけどね。ちょっと面白くてさ」

「誰のせいですか、まったく……」

 悠奇がナイアと同居を始めて一ヶ月。そもそも、何故こんな事になったのか。それは、二人が出遭ったあの夜が発端になる――。


  ◇


『――魔術師? 僕が……?』

 深夜の路地裏、少年と少女は向かい合うようにして立っていた。少年は普通の人間だったが、少女は普通でも人間でも無かった。

 顔が無い。それは、それだけで異質だった。人の姿をしていながら、その部分だけが暗い闇に覆われている。渦巻く闇。底知れぬ混沌。少年、悠奇は自らの眼を疑ったが、それは現実のモノとしてそこに在った。

 彼女は己の事をナイアルラトホテップと名乗り、神々の使いだと言った。それが冗談でも狂言でもない事は、彼女、ナイアの顔を見れば一目瞭然だった。

『そうです。魔術師。貴方にはその素質があります。いえ、素質どころではない……それが貴方の本質・・であると言っても良いでしょう』

『意味が解りません。僕が、魔術師……? というか、魔術師って何なんですか?』

『魔術師――その名の通り、魔術を行使するもの。魔導を往く孤高なる存在。神の力を御し、それを自らの力とする者達』

『訳が解りませんよ、どうして僕がそんなものだと? それに貴女は……』

『私は、私の仕える神――アザトースの意思に従い、この世界に魔をもたらすもの。知性を持った神の御使い。這い寄る混沌。ナイアルラトホテップです』

『それは……解りました、けど……』

 悠奇はこれでも自分は理解力の高い方だと思っていた。どんな物事にも動じず、冷静に判断出来ると思っていた。しかし、これだけは別だった。理解不能。意味不明。未だにこれが現実なのだと受け入れられない自分の心がそこにある。

 それでも、悠奇は言葉を紡ぐ。問い掛け続ける。これが夢ではないのだとすれば、理解しなければならない。知らなければならない。今、自分に起こっている現実を。

『あの、それでは……ナイアさん、でしたか?』

『ナイアルラトホテップ、です』

『えっと、ナイアルラ……ああ、長くて舌を噛みそうだしナイアさんで良いですよね?』

『な――』

 悠奇がそう言うと、ナイアは明らかな動揺を見せた。そんな彼女の反応を見て、悠奇は一つ、思い付いた。

『ともかく、ナイアさん。僕は貴女の事を知らなければならないみたいです。その、魔術師っていうのも。けれど、その為には対話が必要です。他の誰でもない、貴女と』

『ええ。質問でしたらいくらでもお答えしましょう。貴方がりたい事は、全て私がお教えします』

『だったら、まずは顔を見せてくれませんか?』

『……顔、ですか?』

『勿論、無理にとは言いません。でも、僕はただの人間です。ただの人間である僕からすれば、目も見れない相手と会話するなんて、どうしても抵抗があるんですよ』

『成る程。貴方の言い分は理解出来ました。私も神の御使い。顔を創る程度の事ならば造作も有りません――』

 そうして、一瞬の瞬きの間。悠奇の前に現れたのは一人の少女。今度こそ、何処からどう見ても人間の少女にしか見えない。その顔は幼いながらも美しく整っていて、先程までの彼女とはまるで違う印象を与えていた。

『…………』

 悠奇は、その姿を眺めて――何か、得体の知れない感情を抱いた。

 それは本当に人では無かったのか。本当は最初から黒い仮面のようなものを被っていただけで、彼女は自分と同じ人間だったのではないのか――。

『どうかしましたか、神門悠奇?』

『あ、いや、ううん……なんでも。ええと……ナイア、さん。それじゃあ、まずは提案なんだけれど――』

 悠奇は、確かめたくなった。自らに起きている出来事が一体何なのか。この少女は何者で、魔術師だとか、神がどうとか、それら全てを知りたいと思った。ただの知的好奇心だけでは説明が付かない。心の奥底で、自分の中にある『何か』が求めるように鼓動する。高揚感が悠奇の身体を駆け巡る。

『――まずは、僕の家まで来ませんか?』

 気が付けば、悠奇はそんな事を口にしていて。

 面食らったような表情をしながらも、ナイアはそんな彼の提案に黙って頷いていた。


  ◇


「それで、どうですか? 魔術師としての活動は」

 少女の手当ても終わり、一階にある客室のベッドに寝かしつけた後――悠奇とナイアはリビングでソファに座りながら会話していた。ナイアの手にはバター味のクッキーが摘まれている。それは彼女の好物だった。一度食べてからというもの、それから毎日のように頬張っている。その事を指摘すると、頬を膨らませながら否定されてしまうが。

「急にどうしたの?」

「むぐ……一ヶ月、正式にはまだ二十八日程度ですが、貴方が魔術師として生まれ変わってから、それなりに時間も過ぎています。魔導書も貴方に懐いているようですし、順調だとは思うのですが――」

「僕自身の事?」

「簡単に言ってしまえばそうなります。最も、身体的な部分で心配をしているわけではありません。問題は精神――貴方の心です」

「ん……」

 悠奇は思い耽る。魔導書『アル・アジフ』を手に入れたあの日。魔術師となる事を決意し、ナイアの言うとおり彼は魔を行使するものとなった。あれからおよそ一ヶ月。思えばめまぐるしい日々だった。時間なんてあっという間に過ぎるのだという事をまじまじと感じていた。

 魔術師の使命。それは、この世界に出現する異形のものどもを退治し、昇華させる事。

 異形のもの――その姿形は様々で、今日対峙したのは喰屍鬼グールと呼ばれる人型の異形だ。それらはこの世界とは違う別の世界、言うなれば異界から遣ってくる。そのほとんどは何らかの事故によって迷い込んでくるものが多い。ナイア曰く、世界の狭間にある空間に歪みが生じている事が原因らしい。

 そのナイア自身もこの世界の存在ではない。異界の神、アザトースと呼ばれるものの使いとして、この世界へと遣ってきた。その目的は、悠奇のような魔術師を目覚めさせ、その力を行使させる事。世界にとって異物でしかない異界の異形は、野放しにすると世界同士の均衡を破ってしまう恐れがあるらしく、それを未然に防ぐ為の存在が魔術師、というわけだ。

 悠奇はこれまで既に十を越える数の異形を倒してきた。初めは恐怖こそしたものの、次第に魔術師としての自信も付き、今ではまるで日々の雑務のように異形を退治している。その事に不満は無いし、最早当たり前の事として受け止めていた。

 だが、そんな悠奇を観てきたナイアは、悠奇の心を気にしていた。平然としているようで、その実は壊れてしまっているのではないかと、時折不安になるのだ。神の使いである自分が気にするような事ではないと解ってはいるのだが。

 悠奇もナイアの心境は解っていた。これでも一ヶ月近く共に暮らしていた相手の事だ。慢心するわけではないが、悠奇はそれなりに彼女の事を理解しているつもりだった。

「……なんだ。僕の事、心配してくれるの?」

 だから、こんな軽口も平然と叩けてしまうのだった。

「わ、私は別に貴方の心配なんてしていません! 大体、人間如きの心配をする神がどこにいると言うのですか!」

「ごめん、冗談だよ。そんなに大声出しちゃ、近所迷惑でしょ」

「っ……!」

「ナイアの言いたい事は解るよ。いくら魔術師になったとは言え、未だにアレには慣れない。『アル・アジフ』――魔導書『ネクロノミコン』の狂気はとてつもないよ。毎晩夢に視るくらいだからね」

 魔導書。それは、魔術師が力を行使する為の媒介となるアイテム。その内容は魔導書によって違うが、多くは『異界』についての記述――中には異界の神を召喚する方法を記載したものもある。そして、全ての魔導書に共通する事はその狂気性。記述された文面から読み取れるものは著者の狂った闇そのものだ。

 大体の人間ならば一度読んでしまえば最後、最悪のケースとして廃人になってしまう事もあるらしい。常人を越えた存在である魔術師となった今でさえ、悠奇は魔導書『アル・アジフ』を紐解こうとは思えなかった。こうして手に持っている今でも、普通の力では開けないように封印を施してある程だ。

