第一部 第五章 第一片 影なす雲の上には光ある星ありて
第五章
影なす雲の上には光ある星ありて
名誉
運命
信仰
雨の冷たさも、心の痛みも――――言葉は私に忘れさせてくれた。あのままなら、きっと私を壊してくれたのだろう。
でも、彼はそんな私の心に温もりという名の刃を突きたて、痛みと想いを思い出させた。
あの人が私に恋をさせてくれる。
このまま、この人と一緒になら逃げてもいいかな なんて――――――私にもう少し強さと酷さがあれば思えたのかもしれない。
けれど、彼女と一緒で、私にそんなものがあるはずもなく、結果的に大好きな彼を追い詰めてしまった。
彼の苦しみを感じ、私は彼から勇気をもらった。
――――――――――――――――――――――――◆―――――――――――――――――――――――
教会から出ると、雨が降っていた。激しくはない、けど、優しくもない、そんな雨。
差し出されたマントを無視して歩き出した。男は差し出した手を下げ、それ以上私にかまってこなかった。
雨で体が濡れていく。湿った髪が額にへばりついて気持ち悪い。・・・・でも、どうでもいい。
歩きなれた道が全然違って見える。一昨日の朝、あれほど輝いていた麦畑も今は完全に光を失っている。ただ、濡れた穂の緑が艶かしく光っていて気持ち悪かった。これはそう、世界が変わったからだ。もう、すべてが違う。そのことを受け入れている冷めた自分がいる。だから、涙も出ないのだろう。
気が付くと、私は懐かしい子守唄を歌っていた。
静かに眠りなさい。
そして、優しい夢の中に。
もしも、夢で迷子になったなら、私を思いなさい。
泣かずに願えば、きっと会いに行けるから。
見慣れた家屋達も、もう私が知っているものと違って見える。手前から二番目、フランさんの家の窓がぱっと閉まるのが見えた。
笑った。
「ふふ・・・ふ・・・」
雨で視界が歪んでいく。
「・・・・ぜーんぶ、なくしちゃった」
人影がないのは、雨のせいもあるだろう。でも、それだけじゃない。いつもならきっとリンダおばさんがあらあらどうしたの、って優しい顔で出てきて温かいスープをご馳走してくれる。
自分を保つために、私は笑い続ける。
「・・・ふふ・・・・私、帰る・・・の?・・・・・どこに?」
自分で言って、また笑う。嘲笑うかのように。
「ふふ・・あははは・・・・」
帰る?誰もいない私の家に?
「あははは・・・・」
頬を温かいものが伝っていく。
「・・・う・・ぐ・・」
もうすぐ私達の家。きっと私は壊れるだろう。
だから、祈ろうとする。でも、自分にはもう祈れる方がいない。頼れる人達がいない。
救いを求め、天を仰ぐ。そこにあるのは灰色の空。それが与えてくれるのは冷たい雨だけ。私を無情に濡らしていく。私を壊していく。
それでも、頬の暖かな感触がなくなっただけ救われた。
見上げるのに疲れ、前を見ると、家の前に一人の影が立っていた。
マントで頭を雨から隠して、その人は私を見ていた。
・・・・だれ?
その疑問が頭に浮かんだのと、彼と目が合ったのは同時だった。
次の瞬間、私はその胸に飛び込んでいた。
「・・・ウォルフさん!ウォルフさん、ウォルフさん!」
彼の名前を狂ったように叫び続けた。冷め切っていた頭の中は今や熱を帯び、悲しみが、悔しさが、怒りが、涙となって溢れていく。
溢れる感情のまま、私は躊躇うことなく彼を抱きしめ、すがりついた。そして叫ぶ。
「・・・・エリスが、ラヴァさんが、みんな連れてかれちゃった。・・・どうして?エリス、何も悪い事なんてしてないのに。
・・・・・ねぇ、どうしてかな?幸せになろうとしてただけなのに・・・・・・・・・いやよ。・・・いや・・・・・・いやっ!」
振り乱す頭を手がそっと抱き寄せて止めた。濡れきった彼の体は、だけど温かく、安心できた。それを失うのが怖かったから彼に腕を回し力を込める。
「ソフィアさん」
名前を呼んでくれた。彼が私の名前を。それだけでどれほど救われたことか。
胸に顔を押し付けて、目を閉じた。硬く温かい感触と、男の人の臭いを感じ、鼓動が高鳴り、冷え切った体が火照っていく。
反対に、胸の中では様々な感情が退いていき、後には悲しみだけが残った。
「・・・・・ウォルフさん、助けて、ください」
彼を見え上げて、温もりを、慰めを、そして、支えを求めて目を閉じ、私は待った。
キスをして欲しかった。強く抱きしめて欲しかった。―――――嘘でも好きだと言って欲しかった。
けれど、彼の唇が重なることはなかった。
代わりに、無感情な声が聞こえた。
「聖都ラクファカーン教会直属、神託の盾」
ナニヲイッテルノ?イミノワカラナイコトバ・・・・・
頭の中で入ってくる言葉を何度も否定していた。さっきまで受け入れていた現実を、今度は必死に拒絶していた。・・・・ああ、心のどこかでわかっていた。ウォルフさんがここにいるなんてうまく行き過ぎている。夢、それとも女神の奇跡?
