第一部 第四章 第三片 去りゆきしは安息なる時なれど、愚者は諦めることはなし。
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「二人とも、風呂入りたくないか?」
「「えっ」」
突然の彼の言葉に私たちは思わず訊き返していた。
「いや、なんだ。・・・せっかく湖があるんだから入れるうちに入っとかないと、次は入れるのはいつになるか解らないし」
歯切れが珍しく悪く、私は大きく瞬きをして彼を見た。やはり彼の顔が少し赤い。――――照れているのだ。しかも私のために!
そのことがどうしようもなくうれしくて、彼の顔をじっと見てしまう。
彼は顔を横に向けて、視線を逸らした。
「お前らが入ってる間俺が見張っとくから。・・・・・どうする、入らないか?」
ソフィが言う。
「覗く気?」
「そんな訳ないだろう!」
彼女は笑いながらなだめるように胸の前で右手を振った。
「冗談、冗談。でも、ラヴァさん顔赤いよ」
「・・・・・・」
彼は押し黙り、明後日の方向を向いた。
「ねぇ、どうする?」
「う〜ん・・・・せっかくだし甘えちゃおっか」
「そうだね」
ソフィの同意を得て、彼のほうを見て言った。
「ラヴァ、覗かないでよ」
「なっ・・・」
「「ふふ・・・うふふふ」」
二人同時に吹きだした。
今夜は満月だった。
しんしんと静まりかえった森と山、そして微かな虫の声。それらの黒い背景に映え、白銀の光を浴びて中央の水面は白く輝いていた。私はその美しさに一瞬息をするのも忘れた。きれいというよりも、むしろ、そう、すごい。そういったほうがしっくりくる。
束の間、魅入られていた私たちはどちらともなくあたりを見回し水浴びの場所を探し出した。
低草の生い茂った水際に立つ一本の木に私たちは衣服をかけていく。
「ラヴァさんって意外とかわいいね」
「今ごろ気がついたの、ソフィ」
服を脱いでいくにつれ音のない風が肌に触れ心地よかった。
「少し恥ずかしい」
ソフィは頬を朱色に染め、胸を手で隠していた。
「どうして、いつものことなのに」
「バカ、エリスはいいの別に。・・・・・ラヴァさんが」
「彼は大丈夫よ、絶対」
すると、彼女はすっと悪戯っぽく口元を吊り上げた。
「へ〜、信用してるんだ」
「愛してるもの」
そう彼は誠実な、そういう人なのだ。
ソフィはくすっと笑った。
「私も同感」
「え」
言って彼女は湖に走って行った。飛沫がたち、透明な漆黒の水が透明な白となり彼女の体を濡していく。
「ちょっと、ソフィどういうこと」
「さあ?それよりエリスもおいでよ。少し冷たいけど気持ちいいよ」
「もう」
湖の水は思ったよりも冷たかった。体を抱き、ゆっくりと歩みを進めていく。水が胸に達し、肩を濡らしていった。屈みこみ肩まで浸かる。澄んだ水がしかし心地よかった。
「冷たい・・・・」
「でも、気持ちいいでしょ?」
「うん」
外からでは月の光に紛れてはっきりと見えなかったが、空に瞬く星々が湖面一面埋め尽くしていてまるで星空に立っているような気してくる。
「ねぇ、もう少し奥の方に行ってみない?」
「ん、そうね」
沖のほうへと進むにつれ深さが増していき、もう泳いでいるのと変わらないぐらい水が高くなっていた。そこでソフィは仰向けになって水に浮かび始めた。私も力を抜き、なされるがまま水に浮かんだ。視界に入るのはただ夜空と星と月、それだけだった。
「・・・・・きれい」
「ほんと、まるで星の湖の中にいるみたい・・・・・」
私たちは二人並んで浮かぶ。ふと手を彼女のほうに伸ばすと、手が手に触れた。二人でくすっと笑い、自然と互いの手を握り合っていた。
目を閉じると、水に浮かぶ心地よい感覚と体を優しく撫でる涼しい風、そして右手の温もりが私を包み込む。
この世界はこんなにも優しい。そして世界を創りたもうたのは女神様。私はその御方に背いている。彼は私のためにその御方に背いている。そして妹もまた。
それだけではない。私は確かに一晩中同じ考えに思考をめぐらせていた。それは唱えてはならない呪詛の言葉と同じもの。犯してはならない禁忌への衝動に似たもの。こんな私の、私みたいな人間のために世界は終わりを迎えてしまうのだろうか?