 魔術師は力を行使する際、魔導書に宿る力――魔力を引き出す。魔導書に宿る魔力は、その狂気性が強い程に多く存在している。悠奇の所持する『アル・アジフ』は、ナイア曰く「最高位の魔導書」らしい。つまり、その狂気も相当なもののはずだ。

 それをまだ魔術師になって一ヶ月も経たない悠奇が耐えられているのか、それが不安なのだろう。

「けど、大丈夫。僕だって言われたままホイホイと魔術師になったわけじゃない。ちゃんとした目的もある。他の誰でもない……僕は自分自身の為に魔術師になった。後悔はしてないし、この程度の狂気に負ける程、柔な精神こころはしてないよ」

 そう、悠奇には目的がある。

 決して、ナイアに言われたからという理由で魔術師になったわけではない。

 ましてや、世界の均衡を守るだとか、異形の魔の手から人々を救いたいだとか、そんな正義を振り翳しているわけでもない。

 ただ一つの目的の為に、悠奇は魔の道を歩む事を決意した。

 それは容易い道ではない。けれど、それでも――今までの自分を全て投げ捨ててでも、成し遂げなければならない程の理由が出来た。

 だから、少年は突き進む事を恐れない。狂気に身を侵されそうになっても、耐え抜いてみせると決めたのだ。

「そうですか、それなら……良いのですけれど」

 しかし、そんな少年の迷いの無い真っ直ぐな瞳は、少女の心を揺らがせる。

 神の意思の赴くままに、全ては順調に進んでいた。彼を選んだ自分の目は間違いなかったと今でも言い切れる。それなのに、ただの人間が相手だと言うのに、何故こうも感情を動かされるのだろう――ナイアは、まるで自分が本物の人間になってしまったようで、それでも、そんな気持ちになる自分が嫌にならない事が心底不思議で仕方がなかった。

「さ、時間も遅いしもう寝よう。今日は色々と疲れたしね。……おやすみ、ナイア」

 そんな彼女の心境に気付いたか否か、悠奇はソファから立ち上がり、ただそれだけを言って自分の部屋へと向かった。

 少年の背をじっと眺めていた少女は、そのままソファに倒れ込み、目蓋を閉じた。


  ◆


 幸いな事に、今日は日曜日だった。学校は無いし、特別な用事の一つも無い。

 だから、朝からリビングが騒がしくても無視して布団の中で我関せずを貫けたし、そもそも休日は昼前までだらだらとベッドの上で過ごすのが日課であり、部屋には鍵を掛けてあるから誰の邪魔も入らないわけで――。

「いい加減に起きなさい悠奇っ!!」

 ドカーン、とここまで来れば気持ちの良いくらいの解りやすい破壊音と共に、そんな彼の防壁は一瞬にして崩れ去った。魔術で吹き飛ばされたわけではない。純粋に物理的な力によるもの――ようするに蹴り飛ばしたのだ。

「……はあ」

 布団の中で深く溜め息を吐く。安眠を妨害された事よりも、正直、扉が壊された事の方がショックが大きい。まさかそこまでするとは思っていなかった。

「目が覚めているのは解っているのです、は・や・く……起きなさい!!」

 そう言って強引に被っていた布団を引っぺがしたのは、言うまでもない。ナイアだ。

「……おはよう、ナイア。今日も可愛いね」

 寝惚け眼をこすりながら、悠奇はむくり起き上がりながら冗談交じりに挨拶をする。

「当たり前です、可愛くないなどと言われたらすぐにでも顔を創り替えて――って、そんな馬鹿な事を言っている場合ではありません!!」

 いつにも増して機嫌悪そうに怒声を浴びせてくるナイアの姿を見て、悠奇は朝の喧騒を思い出す。リビングが騒がしかった事は覚えているし、それが誰と誰によるものかも大体は見当が付く。その時はあまりに面倒だったから二度寝を決め込んだが、今考えてみればそれは彼女が目覚めたという事だ。

「どうしたの、そんなに怖い顔して」

「どうしたもこうしたも……ああ、忌々しい!! あの女ときたら、自分が助けられたとも知らずに好き放題……っ!! 良いから、とにかく悠奇もリビングに来て下さい!!」

「解った解った、とりあえず着替えてからね。何があったか知らないけど、僕が行くまでに場を鎮めておいてよ。正直言って、他人を宥めるって行為はあまり得意じゃないんだ。今の君みたいなのは特にね」

「知りません!! 元はと言えば貴方が――」

 ナイアがそこまで叫ぶように言い放った時、部屋の入口に人影が見えた。

「ちょっと、煩いんだけど。一体何……」

 そこには一人の少女が立っていた。それは、昨日助けたあの少女だった。

 少女は悠奇と目が合うなり黙り込んでしまう。

 しばしの静寂。

 それを破ったのは――ナイアだった。

「貴女……リビングで待っていなさい、と言いませんでしたか?」

 ナイアは上から目線の高圧的な口調で少女に向けて言い放つ。身長だけで言えばどう見ても雲泥の差があるのだが、ナイアは神なのであって、悠奇からすればそんな彼女の態度も許せるというものだ――けれど、目の前の少女からすれば、それは自分より小さな子供の言葉と変わらないわけで。

「えっと……キミ、もしかして……昨日の?」

 しかし、既にナイアの態度には慣れてしまっているのか、少女は無視を決め込みながら悠奇へと問いを投げかける。昨日の倉庫街での戦闘――戦闘と呼べる程のものでもなかったけれど――の時、一瞬だったが彼女は悠奇の姿をはっきり見ていた。悠奇が魔導書を行使する瞬間も、魔力で編み出した剣によって異形を昇華させる瞬間も、全て。

「あー、その……」

 悠奇は、どう説明すれば良いのか悩んでいた。彼女はあくまで普通の一般人。異形に襲われたとは言え、それだけでこちら側の事情を話してしまうわけにもいかない。だが、それではどう考えても納得は出来ないだろう。彼女は見てしまったのだから。

「もしかして、あたしを助けてくれたのって、キミなの?」

「それは……はい。そうです。あのまま置き去りにする事も出来なくて……その、自分でも勝手な事をしたとは解っているんですけれど……」

「あ、ううん。それは良いの。目が覚めたら突然見知らぬ他人の家で、いきなり変な子供に突っ掛かられたりで、そりゃちょっとは驚いたし戸惑ったけど……身体も凄く楽になってるし、介抱して貰った事に関しては素直に感謝してます。えっとね、あたしが言いたいのはそうじゃなくて……」

 少女はもじもじとしながら、何かを訊ねたがっている――悠奇は、その内容が何なのかすぐに勘付いた。恐らく、彼女は知りたいのだ。昨日の出来事について、その全てを。

「何処から何処まで話せば良いのか、僕もまだ判断に困っているんですが……その、とりあえず、ですね」

「……え?」

「服、着替えても良いですか?」

「あ――ご、ごめんなさいっ!」

 だっ、と来た道を駆け戻る少女。悠奇は既に上半身脱ぎかけの状態だったのである。その事に今更気付いた彼女は、顔を真っ赤にして逃げるように去っていった。

 そんな少年少女のやり取りを一部始終観察していたナイアは、肩を竦めながら深く溜め息を吐くのであった。


  ◆


 少女――朝霧麗奈あさぎりれいなを対面に、悠奇とナイアはリビングにあるテーブルの上に並べられた昼食を摂っていた。いつも通りの風景。少し違うのは、一人の少女が訝しげな表情で彼らを見つめている事ぐらいだ。

「あ、あのー。そろそろ、訊かせて貰えませんか?」

 何処となくぎこちない口調。恐らく敬語には慣れていないのだろう。少女、麗奈はあくまでも悠奇に向かって問い掛ける。ナイアへ視線を向ける事はなかった。

 そもそも、何故このような状況になったのか。

 悠奇の腹の虫が鳴った、というのが一つの理由だが、もっと大きな理由がある。

 それは、事情の説明についてだった。悠奇が昨日の深夜に異形を倒し、昇華させた現場に居合わせた少女。彼女に対し、一体どういった説明――言い訳、と呼ぶべきか――をすれば良いのか、未だに悠奇は悩んでいたのである。