――――ううん、違う。これは現実で必然。仕組まれたもの。だって、昨日の彼は変だったから。女の感って悲しいぐらい当たっちゃう。
目を開けて彼を見た。とたん、涙が顎から落ちた。
「第二部隊所属――」
私は首をゆっくりと振る。やめて、と。――――――でも、やっぱり、その願いは届かなかった。
「ウィリアム・プリスケン。それが自分です」
ぷつんと糸が切れたのがわかった。体から力が抜けていく。
「貴女からすべてを奪ったのは自分です」
膝が抜けたのと、意識が途切れたのはほとんど同時だった。
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鉄の扉の開く重い音。階段を下りてくる足音は冷ややかに地下牢の石壁に響き、だがそこには微かに震えが聞き取れる。僧兵らしくないなと思いつつ、ミル神父が差し入れてくれた葡萄酒の瓶の欠片を手に静かに待った。目を閉じ、一歩、また一歩と近付く足音を感じ取る。
それはまだ幼さすら残る少年だった。躊躇いが生じたが、すぐに迷いを振り払った。約束したのだ、守ると。思い聞かせ体を硬直させたまま一方で力を込めた。
「食事です」
少年は食事の載った盆を床に置き、手つかずのものを下げようと格子の小扉から手を伸ばす。彼は相手が牢の端に座って死人のようにうずくまっているにもかかわらず、肩の震えを必死に堪えていた。前任者になんと言われればこれほど怯えるのだろうか?俺が悪魔だとでも教えられたのか。それとも、教皇に刃向かう気違いで何をしでかすか判らず怯えているのか。ひょっとすると、単にこういうことを任せられるのが初めてで緊張しているだけなのかもしれない。
そこで考えることをやめた。相手を想像し、知った気になればそれはもう赤の他人ではなくなってしまう。そうなれば迷うが生まれ、いい結果なんて待っちゃいない。
すべての思考を頭から追い出し、唯一つ右手に意識を集中する。イメージ―――静から―――そして殺人―――動へと―――
「君」
「え?」
少年はなにも考えずに顔をあげる。手に持った硝子を投げる。――――破片は彼の左目に刺さり、その命を奪う。
奪う、筈、だった。
投げはなったのとほぼ同時に鋭い音が走り、真っ二つに割れた硝子の破片が二つとナイフが床に転がった。
「ひっ!」
少年は腰を抜かせた後も尻餅をついたままあとづさっていく。何者かはわからないが妨害された。いったい誰が?どうして気付かなかった?