「エリス」
目を動かすと彼女の青い瞳が私を見ていた。
「私、あなたのことがちょっぴりうらやましい」
「え・・・」
「エリスみたいに優しくされたかったな」
冷たい風が肌を撫でていった。水面の境の部分がいやに冷たく、握った手を握り締めた。その手を握り返してソフィは続けた。ため息のような、泣き声のような寂しい声で。
「もう会えないよね、きっと・・・・・」
ソフィは夜空に目をうつした。憐憫に満ちた横顔にたまらず目を閉じた。
「あーあ、失敗しちゃったかな。でも告白できただけましか・・・・・。もう、前みたいに話すこともできなかったかもしれないし。もしかしたらよかったのかも・・・・」
ごめんなさい。ごめんなさい・・・・・
いくら謝っても意味がないのはわかっている。それでも、胸の内だけであっても謝らずにはいられなかった。
溢れる嗚咽を、唇を噛み締めることで必死に耐えた。ソフィが想いをぶつけることができるのは私しかいないのだから、私がそのすべてを受け止めなければならない。それがソフィを巻き込んだ私の、義務だ。優しい言葉。慰めの言葉。励ましの言葉。けれど考えれば考えるほどに溢れてくるのは嗚咽ばかりで・・・自分を悲しくさせる言葉しか浮かんでこない。
水が波立ち、落ちる音が聞こえ、目を開くとソフィは立っていた。いつの間にか浅瀬の方に流されていた。
「ごめんね、エリス」
私も浮かぶのをやめた。
「どう・・・して?」
「私たちって本当にそっくりだよね」
彼女の言わんとするところがわからなかった。浮かべた微笑みはぎこちないものにしかならない。
「当たり前でしょ、双子なんだもの」
「そう当たり前だったんだ。なのに、私は今の今まで気がつかなかった。この体も、顔も、声も全部一緒なのに、ただ、エリスのほうがほんの少しだけ生まれるのが早かったから、私は妹で、エリスは姉。そのことが当然だと思ってた」
そのときの彼女の表情を私は一生忘れることはできないだろう。清らかな月光に照らされて、彼女の髪は白く輝き星々の写る水面に広がっていた。深い慈愛に満ちた微笑を浮かべて彼女は言う。
「ごめんね。今までも、それにウォルフさんのことも。全部エリスに押し付けてきっちゃったね。でも、これからは一緒だから。私もがんばるから。だからエリスもひとりでがんばらなくていいんだよ」
ちがう。私とソフィはちがう。外見は一緒。でも心の内は正反対だ。きっと昔は一緒だった。そして、彼女は変わらず、私だけが変わっていった。
「冷えてきたね、戻ろっか」
優しい笑顔を浮かべる彼女に返事を返すことができなかった。
ソフィは私の様子が変なことに気がついたようだったが、結局何も言わずそっと私の手を引き微笑んだ。
水浴びを終え、私たちは洞窟の中で静かな食事をとった。ソフィが喋って、私がそれにあいうちをうつ。その繰り返しで、沈黙に押し殺されることはなかった。ただ、私は妹の話の中身をほとんど聞いていなかった。
食事の後、私とソフィは一緒に毛布に包まった。
焚き火のほのかな光が洞窟の中を照らし、冷たい感じのする岩々に温かな雰囲気を添えている。パチパチと木の燃える音だけが静かに空間を満たしていた。
対照的に、先ほどの悲しみとも不安ともいえない重い塊が私の中に満ち満ちていき、いくら目を閉じても眠ることができなかった。
「ねぇ」
「ん?」
彼は焚き火から私に視線を移した。
静かに寝息を立てるソフィを起こさないようにそっと洞窟の壁にもたれさせて立ち上がる。その肩に毛布をかけなおしてラヴァの横に座った。
「寝ないの?」
「ん・・・ああ」
言いながら焚き火に木をくべた。
「誰かが来るかもしれないから」
素っ気ない彼にどこか安心する。
「ここのことよく知ってたね」
この洞窟は入り口を大きな岩が隠しているおかげで焚き火の明かりが外に漏れにくく、外からぱっと見ただけでは岩の一部にしか見えない。隠れるには絶好の場所だった。
「・・・・昔、この近くに住んでいたんだ」
「そう、なんだ」
「ああ」
木が燃える音とソフィの寝息だけが聞こえる。風のない、森が泣かないそんな静かな夜。