 別に、異形に関する事、ナイアの事、自分自身が魔導書を持ち、魔術を操る魔術師であるという事――そのどれもが隠蔽しなければならない事柄、というわけでは無い。というか、何も知らない平凡無垢な一般人に、これらの話をしたところで信じるとも思えない。

 だが、彼女は別だった。紛れも無く当事者であり、その目で異形を見て、その目で魔術を見て、そして――覚えているのだ。夢であったなどとは思えないだろう。何せ、その魔術を行使し、異形を倒した本人である悠奇が彼女を救い、こうして目の前にいるのだから。

 事情を話すのは簡単だ。魔術の事、自分の事――何もかもを全て話してしまえば楽なのだ。それを彼女が信じるかどうかは別としても、彼女の好奇心を抑えるぐらいの効果はあるはずだから。

 けれど、悠奇は不安を拭えない。

 ――それは、巻き込んでしまうかもしれないから。

 全てを話せば、彼女を此方側・・・へと引きずり込んでしまうかも知れない、という不安。恐怖と言い換えても良い。ただの何も知らない無関係な一般人を、自分のような人外・・と同じ土俵に立たせてしまうかも知れない事が、何よりも悠奇は怖かった。

 だから、悩んでいた。

 だと言うのに――そんな彼の思想も知らないまま、もしくは知ってか、ナイアが口を開く。

「なんですか、小娘。貴女はただ偶然居合わせただけの無関係な一般人です。軽々しく此方側の事情に首を突っ込もうとするのはお止めなさい」

 ピキ、と空気の張り裂ける音がした――気がした。

「なっ……ふ、ふざけんじゃないわよ!! さっきから小娘小娘って、アンタの方が小娘じゃない!!」

 悠奇はこの時、確信した――この二人の相性が、最悪だと言う事を。

「大体、アンタには訊いてないでしょ!? あたしはそこの……えっと、キミに訊いてるんだから!!」

「あ、神門悠奇です、よろしくお願いします」

「えっ、あっ……はい、よろしく……」

 そんな麗奈のあからさまな態度の違いに、思わずフッ、と鼻で笑うのはナイアだ。

「なんですか、それは。貴女、まさか悠奇に気があるのではありませんか?」

「は、はあ!? どうしてそうなんのよ!! つーか、いい加減黙っててくんないかなあ、うざいから!!」

「ここは悠奇の家であり、私の家でもあります。無関係な貴女に黙れと言われても……ねえ?」

 少女二人が言い争っている――悠奇にはそう見えた――中で、ただ黙々と昼食のサラダを食べ続ける。悠奇は普段から温厚な性格なので、こんな時でも気を乱したりはしなかった。落ち着き過ぎだ、と言うのは出遭って一週間も経たない頃のナイアの台詞である。

 そんな悠奇だったが、心の内では激しい葛藤と戦っていた。どうすれば良い。何が最善か解らない。早く上手い説明手段を考えなければ――そんな焦燥感に苛まれ、決して顔には出さないものの、彼の気はどんどんと滅入ってしまっていた。

 結局、答えは見付からないまま――悠奇は、手に持っていた箸を置き、未だ言い合っている二人に向かって静かに口を開いた。

「とりあえず落ち着いて、ナイア。それに……」

「……あっ、麗奈です。朝霧麗奈。ごめんなさい、自己紹介もしないで」

「じゃあ、朝霧さん。僕も色々とお話したい事はあるんですが、今日は少し予定がありまして、この後すぐに出掛けなければならないんです。それで、昨日の事なんですが……もし本当にお気になられるのでしたら、また後日、お話をするという事ではいかがでしょうか?」

「あ、そ、そうですか。それは、はい。構いませんけど……」

 あくまで丁寧な敬語口調でその場凌ぎの嘘を連ねる悠奇に対し、麗奈のそれは何処か歯切れの悪い物言いだった。口調に関してもそうだが、それだけでは無い。訊き辛い事を訊きたがっているような雰囲気を放っている。悠奇はすかさずそれに気付き、少ない言葉で問い質す。

「何か、急ぎの用件でしょうか」

 急かすような問い。口から出まかせだった嘘の言葉をちらつかせるように、悠奇は軽い罪悪感を得ながらも、表面上だけは勘付かれないように心掛ける。

「大した事じゃないんです、あたしの訊きたい事って。その、すぐにでも済みますんで、今訊いても良いですか……?」

 もじもじと、恥ずかしそうに頬を薄い紅色に染めながら言う麗奈。

 悠奇は、その異様さに今更ながら気が付いた。彼女が訊きたい事、それは異形や魔術に関する事ではないのだろうか……?

「ええと、はい。僕に答えられる事でしたら、どうぞ」

 怪訝な表情を浮かべながら、悠奇は彼女を促す。

 すると、麗奈は決心したかのように、すう、と息を吸って――

「……あたしの裸、見ました?」

 ――これ以上ないくらい顔を真っ赤にして、ただそれだけを問うのであった。


  ◆


 悠奇とナイアは、自宅を後に、街の住宅街を歩んでいた。

 この街――軽古茶かるこさ町は、都心から少し離れた場所にある某市内の廃れた田舎町である。

 有るものと言えば、ゴーストタウンと化しつつある商店街と、最早どの企業も使用していないであろう空っぽの倉庫街。住宅街に関しては一軒家が多く、アパートやマンションの類は指で数えられる程度――しかも空き家ばかりと来ている。街、と呼ぶには些か賑やかさが足りない、そんな場所。

 だが、そんな空虚さを――静寂に包まれた廃墟のような空気を、悠奇は甚く気に入っていた。まるでそこだけが別の世界のようで、自分を取り巻く不運な境遇を、この酷くも穏やかな環境が包み込んでくれているような感触。

 それを他人に話した事は無い。だが、少し前、隣を歩く少女に一度問われた事がある。

『この街は素敵ですね、悠奇。なんとも貴方に似合う、貴方が存在しているべき街ではありませんか。貴方も、この街が好きなのでしょう?』

 その時、悠奇はナイアという存在を本当に人ではないのだと理解した。こんな、普通なら誰しも近寄りたがらないような街を好む異端――悠奇の事を何一つとして知らないはずの彼女は、それをあっさり見抜いた。

 そして同時に、悠奇は認めていた。このナイアという少女に出遭った時、自分が知らずの内に彼女に惹かれていた事を。それは、どこか狂ってしまった自分の中に眠る、得体の知れない異質――異常なまでの精神が告げた感覚。

 ――この少女は、自分おまえと似ているのだ。

 母親を亡くし、父親も失踪し、孤独の果てに辿り着いた場所。そこには自分一人が佇んでいるだけのはずだった。その領域は決して他人に踏み込まれず、他人を招き入れない禁断の聖域のようなもののはずだった。

 正常な心の持ち主では到底理解し得ないはずの闇、聖域という名の奈落。閉じ篭り、心を閉ざし、誰よりも他人と一歩遠い距離を置いて接してきた悠奇。何よりも大切な存在を失って、失う事の悲しみを知って、そんな苦痛をこれ以上味わう事の無い為に――何も失わない為に何かを得る事を諦めた少年の、どこまでも深く暗い心の闇に、それはいとも簡単に触れたのだ。

 まさしく這い寄る混沌――。

 闇は黒く、黒は黒と混ざり合っても黒にしか成り得ない。

 そう――二人の出遭いは必然、あるいは運命と言ってしまっても良いかも知れない。悠奇が魔術師となったのも、全て。

「それで、一体何処へ向かっているのです?」

 ナイアは不機嫌そうな表情で、目を細くして睨み付けるように悠奇を見上げる。

「ああ、うん。どうしようかな。一度ああ言ってしまった手前、外出しないわけにもいかなかったし……」

 その場凌ぎの出まかせが仇となったせいで、二人はこうして何の用事もないまま街を歩いていた。何も無いこの街を歩くとなると、その脚は自然と商店街へと向けられる。それ以外に向かうべき場所などは無い。特に、休日のこんな昼間となると尚更だ。