答えるかのように牢の外、若い男の声が通路の奥から聞こえた。
「捕虜に食事を渡すときは牢の中を確認してからにしたほうがいい。今みたいに囚人が武器を隠し持っていることがあるから」
声の主はこちらまで来て、俺を見た。頭から足先まで一瞥し、床に落ちたナイフを拾いこちらに背を向け、少年に手を差し伸べた。男の服装は騎士でも、まして僧でもなかった。しいて言うなら村人か、いって町の奉公人がいいところの質素なもの。まったく手練れには見えないがこの男が邪魔をしたのは間違いない。
「あ・・・あ・・・」
怯え切り血の気が引いて青くなった少年は差し延べられた手になんとか焦点を定める。恐怖に固まった顔に安堵の色が微かに滲んだ。
「大丈夫かい?」
「あ・・は・・はい」
少年はその手に引かれ立ち上がる。その間に俺と目が合い短い悲鳴を上げた。次の瞬間には気が触れたように手を振りほどいて壁に飛びのいていた。男はさして気にした風もなく、微笑を浮かべたようだった。
「怪我はないようだね。よかった。・・・・・さてと」
そして怒ることもなく、見下すこともなく、無表情で俺を見下ろした。
「邪魔をしてくれたな」
「まだ子供です。殺していいと?」
「貴様達が言えた義理か。今日なんだろ儀式は?」
ゆっくりと立ち上がり目の前に立つ人間を睨んだ。
「なら、こんなところでゆっくりなんてしてられない。あいつを守ると約束した。俺はそのためになら悪魔にだって魂を売ることを躊躇わない」
この男はただの僧兵とは違う。服装はもちろん、気配をまったく感じなかったことも、この隙のない身のこなしも、なにより投剣だけからでもその技量が伺えた。あのラインビッヒには及ばないにしても、今まで相手にした神託の騎士団とやらよりは遥かにできる。だが、そうであってもやるべきことは変わらない。今、ここから出ることが出来なかったならばエリスは殺される。もう二度とあの温もりを、居心地のよさを感じることが出来なくなる。すべては今であり、これからなのだ。
背後に隠し持ったビンの首を握り締めた。武器としては頼りない限りだが、使えるものはこれしかない以上仕方がない。
「はじめまして、ラヴァ・フール。自分はウィリアム・プリスケンといいます。少し前までウォルフ・メシーヌと名のっていました」
「ウォルフ・・・だと」
記憶の中にウォルフという名はすぐに浮かんだ。
エリスが言っていた。
――――――ウォルフ・メシーヌ。父の知り合いでね、二人がいなくなってどうしようもなくなった時に助けてもらった恩人なの。一度ラヴァに会って欲しいな。彼ね、礼儀正しくて、真面目で、優しくて―――なになに、ラヴァ、もしかして妬いてる?ふふ、安心して。だって、彼ソフィアの想い人だから。
ソフィアが言っていた。
――――――私、今日振られたの。ずーっと好きだった人にね。ウォルフさん、ラヴァさん知ってるでしょ?恩人で、優しいし、誠実な人だから、私、あの人に惹かれていったの。
怒りが頂点に達するのに刹那の時間もかからなかった。
「・・・・そうか、そういうことか。・・・・・・貴様どの面を下げてここに来た!」
男の瞳には一欠片の引け目も浮かばない。それがどうしようもなく腹立たしかった。やつらは大儀のもとならばどんなことをしてもいいと思っている。それが人の幸せを奪うことであっても!こいつを許すわけにはいかない。この男だけは。
「・・・そうですね。自分もあなたと同じだ」
呟きとともに男の肘が少年の腹にめり込み、少年は床に崩れ落ちた。
「おまえ・・・・」
ウィリアムは少年から手際よく鍵を取って格子を開けながら言う。
「僕はミシェル姉妹を救いたい。手伝ってください、ラヴァ・フール。今頼れるのはあなたしかいない」
しばらくウィリアムの顔を見つめ、やがて苦笑が漏れた。というのも、自分と同じ匂いがしたのだ。そう、女のために世界を敵にまわす馬鹿の匂いが。それが煮えたぎる怒りを静め苦笑を誘った。その考えは何よりも納得のいく動機だった。惚れた。なんと便利で、否定しがたい言葉だろう。惚れたのはいいのだ。だが―――――
「エリスはやらないからな」
ウィリアムは一瞬キョトンとしたがすぐに品の良い微笑を作る。