彼の肩に頭を預ける。懐かしい温かさが胸に深く染み渡る。
・・・・急に、切なくなった。
「・・・・・・ごめんね」
自分でも何に対しての言葉なのかわからなかった。ただ、言っていた。
「・・・・・神様って不公平だね。お父さん達が死んで・・・それでこれだもの。―――もし私が死んで、たくさんの人が救われるならって何度も何度も考えた」
そして一度は生贄になることを受け入れようとした。――でも・・・
「でも、私が死んだら、ソフィが一人になる。・・・・・ううん、それは建前なの。あなたのこと思ったら、私はまだ死にたくないって思った。あなたと一緒に生きたいって・・・・っ!」
溢れてくる感情のまま彼の顔を見た。視界が歪んでいく。
「それで、何で私なのって思った。ほかにもたくさん双子なんているのに何でって。・・・・・・・・・・なんでソフィじゃなくて私なのって」
―――――最低だ。妹なのに。唯一人の肉親なのに。私が守らなくちゃいけないのに。
言って、彼の胸に顔を押し付けた。それは逃げだった。
「・・・・・ラヴァはこんな女好き?」
自己嫌悪と後悔がとめどなく湧き出してきては胸を締め付ける。このままは彼に呆れられて、愛想をつかされて、嫌われて、捨てられたら・・・・それはそれでいいように思えた。
自分が恥ずかしかった。私には人に愛される資格も、人を愛す資格もない。
・・・・・苦しかった。・・・・・切なかった。・・・・・そして、悲しかった。
きつく閉じた目から涙が溢れていくのがわかる。
それは、悔しいから。理不尽な運命が、自分の弱さが、なにより、身勝手な自分が。
――――そんな
・・・・え?
彼を見上げる。真っ直ぐな瞳がそこにあった。
「そんな、エリスだからこそ」
彼の言葉が深く、暖かく染み込んでいく。
「俺は守りたい。たとえ、教会を敵にまわしても」
―――私もだ。そう、私も彼と生きたい。何があっても、どんなに卑怯でも、穢れても、ラヴァのそばにいたい・・・・・
「もう少し肩の力抜けよ。言っただろ、がんばるなって」
不器用な私は、また同じことを訊いていた。
「頼っていいんだよね?」
「当たり前だろ」
暖かいものがこみ上げてきて、こそばゆくって、誤魔化すように彼を抱きしめた。布越しでもラヴァの体温は温かかった。
「エリス」
なに?と見上げると、彼の目は静かで、引き締められた口元に私は表情を硬くした。
「・・・・・エリス、俺達はたぶん一生逃げて暮らすことになる。教会を敵に回すのは、世界を敵にまわすのと同じだ。わかるな?たくさんの人間が敵になる。俺も努力するけど、そいつらをたぶん殺すことになると思う」
―――人を殺す・・・・・
「だから、その覚悟があるのかだけ訊きたい。人の幸せを奪ってまで生きたいのか?つらい質問だろうけど、これだけははっきりしておきたいんだ、血が流れる前に」
逃げ出した時点でメディシスの、いやそれ以上の人たちが苦しむことになるのはわかっていた。私はそれでも生きたいと思った。
でも、これはちがう。愛する人に人を殺めさせること。誰かの人生を、幸せを奪うこと。私自身が不要な不幸の種になるということ。
「俺のことは気にしなくていいから。エリスが後悔しない選択をすればいい」
後悔しない選択。
どうしてか、走馬灯のように思い出が甦ってくる。いろいろな優しい人達との暖かな記憶。その中で一際輝いているのはソフィとラヴァと過ごした時間達だった。
きっと私は弱い人間なのだろう。・・・・・だから、私は私の欲望を抑えることができない。醜いけど、どうしても憎みきれない、むしろ大切にしたいと思う感情。・・・・私はただの人だから、聖女になんてなれない。
「・・・私を守ってください。私は生きたい。罪を背負ってでも、あなたと」
彼は優しい顔でうなずいて言う。
「なら、俺はエリスを守る、命に代え――」
唇を重ねた。彼は驚き、息を止める。
そっと唇を離して言った。
「だめ。私はあなたと生きたい」
私は口元を緩めて努めて微笑んだ。
「あなたが血で濁っていくなら、この手を血で染めても私がそれを清めます」