「やはり何も考えていなかったのですか、まったく……。そもそも、あんな小娘をいちいち真面目に相手するからこうなるのですよ」

 小娘。ナイアは朝霧麗奈の事をそう呼ぶ。理由は解らないが、何か気に障る事でもあったのだろう。深く追求するのも面倒だ、と悠奇は流していた。

 確かに彼女の言う事には一理ある。

 だが、それでも――悠奇にはそうするだけの理由があった。

「ごめん、でも仕方ないだろ? あの場では、ああする以外に方法が思い付かなかったんだし。魔術だとか異形だとか、そんな話を彼女にするわけにはいかないよ」

「……一応、前にも言った事ですが。もう一度伝えておきますが、別に隠す必要はまったくありませんよ?」

 そう――これも出遭って間もない頃、悠奇が魔術師になる決意をした日に聞かされた事だ。

 魔術、と聞くと突拍子も無い、得体の知れない不気味な単語だ。今の世の中、ほとんどの人間が与太話だと、空想の産物だと信じている。悠奇だって少し前まではそうだった。だから、普通ならその存在は隠蔽され、隠匿されるべきではないのかと、ナイアに問い質した事があるのだ。

 だが、彼女は言った。

『魔術とは本来、人が生み出した神に近付く為の術。現代社会ではその存在は影を潜めていますが、古来から魔術は認知され、行使され続けてきたものです。では、何故今この世界に魔術が存在し得ないのか。……無いのではなく、識られないだけなのです。魔術師はその多くが自らの力を禁忌と謳い、己の存在を人ならざるものだと認識している。だからこそ、魔術師達はその力を隠す。時に畏怖し、時には慢心して。その理由は数あれど、その結果は皆同じなのですよ、悠奇。結局、魔術という力を持った者達は孤独で、俗世から切り離された『魔導』を往くもので有るしか無い。それがどういう事か、今の貴方なら理解出来るでしょう?』

 つまり、原則として――魔術師達のルール上、その存在を隠さなければならない、という事は無い。だが自然と、結果的にどうしようもなく、魔術師は自らの力を存在を隠さざるを得なくなる。それは人から外れてもなお人の世で生きていく為に。もがき、足掻くように――それが正しいのだと言うように。

 そして、ナイアはこうも言った。

『ですが悠奇。他の魔術師達がそうであったとしても、貴方はそれに倣う必要は無い。縛り付けるような、そんな邪魔臭い枷はありません。あくまでも、貴方は己の意思で魔術師として有れば良い。必要であるなら、貴方が望むのであれば、貴方はいつでも自らの力を曝け出しても良いのです。それを咎めるものなど、この世に在るとすれば……それは、まさに神だけなのですから』

 そんな彼女の言葉を思い出しながら、悠奇は空を見上げた。眩しい太陽が照りつける中、ふと立ち止まり、目を閉じる。そんな彼を無表情に眺めるナイア。

「……でもさ。やっぱり、本当の事は言えないよ」

 どこか苦し紛れな言葉。喉の奥から無理やり搾り出したかのような、辛さを押し隠した表情をしながら言う悠奇の声を聞いて、ナイアは深く溜め息を吐いてから、問う。

「それは、彼女の為に……ですか?」

 しかし、そんな少女の問いに――少年は呆気なく簡単に、素っ気なく即答する。

「自分の為だよ」

 空を見上げていた顔を隣の少女へと向けて。

「僕は、もう誰とも関わらないって決めてるんだ。そりゃ、生きていくにはそれなりの関わりは必要だろうけど……それでも、これは信念みたいなものでさ。関わるにしても最小限に、自分から他人を近付ける事はしないって決めたんだ」

 まるで心の内側を曝け出すように独白する少年を見て、少女は今度こそ訝しげな表情を作った。

「――それなら、どうしてあの小娘を助けたのです?」

 心の隙を突くような問い。そんな彼女の言葉に、少し呆気に取られたような顔をして、それでも悠奇は迷わずに――答えた。

「もう、これ以上……僕は、僕の目の前で、誰かを失いたくないんだ」

 それは、ナイアが今までで識る悠奇の中で一番――真剣で真摯な、強くて、それでいてどこか脆く、今にも崩れてしまいそうな弱さを併せ持った言葉だった。

「なんと言いますか、矛盾しているとしか思えないのですが……今、ようやく理解出来ました。それが貴方の精神こころの原動力なのですね、悠奇」

「そんな大層なものじゃないさ。ただ、そう決めただけなんだ。母さんが死んで、父さんが居なくなって……これからずっと独りである僕が、これから先へ歩んでいく為の、そう……ルールみたいなものだよ」

 母の死、父の失踪。その事については、ナイアが神門家に住む事になった時に伝えてある。だから、その事が原因では無いのだろうが――悠奇は、見た。悲しそうで、それでいて怒っているような顔をして見つめてくるナイアの瞳。どうしてそんな眼をするのか、悠奇には解らない。だが、時折――特にここ最近になってから、ナイアは良くそんな眼で悠奇を見るのだ。

 そこにある感情は、ただ黒く深く渦巻く混沌の色が読み取らせない。もしくは、単に悠奇が鈍感なだけなのかも知れない。それでも――ただ一つ、言える事があった。

「……時々、真面目に考える事があるんだけどさ」

「なんです?」

「ナイア。君は、本当は――」

 言葉が――途切れる。

 それは悠奇の意思とは関係無く、唐突に起きた異変が原因だった。


「――見つけたぜ、『ネクロノミコン』!!」


 強風が吹き荒れる。それは悠奇とナイアの間をカマイタチの如き鋭さで駆け抜け――気が付けば、アスファルトで出来ているはずの地面に異常なまでに綺麗な切断面が描かれていた。

「な、なんだ!?」

 突然の出来事に悠奇は戸惑いを隠せない。ただ反射的に、風の襲い掛かった方角へと身体ごと振り返る。

 そこには、二つの人影があった。

 一つは長身の男。日本人ではないのか、髪は完璧なブロンドをしていて、肩まで伸びたそれは綺麗にさらりと揺れている。肌は白に近く、整った美形な顔付きと、百九十は越えていそうな高くも引き締まった体躯は、どこかのモデルと言われても納得出来る程のものだった。

 そんな金髪の男は、ただ一点――悠奇の顔を睨み付けて、告げる。

「俺の挨拶は気に入ったか? 今のは当然、わざと外したんだ。次はその身体を八つ裂きにしてやる事だって出来るぜ」

「な――なんですか、貴方は!?」

「なんですか、と来るか。なんだと問われれば魔術師だと答えるべきなんだろうな。そうだ、お前と同じだよ。……ん、ああ。こう言う時はまず名前からが礼儀だったか? 日本のマナーと言うのはどうにも慣れんでな、気を悪くしないでくれよ。ほら――」

 金髪の男は、自身の背後に立たせていたもう一つの人影へと目配せをする。すると、そこから現れたのは、一人の小柄な少女だった。

 その印象は――白。長いシルバーの髪を靡かせて、その肌は人のモノとは思えない程に白い。生気さえ感じられないその異様な色と混ぜ合わさるかのように、黒いドレスのような服を身に纏っている。

 悠奇は感じた。まるで、ナイアとは真逆のような少女だ――と。

「さあ。まずはお前から挨拶するんだ、クトゥグア」

「…………、おはようございます」

「はははっ、お前、それはモーニングの挨拶だよ。いくらなんでもジョークが過ぎるだろう、ははははは!!」

「クトゥグア……クトゥグアですって!?」

 金髪の男と、クトゥグアと呼ばれた少女がコントよろしく盛り上がっている中、一人だけ驚愕の表情を浮かび上げていた者がいた――ナイアである。

「ナイア、知ってるの?」

「っ……まさか、アレがこの場所に現れるなんて……」

 悠奇が今までに見た事の無い程の動揺。額に汗を流しているナイアは、クトゥグアと呼ばれた少女を憎しみを込めたような表情で睨み付ける。

「ははは……っと、悪いな、勝手に盛り上がって。さっき言った通りコイツはクトゥグアだ。お前が連れているソレとまあ、似たようなモンだと思ってくれ。そして、俺の名前だが――」