「ご心配なく。自分が欲しいのはソフィアさんのほうですから」
「それならいい」
「助かります。時間がありません、急ぎましょう」
七日ぶり俺は牢から出た。ただ出たからといって一気に景色が変わるわけがなく、相変わらず暗く重い地下の牢獄であることに変化はない。充満する黴臭さも変わらない。軽く伸びをした後、首や腕をまわして体をほぐした。
「武器はあるのか?」
「外の馬車に用意しています」
「違う、手持ちだ」
ウィリアムは先ほど投げたナイフを懐から出して示した。
「これだけですが」
あれほど腕が立つ男だ、待ち伏せといった可能性を考えていないとは思えない。こいつなりに万全を施した上で俺を救い出しに来たのだと思う。だが、あのラインビッヒという男はそう甘くはない。たった一度手合わせしただけでそれは外すことのできない前提になっていた。第一昨日までそれなりの大男がしていた看守があんな子供に変わったのは誘い以外の何物でもない。それでも、その誘いにのらずにいられる状況でもなかった。
「行こう、時間がないしな」
もし、邪魔者が現れたなら排除すればいいだけだ。
俺が入れられていた牢獄は階段から向かって一番奥右側にあった。通路の両側に合わせて十の牢獄が並んでいる。その間を進む。牢は長い間使われた形跡がなかった。俺にはこの村で犯罪があったという記憶はない。せいぜい子供が畑から野菜を盗んだぐらいだ。ということはここは十年以上使われていなかったことになるわけだ。おそらく領主様も使うことはないと思っていたに違いない。今はもう鼻が慣れたこの黴の臭いも納得がいく。
先に階段を上った。階段は十四、五段ほど、狭い通路に俺と後からついてくるウィリアムの足音が響く。
「一応ここに来るまでに人の配置も調べましたし、ここに来た時には隊の姿は少年兵ぐらいでした」
「わかってる。何も出なければそれでいい。もし、蛇がでたら・・・」
扉の隙間から漏れる微かな光に目を細めた。手をのばしノブに手をかけ扉を開ける。外には騎士達がいた。
「たった八人か」
狭く長い石の通路に八人の男が二列をなしていた。その先頭にはセレス湖でラインビッヒの後ろに控えていた男が立っている。
男は言った。
「ウィリアム・プリスケン聖士、今一度問おう。君は自分がしていることの意味を理解しているのか?」
ウィリアムはすぐに答えた。
「副長、自分は己の信じるもののために行動しています。通していただけませんか。貴方達と戦いたくはない」
「君が進むというのなら戦いを避けることはできない。君が君の道を行くように、私達もまた女神のひきたもうた道を行く。それを曲げることは決してない。そのことは君も知っているはずだ」
言葉がきれると同時に八人が一斉に剣を抜いた。
「ラヴァ・フール、君はどうする?」
「俺はエリスを守るためなら命をかけると誓った。たとえ、この手を血で染めてもな」
「つまり、退かないと」
うなずくと、空気が張り詰め熱がひいていくのを感じた。
「仕方がないか。できれば手荒なまねはしたくはなかったのだが、こちらにも守るべき義がある。それなりのことは覚悟してもらおう」
八人が皆にじり寄ってきた。徐々に距離を詰め、一斉に仕掛けてくるつもりだろう。この狭さでは逃げることはできない。退路は唯一つ地下牢に続く階段だけ。今この瞬間にその選択肢はなかった。ならば、道は正面にしかない。
「ウィリアム、借りは返す」
その表情は強張っていた。前に進み出る。騎士達は警戒し構えを改める。
「今から起こる光景を見て、そして決めろ、引くか進むか」
俺は相手に向かって駆けた。
「ラヴァさん!?」
ウィリアムの声と、鈍い音が響いたのは同時だった。
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彼を信じられると思っていた。彼の覚悟は知っていたし、自分もまた同じだけの覚悟を持っていた。だから、彼の許しさえあれば共に歩めると。そう、彼の言葉を聞いた時、自分はそこにどれほどの救いを見出したことか。立ち向かおうとしている敵はあまりに強大で、抗おうとしている運命は絶対に近いものだった。想いやまして祈りではどうにもならないと知っていたから、力を求め、仲間を欲した。