彼は苦笑を浮かべて、手を頭にまわし私を抱き寄せた。
「ありがとう」
もう一度二人の唇が重なる。どこか甘く、そして、切ない感覚。幸せがいっぱいに広がっていく。
「もう寝たほうがいい。明日は早いから」
「うん。・・・・無理しないで」
「ああ」
もう一度軽くキスをしてから、ソフィと一緒に毛布に包まった。
瞼を閉じても眠れない。ほのかな明かりのせい。・・・・うそ。高鳴った鼓動のせいだ。神に背いているのに私は幸せに包まれている。自分でも信じられないこと。でも、それでもいいと思っている自分がいる。彼と一緒なら・・・なにがあっても・・・・・・ホント不思議だ。
やがて、思考が徐々にぼやけていき、眠りへと落ちていった。
肩を揺すられ私は目を覚ました。微かな鳥の囀りが聞こえるというのに洞窟の中は暗く、陽の光を感じなかった。
「ん・・・」
ソフィ・・・?
「エリス、ソフィア」
うっすらと開けた視界に彼の顔が映った。
「ラ・・ヴァ・・・?」
彼は優しい顔をしていた。寝起きのまだ曖昧な意識であっても、それは嫌な予感を誘うのに十分だった。
「おはよう、二人とも」
穏やかな声は、けど淡々としたものに変わった。
「誰かが来た。様子を見てくるからここでじっとしているんだ」
意識が一瞬で覚醒した。
すぐにソフィが不安げな声をあげる。
「どうするの?」
「大丈夫だから。とにかくここでじっとしているんだ」
彼はゆっくりと、大きくうなずいてから立ち上がった。
「ラヴァ!」
彼は私を見た。私も彼を見つめ続けた。すぐにその口から苦笑が漏れ、彼は頬を掻いた。
「敵わないな・・・」
「教えて、どうなってるの?」
「多分完全に囲まれている。それもおそらくプロだ」
「プロって・・・教会の人?」
「ああ、少なくとも十人程かな」
「・・・・・その人たちと戦うの?」
「ああ、たぶん」
「お願い、します」
私の言葉を聞いてソフィが叫んだ。
「エリス!」
その声はひどく反響し、ソフィは慌てて両手で自分の口をふさいだ。
すぐに彼女の瞳に涙が浮かんだ。
「どうして・・・・どうして、エリス?」
「私決めたの。何があっても生きたい。生きるって。そのためには私は何だってする」
言えるだけの強がりを言って胸がひどく締め付けられた。決意の後ろに隠れた彼の犠牲が頭をよぎり、私はそれを振り払うように言葉を続けた。
「どんなに卑怯でも、穢れても私は―――」
ポンと大きな手が私の頭の上にのった。彼を見上げた。
「あんまり力むなって言っただろ。これから歩く道は二人の道だから一人で背負おうなんて絶対思うなよ。――――ソフィア、エリスを頼む」
「・・・うん」
彼は微笑を浮かべて、二人そろってそんな顔するなよと言い、出口へ向かった。
私はかける言葉が一つも見つからず、ただ小さく彼の名前を呼んだ。彼はそれに応えるように右手を一度だけ軽く上げた。
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今更ながら転寝をしてしまったことが悔やまれた。もし、彼らの気配に気がついていたなら。もし、囲まれる前に先手を打つことができていたなら。そういった考えが頭をよぎりは消えていった。状況はおそらく最悪だろう。自分一人ならともかく二人を連れて逃げるのは不可能に近く思える。それでも、諦めるわけにはいかなかった。エリスが、あのエリスが心から俺を頼ってくれたのだ。笑顔と共に彼女が見せなかったもう一つのもの。
俺はあいつと生きていきたいと思っている。それは互いに迷惑をかけあい、助け合っていくことだと思う。そう、今はただ俺の番なだけなのだろう。
そっと、岩陰に隠れて入り口から外の様子を窺う。
外に広がる光景に、俺は言葉を失った。
「出てきたまえ、ラヴァ・フール」
声の主は指揮官らしい中年の男だった。
「安心したまえ。出てきたとたん君を射抜くようなまねはしない。兵は、私が君と話しをするための、いわば保険だ」
洞窟の入り口は完全に囲まれていた。弓兵が少なくとも三十人。十人なんていうのは大きな誤算だった。