 ぞくり、と背筋を走る悪寒。

 悠奇は正体不明のその感覚を頼りに、全力・・で身体を動かした。通常の人間ではどう足掻いても反応出来ない速度で。文字通り、全ての力を尽くしたのである。

 その直後。一秒とも満たない間隔で、風が再び地面を切り裂いた。

「ゆ、悠奇っ!!」

 ナイアが叫ぶ。あまりに強引な動作に、悠奇の身体は住宅街にある煉瓦の壁にぶつかった。だが、風による傷は無い。悠奇はそれを見事に避けきってみせていた。

「……へえ、やるじゃないか。魔術による反射神経の強化と、次いで身体性能の強化か。今度は軽く右足でも貰ってやるつもりだったんだが、そう簡単にやらせてはくれねぇみたいだな」

「貴方は……!!」

「おお、怖ぇ。そう睨むなよ少年。良いぜ、お前は俺の好敵手ライバルとして十分のようだから教えてやる。俺の名はエーリッヒ。魔導書『エイボンの書』に選ばれた魔術師だ」

「魔術師!? どうして魔術師がこんな場所に……!?」

「おいおい、最初にちゃんと言っただろ? 人の話はしっかり聞いておかなくちゃなぁ」

 薄気味の悪い笑みを浮かべる金髪の男――エーリッヒ。

 悠奇は突然の来訪者に驚き、そして戸惑う。自分以外の魔術師と出遭うのは、これが初めての事であった。

「んな事より、お前の名も聞かせろよ、『ネクロノミコン』遣い」

「……神門、悠奇……です」

「ミカド・ユウキ? なるほど、やっぱ日本人の名前っつーのはヘンだな、性に合わねぇ。んまぁ、とりあえずはユウキで良いか。おい、ユウキ。お前、なんで自分が狙われているのか、解ってねぇって顔してやがるな?」

「えっ……?」

「解らねぇなら教えてやる。お前の持つその魔導書『ネクロノミコン』……いや、この場合は『アル・アジフ』と言ったほうが良いのか? んまぁどっちでも良いが、そいつが主な原因だな。写本コピーはいくらでも転がっていやがるが、その原本オリジナルは当然、世界に一つしか無い。『ネクロノミコン』の原本オリジナルって言えばお前、魔術師なら喉から手が出る程に欲しがって当然ってモンだぜ?」

 エーリッヒはつかつかと歩みながら、一歩ずつ悠奇の元へと近付いていく。

「こっちとしちゃ、そいつを大人しく渡してくれれば言う事無いんだが……」

「……ふざけないで下さい。渡すわけがありませんよ」

 やっとの事で悠奇は言葉を搾り出す。その言葉に、エーリッヒはさも当然と言った表情で肩を竦めた。

「だろうよ。魔術師にとって魔導書は絶対だ。そいつを簡単に手放せちまうヤツなんてのはお前、魔術師でもなんでも無い、ただのオカルト被れ野郎だ」

「……僕が手放さないと知っていて、貴方は一体何を?」

「何をって――そりゃあ当然、奪うのさ」

 ぶおん、と風が襲い掛かる。

 だが、既に臨戦態勢を取っている悠奇は、それをすかさずステップで回避した。

「ヒュゥ、やるねぇ」

 楽しそうに、笑みを浮かべたままエーリッヒは言う。

「魔導書を奪うにはどうすれば良いか、なんて簡単だろ? そいつを持っている魔術師を殺せば良い。ただそれだけの事じゃねぇか」

「殺すって……そんな、物騒な」

「物騒? ははは、お前は面白い事を言うんだなユウキ。魔術師同士の殺し合いが物騒だって? んまぁ、確かに物騒だなぁ……だけどよ、んなもん俺達にとっちゃ常識の範疇だろうが。魔術師は自分以外の存在を認めない。自分より高みに昇り詰めているヤツを、今は自分より下でも、いずれ自分を越えてしまう可能性のあるヤツを、ようするに魔術師は自分以外の魔術師全てを敵対視するのが当然じゃねぇのか?」

「な……」

 悠奇は言葉を詰まらせる。

 自分自身が魔術師となってから一ヶ月余り、他の魔術師と遭遇した事もなければ、魔術師という存在の意義、彼らの思想など知りもしなかった。だからこそ、今こうして目の前で言葉を発している男の考えが理解出来ない。それは、次第に魔術師という存在に対する疑問へと変わっていく。

「僕は、ただ……魔術師として、異形を倒して、この魔導書を持って……父さんに――」

 悠奇は、魔術師という存在に憧れたわけではない。

 もっと違う、別の場所に魔術師となる事の意義を見出したからこそ、こうして魔術師として活動しているのだ。魔術師としての矜持だとか、そういったものは一切持ち合わせていなかった。

 ――だが、それは間違いだったのか?

 ――自分の思い描いていたものは幻想だったのか?

 ――魔術師とは一体、何なのだ……?

「悠奇、その男の言葉に惑わされてはなりません!!」

 ふと聞き慣れた声が、悠奇に正気を取り戻させる――ナイアの声だった。

「ナイア……?」

「貴方は魔術師です。それに変わりは無い。けれど、その有り方は誰に決められるものでも無く、貴方が決めるものなのです、悠奇。それを忘れてはなりません。魔術師とは孤高を往くもの。群れる者達の創り上げるルールなどとは無縁なのです!!」

 ナイアは必死だった。少なくとも、悠奇にはそう見えた。どうしてそこまでするのか解らないが、その姿はただの一人の少女と何ら変わらない。

 そんな彼女を見て――悠奇は、ふっ、と気を緩める。

「……そうだね。そうだった。もう何度も聞いた事なのに、僕はまだ理解していなかったみたいだ」

「悠奇……」

「――エーリッヒさん。僕には僕のルールがある。貴方達がどうかは知りません。だけど、貴方がこの魔導書を狙うというのなら、僕にだって容赦は出来ません」

 悠奇は、決意を込めた瞳でエーリッヒへと言葉を投げ掛ける。

 それを受けたエーリッヒは、くくく、と短く笑ってから――云う。

「面白ぇ、面白ぇよユウキ!! お前、まさかそんな人外・・とそこまで仲良くやっちまってんのか!! 魔術師の有り方、だぁ……? んなもん、そいつの都合が良いように、上手い事言い包められてるだけじゃねぇかよ!!」

「なんだって……?」

「オイ、教えてやれよクトゥグア。お前ら神の目的を。魔術師の存在、その意味を!!」

「なっ――クトゥグア、やめなさい!!」

 ナイアが叫ぶ。だが、クトゥグアは静かに言葉を紡ぎ始める。

「…………、私達の目的は、この世界の均衡の崩壊。世界の狭間を破壊し、新たな世界を創り上げる。『無限世界アンリミテッド・ワールド』の構築こそが、唯一無二の目的です」

「世界の、崩壊……?」

「そうだ、ユウキ。そして、魔術師とは世界そのものを最も容易く崩壊させる事の出来る存在。神を模して創られた人に与えられた、人ならざるものへの変質……俺達、魔術師が神の術を行使し続ける事で、やがてはこの世界に設けられた『限界点リミット』を突き破るのさ。そして、『限界点リミット』を突き破った世界は、世界同士の壁を壊し、やがて一つになろうとする。それがどういう事か解るか、ユウキ?」

 クトゥグアの説明に付け足すように、エーリッヒは言う。

 悠奇は今度こそ理解が追い付けない。思考が回らず、ただ彼らの言葉に耳を傾けるしか出来ない。

 エーリッヒに続くように、再びクトゥグアは解説を始める。

「…………、世界同士が合わさる事で、それは数多くの可能性を生み出します。一つの世界では起こり得なかった事も、世界二つを合わせる事で起こり得る可能性を生み出し、さらにまた新たな世界が融合する事でその可能性は増加していく。やがて世界は全てが一つとなり、一つとなった世界には全ての可能性が生まれる。一つの世界においては『矛盾』でしか有り得なかった事象も、『無限世界アンリミテッド・ワールド』では『正常』として扱われる。無限の可能性を内包する世界の構築……それはまさに神々の世界。私達の目的は、そんな世界の構築です」

