プロローグ
月も視えぬ漆黒の空の下――一人の少年は、この世ならざるものと遭遇した。
「――こんにちは、眼鏡の君。憂鬱そうで鬱屈していて、今にも鬱憤を晴らしたいと言わんばかりの表情で、一体これから何処へ向かうのでしょう?」
少年は視た。月の明かりも無い真っ暗な路地裏で、視えるはずの無い暗闇を。
姿形は間違いなく人の物で、声色からしてそれが女性である事は解る。何も警戒する事は無い、ただの人がそこに立っているだけのはずだった。けれども、少年には解る。理解してしまった――それが、ただの人では無いという事を。
「貴女は?」
だからまずは訊ねる事にした。声を掛けられたのは自分自身。それならば、それ相応の返答をしなければ。礼儀を忘れてはいけない、というのは今は亡き母の言葉だった。
くつくつ、と声にならない程度に笑うのは、目の前にいる女性。いや、少女か。未だに輪郭がくっきりと視えないせいか、未だその判断が付かない。
女性、もしかすると少女は、その場に立ち竦みながら、一歩も動かずに――云う。
「眼鏡の君。貴方が識りたいのは私の何でしょう?」
誘惑するような、吸い込まれるような声色に、しかし少年は戸惑わない。問い掛けたのは自分の方なのだから、それに対する返答はQではなくAでなければならないのだ。しかし、そこまで考えて気が付く。そう言えば、先に問い掛けていたのはどちらの方だったか――と。
「……すみません、僕の方が無礼でしたね。まずは先程の貴女の問いに答えます。僕はこれから自宅へ帰るところです。憂鬱そうな顔をしているように視えたのは、恐らく今日発売の新刊が売り切れていた事が原因かと」
少年は何の嫌味も無く、ただ冷静に機械のような口調で答える。
新刊、というのは毎月楽しみにしている小説の事だ。著名な作者によるもので、その人気は絶大を誇っている。お世辞にも都会とは言い辛いこの街に本屋は一件のみ。しかも店主が変わり者で、新しいものよりは古いものを多く取り扱っているせいか、その新刊の入荷数はなんと十冊。学校帰りに寄るしか出来ない少年が購入を間に合わせるには難しい数だった。
だから今日はとても憂鬱で、鬱屈していた。女性、または少女の言うとおり、今すぐにでも何かにこの鬱憤をぶつけてしまい気分だった。
そんな自分自身の内面を出遭って数秒で見抜かれた事に動揺はしたが、自分はよく顔に出ると周りの人間に言われるので、それも仕方が無いか、とすぐに平常心を取り戻す。
「そうでしたか。それはそれは、とても悲しい事ですね?」
女性……いや、今となってようやく視えてきたが、それは成熟し切った大人の身体ではなく、どちらかといえば子供、それも少年よりも少し下ぐらいのものだ。それに気が付いた少年は、頭の中で目の前のモノを『少女』と認識する事に決めた。
「ところで、眼鏡の君。貴方が識りたい事を、私は識りたい」
「え……?」
ふとした少女の言葉にハッとする。そういえば、まだ目の前の少女が何者なのか、問い質していなかった。
「そうですね。それではまず、お互いに自分の名前を教え合うのはどうですか?」
「名前……ですか?」
「そうです、名前。名前は大事でしょう? お互いの事を知る為に、まず必要なものは名前だと僕は思うんです」
「なるほど、眼鏡の君。貴方は私の名前を識りたいのですね?」
「はい。では僕が先に名乗りましょう。僕の名前は――」
少年がそこまで口にして、思わず息を呑んだ。
気が付けば、目の前にいた少女が消えている。暗い路地裏の中とはいえ、既に眼は慣れている。そこにいたはずの人物が消えた、その事実に気が付かないわけがない。
少年は慌てて周囲を見回す。しかし、その何処にも少女の姿は見当たらない。まさか、立ったまま夢でも視ていたのか――そんな考えが脳裏を過ぎった時、不意に右肩に何かが触れた。――少女の手だ。
「神門悠奇。悠久なる時の中、奇跡の力で神の門をくぐるもの。素晴らしいお名前です。私が目を付けただけはありますね」
「なっ――」
少年は、今度こそ信じられないといった表情で少女の方へと振り向いた。
そこには。
「私は全てを識っています。ですから、貴方は何も答えなくて良いのです。運命の輪に従う事……自らに課せられた使命という名の楔を抱え、ひたすらに突き進めば良いのです」
少女の、顔が。
「これが始まり。この星の、この宇宙の、この世界の命運を握る、壮絶なる戦いの序章」
暗闇の中の、その顔が。
「私の名はナイアルラトホテップ。神々の使者であり、知性を持つ這い寄る混沌」
吸い込まれてしまうような闇――渦巻く混沌。
ただ、そこにあるのはそれだけだった。
少女――ナイアルラトホテップと名乗るソレは、間違いなく人ではなかった。