彼らは全員が俺に狙いを定めていた。殺気は不思議なぐらい感じられず、ただ鏃の切っ先だけが冷たい感覚を背筋に走らせる。おそらく、彼らの指に込めた力しだいで俺はこの世を去ることを避けられない。
彼の言葉を信じる以外に選択の余地はなかった。
覚悟を決めて岩陰から出ると、男が手を上げ、弓兵は一斉に構えを解いた。
「私は神託の守護者、ラインビッヒ・フォルシュタイン。はじめまして、ラヴァ・フール」
年のころは四十代半ば、白銀の甲冑に身を包んではいるが、周囲を圧するオーラは彼が只者でないことを物語っていた。そして、彼の後ろに立つ数人の騎士もまた、並々ならない気配を持っていた。
いつでも動けるように体に力を込めて、一歩ラインビッヒと名乗った男に近づいた。
「ひとつ訊いていいか?」
「構わん、言ってみたまえ」
「どうしてここがわかった?俺はつけられていたのか?」
「いや、君は確かに私が送った兵を全員足止めして見事逃げおおせた。・・・・・そう、我々がここに来たのは単なる推理だ。我が神託の剣の兵をああも圧倒できるものなどそうはいない。森での戦い方を熟知しているのも明白。そしてここはセルス湖。十数年前に我らによって討伐された大盗賊団マーチャーを思い浮かべるのはそう難しいことではない。そして、彼らが使っていたこの洞窟のことも」
やはり、という思いはどこか諦めに似ていた。
「コンラット・フーゼを討ち取ったのは私だ」
「それが?」
彼は淡白な反応に意外そうに目を細めた。
「仇が目の前にいる者の反応には見えないな」
「俺には関係ない話だ」
そう言いながらもエリスの顔が脳裏をよぎった。
「関係がないか。・・・・話が過ぎたようだな。―――本題にはいろう。我らの目的はただひとつ。ミシェル姉妹を返してもいたい」
「断る」
「ふっ・・・、即答、か。だが、口で抗ってみたところでどうする?この状況、女性二人を守りながらでは多少無理がある気がするのだが」
「それはどうだろうな?俺と貴様は違う。やってみなければわからないさ」
俺は意識して笑みを浮かべ、後ろ手で腰につけた短剣に手を回した。
この状況を打開するために思いつく手段はただ一つ。速攻で目前の男を人質にする。教会の部隊の隊長ともなればかなりの身分を持っているはず。それを盾にする。先のない場当たり的な解決策だったが、今はこれしか思いつかない。しかし、次の瞬間、ラインビッヒは予想だにしない言葉を発していた。
「私と賭けをしないか?」
「賭け、だと?」
「そう、内容は私と君の剣による一騎打ち。君の掛け金はミシェル姉妹の引渡し。私の掛け金は君達の逃亡の黙認」
「・・・・本気なのか?」
「女神に誓って。私はただ君と手合わせをしてみたい。自分の部下をあれほど蹂躙されて、数で君を捕らえたとあれば私の面子に関わるのでね。どうかね?」
信じていいのか?罠なのではないのか?様々な考えが頭を過ぎっていったが、結局、ラインビッヒの目に偽りは感じられず、選択権のない俺は頷いていた。
「クレス」
ラインビッヒが呼ぶと、背後に控えていた兵士の一人が進み出てきてラインビッヒに剣を渡した。ラインビッヒはそれを俺に投げた。左手で受け止め、剣を引き抜く。
「クレス、私が敗れたときは卑怯者の汚名をかぶせるなよ」
「は」
ラインビッヒはその返事に満足げに頷くと、剣を抜いた。
「では始めようか、ラヴァ・フール」
いなや、ラインビッヒは駆けた。年齢による衰えを感じさせない速攻だった。俺は体が勝手に動いて剣で受け止めていた。一瞬遅れて金属同士がぶつかる鋭い音を知覚した。七色の切っ先が鼻先で止まっていた。思考が自らの死を予感し、次の瞬間には毒づいた。
一瞬の怯みを悟られまいと、目前の相手を睨んで叫んだ。
「さっきの約束守ってもらうぞ!」
「できるものならやってみるがいい」
歯を食いしばり力をこめると、相手も同じように剣を押し、力が釣り合い、硬直した。
退いたら、そのまま斬撃を食らうことになるだろうし、逆に無理に押し切ろうとしても重心を少し移動するだけで避けられ、切り返してくるだろう。しかし、それは相手も同じはず。お互いに動けないまま時間だけが過ぎていった。