「ようするに、お前は騙されてんだよ、ユウキ。そこの這い寄る混沌はな、何でもないただの神の御遣いとして、この世界に魔術師を蔓延らせる為だけに派遣された、それだけの存在に過ぎねぇのさ!!」

 クトゥグアとエーリッヒの捲くし立てるような言葉を、悠奇はしっかりと聞いた。

 理解が及んだわけでは無い――だが、少なくとも、彼らが言おうとしている事は解る。

「……本当なのか、ナイア」

「それは……」

 ――神の御遣い。ナイアは確かに自分の事をそう呼んだ。

 悠奇は何も知らないまま、彼女と過ごしてきたのだ。彼女の目的も、意思も、何も訊こうとはしなかった。それが彼の性格であり、性質であり、本質であるからこそ、悠奇はナイアの事を知ろうとすらしなかった。人では無い存在――ただそれだけの事実だけで、無条件に信用していたのだ。

 だが、もし彼らの話が本当なのだとしたら。

「応えてくれ、ナイア。僕は……君を信じたい」

 だからこそ、問わねばならない。

 悠奇が今まで共に過ごしてきた少女の事を――たった一ヶ月という短い間とはいえ、それでも気を許した相手の事を――ただ、信じる為に。

「……そうです、悠奇。彼らの言葉に偽りはありません。わたしは……その為に、この世界に遣ってきました」

 どくん、と心臓が跳ねた。

 動揺しているのだろう、悠奇は自分の精神状態を客観的にそう判断する。

「僕に近付いたのも……その為に?」

「ええ、そうです」

「こうして、今も一緒にいるのは……僕が利用出来るような魔術師になる為なのか?」

「それは……」

 その問いに、ナイアは戸惑っていた。理由を述べるだけならば間違いなくその通りなのだろう。だが、そんな理由とはまた別の――何か、自分でも理解の及ばない『別の意思』があるように思えるのだ。神であるはずの己が、まるで人のような感情を抱いている。その事に、ナイアはただ酷く怯え、答えられないでいた。

 しかし、悠奇にはそんな彼女の心の内などは解らない。ただ、自分が利用されていたのだという事実が心に深く突き刺さる。

「……っ」

 言葉を上手く紡げないまま、悠奇はナイアから目を逸らす。

 どうすれば良いのか解らないが、今はそれよりも、目の前にいる魔術師をどうにかしなければならない。

「話は纏まったかよ、ユウキ。解ったなら、自分の境遇を理解出来たんなら、さっさと魔術師なんか辞めちまえ。その魔導書さえ俺に渡せば、お前の命は助けてやる」

「魔術師、エーリッヒ……貴様はっ!!」

 激昂するのはナイアだった。

 やり場の無い苛立ち全てをぶつけるように怒声を浴びせ、憎悪を込めた瞳でエーリッヒを睨み付ける。

「……やめろよ、カミサマ。そんな風に俺達人間みたいに振舞うんじゃねぇ。ただの概念でしかない存在が、一丁前に人のカタチを創りやがって。クトゥグアもそうだが、お前らにはつくづくイライラしてんだよ!!」

 轟!! と風が放たれる。それは今までのものとは比べ物にならない威力を持って、ナイアの身体を切り裂こうと襲い掛かった。

「――ナイアっ!!」

 間に合わない――悠奇が手を伸ばそうとした瞬間、既にナイアの身体は切り刻まれていた。身体中から血を噴き出して、その場に倒れ込む。

「嘘だろ、おい……ナイア、ナイアっ!!」

 悠奇は自分でも信じられない程に動揺していた。それが自分を騙し、利用していただけの存在でも、それでも。

「……大丈夫です、悠奇。私はこの程度では消えない。人の『死』という概念はわたしには存在していません……。私にあるのは、ただ『混沌』という概念だけ。この姿も全ては偽りのもの。だから……泣かないで、下さい」

「え……」

 言われて――気が付く。

 悠奇の頬には、一滴の雫が流れていた。

「……僕は」

「悠奇、すみませんでした。私は神の意思に従って、貴方を騙した。魔術師へと導いたのは、間違いなく私達の目的を遂行する為、ただそれだけ。……でも、一つだけ信じて下さい。私は……この一ヶ月の間、貴方と共に過ごした時間を、とても……かけがえのないものだったと、思っています。自分でも不思議ですが……この気持ちは、どうやら本物のようです。ふふ……また人間らしくなったと、呆れられてしまうかも知れませんね」

「ナイア……」

「私の事は放って……今はエーリッヒの相手をして下さい。彼は恐らくかなりの熟練者です。悠奇では敵わないかもしれない……だから、油断はしないで――」

 そこまで言って、遂にナイアの目蓋が閉じられた。

 身体は冷たく、力は抜けている。呼吸もしていない。

「大丈夫じゃ……無かったのかよ、ナイア……」

 悠奇は少女の骸を抱きかかえ、道の端へと運んでいく。

「……オイ、ユウキ。お前、何してる?」

 その一部始終を観察していたエーリッヒは、どこか苛立ちを隠せないような口調で言い放った。

 悠奇はそれを無視して、ナイアの背を壁に預ける。眠ったように死んでいる彼女の姿は、まるで御伽噺に登場する人形のようだった。

「何をしてるって訊いてんだよ、オイ!!」

 怒声と共に風が悠奇を襲う。

 だが――悠奇は振り返らない。避けようともしない。ただ、一振り。

「……な、に?」

 驚いたのはエーリッヒだった。

 間違いなく必殺の一撃のはずだった。彼の放った風はナイアと同様に悠奇の身体を切り刻むはずだったのだ。だが、そこには無傷で佇む少年の姿。

「『アル・アジフ』」

 ――魔導書。

 世界の理、その一部を記しながら、狂気に満ちた意思の込められし書物。それは、それだけで膨大な魔力を有し、魔術師に大きな力を与える『魔導器マジックアイテム』――。

「……何が世界の崩壊だ。何が新たな世界だ。何が無限の可能性だ。そんなもの、僕にとってはどうでも良い事なんだ」

 神門悠奇は、世界最高の魔導書を手に、ただ静かに――けれど胸の内で滾る熱き想いを吐き出すように――宣言する。

「利用された事だってどうでも良い。でも僕は別に騙されてなんかいなかった。ただ自分から何も訊こうとしなかっただけなんだ。心を閉ざして、それなのに身勝手に信じきっていた、ただそれだけなんだ」

 悠奇は歩く。金髪の魔術師の下へ向かい、一歩、一歩と歩み進む。

「そうだ、僕は一人で勝手に絶望していただけだ。魔術師になろうとしたのだって、最終的には自分自身の意思だった。ナイアは……彼女はいつだって、ただ僕の傍にいただけなんだ!!」

 悠奇の右手に光が収束していた。それは剣の形を執っている。その色は漆黒。光はやがて白から黒へと変色していく。それは在り得ない光景だった。黒い光など、この世に存在してはならない。

 エーリッヒはただ目を奪われる。その凄絶なる光景に。自分の魔術をいとも簡単に消し去ってしまったその剣――魔導書『ネクロノミコン』の圧倒的な力に。

 そして――悠奇は告げる。

「僕と一緒にいた時間を大切に想ってくれたナイアを、あの笑顔を失わせた、貴方を――僕は、絶対に許さない!!」

 そして――駆けた。

 尋常ではない速度、魔術による加速で一気にエーリッヒとの距離を縮める。

「くっ……!?」

 エーリッヒは、反応こそ出来たが――それでも、悠奇の方が速かった。

 悠奇の右手に握られた『アル・アジフ』の剣は、エーリッヒの右肩を抉るように切り裂いていた。

「この、野郎……!!」

「エーリッヒ!!」

 その時、傍らにいたクトゥグアが叫んだ。大人しそうに見えた彼女からは想像も出来ない程に張り上げられた声。それと共に、クトゥグアは悠奇を睨み付け、手のひらを翳した。

 その異常に気が付いた悠奇は咄嗟にその場から飛び退いた。それを追うように、クトゥグアの手が向けられる。

灼熱フォーマルハウトの――」

 ――熱。信じられない程の高温がクトゥグアを中心に発せられていた。それは空気を歪ませ、蜃気楼のような光景を創り出す。やがてその熱は彼女の手のひらの先へと集約されていく。