昔、遠目に見たラヴァ・フールという男は落ち着いた、優しい印象を持った人物だった。エリスさんと交際しているのもすぐに納得がいったのを覚えている。一見、素っ気なさそうに見えて、彼女と並んで歩く姿は優しげで温かかった。そんな印象を持っていたからこそ自分は彼を頼ろうとしたのかもしれない。
けれども、今、後にいるのはかつて一度見て、その内を想像した人物とはまるで違う。馬車を操っているこの瞬間も背筋を冷たいものが落ちていく。僕は彼に恐怖に近い感情を抱いていた。
ラヴァ・フールは六人もの人間を殺めたにも拘らず顔色一つ変わっていなかった。
それは一瞬の出来事だった。
最初に響いたのは骨の砕ける鈍い音と脳漿が潰れ、飛び散る音だった。
気がつくと副長の頭を鷲掴みにした状態でラヴァ・フールは深く踏み沈みこんで止まっていた。その間、彼に剣を向ける者は一人としていなかった。騎士達が未熟だった、というわけではない。事実、彼らは皆神託の守護者であり、自分もまた彼らと同様何もすることができなかった。彼を止めることも。彼に加勢することも。それほどまでにラヴァ・フールの動きは常軌を逸していた。
空を切る音が聞こえた直後、血飛沫が鮮やかに弧を描いて散った。いつの間に奪ったのか、振り切られた水晶のような刀身をもつそれは間違いなく副長の聖剣だった。
四人の人間がさらに倒れた。そこにきてやっと彼等の反撃が始まった。残った者は見事一斉にラヴァ・フールに襲い掛かる。彼は一歩退くだけで避け、剣を振るった。手首が一つ剣を持ったまま飛び、壁に刃が当たって音を立てる。手首を失った男の悲鳴が廊下に木霊し、そこにきて我に返った。悲鳴は続き、動けないまま、さらに一人今度は二の腕から先が飛んだ。斬り口から噴出す生暖かい血が頬を濡す。
止めようとした時にはすでに遅く最後の一人、アルミレス聖士の胸に深々と剣が貫通していた。その口から血が溢れ、光を失いつつある瞳で彼を睨んだ。
「貴様・・・何・・・者だ」
「ただの馬鹿だよ」
彼は左手でアルミレス聖士の体を押し、剣をその体から引き抜いた。力を失った肉体は赤い飛沫を上げながら仰向けに倒れていった。
「ラヴァさん」
彼は振り向きざまに呻き声をあげる二人の後頭部を右の剣の柄と左の手刀で打ち黙らせる。
「なんだ?」
「貴方ほどの人なら、殺さなくて済ませれたでしょう!」
彼は何も答えず、歩き出した。
ラヴァ・フールの強さは圧倒的だった。剣の兵を倒したと話に聞いた以上の、それこそ悪魔のような、おそらく自分などは足元にも及ばないだろう化け物。確かに二人を救うためには彼の力が必要であり、その力は希望すら浮かび上がらせる。だが、それは間違いなく血に塗れた希望だった。あの姉妹がこんなものを望むだろうか?自分はこんな力を欲していたのか?「正しい」答えは明らかだったが、他に選択肢はない。血を流す覚悟はしかしただ他者の不幸を呼ぶものにしか思えない。数と質、そう、ただ自分の望みに素直になれたなら迷いなどないのだろう。己だけを見る、悪魔になりさえすれば・・・・・
馬車に乗って初めて彼が喋った。
「まぁ色々と集めたな」
背後からは武器を探る音がずっと聞こえていた。この一週間、コルベールまで赴き武器を買い集めた。剣に、弓、ナイフ、果ては火薬まで。ただ一人で神託の騎士団を相手にできる策を考え、集められるだけのものを揃え準備をした。
「で、どうするつもりなんだ?まさか真正面から突っ込むつもりじゃないんだろ?」
馬車はクルシュ岬に向かっていた。既にル・アヴール村を出てから二時間近くが経っている。日は落ち、満月が天低く輝いていた。何処からか聞こえてくる梟の声。顔が切る風はぬるく、葛藤と怒りと後悔と、様々な感情が溢れてはかつ沈んでいく。答えることが何故か躊躇われた。しばらく沈黙が続いた後、彼の声が変わった。
「なぁ、ウィリアム。俺はお前が憎い」
不意の暗く、重い感情を秘めた声に背筋を悪寒が走った。
「どうしようもなく。それこそ今すぐ殺したいほどに。二人はお前のことを心から信頼していた。エリスが話すお前は本当にいい奴で、あいつは俺がやきもちを焼くのを楽しそうに見ていた。それをお前は裏切った。二人は親を亡くして、あの小さな体には過ぎた悲しみを背負って、それでも必死に生きていた」