ラインビッヒは嫌になるくらい冷静で、焦りだけ募っていった。一瞬で勝負が決まる、そんな確信があった。
そんな中、ふっと力が抜けたかと思うと相手が退いた。
あまりに鮮やかな後退に何の追撃もできずにいると、ラインビッヒは言った。
「迷い・・・・いや、戸惑いか。すまなかったな、君が得意な得物を使えばいい」
動揺はすぐに苦笑に変わった。
ラインビッヒは文句なしに強い。あの動きがそれを物語っている。だからこそ彼が自分の力量を見抜いていたことにさして驚きはない。
「・・・・確かに、手加減をして勝てる相手じゃないか」
俺は剣を捨て、腰から自前の二刀の短剣を取った。
それを見て、ラインビッヒは薄く笑う。
「では、仕切りなおしといこうか」
俺は一気に距離を詰めた。右の突きは剣で軌道を剣でずらされた。すぐに左で切り上げる。それをラインビッヒは一歩下がるだけで避けた。続けざまに甲冑の懐に膝蹴り、それも左手で止められたが、それで十分だった。蹴りの勢いを止めきれずにラインビッヒの体勢がわずかに崩れる。
「ったぁ!」
左の得物を掌で180度回転させ逆手で振り下ろす。狙いは首の付け根。相手の右手は重い剣で払いきった状態、左手は膝で止めている。
「ぬるい!」
足が滑り込んできて内側から軸足を払われた。こけはしなかったが、バランスをくずされ、反射的に飛んで退いた。間髪いれず放たれる鋭い剣撃達を反射的に二つの短剣で受け流していく。
カーン・・・カーン・・・
鋭い金属音が一定間隔で響き渡る。
ラインビッヒの剣は鋭く、何とかさばけている状態だった。獲物の重さの差は確実に手から握力を奪っていく。
少しでも気を抜けば、剣を受ける角度も誤れば、手から短剣は飛んでいってしまうだろう。
「さっきの威勢はどうした?それとも、二人を返す気になったのか」
「何を!もともとお前達のものではないだろ!」
言って、左の剣を横なぎに走らせた。ちょうど振り下ろされてきた刃が鍔にのり、軌道が合わさった瞬間手首をひねる。
「む」
シャァァァーーン
澄み切った音を響かせ、二つの刃は俺を避け右斜め方向に落ちていった。残ったのはがら空きのラインビッヒの懐と右手の短剣。ラインビッヒは後ろに退くモーションに入いる。
右手を突き出してから舌打ちをした。
浅かった。鎧の表面を刃が走っただけでラインビッヒを逃した。
少し遅れて僧兵達の間でざわめきが起こったが、とうのラインビッヒの顔に焦りはなかった。
「・・・・面白い剣を使う」
「隠し球だったんだが、久しぶりで浅かった・・・かな」
「なるほど、そのための二刀の短剣。左はさしずめマン・ゴーシュといったところか――だが、まだまだだな」
「ぬかせっ!」
休ませはしない。今の一撃は確実に不意を突いていた。対策を考える時間を与えるわけにはいかない。なんとしても、次の一撃で決める。
右から左。続いて右と連続の攻撃をラインビッヒは最少の動きで捌いていった。
「いい動きだ。無駄がなく、容赦もない。そして慣れない体であのような技まで。予想以上だ。しかし!」
突き出した切っ先に向けて左手が伸びてきた。握りしめられた拳。手首は直角に曲げられ、鉄甲がこちらを向いていた。
切っ先が甲に触れた瞬間曲げられたその手首が弾かれた。 軌道が逸れ、目標を見失った剣は空を切り、結果、腕が伸びきる。手応えを期待していたため体が踏み込みすぎていた。
咄嗟に後ろに飛んだが、腹に鈍い衝撃が走り胃液が軽く逆流して咽喉をふさいだ。口は酸っぱく、腹にはラインビッヒの拳が深く食い込むのを感じながらあとずさった。
咽喉に絡まる痰に喘ぎながらなんとか構え睨むと、すでにラインビッヒは追撃してきていた。
一瞬の思考の後、避けるのを諦め、止まり、両手の剣を逆手に持ち直した。
「ぬおおぉぉぉぉ」
ラインビッヒはこの一撃ですべてを決めるつもりなのだろう。放つは下から上への横凪の一閃。
確実に迫る死に対して俺は妙に冷静だった。
できるか?