「――紅焔フレア!!」

 熱は炎の弾丸へと変化し、悠奇へと容赦無く襲い掛かった。

「っ!!」

 直撃――する寸前のところで、悠奇はそれを思い切り身体を仰け反らせて避ける。やはり通常の人間では在り得ない軌道、これも魔術によるものだ。

「重力制御……まさか、そんなモンまで扱えるとはな。なかなかどうして、使いこなしているじゃねぇか」

 エーリッヒが賞賛とも皮肉とも取れるような口調で言い放つ。

 だが、悠奇はわざわざ相手をする事も無いまま、再び剣による一撃を与える為に駆け出した。その表情は無表情に、ただ冷酷だった。

「……予想外だな。お前、そんな顔が出来たのか。ふん、面白ぇ――」

 すっ、と右腕を抱えていた左手を懐へと突っ込み、何かを取り出そうとするエーリッヒ。その隙を見逃すわけにはいかないとばかりに、悠奇は大きく剣を振り翳す。だが――。

「来やがれ――『エイボンの書』!!」

 エーリッヒの身体を中心に風が舞う。突風のような激しさを持つそれは、突進する悠奇の身体を弾き飛ばした。

「なっ……、魔導書!?」

 なんとか魔術による重力制御を駆使して宙を回転し、着地を決める悠奇だったが、エーリッヒは既に魔導書を手にしていた。――エイボンの書、そう彼は言っていた。

「悪いがこっからは本気マジでいかせて貰うぜ、ユウキ……!!」

 エーリッヒが突き出すように左腕を前に伸ばす。すると、魔導書は光の粒子となってその姿形を変質させていく。

「『魔装具アーティファクト』か!!」

 『魔装具アーティファクト』――魔導書の魔力を以て、魔術的な性能を持つ武器や道具を作り出す。悠奇の手にしている剣も魔装具の一種である。

「『魔弾の《アビスシューター》仕手』――これで終わりだ!!」

 それは、銃だった。

 銃身は細く、大きさで言えば通常のショットガン程度のものだが、魔術的な武器に大きさはさほど意味を持たない。悠奇の剣もそうだ。大きさだけで言えば日本刀よりも小さいものだが、その切れ味はどんな刃をも凌駕する。

 それを知っている悠奇は、銃口を向けられた瞬間に悟った。これは、避けられない。ならば、真っ向から立ち向かうしか道は無い――!!


「――そこまでです、お二人とも」


 互いに構えていた悠奇とエーリッヒの間に、突如として黒い影が現れた。

 クトゥグアは咄嗟に構えるが、その影が手にしているモノを見て――驚愕する。

「…………、魔導書。魔術師!!」

「なに!? 俺とユウキ以外の魔術師だと……!?」

「あ、貴女は――」

 現れた闖入者の影――それは、女性だった。

 短いショートカットの黒髪。肌は白く、顔付きや目の色から日本人である事が覗える。綺麗な輪郭をした美しい顔と、すらりと着こなしている青の着物姿。それらは彼女から大和撫子然とした雰囲気を強く感じさせる。

 そして――悠奇は、その人物を知っていた。

「葵さん……!?」

 着物姿の少女――葵と呼ばれた彼女は、悠奇に背を向けてエーリッヒへと向き合う。その手に握られているのは間違いなく魔導書であった。

「……こいつは驚きだなぁ、オイ。こんな腐れた田舎町に魔術師が三人もいるってのか。はははっ、こりゃ一体何の冗談だよ!!」

「退きなさい、エーリッヒ・ツァン。そしてクトゥグア。白昼堂々と、この町でこれ以上の暴挙を行う事は、このわたくしが許しませんわ」

「俺の名を……それにクトゥグアの事まで。何モンだ、お前?」

「わたくしの名は大道寺葵だいどうじあおい。そこの少年、神門悠奇の……まあ、幼馴染のようなものですわ」


  ◆


 ――大道寺書店。

 悠奇が昔から通っている古本屋であり、父の古くからの知り合いである大道寺蓮悟だいどうじれんごが店主を務める店である。取り扱っている本の分類は多岐に渡るが、主に多いのは古書、それも数百年と昔のものまで存在する。店主である蓮悟の趣味らしいが、詳しい事は何も聞いていない。

 そんな書店の奥、大道寺家の居間に悠奇はやってきていた。連れて来られた、というのが正しいだろう。蓮悟の娘であり、悠奇の幼馴染と言える一人の少女――大道寺葵の手によって。

「さて、まずは何処からお話すれば良いかしら?」

 顎に手を当てて、うーんと唸る葵。

「葵さんも、魔術師だったんですね……」

 悠奇は一番気になっていた事を口にした。元々、他人の事を深く詮索しようとしない自分が知らないのも無理はないとは思ったが、それにしても、かれこれ十年以上の付き合いをしてきた幼馴染が魔術師だった、などという事実は、やはり驚愕すべきものであった。

「隠していた事については謝りますわ。ユウが魔導書『アル・アジフ』を手にして魔術師になった事は父から聞きました。だから、その内にでもお話の場を設けて、ちゃんとわたくしの事も伝えようとは思っていたの」

 ユウ――とは、悠奇の愛称である。葵ぐらいしか使わないが、そう呼ばれる事に特別な抵抗は無い。親しみを持って接してくれているのだと解るし、そんな人の好意を無下に思える程、悠奇も捻くれてはいない。

 だが、それでも悠奇はあくまで『葵さん』なのであった。一つ年上だからという、ただそれだけの理由で。否、理由はまだ他にもあるのだが――今は置いておくとしよう。

「そうだったんですね。それにしても、助かりました。葵さんが飛び出してくれなかったら、今頃どうなっていた事か……」

「まったくですわ。昔から冷静そうに見えて危なっかしいところがありますものね、ユウは。わたくしが付いていないとダメダメなんですから」

「はは、本当ですね……」

 空元気に笑う悠奇の顔を見て、葵は眉を顰めた。

 それは、間違いなく隣の寝室で布団の上に寝かされている少女が原因なのだろう、と葵は確信する。

「ナイアルラトホテップについては、大丈夫……だと思いますわ。恐らく、ですけれど。彼女も言っていたのでしょう? 自分はこの程度では消えないのだ、と」

「え、ええ。そうですけど……」

「そもそも彼女は人の姿をしていますが、あれも本来はこの世界に留まる為の『器』に過ぎません。今はその『器』から『魂』が抜け落ちてしまっている状態だと言えますわね。原因は不明ですが、彼女に戻る意思さえあるなら、一日もしない内に戻ってくると思いますわよ」

「そ、そうなんですか……」

 ほっ、と胸を撫で下ろす悠奇。

 葵はそんな彼の仕草を見て、軽く頬を膨らませた。

「……随分と、入れ込んでいますのね。彼女に」

 それは、嫉妬のような感情から放たれた言葉だった。だが、悠奇はそれに気付く事は無いまま、ただ言葉通りに受け入れ、そして答える。

「そう……なのかも知れません。僕は結局のところ、ナイアの事を何も知らなかった。一ヶ月近く一緒に過ごしてきて、それでも理解出来ていなかった。だから、もう一度ナイアに会って……訊きたいんです、本当の事を。全部、きちんと話し合いたい」

「……それだけなら良いんですけれどね」

「えっ? 何か言いましたか、葵さん?」

「いいえ、別になんでもありませんわ。とにかく、今日はこの家に居て貰いますわよ。いつまたあのバカげた魔術師が襲ってくるかも解りませんし」

「エーリッヒ……クトゥグア、か……」

 悠奇は今日出遭った魔術師と、ナイアと同じ神だと名乗る少女の事を思い返していた。

 結局、あの後は葵に気圧されたのか、エーリッヒはクトゥグアを連れて去っていったものの、彼は絶対に諦めてはいないだろう。去り際に悠奇を見た彼の目には、異常なまでの執念が込められていた気がするのだ。