応える言葉はなく、ただ正面を見ていた。あれほど責められることを望んでいたのに、大切なものを自らの手で傷付けたことを確認させられることは彼への恐怖を紛らす程に、辛いよりも悲しかった。
「ソフィアは祭りの日お前に会った後泣いていた。いつも明るく笑っているあの娘が、お前に振られて雨の中で大声をあげてな」
彼女を泣かせた。言われなくてもわかってる。だが、どうすればよかった?何ができた?自分達は出逢ってしまったのだ。二人を連れて逃げればよかったのか?いや、間違いなくエリス・ミシェルは拒んだだろう。ラヴァ・フールだからこそ逃避行を、共に生きることを選んだのだ。自分では彼女達を教会の呪縛から解き放つには役不足だったろう。逃げでも言い訳でもなく、自分にはなにも出来なかった。
そう思うと悔しさが込み上げてきた。無力な自分に対して、同時に一方的に自分を責める彼に対して。
彼は続ける。
「そんな気持ちをお前は踏みにじったんだ。解るか?好きだった男に騙されていたと知った時の悲しみがどれほどだったか。家族を奪われそんな相手を憎まずにはいられないことがどれほど辛いか。自分だけが残ることに―――」
「っ、黙れ!」
手綱を引き馬を止め、叫んでいた。振り返りラヴァ・フールを睨む。
「・・・・貴方にはわからない。最初から何の柵もなく、ただ優しくするだけでよかった貴方には解らない。傷付けると解っていて、感謝され優しくされることがどんなに辛かったか。彼女を傷つけなければならなかった辛さが、裏切っている辛さが貴方に解るんですか?何もかも知った風な口を聞かないでください。貴方だってもう六人も殺しているんだ。エリスさんを抱く資格なんてない」
溢れる感情のままに言った言葉に返って来たのは静かなものだった。
「そうだ、だからこそ二人を守ることはできる。許しは乞わない。神にも、良心にも、エリスにも。俺は俺のためにあいつを守る。お前はどうなんだ?資格を失い、甘い考えを捨てきれずに力も失うのか?ソフィアを救うためなら世界を捨てるその覚悟があったから教会を裏切ったんだろ。なら、人の心を捨てて剣を振ったらどうなんだ」
噛み締めた歯が音を立てた。彼女に好意を抱いた瞬間から、出会った瞬間から、もうただの人として生きることは許されていなかったかもしれない。忘れることなどできない。偽ることなどできない。彼女達のために人を殺めたくないというこの想いもまた紛らすことはできない。
自分には望むだけの力がない。解っている無力なのだウィリアム・プリスケンは。だけど――――
「―――それでも彼女をこれ以上悲しめたくないんです」
彼は鼻で笑った。だがそこには不思議と嫌味はなかった。
「それがお前の信念だというならそれでいい。たけどな、勝手に逝くことは許さない」
「・・・・生きて、自分にどうしろと?」
「生きてみたらどうだ?生きて償ってみたらいい」
「どうやって?」
「ソフィアが好きになった男だろ。それ以上のものはいらないだろ?」
「好きだった・・・・。過去形ですよ、それは」
「会ったんだろ、あいつに?」
何でもお見通しか・・・・。
きっと彼女は今も自分のことを愛しているのだろう。そう解っていても、いや解っているからこそ不安なのだ、負い目ばかりある自分が無償で愛情を注がれることが。彼女は自分を知らない。互いに知り合って、結果否定されることが怖かった。
「逃げるなよ。そこに救いなんてきっとないぞ。第一、そんな甘ったれた考えじゃこの先役に立たない」
「・・・あなたは自分勝手だ」
「お前は餓鬼過ぎる。もう少し割り切ったらどうだ?すべてがお前の責任ってわけじゃない」
「だけど、罪を――犯しました」
「俺は許せない。けど、エリスとソフィアはきっと許す」
「・・・・・違うんですよ、ラヴァさん。僕は自ら意思で、欲望で罪を犯してしまった。許されないんですよ。許されてはいけないんです」
額を鷲掴みにした。髪が引っ張られ、だけどその痛みでは少しも足りなかった。
「ウィリアム?」
「・・・・僕は・・・・ソフィアさんを・・・・犯し、ました」
次回更新は11月1日の予定です。