今の自分の状態は決して芳しいとは言えない。息が切れ、疲労がたまり、体が自分の思うように動いてくれない。それでも、徐々にだが、動きは抱くイメージに近づいてきている。できる、はずだ。
迫りくる刃に上体を逸らす。避ける訳ではない。ただ距離を、刃が俺の肉を切るまでの刹那の時間を稼ぐために。同時に左の短剣を払い上げる。腹のあたりで二つの刃が重なり、ラインビッヒの剣が短剣の刃を鍔へと走っていく。火花が散る。鍔に触れる寸前、手首をひねり、相手の勢いをそのままに――――剣を振り上げた。澄んだ残響音を残し、鼻先を冷たい感覚が走り抜けていった。
刃は過ぎ去り、ラインビッヒの右手は俺の左手とともに振り上げきられていた。
確信が俺を支配した。―――勝った、と。
「もらったぁ!」
叫び、逸らした上半身をバネにし右手で顔面に切りかかった。振りおろした刃はラインビッヒの顔を切り裂き、その命を奪う。
だがその顔を視界に捉えた時、ラインビッヒは笑みを浮かべていた。気付いた時には遅すぎた。視界の端に黒い何かを捉えた次の瞬間、わき腹に衝撃が、先ほどとは比べ物にならない痛みが肺を経て口からこみ上げてきた。呼吸が止まり、体が・・・・崩れた。
「がっ・・はっ・・・」
すぐには何が起きたのかわからなかった。体がいうことをきかない。口の中に胃液の据えた臭いが広がっていたが、呼吸ができずそれすらたいして気にならなかった。
なんとか上目でラインビッヒを見るとその左手には剣の鞘が握られていた。
「無理をしないほうがいい。わき腹を打たれたのだ。すぐに動けるものではない」
「・・・き・・さま・・・」
声がうまく出なかった。苦しみが絶え間なく襲ってきて、にも拘らず徐々に意識はぼやけていく。
剣が頭上に突きつけられた。
「悪く思うな」
「・・・・・に―――」
叫ぼうとしたができなかった。無意味に目だけが見開かれる。
「待って!――――待ってください」
聞きなれた彼女の声が本当に遠くに聞こえた。
「私は貴方たちと行きます。だから、彼と、妹を助けてください」
視界がぼやけていく。意識が途切れる・・・・。そう解っていて何もできないことが悔しい。歯を食いしばり、声を絞り出そうとしてもでてくるのは粘りのある酸っぱい液体だけで、喉をふさぎ、反射的にむせかえるだけで空気は少しも吐き出されない。呼吸すらままならなかった。
「私は御使いとして神様のところに参ります。だから、二人を助けてください」
剣を鞘に収める音がまた遠くに聞こえた。
・・リス・・・・・
ご・・ん・・・・フィ。
・・・・・・ェル、・・・フー・・・・は・・・・ので、・・・・身柄を・・・・・だ・・・・
聞こえてくる会話の断片。悔しさに埋め尽くされた意識が薄れていく中、最後に聞こえたのは彼女の声だった。
「今までありがとう、ラヴァ」
第四章 完