 どうしてこんな事になってしまったのだろう、と悠奇は落胆する。だが、魔術師となった以上は避けられない出来事だ。特に、魔導書『ネクロノミコン』を所持している悠奇にとっては。

「こうなれば一蓮托生。次からはわたくしも一緒に戦いますわよ、ユウ」

「え、ええっ!? 葵さんが、ですか!?」

「何を驚いた顔をしているんですの、わたくしだって立派な魔術師ですわよ?」

「いや、はい、そうなんでしょうけど……でもですね……」

 実際、幼馴染とは言っても、共にいた時間は決して長くは無い。書店に立ち寄った時にたまに顔を合わせる程度のものだ。昔は親同士で食事に連れられた事もあったが、今ではそんな事も無い。同じ高校に通ってはいるものの、学年が違うのだから滅多に会う事もない。

 そんな悠奇からしてみれば、大道寺葵という少女はただひたすらに大人しい、まるでお嬢様のような雰囲気を纏った女性だった。魔術師とか戦いとか、そういった事とは無縁な存在だと勝手にイメージを創り上げていたのだ。

 だからこそ、そんな彼女が共に戦うと言う事を簡単に受け入れられずにいた。そもそも、未だに彼女が魔術師であるという事すら信じられていないのだ。

「その顔は、まだ信じていないと言いたげですわね……」

「う、勝手に人の心を見透かさないで下さいよ」

「まあ良いですわ。その時がくれば嫌でも理解出来ます。それより今は、今後の方針について考えなければなりませんわね」

「今後の方針、ですか……」

「ええ。本来、こんな近くに魔術師が三人も集まるなど有り得ませんわ。魔術とは世界を歪め、神の領域に手を伸ばし、それを行使するもの。そんな『歪み』を引き起こす存在がこうして集まってしまうとどうなるか、解りますかしら?」

「歪み……それって、クトゥグアが言っていた……」

 世界の崩壊、そして新たな世界の創造。それが神の目的だと彼女は言った。そして、それをナイアもまた肯定している。突拍子も無い話だが、魔術に手を出している時点で同じようなものなのだから、今更疑う理由も無い。

「ユウが考えているよりも、世界は脆く出来ていますわ。魔術を行使する事は即ち世界の理を捻じ曲げるという事。捻じ曲げられた理は、世界の抑止力によっていずれ修正されますが、それが同時に、大量に引き起こされてしまったら……」

「……世界が、崩壊する?」

「正確には、世界同士の均衡が崩れ去る。例えるなら、第一の世界で起こり得ない事象が第二の世界では起こり得る事象だとしましょう。それが第一の世界で起きてしまったらどうなるか。第一の世界で発生した事象は、第二の世界で発生するはずだった事象。言うなれば『可能性の転移』ですわね。その瞬間、世界の狭間が揺らぎ、第一の世界と第二の世界はその距離を縮めてしまう。時間が経てばその揺らぎも元に戻されますが、一度に多くの『可能性の転移』を引き起こしてしまうと、世界同士の均衡が一気に崩れてしまい、二つの世界は一つの世界へと融合を果たしてしまうのですわ」

「二つの世界が一つに融合したら、どうなるんですか……?」

「解りやすく言えば、二つの可能性を内包した世界になってしまう。これはあくまでそうなる『かもしれない』であって、実際に確認されたわけではありませんけれど……例えば、わたくしがこうして魔術師である事は一つの可能性の分岐から成り得た結果。ユウも同じですわね。それが『有った』事と『無かった』事、二つの『可能性』が同じ世界に混ざり合わさった状態になるのです」

「な……そんな、無茶苦茶な……」

「そう、無茶苦茶ですわ。当然、二つの世界は完全に別、というわけではありませんから、同じ『可能性』は同じまま、二つになる事はありません。そして、世界の数はそれこそ無限にあります。二つの世界が融合したところで、現れる『矛盾』は些細なものに過ぎないでしょう。ですが、それが繰り返されると……」

「最終的には、無限の可能性を内包した世界が出来上がる、ですね」

「そうですわ。そうだ、ユウはドッペルゲンガーのお話を聞いた事はありませんかしら?」

 ドッペルゲンガー――世界には自分と同じ人間が三人は居るとか言うオカルト話の類だろう。悠奇もそのぐらいは知識として頭に入っている。肯定の意を示すよう、黙って頷いた。

「あれは、まさに世界の融合によって発生したものの一例だと言われていますわ。何らかの形でもう一人の自分の『可能性』が現れたもの。世界が抱える矛盾の代表的な存在ですわね。ドッペルゲンガーは互いの存在を矛盾として否定し、殺し合う。実際は、ただ世界が引き合う矛盾を修正しようと働いているだけですけれど」

「なるほど……」

「私達魔術師は世界の矛盾そのものであり、魔術師同士が魔術を以て戦う、という事はつまりそういう事なのです」

「世界が矛盾を消滅させる為に働いている……?」

「そうですわ。そして、魔術師は世界に対抗出来る、神に近い存在――人ならざるもの。だからこそ、その存在こそ、世界の創造を目的とする神にとっては都合の良いものなのです。ナイアルラトホテップやクトゥグアといった者達にとって、ですわね」

「でも、ナイアは……!!」

 言いかけて、悠奇は口を噤む。

 自分はまだ何も知らないのだ。魔術師の事も、世界の事も、そして神々の事も。そんな自分が一体何を口にするというのだろう。

「わたくしは彼女の事を良く知りませんから、何とも言えません。ですが、一つだけ言える事がありますわ。ユウ、彼女は貴方とは違う。人ではないのです。世界の外側に存在する神、その御遣い。わたくし達とは決して相容れる事の無いものですわ」

「…………」

 悠奇は押し黙った。葵の言っている事は正しい。正し過ぎて、何の反論も出来ない。それでも、心の何処かでそんな彼女の言葉を一蹴してしまいたくなる衝動がある。だが、今はそんな事をしても無意味でしかない。ただ悠奇は我慢するように歯を噛み締める。

「とにかく。つまるところ、魔術師同士の戦いは極力避けなければいけません。今後の方針としては、出来る限りわたくしと共に居る事で、魔術師、エーリッヒ・ツァンへの抑止力とするのがベストですわね」

「確かに、二人でいれば襲われ難いとは思いますけど……葵さんはそれで良いんですか?

それに、大道寺さんだっていくら父の息子とはいえ、僕を家に置くような事、そう易々と許してはくれないと思うんですけど……」

「それなら心配ありません。今日はわたくしの家に居て貰いますけれど、明日からはわたくしがユウの家に寝泊りしますから」

「……、えっ?」

 ――さらりと、とんでもない事を口走られた気がした。

「ダメとは言わせませんわよ、ユウ。だってここ一ヶ月、ずっとナイアルラトホテップと一緒に暮らしていたんでしょう? 彼女が良くて、わたくしがダメな理由はありませんわよね?」

「そ、それは、そうかも知れませんけど。でもほら、大道寺さんの許可とか」

「ウチは放任主義ですから、きっと大丈夫ですわ」

「行き当たりばったり過ぎるっっっ!?」

 思わず勢い任せに突っ込みを入れてしまう悠奇である。

「これが最善なんですから。もう、黙ってお姉さんの言う事を聞きなさい」

「お、お姉さんて……」

「さあ、真面目なお話はこれでオシマイですわ。これから夕飯の支度をしますから、一緒にお買い物へ行きましょう」

「ちょ、ちょっと、葵さん……っ!!」

 葵はそれだけを言い放ち、奥の部屋へと向かって行った。着替えるのだろう――それ以上は追いかけられず、悠奇は居間に一人佇みながら、思う。

 少しずつ、自分の中の何かが、周囲の環境と共に変わって来ている。それは良い事なのか、悪い事なのかは解らない。けれど――少なくとも、悪い気分にだけはならなかった。

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